本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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2008年の中世城館探訪を総括してみました。

延べ訪城日数は27日間。
ただし7月から9月までは探訪ゼロで、この12月だけで7日間も出かけております。
訪城件数は延べ186か所(うち再訪は20か所)、で12月分だけで52か所という按配。
やはり気温が下がると、少しずつ元気が出てくる性質なのでありましょう。

このうち特筆すべきは、昨年の群馬県進出に続き、6月に福島県中通り地方、11月に栃木県佐野市方面、12月に茨城県南部、そして山梨県と大幅に行動領域を拡大できたこと。
これもひとえにお城仲間の皆様のお蔭でございまする。

県別では、福島県28か所、栃木県14ヶ所、茨城県25か所、群馬県109か所(20か所の再訪含む)
ん、よくよく考えると埼玉県内がゼロではありませぬか。
そろそろサイトのサブタイトルを変えねばならないかとも(苦笑)
またサイト更新は僅かに86件(城館分のみ)
従って、良く数えてみると未更新在庫は軽々と150件を突破しておりましたがな。

さてとりあえず来年の目標などを。
無論あくまでも体調などの諸条件が現状のままだという都合の良い仮定の話。
延べ訪城日数は約30日間で、延べ訪城件数は新規・再訪合わせて180か所ほど。

その内訳は群馬県内40か所、茨城県内40か所、栃木県内20か所、福島県内30か所、山梨県内10か所、千葉県内10か所、東京都内20か所を想定しておりますです。
勿論あくまでも机上の皮算用に過ぎず、体調不良などの要素を考慮すれば6割程度の達成が現実的なのかも知れませぬなあ。

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何れは訪れたいと思いつつも、あまり先延ばしにはできない基礎体力の低下を痛感する昨今、史進どの、モナーどののご厚意に甘えてとうとう甲斐国へと進出することに。
然るに城館全般にわたる手持ちの資料は「戦国武田の城」「武田信玄城と兵法」「山梨県中世城館調査報告書」「日本城郭全集」のみという不十分極まりない状況。
知識不足、資料不足、土地勘不足の正にないもの尽くし。

とはいえ、かの有名な信玄公所縁の地。
このため今回はあくまでも橋頭保の確保を主眼とし、敢えてデジカメ撮影は一切行わず、記録よりも記憶にとどめる方式とした次第。
然し実はその記憶が最も大きな課題なのでありますが(苦笑)
ご案内いただいた城館跡は次の通り。


牧野砦(山梨県上野原町) 9時30分~10時50分
本日唯一の山城で、麓からの比高差はおよそ125m。
5条の堀切と複数の郭から構成される遺構。
足元の不安も含めて管理人の現在の体力では最早この辺が限界の模様であります。

勝沼氏館(同甲州市)11時50分~12時30分
整備復元された勝沼氏の館跡。
季節を問わず探訪可能かと。
諸設備の経年変化が些か気にかかる館跡でもあります。

金吾屋敷(同山梨市)12時40分~12時45分
連方屋敷(同山梨市)12時50分~13時05分
西辺と南辺に堀跡と共に高さ5m前後の良好な土塁が残存。
以前は藪に覆われていたという遺構も樹木の伐採により現在は一目瞭然の状況。

下窯口烽火台(同山梨市)13時30分~14時20分
武田氏の烽火台のひとつで、麓からの比高差は約90mほど。
裏手の林道を利用したため、地形上は山城ではありますが尾根筋を下ってアプローチ。
郭下方の石積みについては年代不詳。
しかし石の加工状態、風化の程度、石組の特徴などからは400年以上前のものとは思えない節もあるような。

荻原氏屋敷(同山梨市)14時25分~14時30分
中牧城(同山梨市)14時40分~15時30分
主郭部分は一面の葡萄畑に変貌しております。
然し櫓台、郭、堀跡等の遺構からは、十分に往時の様子が想起されます。
富士山を始め甲斐の山並みの美しさも印象的。

十組屋敷(同甲州市)15時35分~15時40分
於曽屋敷(同甲州市)15時50分から16時15分
高さ4~5mの土塁が四方に残存する方形館。
その半分以上が公園化され程よく整備。


表記した所在地があっているかどうかさえもあやふやなレベルの低い管理人(汗)
今シーズン中に再訪すべく地道にコツコツと復習・予習に励まねば。
ご案内、ご同行いただいたお二人に感謝。

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山梨方面の進出を目前にして、性懲りもなく4時起きで茨城の龍ヶ崎へ。
帰省の渋滞を避けるべく早朝の行動。
然し考えてみれば製造業関係は不況と相俟って資材・製品の運搬は終了済みのところも多いはず。
その分トラックの数は目に見えて少なく。
早朝の往路と、夕方の復路の所要時間に殆ど大差がなく(苦笑)


大日山城(茨城県竜ケ崎市 以下同様) 7時40分~9時05分

関係資料によれば残存遺構にはある程度の期待が。
竹藪も想定していたよりは遥かに状態がよく、巨大堀切部分を除けば踏査には全く支障なし。
とはいえ、本来のルートは途中から倒木と藪のため通行不能。
比高差は全体でも15mほどなので、頭上の腰郭を目指して直登。

幅20mを超える堀切も北側から眺める分には藪は気にならず。
主郭辺縁部の土塁も明確に残存。
西側2か所の櫓台も明瞭。
急傾斜地にも拘わらず腰郭、切岸も良好。
多分にがっしりと地中に根を張る竹林のお陰かとも。

寧ろ支障があったのは体調の方で。
早朝の冷え込みのためか途中から腹に来てしまったのであります。
コンビニの所在地を頭の中で反芻しつつ、最後の方には脂汗をかきながら撤退(苦汗)

大日山城
大日山城


登城山城 9時40分~10時40分

土橋を含む堀切、土塁、郭、腰郭、竪堀、小口とひととおりの遺構が現存。
とりわけ土橋と堀切・土塁が残る台地南部の状態は良好。
なお土塁状地形の一部は、寺院の境内という事情から庭園の要素も否定できず。

登城山城
登城山城


半田八幡神社 10時50分~11時00分

要害山城に赴くにあたり駐車スペースを探していたところ、駐車場と共に土塁発見(苦笑)
無論、時代背景は不詳で委細不明かと。
社殿の大きさに合わせて普請されていることから、恐らくは近世以降の神社境内の整備に伴うものかとも。
それにしてもとても良くできた土塁なのであります。
なお神社の正式な呼称は不明。
半田地区に所在する八幡神社ということから、便宜上名付けたものに過ぎません。


要害山城 11時05分~12時00分

資料によると遺構状況は良くないとの情報。
その当時よりもさらに年月を経ているので期待薄の城館跡。
加えて台地続きの部分は工場の敷地のため出入り不可。
それでも谷筋から竹林の斜面を攀じ登り、舌状台地先端付近で腰郭、土塁、土塁に囲まれた郭を確認。
またその郭の小口(小規模な枡形のようにも)と思われる地形も確認。

要害山城
要害山城

ついでに台地辺縁部に沿って藪の中を移動しつつ他の遺構探しを。
工場との間の大規模な溝状地形が存在。
攻城建設に伴う造成によるものとしても、郭側の切岸はどういう意味なのかが不明。


七曜城 12時30分~12時45分

真福寺境内の裏手の竹林の中に重量感のある土塁が残存。
竹林との境、隣家の裏手にも土塁らしい地形が存在。
尤も部分的な遺構のため城館の形態を想像するには情報不足かと。

七曜城
七曜城


宝泉寺城 13時00分~13時15分

寺院の周辺に方形土塁が残されているはず。
然し、すでに大半のものは墓地の増設に伴い消滅。
僅かに西辺の一部に土塁跡の名残が所在するのみ。


泉城 13時20分~13時50分

前の個所とは打って変わり、土塁遺構が各所に散在して目移りがするような始末。
集落の十字路に何気なく残るL字型の土塁。
竹林の中に隠れるようにして佇む土塁。
中には民家の風除けとして現在も活躍中のものも。
また、手元の資料には掲載されていなかった土塁状地形も。
L字型土塁の延長線上なので関連する遺構と考えても良さそうな印象。

泉城
泉城


この時点で日没までは残り2時間以上も。
少なくとも1か所は探訪可能な状況。
然し本日もまた一転びしており、自分の年齢等の事情を斟酌し...
というよりも孟宗竹、真竹、篠竹等々の竹藪に飽きたというのが真相であります(苦笑)
かくて遅い昼食を摂った後は、速やかに帰途についたのでありました。

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今月の4日から常総市に始まり、つくばみらい市、守谷市、龍ヶ崎市と茨城県南の中世城館探訪を開始。
毎回撮影画像を整理していて、今更のように気がついた共通点があり幾つかメモすることに。

先ず19ヶ所の中世城館の殆どが洪積台地の先端部(舌状台地)に所在。
低台地のため周辺の水田面との比高差は数mから最高でも20mの範囲。
近世以降に新田開拓された水田(かつての湖沼乃至は湿地帯)に三方が囲まれた地形。
植生は主に竹林(篠竹、笹藪を含む)
遺構消滅の経緯は宅地化・耕地化とは別に「土取り」が目立つこと。

こうした視点で小字名とあわせて電子国土の地形図と睨めっこをする日々。
するとそれらしい地形が次々と際限なく浮上。
かくして愈々更新が進捗しないのであります(苦笑)

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先週の土曜日に亡母の49日の法要も恙なくすすみひと段落。
とはいうものの先週の金曜日からいささか疲れ気味。

日中は日当たりの良いこともあり、仕事中に突然睡魔に襲われるような始末。
またここのところ暫く治まっていた左肩の神経痛が強烈に疼きだし...
加えて現在のサイト更新には不可欠の「常総戦国史」「利根川図志」の2冊が丸1日ばかり行方知れずに(苦笑)
何れにせよ、つまるところは歳のせいなのでありましょう。

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