形式的な質疑がおわり、安倍総理が退席したあと、同法案の審議打
直後のニュースのなかで強行採決された旨の報道が為されましたが
「特定秘密保護法案」は、与党とその補完勢力による民主主義を否定した暴挙です。
三権分立の大原則を国会が自ら放棄・否定する法案でもあります。
言論・表現の自由、国民の知る権利の剥奪はもとより、あらゆる情報が国家の管理下に置かれるという、まさに戦前の治安維持法・軍機保護法の再来です。
その法的拡大解釈、恣意的運用等による不当逮捕・不当捜索などの人権侵害の危険性は明白であり、結果的にファシズム国家への暴走を招来します。
以上、我ながら実に分かりにくい表現です。
26日の永田町付近の風景。
国会付近は過剰ともいえるような厳重警備態勢。
国会周辺と日比谷公園などで「特定秘密保護法案」反対の集会が行われていました。
21日の日比谷公園の時にくらべると、参加者数が不足気味。
誰もが、気軽に参加でき、それでいて機知に富んだ内容の濃い抗議行動ってないものでしょうか。
衆議院の議決の時も、10万人とまでは行かなくとも、万単位の反対行動の結集があれば.....というような印象でした。
2013年11月21日撮影。
1929年完成なので、何と築84年。
2000本以上の松材の縦杭が施されていたとはいえ、よくぞ、先の震災に耐えられたものと感心。
久しぶりに訪れましたが、考えてみれば約半世紀ぶりでした。
...
話変わって、数年前に解体された近所にあった有楽町の三信ビル。
80年ほど前には、先年亡くなった実母がタ゜イピストとして勤務しておりました。
当時の言葉で言えば職業婦人かと。
幾分そそっかしいところがあった人で、昭和の始め頃に交通事故に遭い、オート三輪にはねられたというある意味で珍しい人でもありました。
一方、生命力は旺盛で、当時の下谷区で関東大震災に遭い、戦時中の2度の空襲でも焼け出されましたが、満88歳の天寿を全うさせていただきました。
とうとう政府自民党が、暴挙に出た。
言わずと知れた悪名高き「特定秘密保護法」。
現在の日本が民主主義を否定する戦前の独裁国家への大きな転換点となることが危惧される特定秘密保護法案の制定。
その秘密の内容自体が公表もされないことから、原発反対運動や被災者の支援活動、ごく普通の市民運動でさえも、時の為政者・権力者の意のままに抑圧・規制の対象とされてしまう可能性。
一度制定されれば、集団的自衛権と同様の拡大解釈、あるいは条文改悪により、更に規制が強化される可能性。
国会や裁判所でさえも、その対象となる「特定秘密」を明らかにすることが出来ない仕組み。
たとえば、このFBで発言していることでさえも、「特定秘密」とされてしまう言論弾圧の世の中の到来。
報道の自由や国民の知る権利の許容範囲が、為政者の意のままとされる「特定秘密保護法案」
与党の内部でさえも慎重論がある「特定秘密保護法案」
現内閣の暴走・強行をに歯止めをかけるのは今しかない...
昨日から大阪にいる長女が帰省しています。
1年以上会わないときもありましたが、今年は年末から正月にも帰省しているので2度目の対面。
昨日は、近所に住んでいる知人の通夜で、本日は告別式。
小生よりも7学年下の56歳という若さで亡くなられました。
中学生の頃は、夏休みなどになると、ほぼ毎日遊んでいた間柄でしたが、お互いに長じるに従い次第に疎遠となってしまいました。
それでも、単なるご近所というわけでも無いので、昨日の通夜だけは焼香に伺いました。
家内の方が、故人の奥様と現在でも親しいこともあり、告別式のほうもあわせて列席。
この年代になってくると、慶事はごく希で、仏事ばかりが目立つようになりました。
当人も、ここ1年ほどの間にめっきりと筋力が衰え、慢性の腰椎症を始めとして幾つかの持病を抱えておりますので、健康寿命はあと数年というところでしょうか。
画像は香典返しのハンドタオルです。
合掌。
家内の親類筋へ旧盆の挨拶回り。
ついでにブルーベリージャムを購入すべく堂平山へ。
比企方面では有名な「とうふ工房わたなべ」でも販売しているとのこと。
幾度も訪れているため、ここは店の前をそのまま通過。
旧玉川村は家内の母方の実家が。
都幾川沿いには、子どもたちが小さい自分にお世話になった家内の親友宅も。
懐かしの山頂を目指して、一路県道172号線の山道をゆっくりとミニ四駆で上っていった。
山頂を訪れたのは、たぶん35年ぶりかと。
最初に訪れたのは、奥武蔵グリーンラインが完成する遙か以前の、白石峠の林道が工事が開始されはじめた1960年代の中頃だったかと記憶。
早朝から越生の黒山三滝方面から登り、関八州見晴台、刈場坂峠を越えて、白石峠を経て大霧山から粥仁田峠を経て皆谷のバス停まで歩いたこともあったような。
あの頃はたしか中学生か高校生の頃だった。
足腰も元気で、尾根筋にあがると、走るようにして歩いていた。
下り道も、膝のバネを使い走るようにして、坂道を駆け下りていくことが出来た。
今は腰椎ベルトに膝ベルト装着で、よたよたと歩くような年齢になってしまった。
そんなこんなで、錯綜した思い出が走馬燈のように脳裏を駆け巡る。
今は亡き両親も健在。
人生の四分の三を過ぎた自分が、存在していること自体があやふやとなり、まるで長い夢を見ているようにも。
現在は天文台も地元に移管され、山頂付近にはキャンプ場が整備。
個体数は少ないと思われるものの、熊出没注意の掲示がされていた。
標高800メートルを超える場所なので、少しは涼しいかと思いきや、やはり日中の暑さはかなりのもの。
その後は、予定通りに家内の実家、家内の叔母、伯母宅を回り帰宅。
運転所要時間は、延べ約4時間半ほど。
紫外線の影響か、年齢相応の白内障の関係か分からねども、明らかに眼精疲労で目が染みた。