素材はモヤシ、キャベツ、ピーマン、パプリカにエリンギ、コンビーフ、豚肉、魚肉ソーセージなどを適宜組み合わせるので週単位の日替わりメニューとなります。
味付けはハーブ入りの岩塩に、胡椒、醤油など。
味付けは自分でしているので如何様にもなるところが嬉しいのであります。
これに本日はナスと豚肉の炒め物が加わりました。
よくよく考えれば今から13年ほど前のこと、実父の死亡後にたった3か月間だけでしたが自分と母親の食事を用意していたことがありました。
もともと料理経験などなくレパートリーも至って少ないことから、白米と味噌汁のほかに主に野菜炒め中心のオカズで、これに買ってきたヒジキや煮豆などを組み合わせていたように思います。
その当時からそのまま続けていれば、もう少しはレパートリーも増えていたのではないかとも。
当然のことながら、毎朝5時半に起きて食事の用意をしてから出勤。
帰りがけにスーパーに立ち寄って最低限の食材などを購入して夕食の用意の繰り返し。
義母の入院と、実父の不慮の事故が重なっての事態でしたが、今にして思えばそこそこそれなりに家事をこなしていたようにも思えます。
ほかに洗濯や最低限の掃除もしていたはずなのですが、そちらの方については全くといって記憶がありません。
物忘れが多くなったのでメモ
PC環境というものは往々にして立て続けに不具合が発生するらしい。
先月末のSSD交換騒動が落ち着いたと思ったら、昨日の25日には、ルーターの不具合によってネット環境が完全に途絶した。
ルーターの機器故障かと思われたが、原因はルーターの通信環境に関する設定にあった。
個人的に問い合わせをしなければ不具合発生情報を明示しないというその不親切さは一貫していたのであった。
2009年頃にも2か月以上悩まされたことがあったが、あの時はたしかNTT局内ユニットの不具合だった。
その原因を突き止めるまでに要した労力、無駄に出費することとなった経費もさることながら、その後のサイト更新途絶の元凶となってしまったことを思い出した。
PCをめぐるサービス環境は昔も劣悪、今も劣悪、そして将来も。
いささか疲れた。
とはいえ出立したのは当方の寝坊のため、午前6時半を大きく回ってしまった。
このため連日の猛暑はすでに早朝から猛威を振るい、はやくも大量の発汗を余儀なくさせていたのであった。
凸鎧召館(喜多方市、旧塩川町) 午前7時50分から
館前の道路で朝から電気工事のため片側交通規制が行われていた。
脇道の農道に入り車を止め、南側堀跡を眺め、次に北東側から土塁と堀跡を拝見した。
凸台慶徳館(喜多方市、旧塩川町) 午前8時05分から
南側の桝形と水堀跡の用水路を眺めた後、脇の農道にすすみ北辺の保存状態が良好な土塁と堀跡を拝見。
凸新宮城(喜多方市) 午前8時25分から
南北を天然の川が東流し西から東にかけて緩やかな傾斜を示す緩斜面に所在している。
予想していたよりも広大な城域だったが、一帯はすでに耕作地となり保存されている主郭部分も一面の草地であり位置関係を理解するのに戸惑ってしまった。
それでも東側を除く三方には堀跡の窪地が残され二の郭の一部には復元された土塁が存在する。
この地を治めていた新宮氏の居城と考えられているが、この広大な城域と集落集落との乖離を感じた。
こののち朝食と水分補給用意のため一時喜多方市内へと移動した。
凸太郎丸西館(喜多方市) 午前9時30分から
撮影した画像は八幡神社境内であるが、居館跡自体はもう少し南側(画像では左側)に位置しているらしい。
凸慶徳城(喜多方市) 午前9時38分から
城域について「中世城館調査報告書」では西側丘陵の麓付近まで広げて捉えているが、これに対して「喜多方市史」では市道の位置を西限として見ているようである。
城跡遺構として現存していると思われるものとしては、慶徳小学校西側の法面と城跡南西部に残されている畑の窪み(堀跡か)が確認できる。
葦名氏重臣である平田氏の一族が慶徳氏を名乗りこの地を治めたとされている。
葦名氏により滅亡したといわれている新宮氏の居城であった新宮城からは北に1.2キロメートルほどの地点である。
凸慶徳新館(喜多方市) 午前9時55分から
慶徳城の東側100メートル足らずの個所に武藤氏により築造された城館跡であるが、現在この城跡には喜多方市立慶徳ふれあい会館が建設されている。
しかしその東側に所在する高さ2メートルほどの段差の存在にその痕跡をとどめていることを確認できる。
凸荒神館(喜多方市) 午前10時00分から
現状の地形からは天然の谷川が堀となっていたことが窺われる慶徳城周辺の城館跡のひとつであるが、近年の周辺の道路整備によりその地形が大きく改変されている。
凸松野館(喜多方市) 午前10時20分から
青木氏、勝氏などの居館と考えられている平地の方形館で土塁跡のようにも見えなくもない地形を見ることができる。
凸見頃館(喜多方市) 午前10時32分から
台地上の西光寺付近が館跡とも言われているが委細不明で、字名として館中の古地名が今に継承されている。
凸岩沢館(喜多方市) 午前10時46分から
「喜多方市史」によれば、「南館」「館下」「向館」などの小字名が残され、「腰巻」という田地も存在しているという。
■佐原十郎義連墓(喜多方市) 午前10時58分から
凸岩尾館(喜多方市) 午前11時11分から
加納荘を治めた佐原氏一族の居館を中心として拡大した城館であると考えられている。
土塁跡、郭跡と思われる地形と比高差にして10メートル前後の段丘地形を確認できる。
凸半在家の遺構(喜多方市) 午前11時45分から
佐原十郎墓の南方、県道336号線の半在家集落内の東西に土塁あるいは堀跡などの痕跡を確認することができる。
凸添田館(喜多方市) 午後12時04分から
凸青山城(喜多方市) 午後12時12分から
山王神社が所在する比高差10メートルほどの小丘陵が城跡で、南北にそれぞれ郭を有している。
とくに北郭にともなう土塁と空堀などの状態が魅力的であり、訪れる時期が異なりさえすれば、格好の地形観察が可能な遺構の保存状況であった。
この時点で日差しは益々真夏の強烈な性格を露わにし始め、徐々に次第に気力と体力蝕んでいったように記憶している。
史進どののお導きにより、今回もまた3日間で都合40か所を超えた城跡めぐりとなった。
資料収集、現地案内、宿泊所手配などなど多岐にわたりお世話になり心より感謝申し上げます。
後になってよくよく考えてみれば、こうした盛夏での訪城は極力早寝、早起きがベストなのかとも思う次第。
いっそのこと午前5時出陣、無理をせずに正午過ぎ頃に転進して昼食と資料漁り、午後5時宿営地到着というような行動モデルがあっても良さそうな気がしたのであった。
秋が深まりを見せたころ、本宮市内と会津盆地再訪もプランニングしてみようと思う昨今であった。
2日目は連日の猛暑のなか、やや遅めで宿を午前8時頃に出発。
途中にて朝食と経口補水液などを購入し会津若松市内から会津坂下町方面へと足を伸ばした。
しかし如何せん体重増加のため些か足回りが重たい。
凸横沼柵(会津若松市) 午前8時45分から
神指城の北北東約1.5キロメートルほどの地点に所在する市内神指横沼の集落北部に所在する。
神社境内が目印で境内の南西側に土塁状の地面の高まりと北西側に堀跡と思しき窪地などが認められるが、城館遺構との関わりについては推測の域を出ないものなのかもしれない。
南西側土塁状の地形
凸束原館(会津坂下町) 午前9時20分から
「中世城館調査報告書」によれば、複郭の方形館であるとの記述があるが、現状の地形からは集落をめぐる用水路の存在と小祠の所在する最高約2.5メートルほどの土塁状地形を確認するにとどまった。
祠近くの土塁状の地形
凸細久名館(会津坂下町) 午前9時35分から
集落の南端で共同墓地のさらに南側約60メートルに所在する集落北部に土塁状の表面地形確認できるが、遺構としての規模は方50メートルほどくらいでさほど大きくはない。
おそらくは日蓮正宗妙福寺境内ではないかと推定されるが、このほかにも南端の道路沿いの民家前にて土塁に似た地形を見ることができる。
凸海老沢東館(会津坂下町) 午前10時00分から
「東屋敷」との通称がのこされており、海老沢集落の東端に所在する数軒ほどの集落内に所在するものとされているが、多分このあたりであろうという推測の域を出でず。
東屋敷付近の景観
凸海老沢西館(会津坂下町) 午前10時15分から
前者の西側の集落に所在すると考えられ「西屋敷」との通称名が残されている。
西屋敷付近の景観
凸雲雀城(会津坂下町) 午前11時00分から
空堀、主郭、小口、土橋などが現存している只見川右岸の崖地に所在する城館跡。
堀幅数メートル、深さ最大6メートルほどの空堀一本により東側と北側を台地から隔絶した構造となっており、藪などのため確認しづらいが比較的シンプルなつくりとなっている。
城氏が構築した会津8館のひとつとされており、このほか城域には複数の古墳も所在する。
訪問ルートからは幾分外れた地域に所在し、入り口付近は大分夏草に覆われてはいたが、本当に訪れてみてよかった城館跡のひとつであった。
東側空堀と小口
凸陣が峯城(会津坂下町) 午前11時50分から
古代末期から中世初期に起源を有するといわれている城氏の館跡。
耕作や40年ほど前の地域公民館建設などによりある程度郭内の様相が改変されている模様だが、台地端を利用し二重の空堀を廻らしてその地形的な独立性を図ったという意図が伝わる貴重な遺構。
季節が違えば藪に覆われ気味な空堀の印象もだいぶ異なるはず。
二重の空堀
この時点でおりからの猛暑に加えて空模様が気がかりな様相も加わり、喜多方方面への進出を断念し会津坂下町から会津若松へとUターンすることとした。
この時期「ところにより雷雨」という天気予報はことに悩ましいものである。
凸生江館(会津坂下町) 午後12時25分から
集落内に居館、集落北西の古墳に砦跡が現存し、古代から栄えた地域であった経緯が窺えた。
現状では水田面との比高差は目測で約8メートルほどを測るのみだが、往時には亀ケ森古墳周囲の堀跡が機能して、より比高差を伴っていたであろうことが想定された。
稲荷神社と観音堂とが所在する前方後円墳の円墳部分が中世の砦跡で、方墳のほうは地元の墓地として大きく改変されていた。
なお飲用には向かない印象もあったが古墳麓の水場で首を冷やし人心地つく。
遅きに失してはいたが、帽子の下に濡れたハンカチを被り日射を防ぐ方策が熱中症の防止に有効であることを思い知ることとなった。
朧げながらこの日の暑さのピークはこの時点であったと記憶。
戦国時代の砦
凸青津柵(会津坂下町) 午後12時50分から
生江館東隣りの位置にあるらしいが城館としての経緯などは詳細不明。
推定地付近の景観
凸金上館(会津坂下町) 午後13時25分から
館跡北西部の北辺と西辺を中心として大規模な土塁が現存しているが、葦名氏重臣金上氏の館跡にしては思いのほか控えめの方一町の規模なのであった。
館跡北側に所在する境内地の広い金上寺では折から法要の真っ最中。
南側の集落の道路からは城館跡であることがやや分かりにくいという印象が残った。
北西付近の土塁と堀跡
ブックオフに立ち寄ったのち、となりのラーメン店で幾分遅めの昼食を摂取してほんの少しだけ元気回復モードに。
凸小 館(会津若松市) 午後15時18分から
伊達政宗暗殺未遂事件の現場と伝わり、当地にはその名も「小館稲荷神社」が鎮座している。
現地説明版あり。
小館稲荷神社
この後は空模様と猛暑による体力の減衰を勘案し休養のため宿にて一時仮眠することとした。
2時間ほどの休息ではあったが、確実に気力だけは回復を果すことができていた。
その後は日没近い午後6時30分頃から活動再開。
凸直江兼続屋敷(会津若松市) 午後18時34分から
市街地の一角に上杉家会津移封後に足かけ3年ほどの間直江山城の屋敷があったとされる場所であわせて山鹿素行の所縁の地でもあった。
直江山城守屋敷跡
凸会津鶴ヶ城(会津若松市) 午後18時51分から
黄昏時から日没後の外堀、内堀、天守、二の丸などを次々に訪問したが、人影は皆無に近くとりわけ石垣と土塁のシルエットが印象に残った。
夕刻からの市内散策の後、いくぶん遅めの夕食となった。
昨日に続き、同じ日本蕎麦屋さんで再度「とろろ蕎麦」をいただいた。
何故日本蕎麦が2日続いたのかといえば、自分としては10割蕎麦が美味かったことと猛暑のためほかの食物を胃が受け付けなかったことによるものでもあったのであろう。
就寝前に足回り保持のため携行してきた専用バンドエイドを装着。
って、昨日貼るのをすっかり忘れていただけなのではあるが。