本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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定年を過ぎました~
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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本日は近しい親類の7回忌。
所用と交通渋滞のため読経の時間には間に合わず。
墓参り後にかねてから気にかかっていた小川町腰越自性院裏の尾根筋へ。
非常識な管理人でも、礼服と皮靴のままで城館探訪をするのは今回が初めて。

比高差は麓から計算しても僅か80m足らず。
熊野神社の参道を抜けて、八坂神社脇から九十九折りの山道へと突入。
一定の林道整備が行われているため皮靴でも全く問題なし。
稜線には予想以上の平坦地形が存在。
ただし人工地形かどうかは判断がつかず。

南北方向の斜面は切立っているので堀切があれば十分に防御可能な地形のはず。
しかし四半世紀ほど前にゴルフ場開発が行われ、未完成のまま放置された個所に続くのであります(苦笑)
西方の腰越城と尾根筋でつながることから、来年の正月にでも初詣を兼ねて尾根筋の完全踏査をしなくては。


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2009年3月は延べ7日間もの出陣。
当該内訳は千葉県31か所、栃木県3か所、山梨県2か所で合計36城館となりました。
然るに児戯のような俯瞰図もどきの作成に嵌り、肝心の更新は僅かに3か所という有様で。
かくして累積在庫は着々と増加の一途を辿り、とうとう栄光の200件台が目前に(苦笑)
このため来月4月は大幅にペースダウンして、延べ3日程度の出陣を想定しております。

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島田城(八千代市) 13時05分から14時20分

関係資料によれば既に消滅したとの情報。
確かに該当地と推定される一帯は宅地と農地に変貌。
ただし一部台地が含まれるとされているとの記述も。

周囲を見渡す限りでは、それらしい舌状台地はおよそ3ケ所ほど。
まず、南西方向に所在する麓からの比高差が12mほどの妙泉寺の境内へ。
加えて台地基部が巾着のように括れた地形。

手摺付の石段をヨタヨタと登り境内裏へと到達。
眺望には優れるとともに台地斜面も急傾斜という好条件。
さらな絵に描いたような台地基部の括れ地形。
 

島田城付近の土塁状地形
島田城付近の土塁状地形その1

大宮神社周辺の地形が気になり北西方向へと移動。
すると神社周辺の方は別としても、公道東側には高さ2m、延長50m以上のL字型土塁状地形が所在。
公道の切通要素を考慮したとしても、好印象なのであります。
さらに土塁状の地形はその東側の台地辺縁部にも所在。
 

島田城付近の土塁状地形
島田城付近の土塁状地形その2

一方これに対して北側の子安神社裏の竹林。
こちらは比較的新しそうな人工的な崖線のみ。
なお、南側の独立した小丘陵は比高差と面積の不足という印象。


熊野神社遺構(同上) 14時40分から15時10分

熊野神社境内北側で、玉蔵院境内西側の比高差10mから15mほどの台地先端部に所在。
現存遺構は屏風のような土橋状地形と西側に続く規模の大きな空堀跡。
 

熊野神社の遺構
熊野神社の遺構


郭の存在を想定するとすれば玉蔵院側の小高い削平地。
然し空堀の規模に比して余りにも狭隘。
また空堀に平行する土橋状地形というのも奇妙な縄張り。
寧ろ土塁の一部か崩落したと見るべきなのかとも。
「八千代の歴史 通史編上」において城館類似遺構として収録。


保品竜害城(同上) 15時45分から16時00分

八千代市少年自然の家の建物から直線にして200mほど南東方向にすすんだ台地の先端部。
竜害城とはいえども、その実態は約1.5mばかりの畑の段差なのであります。
その延長距離も約30mほどであります。
よくよく観察すると、崖線に沿って盛土があるようにも。
冷静に考えれば耕作に伴うもののような。
 

保品竜害城
保品竜害城

たまたまおいでになった畑の所有者。
ここで伝承地名の確認などを。
然し市史に記述されていた以上の情報は得られず。


下高野館(同上) 16時20分から16時50分

小祠を祀った土塁が台地辺縁部に所在。
南と東側を急斜面で囲まれ、西側には堀底道、北側が件の土塁跡。
単郭としては狭隘に過ぎる向きも。
かといって複郭と見るには、耕地化による地形の改変が大きく。
 

下高野館
下高野館


先崎城(佐倉市) 17時10分から18時00分

黄昏時で、然も薄暗い山林の中。
近くに民家があるものの、なかなかに森閑とした佇まい。
遺構の北半分は土取等により完全消失。
残りの南側部分も鉄塔建設等により地形の改変が顕著。

南東部分に所在する郭とこれに伴う土塁・堀跡は明確に残存。
けれども郭内部は木々が繁殖し、土塁上もほとんど移動困難。
特に南東側ではオーバーハングした崖線にて自然崩落が進行中。
 

先崎城
先崎城南東郭の南側土塁


このため土塁上を歩行すると崩落の可能性が濃厚。
まして周囲は次第に夕闇が濃厚に。
どうにか残存遺構の範囲を特定できたということにして即時撤収。


早起きができず午前10時15分の出発。
一昨日よりも短時間とはいえ、往復6時間の行程。
今月はこれにて打ち止めに。
千葉方面も基本的にはシーズン終了に。
次なる目的地は一応福島県南のつもりであります。
昨年の経験によれば、関東南部とは3週間ほど植物の生育が遅れるはずではありますが。

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要害山城(山梨県甲府市)11時10分から15時05分(途中昼食)

念願の武田氏の詰城である要害山城であります。
事前にイメージしていたよりも麓から見上げた限りではさほどの要害には思えないのであります。

然るに山中に足を踏み入れた途端に、著しく懐の深い要害に変貌するのであります。
主郭といわれている標高755mの郭にいたるまで、凡そ9か所もの関門が手薬煉をひいて待ち構えているのであります。

また主郭背後の尾根続きにも、削り残された細い土橋付の巨大な堀切3条と2か所以上の関門が。
無論全ての遺構が武田氏時代のものとは限らないとしても、ただひたすら率直に感動の連続なのでありました。
 

要害山城主郭小口
要害山城主郭小口

当初においては縄張図と照合しつつ、逐一遺構の存在および状態を検証する心積りなのでありました。
しかし全体を5ブロックに分けた書き込み資料を持参したにも拘らず、次第次第に余りの遺構の多さに頭が混乱を来たしていくのでありました(汗)
 

熊城(山梨県甲府市)15時30分から17時20分

要害山城南方の防御を固める砦跡との説が有力かと。
稜線後方から下り道でアプローチ。
このため体力欠乏気味の管理人にとっては、誠に有難い大変体に優しい山城探訪。

要害山城からは約100m近く標高が低いので砦跡からは常に要害山城の南側を見上げる位置関係。
防衛体制は全て南方を意識した縄張。
郭等の規模に比して余りに巨大すぎる堀切。
極めつけは城跡南西斜面に刻まれた畝状竪堀群。
より接近して観察したいのは山々なれども、足元が覚束無い管理人の足では山岳事故となることは必死の様相。
止む無く安全圏からの見学し4条(目視)+1条(推測)を確認。
 

熊城堀切越しの要害山主郭方面
熊城堀切越しの要害山主郭方面


この日は山梨方面のエキスパートと日頃より畏敬する史進どののご案内。
無論単独では道も分からず、所在地も分からず、登り口も分からず、体力さえもないという無々尽くしの管理人であります。
日没間際まで粘り続けさせていただいて要害山周辺を堪能。
昨年末の予行演習を経て、ふらつく足元を己の勲章としつつ、漸く甲斐国へと公式進出。

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今シーズンはすでに幾度となく飽きるほどに国道16号線を往復したという印象。
そう思い込んでいたのは大きな勘違いらしく。
今年1月からの通算では僅かに6度のみ。
にも拘らず凡その地理関係を把握したという誤解を生じていた模様。
こうした成り行きから、今年冬季の城館探訪-千葉方面のミッション-に一区切りつけるべく沿線の手近な城館跡の探訪を企図。


小野田城(船橋市) 8時25分から10時20分

はじめに城跡南端付近の祖師堂裏から時計回りに安房神社の台地まで外周部をほぼ一周。
県教委による調査報告では残存遺構は部分的との記述。
実際に回ってみたところでは、特に西側を中心に比較的良好に残されているという印象。
無論、この地域特有の竹林のなかにひっそりと隠れてはおります。

なお神社北側の切立った台地の崖線が当時のままのものかどうかはやや疑問も。
しかし全体として中世城館としての景観を伝えているものと思われます。
周辺の宅地化、耕地化等のため全体の縄張りが把握しづらいところも。

なお遺構現存個所は全体の東寄りの部分であることについては概ね確実。
城跡全体として当該台地の形状から想定する限りでは、諏訪神社近くの谷津方面まで広がっていたという見解もほぼ妥当性があるものと思われました。
「小野田城」のカナ読みは「こだのじょう」とのこと。
国道16号線から僅か300mほどの距離に所在していることを思えば、遺構の残存状況としては正しく奇跡的とも。


小野田城
「小野田城」の櫓台(推定)


金堀城(同上) 10時50分から11時25分

読み方は「かねほりじょう」とのこと。
主郭部の大規模な削平に伴い、東辺から北辺にかけて僅かに土塁と堀底道(空堀跡)が残存。
それでも北辺の堀底道から見上げた崖線の高さには瞠目するものが。
またこの城館も台地続きの外部よりも郭内の方が明らかに低いという特徴を見出すことができます。
なお東辺土塁の一部に櫓台跡のようにも見える高まりも見受けられます。
無論、あくまでも限りなく願望に近いものが。
帰り際、農道脇にてオオイヌフグリとヒメオドリコソウの近接撮影を。


金堀城
「金堀城」の堀底道


吉橋城(八千代市) 11時55分から12時50分

さほどの期待をもって臨んだわけでもなかったことから、下記画像の壮大な二重土塁との遭遇には率直に感動。
また郭内にひっそりと設置された城跡の石碑の存在にも感動。
その傍らでゲートボールに興じるお年寄りのグループとの取り合わせもなかなか対照的で味わい深く。
「城郭大系」等では貞福寺境内を主郭と推定していますが、二重土塁や竪堀、坂小口、切岸等が良好に残されている2の郭を主郭と見る見解に賛同。


吉橋城
「吉橋城」の二重土塁と空堀


尾崎城(同上) 13時00分から13時25分

県教委の報告書では「尾崎城」で、それ以外では「尾崎館」との呼称。
吉橋城と一体と見る見解が有力な模様ですが、川を隔てていることを考慮すると仮に年代としての同一性があったとしても機能としての同一性については疑問の余地があるようにも思われます。

一般には方形館であったことが想定。
しかしかつて転用されたという現状の地形からはその面影は希薄なものが。
全体としての縄張りも把握しづらく、消化不良のまま次の目的地へと移動。

なお北側土塁の堀跡への張出し部分は、内部を観察するには絶好のロケーション。
しかし廃棄された野菜などのために極めて地盤軟弱。
まさしく要注意であります。
因みに管理人は20cmほど沈下(爆)
従って堀跡の窪みに直接降りることは避けた方が賢明かとも。


尾崎城
尾崎城(堀跡は要注意)


米本城(同上) 14時00分から15時40分

遺構の南半分は高度成長期の土取りによりほぼ消滅。
それでも北側部分と消滅した南側部分の東端には城郭遺構が残存。
とりわけ城跡南東に細長く残された土塁、切岸部分には最大25m前後の比高差も加わり絶景。
土塁幅が実質1mほどの個所もあることから、高所恐怖症の傾向がある場合には探訪不可かとも。

また消滅以前の景観が残されている壮大な空堀跡も必見。
堀幅は下記の画像のように余りに広すぎて目測困難。
なお宅地に近い部分には独立した郭がほぼ完全に残存。
北側には埋まりかけてはいるものの土橋に隔てられた空堀が現存。
南側には小口と櫓台(推定)地形も現存。


米本城
「米本城」の空堀跡


正覚院館同上) 15時50分から16時25分

現存する遺構は寺院の墓域の拡張に伴い漸次消滅している模様。
資料と照合した限りでは、土塁遺構として残存している部分は北側のごく一部と参道の脇の一部分。
ところが、これとてもかなり不鮮明という印象。

日照時間が延びて、日没までは未だ十分なゆとりが。
しかし生憎と西側には分厚い雲がかかり日差しを遮断。
このため西側山林の中に所在するはずの堀跡の確認には至らず。


正覚院館
正覚院館(西側からの遠景)


当初は八千代市から佐倉市西部へと移動して探訪を継続する予定。
然しここで低気圧接近を予知する軽い頭痛。
西の空にかかる厚い雲の存在。
疲労による足元の覚束無さ。
以上を勘案して予定の切り上げ。

まず近くのスーパーいずみやにて夕食(かつ重480円)を購入。
本日もまた、さしたる理由もなく朝食から2食抜き。
スーパーの駐車場の車中で3食分をまとめた食事を。

このあとは彼岸のために渋滞する成田街道、県道57号線を経由して鎌ヶ谷市の図書館へ。
予想通りの大渋滞のために、通常の倍近くの所要時間。
鎌ヶ谷市立図書館はこの周辺の図書館の中では閉館時間が遅いのが有難く。
加えて参考図書類も充実。
30分ほどで船橋市、八千代市、旧沼南町の自治体史を閲覧の上複写。

自宅への帰還は午後10時12分。
本日も往復所要時間はおよそ6時間で想定の範囲。
但しこれとは別に、八千代市から鎌ヶ谷市までの移動時間が何と1時間30分(苦笑)

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