月曜日以降ほぼ雨が続いています。
体の方はほとんど回復しましたが、梅雨時とはいえ空模様は何時雨が降ってもおかしくない日々が続いています。
ここらあたりで気を抜くと正しく例年通りとなり、クマ出没、草木叢生、梅雨、猛暑、残暑、台風、秋の長雨と続き、そのうち木枯らしが吹きすさび、やたらに眠い日が続き、雪が舞い、道路が凍結して、正月太りして、やがて春を迎え、クマが目覚めて...などということになりかねず。
ここは気を引き締めて横浜探訪を継続したいところですが、今日も天気予報では降らないはずの雨が降り出かけなくて正解でした。
当面のところ目指すは横浜市緑区方面、天候の回復は日曜日ないし月曜日あたりでしょうか。
前回の6月10日以来、天候事情に左右され続けて9日ぶり、連続で通算4回目となる横浜古城めぐりへ。
だいぶ馴染となってきた感のある日吉駅からそのまま市営地下鉄グリーンラインで川和駅まで。
今回は川和駅周辺に限定して、できるだけ徒歩による移動距離を圧縮。
何故これほどに横浜方面に拘泥するのか自分でもまったく不明。
「遺構のなさ具合」と「偶に見ることのできる遺構に限らない様々な証」との落差が興味を惹くのかも知れず。
なお今回も前回にひきつづき、「古城址探訪」様のサイトからご教示をいただいております。
凸川和城(神奈川県横浜市都筑区) 午前8時00分から8時20分
地下鉄グリーンライン川和駅から徒歩約400m、比高差約20m
「城郭大系」では、妙蓮寺が所在する丘陵付近に「土塁」が見られたとの記載が。
「新編武蔵風土記稿」では「川和城塁」と記載されています。
そうはいっても恐らくは1970年代後半頃の調査なので、宅地開発等が進行した現在では影も形も見ることができないであろうことを承知のうえの探訪です。
案の定想定される妙蓮寺裏山一帯は墓苑整備によりその旧情を偲ぶには程遠い景観が広がっています。
それでも、画像8のように比高差20mほどの城山付近からの眺望は確かに優れていることが分かります。
また、この丘陵の東に谷戸地形があり「館」が所在していた可能性を示唆していますが、現在では画像7のように川和団地の建物が立ち並んでいます。
それでも僅かに谷戸の北西側に当時を偲ぶようにも思えなくもない画像10のような崖線地形が遺されておりました。
1.日蓮宗城根山妙蓮寺 2.城根山の石柱と山門
3.本堂裏の丘陵斜面 4.たぶんホタルブクロ
5.ネコさんに遭えなかったので 6.妙蓮寺墓地
7.館址とも伝わる谷戸 8.城山付近から眺めた西方
9.丘陵跡 10.谷戸の北西丘陵辺縁
凸伝・池辺城、加賀原(神奈川県横浜市都筑区) 午前8時45分から9時10分
川和城から徒歩約600m、比高差約25m
「城郭大系」によりますと、県立川和高校の東側あたりから南へ続く丘陵一帯に大丸、小丸、三の丸、中丸、二の丸(現都田公園付近)などの古地名が遺され、ついつい城館址との関わりを想起してしまうものがありますが、その詳細については不明の模様です。
加賀原はおおむね先の二の丸南方に隣接した丘陵一帯で、現在でもそのまま町名として遺されていましたが、この地名が「新編武蔵風土記稿」に記されている加賀原と完全に一致しているのかも不明です。
城郭愛好者の間ではあまり評判の芳しくはないともいわれる「日本城郭全集」では、現在の池辺町に加賀原という台地があり「池辺城」が存在し、中田加賀守の城であったことが記されていますが、その出典もまた不明です。
1.月出松公園(縄文早期の建物遺跡) 2.同 左
3.月出松公園南東側の丘陵 4.高さ1.5m以上の切岸
5.人口的地形の趣 6.削平されている形跡
7.それらしい地形 8.加賀原の地名は定着
「古城址探訪」様のご教示によれば、「月出松公園」の南東丘陵には、たしかに現在でも人工的に成形された斜面を伴う地形が屈曲した形状で遺されていました。
この丘陵は画像4から7の地点を最高点とした南北方向に細長い地形の丘陵でその南端部までは約400mほどの長さを有しています。
元々は西側に並行する坂道を含むもう少し幅の広い地形ではなかったとも推定されますが、ピーク付近では画像のように魅力的な県観を呈していました。
南東方向に伸びている地形でもあり、木々の成長具合などから戦中戦後の食料困難時代なとに耕作地として利用されていた可能性も考えられますがとても気になる地形でした。
凸池辺陣屋(神奈川県横浜市都筑区) 午前9時45分から10時20分
池辺城から徒歩約800m、最大比高差約15m
伝・池辺城から小さな丘陵を登りそのまま南東方向へ進んだところに、現在でも西から観音寺、阿弥陀堂、陣屋跡とほぼ一直線に並んでいるとおり、画像2の切通し地形からは元々は台地として繋がっていたことが窺われます。
松平忠吉の家老である小笠原氏の陣屋としての詳しい位置関係は不明ですが、「所領役帳」などからはそれ以前には後北条氏家臣であった座間氏一族との関連を示唆しているようにも思われます。
1.西方の観音寺 比高差約10m 2.観音寺と東方の阿弥陀堂の間
3.阿弥陀堂 4.阿弥陀堂から眺めた東方面
5.陣屋跡と伝わる台地 6.真言宗宗忠寺
7.阿弥陀堂から陣屋跡に向う台地 8.忘れていた池辺の地名を撮影
凸佐江戸城(神奈川県横浜市都筑区)午前11時15分から12時15分
池辺陣屋から徒歩約1.2km、鴨居駅まで徒歩約1.2km、最大比高差約25m
現在でも無量寺の北西に位置する杉山神社境内北東の丘陵上に長さ約40mばかりの土塁とこれに伴う空堀状地形が残存していますが、城郭遺構としての全容を想像するには些か不足気味です。
付近一帯は神社境内、寺院墓地、一部宅地のほか市民農園のような形区画形質が大きく変更され利用されていました。
1.無量寺と杉山神社 2.杉山神社麓
3.社殿奥から土塁の個所へ 4.空堀と土塁
5.土塁と空堀 6.推定郭付近から南西の眺望
7.土塁と空堀 8.手前が郭で奥が空堀か?
ここについても「古城址探訪」様のご教示から、県道45号線の地蔵尊北の小尾根付近に気になる地形が所在しているとの情報を得て、前記の場所から丘陵を南北方向に縦断してみました。
以下の画像9から画像12からも分かるように、切岸状の地形を含む削平地も散見されます。
無論後世の耕地開発に伴うものである可能性も考えられますが、都市部の中に遭って森閑としたその光景には目を見張るものがあります
9.比高差約25m 10.昼でも暗い小道
11.切岸にも見える地形 12.削平地らしい光景も
凸榎下城(神奈川県横浜市緑区) 13時25分から13時分
中山駅から往復約1.6km、比高差10m前後
ある程度遺構の保存状態が良好であることか期待できた城跡ですが、やはり探訪に不向きなこの季節ならではの草木の繁殖でぼぼ塁線が見えません。
より正確に言えば、ありがちに言えば肉眼では確かに見えるのですが、デジカメにはただの木と草の塊という次第です。
寺院境内が南郭、これに付属する北側の墓地が主郭、その北側が的場とも呼ばれる郭などから構成されています。
北側を除く三方が空堀で防御されていたと推定されていますが、宅地化の著しい現在、その面影を辿ることは難しいという印象がありました。
あらためて季節を変えて再訪することの必要性も感じました。
1.舊城寺への通用口 2.北側の切岸
3.舊城寺山門 4.南郭南側土塁の西側部分
5.南郭南側土塁の東側部分 6.主郭南西部
7.南郭から見た主郭 8.主郭北側先端部
9.的場付近の様子 10.西側の切岸
11.土塁の張り出し部分 12.同 左
以上5か所を探訪した時点で未だ午後2時前なので、余裕であと2か所くらいの探訪は十分に可能な時刻ではありました。
本来は佐江戸城のあとに幾分遅めの昼食を予定。
ところが日曜日ということもあり目当ての蕎麦やが満員大盛況。
元々並んで待つのは好まない性質で、仮に2食抜いても問題のない体質ゆえ、こういう場合にはスケジュール前倒し。
こんな時のために、予め2か所ほど予備の探訪先を用意済み。
しかし積乱雲が垣間見られたような今後の空模様と、極度の発汗に伴う疲労、今後のモチベーション維持などを考慮して、当初の予定通り帰還を選択。
午後4時過ぎには自宅に到着しましたが、ほぼ時刻を同じくして予想通り夕立が降り始めました。
今回は自宅から最寄り駅までの往復を含めても、約27000歩と久しぶりに20km程度の歩行距離に収まりました。
この距離だと足への負担が軽微であり、後日このブログを記述しているように2日ほどで回復。
横浜方面4回目にして、ようやくスケジュール通り無理のない探訪を行うことができました。
この夏は今後もこんなスタイルで余裕のある城館址探訪をしていきたいものだと、褐色に日焼けした両腕を眺めつつ深く心に刻みつけました。
このところ三週連続で出かけている勘定になることから、頭の回転が始まる前にほぼ無意識に体が自然に動いているようにも思える始動。
こうなってくると、何処となく仕事の様な具合で、ルーチンワークのような趣も呈し始めてきている。
今回は疲労を考慮し、行先を絞り込んでできるだけ早めに切り上げる計画を考案。
凸矢上城(神奈川県横浜市港北区日吉4丁目) 午前6時50分から7時15分
東急日吉駅で下車し、駅前の植栽を撮影したのち県道2号線を北上、途中で東へと道をとりそのまま慶応日吉キャンパスの外れへ余りに日吉台の台地に近づきすぎ、キャンパス内の部活施設近くに迷い込んだりしながらも東方の矢上城方面へと到達。
横浜市内では、やたらにあちこちに登場することの多い中田加賀守の居館とも伝わる。
鶴見川支流の矢上川が東から南へと大きく蛇行する地点で、慶応大学日吉キャンパスの外れに所在する小規模な単郭の城郭。
仮に現在遺されている単郭のままであったとするならば、ごく少人数により機能した物見砦のようなものを想定するのが妥当なのだろうか。
いずれにしても、台地続きである南側の旧情が不明であることから憶測の域を出ず。
事前の情報通りとはいうものの、残念ながら周囲はフェンスとコンクリート擁壁で囲われ、石碑をふくむ郭、堀切などを直接見ることは叶わず、麓から比高12メートルほどの小さな丘を見上げて探訪終了。
新幹線が潜る矢上城の現況 中田加賀守との関わりを示す石柱
さて日吉といえば、だいぶ昔の半世紀以上前のこと、たまたま当時父親の勤めていた仕事先(記憶では慶応大学の学食)がこの日吉にあり、何かのついでに一緒についていった記憶が。
その当時は、草の生えた殺風景な台地に校舎が点在し、旧日本軍関係の防空壕やらのむき出しのコンクリートで構築された軍事施設跡が点々と所在していたという光景が記憶に。
とはいえ終戦から10年余りしか経っていない東京タワーが芝の岡に建設中の頃の話。
もうこの平成の時代にそうした形跡はないものと日吉台の北麓を城跡に向かい歩いている最中、切り立った崖線中腹部に何やら2か所ほどの古びたコンクリート施設が視界に。
出入り口はコンクリートにより塞がれているものの恐らくはそうした関連施設である気配が。
無論こちらもフェンスにより立入禁止。
凸桃井播磨守館関連地1高田天満宮(神奈川県横浜市港北区高田町)
午前8時10分から8時30分
日吉駅から横浜市営地下鉄グリーンライン高田駅下車。
今日一日はこの4両編成のカワイイ車両のお世話になる予定。
「城郭大系」および「古城址探訪」様よりご教示いただいた情報から、まずは北方に所在する高田小学校方面を目指して県道106号線を道なりに北上。
徒歩10分足らずで最初の目的地である高田天満宮に到着。
駅前からでも、それと分かるような比高差20m以上はあろうかという丘陵先端部に所在し、南方と東方は天然の要害に相応しい地形を呈す。
徒歩10分足らずでも、この傾斜のはなかなか登り甲斐が...終いには30段ほどの石段も。
神社境内は季節柄、至るところアジサイが満開状態に。
こんな次第で今回の撮影は概ね紫陽花尽くしの趣に。
神社社殿背後には恒例となる立派な神社の土塁も存在^^
南参道方面の十分な比高差と良好な眺望が印象的で、北西側の台地続きを除いて神社境内の丘陵自体も南方へ大きく突出した半島状地形を形成。
天満宮の手書きの由緒書きには、南北朝初期に領主であった桃井播磨守直常が当社を建立した旨が記されていた。
これは恐らく「新編武蔵風土記稿」に収められている都筑郡之五神奈川領、高田村の条を引用したものと解される伝承を記したものと解される。
高田天満宮遠景 高田天満宮由緒書
社殿裏側の「土塁」 神社境内の紫陽花
神社境内 南側の崖線部
削平されている地形 比高差は十分
西側の住宅地からの社叢
未だ2か所目の端緒に過ぎないにも拘らず、すでに体力的にはこの辺から折からの蒸し暑さに加え、次第に足元の鈍痛がその厳しさを増加させ徐々に疲労が蔓延。
かりにこれが片道1時間ほどの目的地ならば、即刻帰還するかも知れずと思いつつ次の個所へと移動。
凸桃井播磨守館関連地2(神奈川県横浜市港北区高田町)
午前8時40分から8時50分
塩谷寺が所在する一帯が台地と丘陵先端部により囲まれた地形を形成。
この地点に赴くには比高20mほどの急坂をハアハアいいながら往復しなくてはならないという苦行の宿命が。
塩谷寺の山門と境内 同寺西側の丘陵
このあと高田(たかた)小学校付近を歩いて東西方向に伸びている台地地形を確認。
北側の比高差は南側に比べて、その半分ほどの10m前後と幾分不足気味であることも確認。
凸桃井播磨守館関連地3(神奈川県横浜市港北区高田町)
午前9時00分から9時15分
台地北東部先端の興禅寺境内付近。
同寺の寺伝では元応2年(1320)に桃井直常が再興したと伝わる。
「新編武蔵風土記稿」では所在地について明記は無く、「天神社より西の方に天神の原と云う所あり、此所桃井播磨守が館迹なりといひ傳ふ...」とのみ記載。
念のため付近の様子を拝見してみたところ、同寺北東の民家に僅かに土塁状の地形の一部が残存。
方角から見る限りでは風除けの土塁ではなさそうな印象。
だいぶ消失しかかっているが、崖線部を含めL字型形跡を確認。
しかし城館遺構との関連は不明。
民家境の土塁 たぶん土塁かと
消失間近な崖線と土塁 興禅寺の由来
天台宗興禅寺山門
凸山田城山比定地1(神奈川県横浜市都筑区山田町) 10時10分から10時30分
「新編武蔵風土記稿」巻之85都筑郡之5山田村の条によれば、小名堀ノ内、殿谷につづき「城山(じょうやま)東の方にあり、前の殿谷(とのやと)の丘を云、高さ三丈(約9メートル)餘(あまり)登りて一丁四反許(約1400平方メートルばかり)の處(ところ)なり、今城跡と唱ふるは北の方にあり、されど誰人の居城なることをつたへず、或は鎌田兵衛正清が居住せし處なりといへど覚束なし、...」と記されている。
この記事によれば、城山が殿谷の比高9mの丘で北の方角にあるとも、或いは比高9mほどの殿谷の丘とは別に、北の方角にある城山が所在しているようにも読めるように思われる。
伝承の曖昧な鎌田正清の居城の真偽はともかくとして、この古城址の存在について具体的にその所在は何処なのかということになる。
1番目の比定地は通称鎌田堂という地蔵尊が所在する南側背後の丘陵。
比高差は確かに10mほどであり、「新編武蔵風土記稿」にも「地蔵堂 村の東中原新道にあり、これを土人(地元民)鎌田堂と云、2間に3間なり、...此邊(このあたり)を土人呼て城山或は鎌田屋敷などと云」とも記されている。
これら「新編武蔵風土記稿」の記述を信頼すれば、有力な比定地のひとつには違いないのだが、現在では生憎とこの竹林への立ち入りが禁止されていることから付近から拝見するに止まった。
住宅背後の丘陵 鎌田堂
鎌田堂背後の竹林 鎌田正清館跡の文言を含む石碑
立入禁止の竹林を手前から
凸山田城山比定地2(神奈川県横浜市都筑区山田町) 10時40分から11時10分
2番目の比定地は「城郭大系」が示していると推定される、現在URの集合住宅が所在するコンフォール城山の丘辺りで、西方には堀ノ内の地名も伝わる丘陵。
西側麓には城山交差点、城山バス停なども所在する土地柄。
中原街道を鎌田堂方面から歩いていくと、南西約250mほど先にひときわ大きくせり出す比高20mほどの丘陵先端部が視界に入る。
中原街道旧道に入り最初の十字路を右折し、北側の住宅内の細い坂道を息を切らしながら道なりに北上していくと、200mほどすすんだ辺りに東側へと入る竹林の山道がある。
これをさらに南東方向に道なりに100mほどすすむと高圧線の鉄塔が所在する個所に到達し、眼前には人工的な地形が展開している。
ひときわ目立つ丘陵 竹林の中の道をすすむ
堀跡に見えなくもないが 小口ではなさそうな
その現況については、一見小口のようにも見えなくもない地形や、堀跡のようにも見えてしまう地形も所在したりして全く飽きさせないものもあるが、多分に近年の重機などの工作跡のような印象も感じられる。
凸山田城山比定地3(神奈川県横浜市都筑区山田町) 11時20分から11時50分
前項の比定地2から中原街道旧道をそのまま何性方向にすすみ「のちめ不動」を過ぎ、百石橋西側交差点を渡り、そのまま120mほどすすんだところに幾分戻るような北側に曲がる細い道に入る。
そのまま距離にして約50mばかり進むと進行方向左手に南西方向に登ってゆく石段があり、これを少し登った個所に「堀之内稲荷」の小さな祠が所在している。
ここからそのままフェンス沿いに登ってゆくと、すぐに進行方向右手に土塁のようにも見えなくもない細い尾根筋が視界に入る。
さらに歩みを進めていくと山田神社境内の東側へと到達する。
堀之内稲荷 途中の尾根筋
山田神社東参道 境内の北側崖線部
鎌田正清の名がある神社由緒 南側参道から
南側参道 南側参道の途中
南側表参道麓
山田神社境内は北側は切り立った崖線を形成しているものの、東側は先ほど登ってきた比較的緩やかな稜線であり、西側にはあまり比高差を感じることのできない住宅地が広がっている。
さらに南側には約300mに近い長大で緩やかな傾斜を有する参道が続いている。
南方の視界は良好であるものの、伝承性の色濃い中世初期の武士の館は別として、いわゆる要害地形としては些か不十分な印象が強い。
以上3か所の山田城山の推定地についても、「城郭大系」のほか、「古城址探訪」様よりのご教示によるものです。
凸殿山伝承地(神奈川県横浜市都筑区早淵) 12時50分から13時10分
山田城山からの道のりが、ほんの僅かとはいえ早渕川の段丘を超えるルートであり、かつ直線ではないこともあったりして、この日の蒸し暑さも加わり8割がた探訪断念寸前にまで疲労困憊。
あくまでも「殿山」の地名から訪れてみた場所であり、早渕公園の南側に隣接している比高5mほどの造成宅地西側斜面に丘陵としての名残を止めていた。
伝・殿山付近 同 左
こちらも探訪のきっかけは「古城址探訪」様よりのご教示によるものです。
帰りがけに路線バスを当てにしていたものの、午後2時という時間帯は僅かに1本のみで、しかもバスは今しがたの13時6分に出たばかりという最悪の状況。
ここは英気を養うために遅めの昼食を摂るべく、左右の沿道を眺めつつ東山田駅方面へとよろよろと歩を進めるも、あるのはラーメン店が2軒に松屋にマックという按配。
足の痛み、肩の痛み、梅雨晴れの暑さの三重苦のなか目に入った和風レストランの「味の民芸」
このさい贅沢は言えないので何を食べようが、とりあえずエアコンにあたりたいという一心で入店。
頼んだのは「三元豚のつけうどん」と「ミニソースかつ」(かつ2切れ)を追加。
食事時間を含む都合1時間ほどの休憩により、どうにか残りの目的地へと赴く気力だけは復活。
凸茅ヶ崎城(神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東2丁目) 14時35分から15時20分
広い城址公園をこの時期訪れていた人は皆無で小机城同様に城跡を独占。
ところが事前に想像していたよりも夏草が元気に繁殖し郭一面を覆い尽くし、復元された主郭の小屋址の石も草に覆われ足でかき分け捜索するような始末。
堀底が舗装されていることから郭間を歩く分には問題がないものの、予想されていたこととはいえ、郭の形状、土塁の規模、配置、小口の様子を観察するには矢張り不向きな時期であった。
草刈りのお手伝いをしたいところなれども持病の腰痛が。
茅ヶ崎城入り口 画像中央が主郭
主 郭 主郭(左)と西郭
主郭(左)と西郭 主 郭
西 郭 西郭北側の土塁
西郭の土塁 堀切か
主郭(右)と西郭 主郭(左)と東郭の土橋・堀切
主 郭 東郭の腰郭手前の堀切
東郭からの眺望 東 郭
主郭と北側土塁 主郭と南側土塁
北 郭 北郭から見た主郭小口付近
このあと市立博物館に立ち寄り、休憩がてらに暫し資料関係を収集。
「都筑まもる」くん 横浜市立博物館玄関
ここで携行していることを忘れていた副作用の常習性もある「痛み止め」2剤を服用。
薬の効果はその後帰宅した後まで継続。
しかし、2日後に重度の腰痛と肩痛が発生。
つまりは痛みを一時的に麻痺させていただけのことで、本質的に痛みの原因を取り去るものではないのであった。
凸大塚遺跡(神奈川県横浜市都筑区大棚西) 15時50分から16時30分
有史以前の環濠集落跡で、あくまでも帰りがけのルート沿いなのでついでに立ち寄る。
復元環濠集落 復元竪穴式住居
この幅くらいの環濠の規模では仮に排水路などとして利用されることは想定できても、人間を含む外敵の侵入を防ぐという防御性を高めるうえで、果たしてどれほどの効果があったのかどうかについてはいささか疑問も残った。
また堀の外部に土塁と柵列があるが、内部からは見えづらく外敵が身を隠すことのできる不都合な配置となっていることも明白であり謎は深まる。
この日は〆て4万歩なので、前回に比べれば歩いた距離はたかだか31キロメートルほどに過ぎず。
また延比高差の方も先週よりもはるかに少なく、僅かに延べにしても約150メートルばかり。
数の上では10か所だが、あくまでも比定地などが多いことから実質は6か所ほどという成果に。
一方で今回試してみたスポーツサンダルは可もなく不可もなく。
確実なところでは、踵には優しいがやはり斜面には不向きという結論に。
また踵サポーターはその装着方法の工夫次第なので、ある程度は歩行に伴う痛みは軽減可能であることを再確認。
この日の暑さに伴うと疲労もかなりのものだったことから、今回は今までの状況に加えて右腰(足の痛みをカバーして歩く姿勢)と左肩(たぶんデジカメの携行によるもの)にダメージ発生。
携行した痛み止めは当座の対処としては効果覿面なのだが、翌々日から腰と肩の痛みを併発して、只今継続中(6月13日午後4時15分現在)で少なくとも一週間程度は身動き不可に。
以前から横浜方面は全く地理不案内。
公共交通機関での所要時間は地下鉄副都心線、東急直通があるというものの正味で約1時間半。
これが乗り継ぎの場合には2時間近くに。
自宅から最寄り駅までの所要時間をプラスするとだいたい片道2時間半。
これがいままで敬遠してきた最大の理由のひとつ。
三度目となる訪問で、ようやく東急東横線の南北方向に加え、菊名経由のJR横浜線、日吉からの市営地下鉄グリーンラインの路線図が何とか脳裏に浮かぶようになってきたことは大きな成果。
さて今後四度目の横浜探訪があるかどうかは、今後の梅雨の空模様と気力次第に。
今日あたりは降水確率20パーセントでも、細かい霧雨が断続的に降っています。
1時間当たりの降水量は1ミリメートルに達しないので、予報が外れているということでは無いようなのですが、うかうか外出もできない空模様です。
洗濯物も干せず、部屋干しに。
昼食は以前特売で購入した「まるちゃんのカップ麺」で済ますことに。
流石に元気がなくなってきた昨年末に植えたビオラ(⇒商品名は「よく咲くスミレ」)10株ほどを処分。
花壇の植え替えには好都合の空模様なので、近所の生花店で園芸種の矮性ペンタスとニチニチソウを購入し植え替え作業を実施しました。
両方とも通常は秋頃までは持つはずなので、あとは些か切戻しのタイミングが難しいペチュニアの面倒を心掛ければよいはずです。