1日目に宿泊した北上市のホテル。
料金の高い北上川俯瞰できる東側客室は眺望良好の模様。
一方、格安料金の西側客室から眺める奥羽山脈と北上市街の風景にも味わいも格別。
チェックインの時間がまだ明るかったこともあり、客室から少しずつ暮れなずみやがて漆黒の闇に隠れていく奥羽の山並をしばらくの間眺めておりました。
早朝、東北新幹線の警笛でふと覚醒したものの、熟睡効果も加わり心地よい目覚まし代わりに。
これから赴くはずの横手市方面をじっくりと観察。
今秋の長期遠征にも使えそうなホテルのロケーションに満足。
朝方の曇り空のなか、2日目は午前8時から行動を開始。
凸黒沢尻柵(岩手県北上市) 午前8時10分から8時25分
この後は秋田自動車道経由で横手市内へ移動。
凸平館(秋田県横手市) 午前9時30分から9時50分
市内平城町の共同墓地周辺が城館跡と推定されているが、現状の地形からは往時を窺い知ることは難しい。
山城である横手城築城以前の城郭ともいわれている。
入り口を示す標柱 標柱と案内板
凸横手城(秋田県横手市) 午前10時05分から10時45分
戦国期小野寺氏の本城。
史実に基づかない築50年のコンクリート製の模擬天守ではありますが、半世紀以上の年月を経てきたことから、これ自体が文化財化してきたという印象もあります。
このあと暫時図書館と書店などに立寄り涼をとりつつ、昼食は市内で横手焼きそばを摂取。
凸吉田城(秋田県横手市) 13時20分から13時35分
郭内の一部が墓地となっているものの、良好な土塁、櫓台、空堀が残存している。
凸古館(秋田県横手市) 13時45分から13時50分
無論遺構は無い この水路辺りが北限らしい
凸浅舞館(秋田県横手市) 14時05分から14時15分
頑張る標柱
凸鍋倉城(秋田県横手市) 14時25分から14時45分
標柱が... こういう時の保険代わり
凸今宿館(秋田県横手市) 15時10分から15時25分
近くの学校の風景 たぶんこの辺りが城館跡
凸沼館(秋田県横手市) 15時50分から16時40分
凸七日市城(秋田県横手市) 16時50分から17時00分
凸八柏城(秋田県横手市) 17時05分から17時20分
途中で休憩を兼ねた昼食などの時間を費やしたにもかかわらず、10か所以上を探訪するという結果に満足し、夕食も別の店で「横手焼きそば」摂取。
いくぶん外観の経年劣化が目立つホテルは案に相違してことのほか快適。
心地よい疲労と充実感に包まれ翌日の資料と県別マップルを眺めながら寝落ち。
史進さんのお誘いにより岩手県奥州市、北上市と秋田県横手市の城館探訪へ。
午前4時に拙宅を出発。
2泊3日の行程で探訪先は概ね20か所前後。
途中大崎市の道の駅ほかに立寄る。
奥州市到着は午前11時過ぎ。
往路の走行距離は約460km。
凸上麻生城(岩手県奥州市) 午前11時20分から11時30分 再訪
東側の堀跡 標柱と説明版
凸中畑城ほか(岩手県奥州市)
・青麻神社の土塁 11時40分から11時45分 再訪
民家北西部の土塁(風除け) 青麻神社東側の堀跡(境堀か)
・中畑城 11時50分から12時00分 再訪
・字丑の子の土塁 12時頃 再訪
・大儀寺跡12時10分から12時12分 再訪
凸栗林遺跡(岩手県奥州市) 12時20分頃 再訪
凸六日城(岩手県奥州市)12時25分から12時40分 再訪
凸下姉体城(岩手県奥州市) 13時05分から13時20分 再訪
旧本丸(内館)の土塁 旧西舘(遠藤屋敷)の土塁
凸根蕪遺跡の土塁 13時25分から13時30分
下姉体城から上姉体城へと向かう国道343号線沿いに所在。
前回4月遠征時には情報不足などから全く気が付かずにパス。
発掘調査からは平安期の遺構とされているが、西側の一部に年代不明の土塁地形が残存。
今回は大谷選手活躍のお蔭で、姉体小学校北東に所在している土塁遺構をしっかりと確認。
西側土塁の南部分 西側土塁の北部分
凸上姉体城(岩手県奥州市) 13時40分から13時45分 再訪
東側土塁 西側土塁
凸舟形館(岩手県金ヶ崎町) 14時10分から14時30分 再訪
南側から 北東部付近
凸丸子館(岩手県北上市) 14時45分から15時10分
国道4号線北上バイパスの建設に伴い東西に分断された城郭だが、現在でも郭、空堀、土塁を確認することができる。
丸子館全景 同空堀跡
凸岩崎城(岩手県北上市) 15時40分から16時30分
和賀氏重臣岩崎氏の居城とも伝わる。
主郭と南西郭の間の堀切は大規模で深い。
主郭北側の堀切はこの時期には草薮が酷く全容は見えず。
南西郭の土塁 主郭枡形付近
1日目は再訪も含めて約10か所ほどの探訪となりました。
北上市内探訪の数は少ないのですが、今後の活動の足掛かりも掴めました。
お付き合いいただいた史進さんに感謝申し上げます。
毎度のことですが、ブログ更新はすでに4日遅れになっております。
のこり2日分の更新時期は我ながら不明であります ^_^;
史進どののお誘いにより、今回は上尾市西部へ。
地表に刻まれた目ぼしい残存遺構が少ない地域でもあることから、拙サイトでも長年にわたり空白地帯となっていました。
生憎の小雨模様のなかではありましたが、比較的拙宅から近いこともあり、自宅を午前9時過ぎに出立したところ、早くも10時前には現地に到着。
往路の所要時間は僅か40分ほど。
凸三輪荘司館(埼玉県上尾市平方) 午前9時45分から9時55分
小雨。
デジカメのフィルターにポツポツと雨粒が付着。
上尾橘高校北方の台地で、たぶん栗畑のある辺りらしいような。
凸殿山(埼玉県上尾市畔吉) 午前10時10分から10時30分
このころ風雨やや強し。
デジカメは濡れ、資料も濡れ、遺構の中心部と目される殿山古墳の所在確認に手間取る。
現状は牧場と霊園に。
凸西通1遺跡(埼玉県上尾市小敷谷) 午前10時40分から10時50分
現地解説版あり。
凸館山(埼玉県上尾市壱丁目) 午前11時00分から11時10分
風が止み雨も小降りに。
遺構が存在していたと目される屋敷林の周辺は着々と宅地化が進行していました。
凸柴田氏陣屋(埼玉県上尾市向山) 午前11時25分から11時30分
神明神社の個所が旗本柴田氏の陣屋跡と伝わる。
ここで暫時休憩して早めの昼食。
へぎ蕎麦
天候がいくぶん回復する兆しが見られたことから、17号線東側へと移動。
凸西尾氏陣屋(埼玉県上尾市上尾下) 12時30分から12時45分
陣屋公民館の辺りが、西尾氏の旗本当時の陣屋跡とされている。
陣屋跡北辺に堀跡の名残とも思われる幅2mに満たない帯状の細長い低地が現存。
このあと上尾市立図書館橘分館に立ち寄り関係資料渉猟。
とはいえ老眼のすすんだ年寄には役に立つことは何もなく、申し訳ないと思いつつもひたすら史進さんにお任せを。
凸在家遺跡(埼玉県上尾市平方) 14時20分から14時25分
次第に雨があがりはじめる。
現在は県営丸山団地の個所に遺構が所在していたという。
凸雨沼1遺跡(埼玉県上尾市平方) 14時30分から14時35分
平方公民館前に現地解説版あり。
今回は「遺跡」という名称が多いのですが何れも、何らかの形で中世城館に関わりのあると推定される場所です。
各遺跡の具体的な記述は後日加筆する心づもりで、とりあえず備忘録として記録を。
いつもお世話になっている史進さんにあらためて深謝いたします。
関東地方は7月に入りましたが、まだまだ梅雨明けでもないのに暫くは真夏のような天候が続きそうです。
この先に到来するであろう深刻な水不足と酷暑の日々も思いやられます。
こんな時にこそ日頃の健康管理と体力維持が肝要なので、体重減もかねて城館探訪 へ ^^
けっして横浜方面に飽きたということでは無いのですが、今回は少しだけ気分を変えて全くといってもよいほど地理不案内な川崎市から町田市の都県境方面を西から東へと移動してみました。
小田急鶴川駅で下車し駅前の小田急ストアで、カレーパン2個(朝、昼の2食分)とキリン生茶1本を補給し、前回のごとく朝食代わりとなるカレーパンを齧りながら町田市の青木屋敷方面へ。
凸青木屋敷(東京都町田市金井町)午前7時05分から7時50分
探訪に際して参考にした資料は毎度お馴染みの「城郭大系」と「東京都の中世城館」(戎光祥出版)ですが、「城郭大系」の方は、その所在地を町田市大蔵町としている一方で、同市金井町の青木屋敷の口碑に関する情報を掲載するなどの混乱が見られます。
またそこに登場する青木氏が飯能付近を拠点とした丹党青木氏一族と関連するものなのかも不明です。
果たして屋敷地に相応しいかどうか多少の疑問も残る北側緩斜面と、念のため南側の丘陵周辺も時間をかけて散策。
確かに北側緩斜面一帯は比較的平坦な河岸段丘なのですが、この緩斜面との比高差が最大で30mに及んでいた南側丘陵削平以前には、今よりも日照条件が不利であることが想像されました。
1.台地先端部からの眺望
また南側丘陵部については、全体として大きく丘陵部が削平(いわゆる切土)を受け、標高81.2mあったとされる地点は約10mほど低くなりピーク状地形の面影は全くありません。
その北東側の部分も5mほどの削平を受け、辛うじて残っていると思われるのは旧家西側の標高76mほどの丘陵部です。
しかしこの部分も最大で4mほどの削平を受けている形跡がありました。
2.最も旧情を伝えていそうな地形
凸阿部某屋敷(神奈川県川崎市岡上)午前8時10分から8時50分
比高差10m前後で、前項の青木屋敷からは徒歩1.5km、小田急鶴川駅からは徒歩約800mほど。
途中でいくつかの中世城館の比定地に相応しそうな地形をのんびりと眺めながら少しずつ東へ東へと移動していたためかなり時間を浪費しました。
いちおう頭に浮かんだ比定地は次のとおりです。
「A一番手前の西寄りの丘陵、標高最大82.5m」
「Bその東側の谷戸地形、標高50m未満が大半の低地」
「C岡上小学校南側のこんもりとした丘陵先端部、標高約80m」
「D岡上神社が鎮座する丘陵、標高約60mほど」
「Eその東側の東西方向にのびた細長い丘陵、標高50m強」
「城郭大系」が示している「阿部ノ原」が、その記述通りに「城山と上三輪との中間の標高53mほどの耕地をいい、城山より西方に300mの距離がある」という記述が仮に正しいとして、西方300mと標高53mの条件に該当するのは「D」もしくは「E」ということに。
これに地形としての防御性を加味すると「E」が有力となりますが、そうした適否はその時代背景の設定次第で変わりますので何とも言えないところです。
凸沢山城(東京都町田市三輪町)午前9時00分から9時45分
地元の地主さんの永年のご尽力で、現在にまで引き継がれている戦国期の城郭ですが、一般にその存在自体が認識されたのも1970年頃の様です。
比較的規模の大きな3つの郭と櫓台、空堀、土塁、複雑な屏風折を見せる中腹の腰郭などから構成されていますが、城域自体はもう少し広いようで西側は熊野神社の辺りまでを含む東西500m、南北350mの概ね丘陵全体がその範囲であったとも指摘する見解も有力なようです。
1.二の郭切岸と空堀 2.東側からの全景
こちらを拝見するには、沢谷戸自然公園南西部の入り口脇の尾根筋から入らせていただきます。
ご自宅に近い民有地でもあることから、基本は櫓台とも推定されている「七面堂」への参拝者に限られ、拝見できる個所は3つの郭付近のみと限られてはいますが、市街地近くで戦国期の土の城を鑑賞できる大変貴重な遺構でした。
凸亀井館(神奈川県川崎市下麻生)午前10時50分から11時30分
比高差約15m、沢山城から徒歩にして1.6km。
推定地は東端部に月読神社が所在する台地。
北西部で台地とつながる個所を除き
地元の伝承から義経家臣亀井六郎の館址とも。
台地の大半は住宅地で明確な城館遺構に繋がる形跡は不明。
神社境内および東側参道付近に微妙な案配の人工地形確認。
1.月読神社境内 2.神社東参道沿い
敗者に連なる史実を追うことの常として余りにも史料、資料不足。
何時の世でも、「歴史は勝者が著す」もの。
敗者に残されたものは、往々にして勝者の視点で歪曲された不名誉な末路。
凸下麻生陣屋(神奈川県川崎市下麻生)11時45分から12時00分
「新編武蔵風土記稿」に旧陣屋があったと記されているのみ。
鎌倉期以前の武士の屋敷、館も「陣屋」、戦国期の館城のようなものも「陣屋」、家康の関東入府以降から寛永期頃までに多く設置された旗本陣屋も「陣屋」ということもあるので、的を絞り様がないという現実が。
そもそも「下麻生村の北の方」という記述だけで領主名、陣屋名、時代背景、具体的な所在地なども不明。
またもや「古城址探訪」さんのサイト情報のお世話になり、キリスト協会のある丘陵中腹へ。
とはいえ宅地化され尽くした感のある周辺には、遺構に繋がるような手掛かりなど見つかる僥倖などあるはずもなく。
協会付近からの眺望
この時点で時刻は正午過ぎで、予定していたタイムスケジュールより前倒し。
今後の見通しは全て足の状態如何。
2時間前くらいに服用したロキソニンの薬理作用も次第に減衰。
しかし副作用の多いとされるもう一つの方は最後の手段として温存。
川崎市バス発車あとを恨めしく見送ると同時に小田急バスが後方から接近。
「やれ嬉しや」とばかりに小田急柿生駅まで乗車し、小田急で読売ランド駅へ移動。
凸寺尾城(神奈川県川崎市菅馬場)13時00分から13時15分
比高差は約30m、小田急読売ランド駅から徒歩約1.3km。
往路はもしも元気ならば徒歩20分弱で辿りつくはずの所、生憎と緩い登りが坂が続き、下ったと思えばまだ登り坂となり、その足取りは折からの暑さと空腹のため鉛を引きずるような按配に突入。
この時点ですでに歩行歩数は2万歩超に。
こうなってくると、もう一つ購入しておいた昼食用カレーパンに全く食指が動かないような疲労も発生。
このようなときに限り、遺構がやや不明確。
自然地形の谷のようにも見えなくもない空堀跡らしい竪堀、掘り込まれた古い山道とその両側の地形に腰郭のようにも思える地形も確かにあります。
いずれにしても、これで漸く秩父、横浜、川崎と関東寺尾城トリオが完成に。
帰路はこのようにそこそこ疲れていたこともあり、無理せずに馬場南から駅まで小田急バスに乗車し読売ランド駅へ向かい小田急向ヶ丘遊園駅に移動。
バスと電車に続けて乗り継ぐことで、結果として足への負担が緩和され、いくぶん足の痛みは小康状態。
凸枡形山(神奈川県川崎市多摩区桝形6丁目)14時25分から14時40分
比高差は約60m、バス本数が少ないので小田急向ヶ丘遊園駅から徒歩約800m+比高差60mほどの坂道付。
この駅に下車したのは恐らく60年以上以前のこと。
物心ついた頃に家族で訪れていた微かな記憶も。
枡形山30年以前から市民公園として利用されていることもあり、平日の午後という時間帯でしたが山頂は軽スポーツで走り回る家族連れで満員状態。
このため被写界に人影のない構図を決めるのに一苦労するような有様。
1.山頂の主郭 2.北尾根筋の馬の背
城址公園やメジャーな近世城郭は殆ど出向かないため、城跡関係でこれだけ多くの人を目にしたのは2008年6月に訪れた福島白河小峰城にて保育園の遠足集団に遭遇して以来のこと。
郭跡は城跡らしからぬ展望台付の広大な運動広場と化し、急峻な山頂部の地形などを除くと城跡とは思えないような佇まいでした。
城跡石碑周辺も人と手荷物の夥しさなどで大いに賑いを見せていました。
元々人ごみを好むような性質ではないこともあり、トイレをすまして最低限の撮影を行い即刻撤収。
凸稲毛氏館(神奈川県川崎市多摩区桝形6丁目)14時50分から15時00分
前記枡形山山頂から5分ほどで到着する北へと下る通称「暗闇坂」の麓近くの尾根筋先端部。
歴史的に有名な畠山重忠が討ち死にを遂げる北条氏の陰謀に巻き込まれた秩父平氏一族の鎌倉御家人稲毛三郎重成の居館とも伝わる場所で、現在は真言宗豊山派稲毛山広福寺境内となっています。
一般には史実とは遊離しているようにも評されている館址ですが、伝承は伝承として語り継がれてきた経緯、背景に想像を膨らませる楽しみも大切です。
1.山門近くにて 2.北山門を山腹から見上げたもの
寺院境内と麓との比高差は約12mほど。
すぐ西側には専修大学のキャンパスがあることから、地図読みをするまでもなく、人の流れについていくと勝手に駅前に到着。
時刻は未だ午後3時過ぎ、日没までは3時間以上の余裕。
この後は東隣りの長尾陣屋跡へ赴く当所の予定。
すでにこの時点で5か所探訪という最低限の目標クリア。
相次ぐ藪蚊の襲来と現下の足回り事情を慮り 撤退を決断。
より分かり易くいうならば、藪蚊に刺されたあまりの痒みと帰りの電車で座りたいので夕方以降の通勤ラッシュ時を避けたまでのことです。
しかし、登戸はともかく武蔵小杉での乗換時のコーンコースと階段の多さに辟易。
数年前には週3回も出かけた時期もあったと記憶。
今回のように目的地が市街地ではなく、当時の移動は基本的に車仕様。
しかも還暦前で今よりは身体能力に格段の差異。
何しろ前回から中三日での城館探訪。
むろん足元の回復具合が懸念材料。
暑さなどで朦朧となりつつも、どうにか約37500歩、だいたい28kmを完歩。
路線バスに大いに助けられ、その有難味を思い知る。
かりにそれを歩きとおしたと仮定するとその距離約4kmに。
恐らく体力の消耗は限界に突入かと。
さて今回使用したニューバランス製ウォーキングシューズMW880。
おおむね約2万歩あたりまでは左足踵の痛み軽減にある程度の効果を発揮。
移動手段が車の場合には殆ど2万歩以内になることから電車・バスを利用しない地方遠征には大いに役立つ可能性大。
なお、本日の体重は今年に入ってから最低の85キロ台を達成し、今年の1月からは8キロの減少し、近年細くなる一方の太腿、脹脛も以前どおりにじわじわ復活。
とうとう5回目となる横浜市内の城跡めぐりになりました。
この日も予定通り自宅を午前4時半に出発。
定刻通り午前6時43分、JR横浜線中山駅に到着。
今朝は全く飲まず食わずなので、カロリー補給のため駅前のローソンでビーフカレーパン1個を購入。
さすがに「袋に入れますか」とは聞かれずにシール貼付のみ。
小銭が財布に貯まるのが面倒で、委細構わずにカード購入。
凸小山陣屋(こやまじんや、横浜市緑区小山町) 7時30分から7時50分
JR横浜線中山駅から恩田川に沿って徒歩約1500mほど。
中山駅北口で下車し駅前外れの公園で先ほど購入したカレーパンで朝食。
より正確に言えば、カレーパンを食べながら公園に向かいそこで完食。
近年では大分減ってきたとはいえ、横浜市内も緑区のこの恩田川沿いの低地になると、まだ所々水田耕作もされていて青苗が元気に生育を始めていました。
開幕前の文禄年間に、旗本荒川長兵衛重世がこの小山村を知行した頃の陣屋跡と伝わります。
最初は「古城址探訪」さんのサイト情報をたよりに、地元の農園のあたりをふらふら。
恩田川沿いの自然堤防のような微高地です。
くわえてこの時点で、すでに蒸し暑さのために汗だくとなり足取りもふらふら。
1.先日訪れた榎下城 2.小山集落の一角
次にもうひとつの可能性として旧小山町北西境付近も訪れてみました。
無論、現代になり小山村は西八朔町から一部編入をうけているようなので、町名とその境界の変遷を詳細に調べてみる必要があります。
これは「新編武蔵風土記稿」に「村の西北の隅にあり」という記述をあくまでも字義どおりに解釈してみたもので、それ以外に根拠のあるものではありません。
前者と同じような自然堤防の微高地ですが、なんといっても集落外れの道の曲がり具合がよかったのです ^_^;
3.小山集落北西境付近
凸八朔陣屋(はっさくじんや、横浜市緑区北八朔町) 午前8時50分から9時10分
小山陣屋付近から北方の丘陵越えで徒歩約2300mほど。
なにげに唾液が刺激され、耳下腺にちょっとした違和感を感じるような地名でもあります。
小山陣屋からひと丘越えるルート沿いの地形にも興味がわきます。
1.世尊院までの丘陵越えルート 2.同 左
3.谷戸の開墾地形 4.美しい崖線部
「城郭大系」「新編武蔵風土記稿」などにより推定されている陣屋跡は現在の世尊院境内ですが、境内自体は約500平方メートルにも満たないような丘陵中腹の狭隘の地です。
しかしこれに境内背後の墓地続きの削平地2か所を含めてると、約1500平方メートルくらいとなり「新編武蔵風土記稿」の「一反八畝」という記述にはおおむね合致はします。
しかしここで少しややこしいのは、西八朔村と北八朔村の関係。
元々は一村であったものが、近世以降に分村して、現代になり一部が北八朔と西八朔町の間で編入交換されているようです。
この辺りのことを調べ始めると明治初期の町村合併に始まるその後の経緯を追わねばならず、机の周りが資料の山積みとなり収拾がつかなくなりそうなのが怖いのであります。
1.世尊院本堂 2.同寺境内からの眺望
3.墓地脇の削平地
「所領役帳」によれば後北条氏家臣の笠原氏の所領とも。
近世に入り久世氏の所領とされた時期もあるようなので、その人物関係を含む明確な伝承が遺されていないということは、ため池工事が行われた際に笠原氏関係の屋敷跡を一時的に再利用したという可能性もあるようにも思われました。
無論あくまでも可能性のひとつとしての空想であります。
凸谷本城(やもとじょう、横浜市青葉区藤が丘) 午前9時40分から10時20分
麓との比高差は約20mほど。
「新編武蔵風土記稿下谷本村の条」に「台山 村の中央にあり、また馬場台ともいえり、このあたり城跡なりといえり 」がほぼ唯一の城館跡としての手がかりですので、あくまでも伝承の域を出るものではないようです。
北東には東名横浜青葉インターがあり台地東端部には谷本小学校が所在。
こちらも「古城址探訪」さんのサイトを参考にさせていただきました。
住居表示以前は下谷本町の範囲で、現在は藤が丘と命名。
すぐ南側の千草台公園から丘陵の様子を撮影、と思ったら、何と「台」と名がつく公園は谷底に存在していしました。
比高差20m前後の宅地開発された低丘陵の場合には、等高線情報が曖昧であることが多く地図上からの地形判断に苦労します。
1.谷本小学校 2.谷本小学校脇の坂道
3.東側東名インター側から
もう一つは杉山神社がその中腹に鎮座する南側の千草台付近も訪れてみました。
こちらもほぼ同様の台地地形で、両台地の谷戸に存在しているのが前記の千草台公園にあたります。
4.千草台の坂道 5.杉山神社社殿
明らかに事前の準備が不足しており、あらためて地元郷土史、伝承関係の文献などを当たらねばと思う次第です。
凸上原館(横浜市青葉区市が尾町) 午前10時50分から11時25分
一般に真言宗東福寺が上原氏の館址と推定されています。
前記の谷本城の対岸台地に所在し、その距離は約800mほど。
境内西側に高さ2mほどの古塚もあります。
これを城跡に関連する土塁、櫓台などと見るかどうかは何ともいえないところです。
むしろ同寺が所在している台地の切岸状地形が印象的でした。
「横浜の戦国武士たち」(2012年/下山治久 著)によりますと、上原氏は後北条氏滅亡後に市が尾に帰農し、その後は代々名主を務めたということです。
1.東福寺西側崖線部 2.左 同
3.真言宗東福寺本堂 4.浅間塚或いは古墳
上原氏が開基と伝わる曹洞宗朝光寺も訪れました。
「新編武蔵風土記稿」には「五輪塔」が所在すると記載されていましたが、見当たりませんでした。
立地条件はこちらの方が眺望も良好で、谷本城方面も一望できるはずなのですが、東名自動車道が障害物となって視界を妨げておりました。
5.曹洞宗朝光寺山門 6.同寺駐車場からの眺望
凸荏田城(えだじょう、横浜市青葉区荏田町) 12時25分から13時00分
事前の情報のとおり私有地のため立入不可。
東名側道方面から切岸のラインを目にすることが主目的。
この季節ゆえ事前の不安は的中。
予想に違わず叢生する草木しか見えないという景観。
また、南西部の標高の高い個所が城域ではないことに些かの違和感も。
1.深坪橋から 2.城跡はこちらの方らしく
3.やはり見えない
ここで念のため歯を食いしばり少し迂回。
せっかくなので北東側の東名高架下からも拝見を試みました。
しかし努力の甲斐もなく、やはり眼前には濃緑の丘陵風景が広がるのみでした。
4.東名高架下から
この日の気温は30度前後、時々日差しが雲隠れ。
それほどの暑さではないものの、何と言っても90% 前後という高湿度。
かいた汗が全く乾かないので体の冷却機能も半減。
このため、持参した経口補水液以外にも自販機で4本の水分補給。
さて藪蚊に食われることを厭わなければ、まだまだ3か所くらいは廻れそうな時刻。
しかし、それよりも最初の一か所目の終わり頃から早くも左足に違和感。
痛み止め服用と、用意していた足回りの応急処置が無ければ2か所目くらいで撤退の可能性も。
遺構も所在も定かではない4か所に、遺構はあれども近づけないという城跡1か所という次第。
それでも足を引きづりながらもどうにか30000歩、約20kmに。
当所の予定通りの5か所でも健闘に値と自画自賛し引き揚げ。
本日の総費用は、
往復の電車賃1544円、
これに市が尾から荏田までの一駅分が170円、
昼食代が800円、
ビーフカレーパン126円、
自販機飲料代460円、
以上で計3100円也。
今後のことは、足の痛み(⇒踵骨棘または足底腱膜炎など)と気力次第に。
「神奈川県城跡めぐりの旅」は、これから先まだまだ続くのかどうか本人にも不明。