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毎度のことではありますが、今回も遅くも午前6時過ぎ頃には出発の予定でありました。
然し2匹のネコたちの幸せそうな寝顔を眺めているうちに6時半を経過。
餌やりやトイレの片付けなどをしているうちに日が昇り始めるという始末。
結局、自宅を出たのは午前7時。
昨年12月の探訪で気力を使い果たしたのでありましょうか。
単独での探訪はどうしても出発時刻が遅くなり勝ちに。
さほどの標高・比高差が無いとはいえ、ルート不詳の山城2か所を含むという先行き不透明な行程でもあります。
凸鶉小城(群馬県邑楽町)9時10分から10時00分
昨年11月に続く再訪。
とはいうものの昨年訪れたのは日没後。
いや午後7時過ぎだったので完全な夜。
従って、デジカメの撮影画像は全部夜景。
鶉小城は白鳥などの水鳥が飛来する多々良湖に所在。
超望遠カメラを携行したバードウォッチングの方々が朝から約100名以上も。
このほかゲートボール参加者が約20名、散策中の方が10名ほど。
無論、黙々と土塁を観察しているのは小生1人のみで。
まずは手順どおりに外郭の土塁と堀跡を撮影。
多々良湖の湖畔からの遠景も秀逸。
次に日向ぼっこ中のネコを撮影。
然も3匹も。
近寄っただけで逃げられることも少なくないなか、向こうから近づいてきて体を擦り付ける仕草。
こうなると城跡よりも、ネコいじりモードに。
3匹のネコと仲良くなったあと、今度は別のネコと視線が合い...
結局、滞在時間の半分以上をネコたちと過ごしていたのでありました(笑)
凸中野城(同上) 10時10分から10時40分
神光寺境内一帯が城跡らしく。
北東の英霊塔の個所に駐車。
この北東部分の土塁状の盛土が城郭関連遺構かどうかはやや微妙な印象も。
手筈どおり境内の周囲を反時計回りに一周。
境内南辺の細い通路の折は堀跡の名残を感じさせてくれます。
このあ本堂に参詣すべく山門に向かうと、参道の左側に中野城の解説板を発見。
これによれば、かつては南辺に土塁と堀跡が僅かに残存していた模様。
残念ながら現在はほぼ完全に消滅。
とはいえ、予期しない解説板の存在は殊更嬉しいものがあります。
凸本覚山城(栃木県足利市) 11時40分から13時25分
「日本城郭大系」によれば比高差150mとの情報。
一方、「中世城館報告書」では比高差約100mと記載。
この差の50mは小生のような者にとっては大きな問題で。
確実に登りきれる自信があるのは比高差100未満で、然もルート明確の場合(苦笑)
さてこの山城は、明確な登山ルート不詳。
電子国土に記された南側の鞍部へと向かう道筋も消失している模様。
麓から観察する限りでは藪との格闘は不可避な印象。
但し尾根筋の傾斜の緩やかさに多少の救いもあるような。
縄張図の情報があるとはいえ、登り口は不詳。
先ずは猪除けの電線を跨ぎ、先日の大雨により半ば沼地と化した水田の畔道を辿りって麓へと接近。
取敢えずは南側の鞍部に取り付くべく斜面の様子をじっくりと観察。
するとかつて山仕事などに使用されたと思われる斜めに設置された作業道らしき踏跡を発見。
笹薮にはなっているものの、踏跡そのものは比較的明瞭。
ところがその道が左右に分岐。
左に行けばおそらく鞍部へと出る模様。
しかし笹薮の様子から南側の尾根筋からの登攀を断念。
分岐を右へとり次第に高度を上げつつ、ごく小さな沢を渡河。
その先の道は下り道となっていることから、次善の策として山頂東側の尾根筋に取り付いて比高差80mほどの直登を開始。
笹薮も比較的少なく、視界が開けて目前の尾根筋も判別できるため思いのほか登攀は容易。
暫くそのまま登ると山腹を横切る幅の広い作業道に出たのでそのまま尾根筋を直登し東側の尾根筋の肩へ到着。
肝心の遺構は主郭南東部の腰郭と主郭周囲を巡る2段の帯郭。
「日本城郭大系」には堀切の存在が記されていますが、少なくとも東側の尾根筋にはその痕跡を確認することはできません。
但し北側の平坦な尾根筋に願望に近い僅かな「堀切もどき」の地形を見ることができます。
なお、南側の鞍部へと向かう尾根筋は笹薮のためほぼ通行不能となっておりました。
下山路は時間節約のため、そのまま東側尾根筋から直降。
多少の岩場や急傾斜の個所があるものの小さな牧場のある麓へと無事到着。
なお前回から愛用となった簡易型高度計の測定値では比高差は120mほどを示しておりました。
経験上、あるいは実際に昇り降りした印象でも、概ね120mほどが妥当なところのようです。
凸南氏館(同上) 13時35分から13時50分
墓地の拡張整備により従来の遺構は消滅している様子。
但し西辺部分は道路面からの盛土跡が改変を伴いつつもある程度残存しているようにも見受けられます。
南氏所縁の五輪塔も所在し、館跡からは北西に所在する南氏の名草城の山城が一望に。
凸名草城(同上) 14時00分から16時50分
南氏の墓所・菩提寺である清源寺の駐車場北西側の個所が登り口のはず。
しかし、当該ルートは事前の情報どおりまもなく笹薮に覆われ次第に曖昧となり消失。
取敢えずは小さな沢の左側のルートをそのまま突き上げることに。
このルートで進んだ先人もいらっしゃるようで所々にマーキングも。
然し、次第に笹薮は密度を増してほぼ通行不能の状態に。
この時点では未だ正面稜線までの比高差は100m以上。
沢の源頭部に近づくにつれて斜度の増加と岩場の出現が予想され、かつ思いのほか先日の降雨により足元の地盤が軟弱。
このため進行方向左手の尾根筋へと這い上がることを決断。
とはいうものの、始めは笹薮に遮られ、途中からは細い笹に捕まり足場の軟弱な急斜面を這い上がり、ついに最後は茨しか掴むものがない状態に(苦笑)
それでも漸く比高差約40mほどの主郭南部へと続く尾根筋へと到達。
しかし尾根筋もそれなりの急斜面で、結果的にこの方面に格別の備えが無いことに納得するような始末。
かくして麓からは約1時間後に主郭直下の腰郭部分に到着。
しっかりした登山道があれば40分ほどで到着する可能性もあるような。
主郭辺縁部に築かれた楕円状の土塁は概ね残存。
北側および南側尾根筋の腰郭群と堀切も確認。
なお、主郭西側斜面は西方のゴルフ場開発時等に削り取られたような可能性も。
さて下山路は東側にのびた比較的見通しのよい細長い尾根筋から。
途中に所在する階段状の腰郭群を愛でつつそのまま東進。
先端のピークからは予想通り枯葉の急傾斜と笹薮に。
本来は登り口である清源寺側に下山するつもりが、そのまま尾根筋東麓の水田へと下降。
やはり尾根筋の状況から沢の右側から稜線を真直ぐに目指すルートが本来の道筋なのかも知れず。
最終的な判断として、麓の水田からの比高差は約190mほどかとも。
本日2か所目の道無き山城は、正に疲労困憊の極致なのでありました。
別名を城の峰(じょうのとや)とも。
久しぶりに殆ど道の無い山城2か所を踏査。
比高差はおよそ120m+190m=310m。
全身筋肉痛の状況に鑑みて、やはり年齢と体力を考慮すべき時期なのかとも。
相応の山城の場合には、一日一城ということなのでありましょうか(苦笑)
探訪城館数45か所。
行先は茨城県16ヶ所、栃木県19ヶ所。
新規28か所、再訪17か所。
お城仲間の皆様のおかげと平地またはそれに近い地形のため前月に次ぐ探訪件数となりました。
ただしサイトの更新は11件のみ。
差し引き17か所の「黒字」というべきか(汗)
来月は常総の藪城にそろそろ区切りをつけて、達成感を伴う方面へとシフトしたいところです。
あくまでも天候、体調、気力次第ながら、おおむね4日から5日程度の探訪を予定。
栃木方面2日、茨木方面2日、その他1日。
いちおう山城数か所を含む20か所前後が目標。
ただし等高線の本数と混み具合が深刻な問題で(苦笑)
現状の体力では1日での比高差累計は300m未満が上限の模様。
できることならば250m未満(ただし道あり)が有難く。
本日は儀一どのよりお誘いをいただいて足利市の城館探訪。
待合せ場所の集合時刻が午前5時なので前日は早々に就寝。
ところが2匹のネコたちがじゃれ合いのような喧嘩を開始。
このため、ほぼ1時間おきに起こされるような始末にて候。
従って翌日に備えて、熟睡するはずのつもりが睡眠不足に。
しかし、車で出かけるときには2階の窓辺から見送る仕草。
誠に殊勝なる心がけ故、この度格別の慈悲を以って赦免候。
と、ここまでは何の意味も無く文章の文字数を統一(笑い)
凸矢田堀城(群馬県太田市) 6時30分から6時50分
明け方の雲量が予想よりも多く、急遽儀一どのの提案により朝食と時間調整を兼ねた探訪。
朝食後、方形館の周囲をほぼ一周して遺構確認。
北辺だけではなく、南辺にも土塁遺構が残存。
ここでようやく寝不足気味で低下していたテンションが上昇傾向に。
圧曇りの天候なれども、太陽も次第に上昇してデジカメ撮影に支障のない明るさに。
凸板倉城(栃木県足利市 以下同様) 7時05分から8時10分
はじめに直ぐにそれと判別できる小規模な山城に相応しい峻険な山容を松田川沿いの県道219号線から遠望。
比高差は僅かに80m。
とはいうものの、目の前に現れたのはやや傾きかけ幾分苔むした石段。
これが比高差で60m以上はありそうな岩場のある尾根筋までほぼ一直線(苦笑)
「心肺機能の低下+体重増加」の著しい管理人にとっては、このくらいの比高差までが限界で。
また滑りやすいため「行きはよいよい、帰りは...」とならぬように、足元に十分注意せねばならないのであります。
残存遺構は山頂の岩を削平した郭2か所と間の親しみの湧く可愛らしい堀切1か所および北側の腰郭1か所の以上。
平野部に突き出した尾根筋の先端部に占地し眺望は絶景。
朝日を浴びて白銀に輝く冠雪した赤城山も絶景。
西側の尾根筋経由以外には登攀は不可能な地形で物見砦として絶好の立地条件。
凸小此木館 8時20分から8時40分
宅地化が進行し明確な遺構は最早皆無に等しいような状況。
周囲をほぼ一周することにより、どうにか館跡の範囲を推定できたことが成果といえば成果なのであります。
凸源氏屋敷 9時20分から9時35分
源義家の伝承につながる城館跡。
従って歴史的な経緯、事実関係も伝承に依拠するところが多い模様。
それでも竹林が残るあたりの旧家の宅地を中心として堀跡の名残を示唆するような細道が所在。
凸矢場城 10時10分から10時30分
所在地は栃木の中世城館報告書と城郭大系が頼り。
儀一どの、それに管理人のそれぞれが想定した場所で思案。
しかし畑と水田が広がるのみで取敢えずは比定地不詳という結末かと。
寧ろ目標物である東側の藤本観音山古墳の方が物見台に相応しいようにも(苦笑)
凸大将陣 10時40分から11時05分
こちらも源義家にまつわる伝承地。
比定地は両名とも小学校の敷地(爆)
八幡町の地名が伝承との関わりの残滓なのでありましょうか。
八幡屋という屋号の手焼き煎餅のお店の看板も撮影(唖然)
ついでに四所神社が西麓に所在する北側200mほどの標高61mの丘陵へも立寄ることに。
山頂の平場はなかなか眺望にも優れておりましたが神社の縁起等は不詳。
凸浅間山城 11時25分から11時45分
主郭付近は神社境内の整備によりかなり改変されている様子が窺えます。
また北東部の腰郭部分は笹薮等に覆い隠されておりました。
しかし樹木が伐採された浅間神社が所在する山頂からは足利城を含む足利市内の城館が一望。
赤城山、榛名山、妙義山方面も一望。
遺構の確認不足を補って余りある光景なのでありました。
凸富士山城 11時45分から12時15分
浅間山に比べて笹薮が少ない分遺構の確認は容易。
最高部の北側の土塁をはじめとする南へと続く雛壇上の郭遺構、これを挟み込む形で東西の帯郭も明確に存在。
雛壇の構造からは南側に対する備えの城郭であると考えられます。
ただし北側の浅間山と南側の坊主山の遺構は尾根筋の北側方向に何段もの腰郭を備えています。
この点をどう解釈するのかが課題のひとつ。
またこの3か所の遺構が同時代的に機能していたのかということも大きなテーマで。
凸坊主山城 12時15分から12時40分
山頂の細長い主郭部分は程よく削平。
主郭北東側の尾根筋の腰郭については少なくとも3段ほどが現存。
しかし西側の尾根筋の現状は麓の住宅地まで概ね緩斜面が続くというやや不思議な遺構。
以上の3か所については稜線から比高差20mから30mほどの峠道に車を駐車。
低山に加えて楽なことこの上なく(嬉)
凸足利市館 12時50分から13時05分
日本百名城にも掲載された名門足利氏の館跡。
水堀に囲まれた整然とした方形館。
予見されたことではありますが、確かに余りにも整然とした佇まい。
境内には老若善男善女が三々五々参詣に訪れ、八重咲きの紅白の梅がボチボチ見頃に。
既にこの世には居ないはずの参詣する両親の後ろ姿がふと頭の中に浮ぶ穏かな昼下がりなのでありました。
凸岩井山城 13時20分から13時40分
凡その縄張はつかめるものの、主郭付近では熊笹が元気に成育中。
このため撮影した画像の大半は熊笹の藪に。
ただし大手方面と推定される部分は容易に判別可能。
凸県氏館 14時20分から14時30分
比定地候補のひとつである華厳寺には「県」姓の墓石が散見されたのみ。
両名協議の結果、比定地は不詳(汗)
凸中里城 14時45分から15時10分
宅地化に伴い一部消失している個所も所在。
然し平地の城館としては高さ3mから4mを測る土塁を目の当たりにして両名打ち揃って感動。
設けられた見学順路の矢印に従い時計回りに館跡をぐるっと一周。
全ての平地の城館跡で、常にこれくらいの遺構が残存していたら...などと。
楽な城館探訪に思いを馳せる管理人。
凸渋垂城 15時20分から15時30分
当初の比定地は共に空振りに。
勝光寺南西に所在する旧家の屋敷地が該当地。
宅地の南辺に堀跡と土塁の南西部分(推定)が残存。
凸上県城 15時45分から16時10分
こちらも寺院の南西に隣接した個所が城館跡。
西側の水路沿いの竹林の中には堀跡の窪みが現存している様子。
茨城県南で日ごろより鍛錬に勤しみ、多少の竹藪にはそこそこ慣れているはずの管理人。
しかし、これが殆ど見えないほどに竹藪の生育状況が良好なため、殆ど体を捻じ込む隙間がないのでありました(笑)
凸下県城 16時15分から16時20分
神明宮の周辺が比定地という説。
一方その南側の集落が比定地という郷土史家の説もあり。
現状の地形で判断すれば間違いなく前者かとも。
凸小曾根城 16時30分から16時50分
朝方出発する直前に比定地の資料を変更した管理人。
前記の郷土史家の方の資料によると更に東側の方らしく。
とはいえ資料が記述された当時と道路形状も変更され。
加えて日没時間が刻々と切迫。
釈然としない思いを懐きつつ次の目的地へ移動。
凸川島氏館 17時00分から17時10分
この時点で概ね日没に。
次第に夕闇が迫り来る中での足早な見学。
後日、改めて再訪..するかどうかは不明。
南辺の堀跡と土塁を拝見したのみで終了に。
凸鉢形城 17時15分から17時30分
集落を徘徊する怪しげな人影2名。
堀跡かどうか不明な集落の道路を撮影。
ASA1600でどうにか形状判別。
そもそも所在地さえも推定に過ぎず(苦笑)
車に戻るときには、ほぼ夜に。
かくて都合19か所、のべ11時間にも及ぶ足利市内の城館跡めぐりの長~い一日が終了。
所在地を求めつつの探訪ゆえにお終いの頃には足が棒、頭もボーッ。
単独の探訪ではどれほど頑張ってみても10か所未満が限度。
佐野市の時に引き続き、このたびもお誘いいただいた儀一どのに改めまして感謝を。
適切なナビゲーション、あわせまして御礼申上げまする。