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凸島田城(八千代市) 13時05分から14時20分
関係資料によれば既に消滅したとの情報。
確かに該当地と推定される一帯は宅地と農地に変貌。
ただし一部台地が含まれるとされているとの記述も。
周囲を見渡す限りでは、それらしい舌状台地はおよそ3ケ所ほど。
まず、南西方向に所在する麓からの比高差が12mほどの妙泉寺の境内へ。
加えて台地基部が巾着のように括れた地形。
手摺付の石段をヨタヨタと登り境内裏へと到達。
眺望には優れるとともに台地斜面も急傾斜という好条件。
さらな絵に描いたような台地基部の括れ地形。
大宮神社周辺の地形が気になり北西方向へと移動。
すると神社周辺の方は別としても、公道東側には高さ2m、延長50m以上のL字型土塁状地形が所在。
公道の切通要素を考慮したとしても、好印象なのであります。
さらに土塁状の地形はその東側の台地辺縁部にも所在。
一方これに対して北側の子安神社裏の竹林。
こちらは比較的新しそうな人工的な崖線のみ。
なお、南側の独立した小丘陵は比高差と面積の不足という印象。
凸熊野神社遺構(同上) 14時40分から15時10分
熊野神社境内北側で、玉蔵院境内西側の比高差10mから15mほどの台地先端部に所在。
現存遺構は屏風のような土橋状地形と西側に続く規模の大きな空堀跡。
郭の存在を想定するとすれば玉蔵院側の小高い削平地。
然し空堀の規模に比して余りにも狭隘。
また空堀に平行する土橋状地形というのも奇妙な縄張り。
寧ろ土塁の一部か崩落したと見るべきなのかとも。
「八千代の歴史 通史編上」において城館類似遺構として収録。
凸保品竜害城(同上) 15時45分から16時00分
八千代市少年自然の家の建物から直線にして200mほど南東方向にすすんだ台地の先端部。
竜害城とはいえども、その実態は約1.5mばかりの畑の段差なのであります。
その延長距離も約30mほどであります。
よくよく観察すると、崖線に沿って盛土があるようにも。
冷静に考えれば耕作に伴うもののような。
たまたまおいでになった畑の所有者。
ここで伝承地名の確認などを。
然し市史に記述されていた以上の情報は得られず。
凸下高野館(同上) 16時20分から16時50分
小祠を祀った土塁が台地辺縁部に所在。
南と東側を急斜面で囲まれ、西側には堀底道、北側が件の土塁跡。
単郭としては狭隘に過ぎる向きも。
かといって複郭と見るには、耕地化による地形の改変が大きく。
凸先崎城(佐倉市) 17時10分から18時00分
黄昏時で、然も薄暗い山林の中。
近くに民家があるものの、なかなかに森閑とした佇まい。
遺構の北半分は土取等により完全消失。
残りの南側部分も鉄塔建設等により地形の改変が顕著。
南東部分に所在する郭とこれに伴う土塁・堀跡は明確に残存。
けれども郭内部は木々が繁殖し、土塁上もほとんど移動困難。
特に南東側ではオーバーハングした崖線にて自然崩落が進行中。
このため土塁上を歩行すると崩落の可能性が濃厚。
まして周囲は次第に夕闇が濃厚に。
どうにか残存遺構の範囲を特定できたということにして即時撤収。
早起きができず午前10時15分の出発。
一昨日よりも短時間とはいえ、往復6時間の行程。
今月はこれにて打ち止めに。
千葉方面も基本的にはシーズン終了に。
次なる目的地は一応福島県南のつもりであります。
昨年の経験によれば、関東南部とは3週間ほど植物の生育が遅れるはずではありますが。
凸要害山城(山梨県甲府市)11時10分から15時05分(途中昼食)
念願の武田氏の詰城である要害山城であります。
事前にイメージしていたよりも麓から見上げた限りではさほどの要害には思えないのであります。
然るに山中に足を踏み入れた途端に、著しく懐の深い要害に変貌するのであります。
主郭といわれている標高755mの郭にいたるまで、凡そ9か所もの関門が手薬煉をひいて待ち構えているのであります。
また主郭背後の尾根続きにも、削り残された細い土橋付の巨大な堀切3条と2か所以上の関門が。
無論全ての遺構が武田氏時代のものとは限らないとしても、ただひたすら率直に感動の連続なのでありました。
当初においては縄張図と照合しつつ、逐一遺構の存在および状態を検証する心積りなのでありました。
しかし全体を5ブロックに分けた書き込み資料を持参したにも拘らず、次第次第に余りの遺構の多さに頭が混乱を来たしていくのでありました(汗)
凸熊城(山梨県甲府市)15時30分から17時20分
要害山城南方の防御を固める砦跡との説が有力かと。
稜線後方から下り道でアプローチ。
このため体力欠乏気味の管理人にとっては、誠に有難い大変体に優しい山城探訪。
要害山城からは約100m近く標高が低いので砦跡からは常に要害山城の南側を見上げる位置関係。
防衛体制は全て南方を意識した縄張。
郭等の規模に比して余りに巨大すぎる堀切。
極めつけは城跡南西斜面に刻まれた畝状竪堀群。
より接近して観察したいのは山々なれども、足元が覚束無い管理人の足では山岳事故となることは必死の様相。
止む無く安全圏からの見学し4条(目視)+1条(推測)を確認。
この日は山梨方面のエキスパートと日頃より畏敬する史進どののご案内。
無論単独では道も分からず、所在地も分からず、登り口も分からず、体力さえもないという無々尽くしの管理人であります。
日没間際まで粘り続けさせていただいて要害山周辺を堪能。
昨年末の予行演習を経て、ふらつく足元を己の勲章としつつ、漸く甲斐国へと公式進出。
そう思い込んでいたのは大きな勘違いらしく。
今年1月からの通算では僅かに6度のみ。
にも拘らず凡その地理関係を把握したという誤解を生じていた模様。
こうした成り行きから、今年冬季の城館探訪-千葉方面のミッション-に一区切りつけるべく沿線の手近な城館跡の探訪を企図。
凸小野田城(船橋市) 8時25分から10時20分
はじめに城跡南端付近の祖師堂裏から時計回りに安房神社の台地まで外周部をほぼ一周。
県教委による調査報告では残存遺構は部分的との記述。
実際に回ってみたところでは、特に西側を中心に比較的良好に残されているという印象。
無論、この地域特有の竹林のなかにひっそりと隠れてはおります。
なお神社北側の切立った台地の崖線が当時のままのものかどうかはやや疑問も。
しかし全体として中世城館としての景観を伝えているものと思われます。
周辺の宅地化、耕地化等のため全体の縄張りが把握しづらいところも。
なお遺構現存個所は全体の東寄りの部分であることについては概ね確実。
城跡全体として当該台地の形状から想定する限りでは、諏訪神社近くの谷津方面まで広がっていたという見解もほぼ妥当性があるものと思われました。
「小野田城」のカナ読みは「こだのじょう」とのこと。
国道16号線から僅か300mほどの距離に所在していることを思えば、遺構の残存状況としては正しく奇跡的とも。
凸金堀城(同上) 10時50分から11時25分
読み方は「かねほりじょう」とのこと。
主郭部の大規模な削平に伴い、東辺から北辺にかけて僅かに土塁と堀底道(空堀跡)が残存。
それでも北辺の堀底道から見上げた崖線の高さには瞠目するものが。
またこの城館も台地続きの外部よりも郭内の方が明らかに低いという特徴を見出すことができます。
なお東辺土塁の一部に櫓台跡のようにも見える高まりも見受けられます。
無論、あくまでも限りなく願望に近いものが。
帰り際、農道脇にてオオイヌフグリとヒメオドリコソウの近接撮影を。
凸吉橋城(八千代市) 11時55分から12時50分
さほどの期待をもって臨んだわけでもなかったことから、下記画像の壮大な二重土塁との遭遇には率直に感動。
また郭内にひっそりと設置された城跡の石碑の存在にも感動。
その傍らでゲートボールに興じるお年寄りのグループとの取り合わせもなかなか対照的で味わい深く。
「城郭大系」等では貞福寺境内を主郭と推定していますが、二重土塁や竪堀、坂小口、切岸等が良好に残されている2の郭を主郭と見る見解に賛同。
凸尾崎城(同上) 13時00分から13時25分
県教委の報告書では「尾崎城」で、それ以外では「尾崎館」との呼称。
吉橋城と一体と見る見解が有力な模様ですが、川を隔てていることを考慮すると仮に年代としての同一性があったとしても機能としての同一性については疑問の余地があるようにも思われます。
一般には方形館であったことが想定。
しかしかつて転用されたという現状の地形からはその面影は希薄なものが。
全体としての縄張りも把握しづらく、消化不良のまま次の目的地へと移動。
なお北側土塁の堀跡への張出し部分は、内部を観察するには絶好のロケーション。
しかし廃棄された野菜などのために極めて地盤軟弱。
まさしく要注意であります。
因みに管理人は20cmほど沈下(爆)
従って堀跡の窪みに直接降りることは避けた方が賢明かとも。
凸米本城(同上) 14時00分から15時40分
遺構の南半分は高度成長期の土取りによりほぼ消滅。
それでも北側部分と消滅した南側部分の東端には城郭遺構が残存。
とりわけ城跡南東に細長く残された土塁、切岸部分には最大25m前後の比高差も加わり絶景。
土塁幅が実質1mほどの個所もあることから、高所恐怖症の傾向がある場合には探訪不可かとも。
また消滅以前の景観が残されている壮大な空堀跡も必見。
堀幅は下記の画像のように余りに広すぎて目測困難。
なお宅地に近い部分には独立した郭がほぼ完全に残存。
北側には埋まりかけてはいるものの土橋に隔てられた空堀が現存。
南側には小口と櫓台(推定)地形も現存。
凸正覚院館(同上) 15時50分から16時25分
現存する遺構は寺院の墓域の拡張に伴い漸次消滅している模様。
資料と照合した限りでは、土塁遺構として残存している部分は北側のごく一部と参道の脇の一部分。
ところが、これとてもかなり不鮮明という印象。
日照時間が延びて、日没までは未だ十分なゆとりが。
しかし生憎と西側には分厚い雲がかかり日差しを遮断。
このため西側山林の中に所在するはずの堀跡の確認には至らず。
当初は八千代市から佐倉市西部へと移動して探訪を継続する予定。
然しここで低気圧接近を予知する軽い頭痛。
西の空にかかる厚い雲の存在。
疲労による足元の覚束無さ。
以上を勘案して予定の切り上げ。
まず近くのスーパーいずみやにて夕食(かつ重480円)を購入。
本日もまた、さしたる理由もなく朝食から2食抜き。
スーパーの駐車場の車中で3食分をまとめた食事を。
このあとは彼岸のために渋滞する成田街道、県道57号線を経由して鎌ヶ谷市の図書館へ。
予想通りの大渋滞のために、通常の倍近くの所要時間。
鎌ヶ谷市立図書館はこの周辺の図書館の中では閉館時間が遅いのが有難く。
加えて参考図書類も充実。
30分ほどで船橋市、八千代市、旧沼南町の自治体史を閲覧の上複写。
自宅への帰還は午後10時12分。
本日も往復所要時間はおよそ6時間で想定の範囲。
但しこれとは別に、八千代市から鎌ヶ谷市までの移動時間が何と1時間30分(苦笑)
凸立城(印旛村) 10時35分から11時30分
城館としての伝承が残り、たまたま当地にお住まいの方より当該伝承等を伺うことに。
竹林に覆われていた延長40mほどの土塁も、その伐採により明確な姿に。
小口、堀跡、切岸、その他の低土塁も残存。
ただし西から北側にかけて台地辺縁部に存在する溝は純度100%表示の畑の根切溝(笑)
出典は「印旛村史」より。
県教委の悉皆調査からは先の鎌刈館を含めると計3か所の中世城館(類似遺構)が除外されていたという次第。
凸ジョウビヨ(印旛村) 11時35分から13時00分
こちらも出典は「印旛村史」より。
郭内の地面が郭外の地表と比べて3mから4m低いという不可思議な遺構。
もののついでに、「印旛村史」では土塁の位置について、北と東に残存すると記述。
その記述を元に探索したところでは、まず北と西にかなり湾曲して残存。
さらに複郭の跡のような地形も確認。
城館跡と断定できる確実な決め手には欠ける状況。
したがってデジカメ画像よりも俯瞰図で。
それにしてもどのような字を宛てるべきか全く見当がつかず。
凸瀬戸浅間神社(印旛村) 14時00分から14時30分
浅間神社の裏山が気になる地形。
伝承、地名を含めて城館に関係する歴史的な要素は皆無。
あくまでも地形。
ただひたすらに印旛沼方向に張り出した地形というだけの拘り(苦笑)
一応2か所の平場を確認。
部分的には腰郭状地形に見えなくもないような。
全体としてはどう見ても丘陵尾根筋の緩斜面かと(爆)
凸師戸金比羅神社(印旛村) 14時40分から14時50分
印旛村内で当たりを付けた個所は10か所以上。
これもその一つ。
船着場には相応しい金比羅神社。
比高差が僅かとはいえ切立つ崖線。
しかし廃棄物の不法投棄防止に伴う立ち入り禁止の表示が。
凸洲崎砦(佐倉市) 15時10分から15時25分
奈良県立文化財センターのデータベースと関連出版物が示す所在地には僅かな乖離がある模様。
前者では道路東側の現況家庭菜園の台地を明示。
たしかにそれらしい平場と切岸地形は存在。
しかし、どうも狭隘に過ぎる感が無きにしも非ず。
後者では反対側の西側台地。
その間は距離にして約50メートルほどの違いが。
事後整理の諸状況から勘案する限り、どうやら後者の方が正解の様子かとも。
ただし当日の残り時間の関係で、前者の場所しか確認していない管理人なのであります(汗)
然もこの日は最大瞬間風速が15mほどの突風。
いつもの資料バインダーが、まるごとごと吹き飛ぶというトラブルが。
もはや軽い足取りでは追うことができない我が身故。
畑の中をひらひらと舞いながら飛び去っていく資料群を眺めつつしばし呆然。
加えて運悪く徒歩移動のために、4か所分もの資料が在中。
幸いにも当該地形は小規模ながらも谷津状地形。
無論風の収まるのを待ちながら、速やか?に全て回収に成功。
凸臼井田宿内砦(佐倉市) 15時30分から16時30分
臼井城支城の中で最は最も遺構保存状態が良好とされる砦。
「砦」との名称が付されているものの、城郭と呼ぶに相応しい縄張り。
見所は2か所の郭を区画する大規模な土塁と櫓台。
腰郭も多数が残存。
周辺は完全に宅地化。
関係者の方々の保存に向けての長年の努力に深謝。
遺構に関する事項をその感動とともに詳細に記述すべきところ。
然しこのところすっかり嵌ってしまった下手くそな俯瞰図で代用。
凸稲荷台砦(佐倉市) 16時35分から16時40分
宿内砦に半ば隣接しているような位置関係。
洲崎、田久里などをふくめ、全て臼井城外郭部の拠点なので当然といえば当然。
元来の地形が地山ごと改変されている印象。
このため具体的な所在地がいまひとつ確定できないのでありました。
やむを得ずやや北東側に所在する稲荷台公園の風景などを撮影。
凸田久里砦(佐倉市) 16時50分から17時00分
南臼井台の住宅地の一角。
一帯が臼井城跡地形が南西方向に傾斜しているので住宅地の日当たりは良好。
無論遺構は消滅。
ん、そういえばウェブ地図の「いつもガイド」では「白井台」と誤記。
ついでに思い出したので、奈良文化財研究所の文化財データベースでは本埜村と印旛村の標記がかなりの部分で混乱中。
閑話休題。
嬉しいことに公園の一角には小さな祠とともに城跡の説明が記された説明版が設置。
予想外のこうした配慮に遭遇すると、心なしか世の中が和んで見えてくるのであります。
凸忍台城(佐倉市) 17時40分から17時45分
一夜城公園が近いので訪れたようなもの。
地表の遺構は皆無。
公園名に「城」の文字も無く、石碑も無く、説明版も無く。
15世紀後半頃の陣城と推定されているという。
凸謙信一夜城(佐倉市) 17時45分から17時50分
上杉謙信が永禄年間に越山して関東を制圧。
その際の陣城と伝わる個所。
1973年の発掘調査により方形の空堀と土塁、小口、櫓台の存在が確認されたという。
宅地化により遺構は消滅し、現在はその東側付近に「一夜城公園」が整備。
城跡の由来が刻まれた立派な石碑が建立されているという情報は未収集。
日没後の夕闇迫る人気の無い公園で、ひとりニヤニヤとほくそ笑む不審者を演じておりました。
平日とはいえ自宅を出たのはすでに午前7時20分過ぎ。
このところ城館探訪の前日は早めに就寝しようと心に決めているのではありますが、思いつく限りあれもこれもといろいろと調べ物を。
そうしているうちに大抵は翌日となっていることが多いのであります。
このため予定起床時刻までは睡眠時間が3時間乃至4時間という計算に。
このためなかなか早起きが難しく、当然の結果として交通渋滞などにより現地への到着が遅延。
かくして1日あたりの探訪件数は通常5か所前後に。
然しこうしたことを繰り返していると、数合わせの悪知恵も。
夕刻からの分刻みによる4か所の駆け足のごとき城館探訪はまさにそのもの。
多少の事前調査をしたとはいえ、所在地明確、遺構確認不要、長時間滞在無用の三拍子が具備しております(苦笑)