12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 11 | |
12 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
とりあえずの目的地は岩手県の県南である一関市の旧花泉町方面。
途中2度の燃料補給や休憩のため、若柳金成インターに到着したのは約6時間半後の午前10時過ぎ。
当日仙台市近郊辺りまでの沿道はソメイヨシノが満開を迎えていましたが、岩手県境が近づくにつれて次第にヒガンザクラ系統の開花が目立ってきました。
それにしても今年は例年と比べて桜前線の北上スピードが早いことに驚きます。
このため人出の多い方面は駐車場所の確保などのため極力避けねばならなくなってしまいました。
と、まあこんな次第で全くと言って土地勘のない初の岩手城館探訪が開始されることとなりました。
凸猪岡館(岩手県一関市花泉町) 午前10時20分から11時10分
別名を泉沢館とも。
比高差約30メートルほどの山頂ではやや見ごろを過ぎたヤブツバキ数株が花をつけていました。
明確な城館遺構としては、やや括れたような南北方向に長い楕円形の主郭と南東方向に付随する複数からなる腰郭状の地形などを確認することができます。
しかし下段の方のものについては耕作などによるものと区別がつきかねました。
北側から延びる尾根筋の先端部に位置していますが、むしろ尾根筋自体も小さいので県道からは東西に所在する丘陵の方が目立っていました。
この場所は立派な標柱があるのですが、設置場所が県道から奥まっていることなどからやや分かりにくいのかも知れません。
といいますのも、近くには東西に2か所ほど相応しい地形の丘陵が存在しております。
このため地理不案内の管理人は初っ端は東側の方の丘陵だと思い込んだり、踏査した後になっても最後まで西側の方の丘陵だと勘違いしたりして矢鱈に時間を費やすこことなってしまいました。
しかし、よくよく冷静に県道186号線側から眺めると丘陵東麓に一関市による標柱の姿を認めることができます。
主郭へのアプローチ方法は、標柱の場所から腰郭風の畑沿いにすすみ途中から4メートル弱ほどの切岸をよじ登るか、北東麓に所在する民家の庭先でお声掛けして南へと向かう農道を登らせていただくしか方法が無いようでした。
凸西館(岩手県一関市花泉町) 午前11時40分から13時40分
別名を蝦島館とも。
標高59メートル、比高差は最大で約50メートルほどありますが、標柱が設置されている東側の峠部分からは20メートルほどの比高差があるのみです。
一関市では画像のような文化財標柱が設置されている個所が少なくなく初めて訪れたものには大変ありがたい存在なのでありました。
城館跡は民家北側の裏山となっていましたが、残念ながら山道は途中で行き止まりとなっていました。
複数の郭から構成されるとされていますが、笹薮のなかに切岸と思われるような地形を僅かに認めることができるものの、全体として視界が悪く全容を把握することは難しいように思われました。
また、北側方向からこの丘陵を眺めてみますと眼前にはひな壇状に区画された宅地の見事な法面ひろがり、ややもすると城館遺構との判別がつかなくなり始めるのでありました。
凸大塚館(岩手県一関市花泉町) 14時20分から15時10分
県道184号線の東、字杉則の北西部に所在する独立丘陵に所在します。
西側の水田面との比高差は低いところでは目測数メートルですが、北東部の高いところでは30メートル近くを測ります。
1980年代前半に行われた中世城館調査によれば、北東部の丘陵先端部あたりまで遺構が見られたことが記されていますが、現状では二の郭とされる北東部の半分近くまで耕作化が進行し耕作地の法面以外にその形跡を認めることができません。
また二つの郭の間に普請されていたと思われる堀切跡も同様に失われているように見受けられました。
同時に植林の施されている南西側主郭部分についても北西部に切岸状の地形と帯郭のようにも見えなくもない細長い削平地が存在する以外にこれといった地形上の特徴を見出すことができませんでした。
なお、城跡南東側の比高差は約2メートルほどの切岸で耕作地と画されているだけでした。
凸高倉館(岩手県一関市花泉町) 15時20分から15時30分
別名を西永井館とも。
県道190号線の西、標高133メートルの高倉山のさらに東側に所在する標高100メートル程度の標高を有する南北方向に長い丘陵辺りが該当地とされている模様。
車を止められるような場所もなければ登っていけそうな道も無さそうなので集落から見上げただけに留まりました。
1980年代前半に行われた中世城館調査によりますと、高倉山との間に堀切を有した3つの郭からなる連郭式の山城とされています。
高倉山への林道が通行可能ですと、そこから東へ約400メートルほど尾根筋を確かめつつ移動すれば到達するはずなのですが、地理不案内のためあっさりと断念いたしました。
凸麻生沢館(岩手県一関市花泉町) 15時30分から15時35分
1980年代前半に行われた中世城館調査によりますと、高倉館の西側300メートルほどの標高80メートルほどの丘陵に占地しで二か所の平場から構成されているとされていますが、高倉館と同様に登り道不詳などのため遠景のみ撮影しました。
凸下館城(岩手県一関市花泉町) 16時15分から17時00分
別名を下紫城、東城とも。
ここまで5か所もまわってこれといった収穫もなく、いささか消化不良気味でした。
このため花泉地区40か所余りの候補地から、近くて帰りのルート沿いで日没前に確実な遺構を拝めそうな個所を選び直したのがこちら。
金流川右岸に張り出した比高差約50メートルほどの丘陵先端部に所在し、東側は登攀不可能に近い断崖となっていました。
現在は南側に新しい市道が建設されているが、本来は南北に連なる低丘陵の北端に位置していました。
城館の規模は東西方向で約80メートル、南北方向で約150メートルとかなり小規模ではあるが、市道沿いの城跡の標柱が所在する小口と思しき南側には三重構造の空堀が確認でき、また複数の腰郭を伴う城郭遺構であることも見て取ることができます。
ただし北側の本郭方面への踏査は笹薮などのために足元と視界が阻まれ困難な状況となっていたことが惜しまれました。
なお1980年代前半に行われた中世城館調査においても、南側の稜線を東西方向に分断するような堀切は確認されてはいないようです。
管理人自身がこの地域における縄張の特徴を全く掴めていないという問題もありましたが、日没に加えて蓄積された疲労と藪に阻まれ市道により分断された南側尾根続きの方面の踏査ができなかったことも悔やまれました。
なお近くには駐車スペースはほとんどないことから、農繁期前でもあり北側の幅員の広い農道沿いの路肩に駐車させていただきました。
探訪前には地理的に笹薮などの様子が気がかりではありましたが、遺構観察に限り本日最良の探訪という結果に満足することとなりました。
以上、岩手県南地方まで片道450キロメートルを走破した割には殆ど無名に近い箇所ばかりとなってしまいました。
当初の予定ではもう少し名の知れた箇所を訪れるつもりが、土地勘の乏しいこともあり約20キロを歩いたりして徒に時間を浪費するような結果に。
このため初日に廻れたのは僅かにこの6か所(意向確認という意味では実質は4か所)に。
なんとももどかしい限りの探訪なのですが、こうした傾向は最終日まで延々と続くこととなることを管理人は全くと言っていいほど見通してはいませんでした。
と、記述していることからも分かるように、帰宅後の疲労などにより当ブログは10日以上も経過してから記述しております。
この冬は単独での探訪計画倒れが続くさなかにあって実にありがたい限りでありました。
凸古河城(茨城県古河市) 午前9時40分から10時40分
この日は生憎と御所方面は観光イベントのため混雑していたため、古河歴史博物館と古河城から探訪を開始しました。
城域の宅地化などにより分かりにくくはなっていましたが、資料などを参照しつつ丹念に確認しながら廻れば市内の各所に土塁などその痕跡を辿ることもできることが分かりました。
◎足利成氏の墓所ほか 11時00分から11時20分
墓所以外にも友好的なネコさんと遭遇し境内の桜も満開でした。
◎野木神社(栃木県野木町) 11時30分から11時50分
おりしも二輪草の群落が見ごろを迎えておりました。
画像は野木合戦の舞台ともいわれている野木神社の社殿。
なお、たまたま拝殿脇に佇んでいた際に震度2程度の地震に遭遇。
僅かに社殿のきしむ音が聞こえた以外には異常はありませんでした。
凸野木城(同上) 12時00分から12時25分
野木神社の北東直線で約200メートルの舌状台地に占地している城跡で、郭面は耕地化と一部宅地化により明確な遺構を確認することはできませんが、台地を形成する斜面の形状と自然の谷を生かした明瞭な堀跡を観察することができました。
凸逆川城(同上) 12時35分から12時50分
所在地は複数考えられている比定地のひとつでありますが地表観察からは城館遺構としての特徴を捉えることはできず、また別名を友沼城ともされていますその呼称の関連性や所在地そのものを含めて不明な部分が多いものと考えられます。
凸法音寺城(同上) 13時05分から13時25分
真言宗法音寺の境内北東側に隣接した城館遺構で、現在でも南西側を除いた方形状空堀跡の大半と土塁の一部を目にすることができました。
凸乙女の土塁(栃木県小山市) 13時30分から13時40分
国道4号線乙女交差点北西側、乙女幼稚園北東側に隣接した平地林内に土塁状の地形が残存しています。
土塁の長さは南西で約50メートル、南東で約80メートル、北東では幾分湾曲し約70メートル、北西で約60メートルほどの規模を形成しています。
小口などの形跡も見当たらず、一時的な陣城のようなものとも想定できますが、道路が区画整備された市街地の公道に沿接していることなどの立地条件の不自然さもあり、その経緯など詳細は不明のようです。
凸針谷屋敷(栃木県野木町上) 14時30分から14時50分
根渡神社へと続く参道の東側に所在する平地林の中に位置しています。
長大で直線的な印象のある規模の大きな堀跡遺構が確認できますが、当地の旧家との位置関係を含め普請された意図やその背景を窺い知ることが難しい遺構でした。
凸小堤城(茨城県古河市) 15時20分から15時50分
円満寺境内の北側と西側に水堀跡を伴う明確な土塁遺構が確認できます。
この個所を中心として形成される縄張が推定されますが、周辺の宅地化、耕地化などにより地表面からの観察ではその痕跡を確認することは難しいようです。
このようにして探訪するうちに早くも歩行距離は15000歩を超え始めて、いつものごとく己の足元には漠然とした疲労感と違和感が醸成されはじめました。
晴天化の3月の末日でもあり、太陽はまだまだ十分な高さにあってあと2か所ほどは廻れそうな時間帯でありましたが、先日高齢者の仲間入りを果たした管理人の足元は次第に覚束なくなって本日の探訪の幕引きと相成りました。
来月に予定している春の遠征計画を遂行するに当たり、だいたい一日につき20000歩の歩行を可能とするための対策を講じねば・・・と痛感する管理人でありました。
1年ぶりくらいとなるクラシックの演奏会にでかけました。
チェロとピアノという比較的地味な組み合わせでしたが、ピアノの方は「例の事件」で「有名」となった新垣隆さん。
会場が都内ならば出向くこともありませんでしたが、たまたま隣の町という事情もあって家内とともに出かけたような次第です。
もうすぐ築20年近くなる比較的小規模なホールなのですが、あらためて弦楽器のもつ響きの美しさを味わうことができました。
下記の情報はフェイスブックより引用しました。
いま最も話題の作曲家・新垣隆とチェロの名手・海野幹雄
クラシックの名曲はもちろんのこと、この日だけの「三芳
【日時】
2016年3月30日(水) 開場/18:00 開演/18:30
【会場】...
コピスみよし(三芳町文化会館) ホール
埼玉県入間郡三芳町大字藤久保1100番地1
【出演】
海野幹雄(チェロ)
新垣隆(ピアノ)
本日は史進さんのご案内で千葉県野田市と茨城県境町方面を探訪しました。
この日は一週間前の週間予報によると50パーセント以上の降水確率が。
やがてこの日が近づくに従い次第に降水確率は下降し、春霞がたなびくうららかな行楽日和と相成りました。
凸小作館(コサクヤカタ、千葉県野田市) 午前8時30分から9時15分
最大比高差2メートルほどの寺院境内西側に最大幅7メートルばかりの堀跡状地形が認められ、古墳のようにも見えなくもない細長い塚状地形も併存していますが、この西側部分を除いた方面には明確な地表状の特徴を認めることはできません。
「ふさの国文化財ナビゲーション」では中世城館跡として掲載されています。
凸古布内館(コフチヤカタ、千葉県野田市) 午前9時30分から9時45分
堀の内の字名が残る利根川右岸沿い堤防脇の十二天神社境内付近が中世の館跡と推定されているようです。
「ふさの国文化財ナビゲーション」では中世城館跡として掲載されています。
凸関宿城埋門(千葉県野田市) 午前10時00分から10時10分
関宿城の移築された城門が民家敷地に現存しておりました。
■実相寺(千葉県野田市) 10時15分から10時30分
鈴木貫太郎の墓所。
■宗英寺(千葉県野田市) 10時45分から10時55分
古河公方足利晴氏と徳川家康の血縁松平康元の墓所。
凸関宿城(千葉県野田市) 11時10分から12時05分
画像は本郭跡の一部とされている個所です。
凸長井戸城(茨城県境町) 12時30分から13時00分
土塁、空堀、郭など明確な遺構が残存している城跡。
凸田向城(茨城県境町) 13時05分から13時20分
台地西端の一部に空堀と土塁に囲まれた郭地形の一部が遺されています。
南側の部分は二重堀のような構造で、東側には土橋が付されていますがその先は耕地となり、郭部分の先端もかつての水田耕地整理により丘陵自体が削平されていることが窺えます。
すでに戦後間もないころの地形図には認められず、明治期に作成された迅速図にはその痕跡が窺われることから考えると、その間頃に地形が改変されたものと考えられます。
凸稲生城(茨城県境町) 13時30分から13時35分
台地南側部分は近年の土取りなどによりその地形は大きく損なわれているが、水田面との比高差は現在でも8メートルを超える高さを有しかつての要害の地であったことが窺えます。
また台地基部側に現在でも僅かにL型の土塁状地形が確認できます。
■長塁跡(茨城県境町) 14時00分から14時50分
茨城県遺跡地図などの情報によれば断片的ながら、おおむね南北方向に長さ約3キロメートルほどにわたり土塁状の人工地形が遺されていたことが記されています。
しかしその現況は宅地、耕地化などにより消滅しておりました。
それらしい跡のようなものも無くはないのですが完全消滅に近い状況でありました。
台地尾根筋を平行に築造されていたという経緯などを勘案いたしますと、おそらくは野牧の施設に類するものであったのではないかとも考えられます。
下記画像はあくまでも土塁地形そのものではなく、野馬土手跡付近に残存していた切通し状の地形です。
凸堀江候屋敷(茨城県境町) 15時05分から15時30分
現在でも民家敷地の北側方向に複数の盛り土状地形が認められ、それぞれ小祠などが建立されていましたが、それ以上のことが分かりませんでした。
すでに3月下旬に入り日没の時刻までには2時間以上もある季節になりましたが、帰路の渋滞など諸般の事情に鑑み本日はここまでとなりました。