本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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定年を過ぎました~
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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最初の車が、家のブルーバード1300の中古で1967年頃から1970年頃まで。
次も家の所有で新車のサニー1200DXが1973年ころまで。

就職して1973年~1975年から自分用になり、新車バイオレットでたぶん1400。
1976年から1979年が新車のブルーバード1800SSSESは高かった。
結婚を機に家計の事情などで、いきなり新車のアルトになり1981年頃まで。

長男が生まれ新車スバルサンバーの軽ワゴンにかわり1990年頃まで。
もしかするとこの間にもう一台あったかもしれず、そのあたりの記憶が曖昧に。
家族が増えて7人乗りの新車のライトエース2000になったのが1990年の夏頃。

その後、家族そろって出かけることが少なくなりムーブに切り替えたのは1996年。
2000年からは父母の通院などの事情もあり、通勤用のMT四駆パジェロミニと2台保有に。
2009年11月頃にミニから新古に近いジムニーランドベンチャー1300に。
2010年早々には家内が運転していた老朽化したムーブにかわり中古のムーブに。
退職後した2011年冬からの眩暈頻発のためランドベンチャー売却。
2013年2月眩暈回復などにより、再び中古のATパジェロミニを総額130万円ほどで購入。

そして今回2016年9月19日に同車を売却した。
標準的な中古買相場では40万円未満。
複数の買取見積りでは60万円台が最高。
最終的に売却価格は75万円だったので、結果的にはかなりの高値なのかと。

2008年式、走行距離が未だ26000km未満、目立つような凹みや傷なし、AT四駆のターボ付き、タイヤは1年前に交換、純正カーナビ+ETCなど、たしかにフル装備の特別仕様アクティブフィールドエディションの最上位車種ではあった。
車体重量が重く燃費は芳しくはないが、今年岩手と秋田を2度にわたり延べ10日間ほど走り回ったが、エンジンと足回りは快調そのものだった。
売却先では先週から車両本体価格949000円で只今絶賛販売中。

借金が苦手ゆえにすべて現金購入。
ここまでに車の購入に要した金額は記憶の範囲では約1000万円ほどなので、「安物買いの何とか」のようにも思えなくもないが「正しくあとの祭り」に。
これでいい加減に懲りるかというと、明日は別の車を受け取りに出かける。
とはいえあくまでも軽の新古車。
たぶん、いや確実にこれで最後の車に。

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ここのところ毎日雨模様なので洗濯物が乾かない。
仕方がないので部屋干しでエアコンをドライ設定している。
そうすると室温が下がりすぎてしまう。
このため部屋干しのあとで1時間ほどの浴室乾燥を試してみた。
これが意外と効率的で、洗濯物の量が少なければ有効であることが確認できた。

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古今東西の著名人について享年別にその臨終の様子を簡略にまとめた「人間臨終図巻」(山田風太郎/著)の個人伝記集を読んでみた。
 1986年から1987年にかけて上下巻で刊行されたものを後に3分冊に分けて再刊されたものなので、30年ほど以前のものということもあり些か古めかしさも感じられるが、当時の日本はバブル経済の真っただ中で、そういう時代背景で語られる人物評であることを考慮に入れると、記された当時の時代背景により人物、事蹟の評価というものは大きく変動するという別の面白さも見えてくる。
  因みに享年56歳で亡くなったのは双葉山、越路吹雪、柳沢吉保、57歳が北原白秋、以下58歳が黒田如水、種田山頭火、59歳が孫文、五味康祐、森鴎外、61歳が柴田錬三郎、川上宗薫、有馬頼義、64歳が大河内伝次郎、三好達治、山本周五郎の各氏。
 昔の方々は老成するのが早いとあらためて感じると共に、すでにその年齢を過ぎている己の存在に暫し茫然とする。

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酷暑と大雨が交替でやってきた今年の8月。
ふと気が付けば、今月もあと残すところ4日。
ここ数日は忘れていた眩暈発生。
そろそろ活動再開も検討中。
むろん天候と体調の兼ね合い次第。
かなり窮屈な体言止。

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東京オリンピックを迎えて路線の縮小が進んでいたとはいえ、依然として都電が都内の主要公共交通機関であった頃のこと。
その当時電車通学していたのだが、西ヶ原停留所での乗車の際に危うく人身事故に遭遇しそうになったことがあった。

乗車の際にステップに左足しか乗せていないにもかかわらず、乗降口が開いたまま都電が発車し結果的に2mほど引きずられてしまった。
直後に急停車し、幸い右手で縦の真鍮製の手摺をしっかりと掴んでいたこともあり、捻挫や擦過傷もなく、軌道の石畳に転倒するようなこともなく、むろん車輪に巻き込まれるようなこともなく、奇跡的にほぼ無傷。

事の重大性に気付いたのは、だいぶ後のことで、冷静に考えれば当方には何らの瑕疵もなかったが、記憶ではその際に安全確認を欠いたと思われる乗務員からの安否を問われるようなこともなかった。
仮にあのとき手摺を掴んでいなければ、あるいは左足をしっかりとステップに乗せていなかったら、その生死も含め今の自分はなかった可能性も少なくないのだろう。
しかし年齢が13歳であったこともあり、都交通局へクレームをつけるというような発想もなかったし、運営者側もまた「乗客に対するサービス」などという発想のない時代でもあった。

その当時は今よりも体も小さく身長は150cm足らずだったこともあり、運転手の位置からは死角になっていた可能性もあったのかも知れない。
記憶を整理すれば、たぶん1964年の夏前ころのことと思われ、路線は19番で王子から日本橋間を走行していた。

そんな苦い記憶を引きずっていたこともあったのか、高校での集団健康診断の際には、会場で高校生を相手に威圧的に怒鳴っていた保健所の職員に、その態度の是非を問い発言態度を改めてもらったことがあった。
これは大学受験の前年なので、たぶん1968年の秋頃のことだと記憶。

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