本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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今月4度目の探訪である。
今回もいくぶん走行距離が長いので、午前4時10分に自宅を出た。
途中2回のトイレ休憩などで現地到着は午前7時10分となった。
上武道路経由の一般道走行は、片道にして約130kmほどの道程であった。

1月半ば以来2か月半ぶりであったことから、果たして体が動くのか懸念された。
城跡巡り、とりわけ山城シーズンの終わり頃になってから漸くエンジンが始動できた。
という次第で今回は同じ群馬県内ではあるが、安中市の名山城でどうにか動くことができたようなので、今少し体調の様子見も兼ねて幾分か標高を上げ中之条町方面へと転戦して見ることとした。


桑田城(群馬県中之条町)
午前7時30分から9時50分
標高538m、比高差約120m

少なくとも比高差100m以上を自分の足を頼りに登る久しぶりの山城である。
比高差にして100m以上の個所を単独で訪れたのは何年振りなのだろうか。
元々血中酸素濃度が低い性質なので、たしかに息切れは直ぐに発生するのは止むを得ない。
たかだか100mも歩かないうちから酸素不足に陥り息が切れ始めていた。
一方で加齢による足元のふらつきも目立つが、大体こんなものであろうと思う。
枯葉の山道は滑りやすいが、ストックを携行しているのでさほど問題は無い。
逆に言えばストックが無いと下山時にはやや滑りやすいということになる。

県道234号線から分岐する市道入口に最近設置された新しい案内標識と解説版が所在している。
これだけ丁寧な情報があるので道を間違えるということだけは無さそうだ。
さて登り口となる麓には害獣除けの電気柵が張り巡らされているが、通行の際には必要個所を取り外す仕組みになっていた。
これは山頂の神社参道と送電線鉄塔等の保守という意味合いもあるのだろう。
この登り口にも電気柵の内側に説明版が設置されている。
城跡への山道は明確であり送電線支柱が郭跡に2か所設置されている部分を除けば、まあまあ山城としての遺構は遺されていると言っても良いのだろう。

ひととおり尾根筋上については安全が確保される範囲内で歩きまわってみた。
なお個人サイトを除いて公開されている縄張図では、宮坂氏によるものが比較的現状に近いという印象を抱いた。
北へとのびる尾根筋については厳然とした削平地を除くと、自然地形によると思われる部分も少なくない。
このため果たしてどの辺りまでが城館遺構であるのか判断が難しい。
また主郭を取り巻いている帯郭地形は、基本的にはあくまでも2段であることが分かった。
堀切遺構については土質の脆さなどから経年による崩落と埋没がすすんでいる。
また郭部分も総じて削平は甘く感じられる。
現在のところ山頂付近の遺構に関しては城跡に関する標柱や解説版の類は設置されてはいない。

 桑田城(左)と内山城(右)

なお、現在のところ西側の送電線支柱からその西に位置する主郭に進むにはノイバラ類が繁殖を始めておりその通行には注意を要する。
城跡へと続く山道は明確で余り荒れているという印象は無いが、北側へとのびる尾根筋の歩行には崩落中の個所も含まれる痩せ尾根であることから慎重な行動が求められると思われる。
また車は道路脇の空き地のような部分に停めさせていただいた。 
 
 
山田古城(群馬県中之条町)
午前10時10分から11時10分
標高509m、比高差約100m

麓の集落からの比高差はある程度はあるが、城跡の近くまで舗装済の林道が通っていることから実質的な比高差は殆どゼロに近いものがある。
また城跡入口には有難いことに解説版なども設置されているため、あつこちウロウロと目標物を捜索するようなことは無い。
平坦な山道を50mほど進めば、すでに主郭の切岸が目に入ってしまうという誠にお手軽な山城なのである。

しかしそうはいっても、城跡遺構の観察環境は桑田城に比べると決して良好ではない。
ノイバラが各所に散在しているだけではなく、アズマザサなどの低木類も少なくなく城内での見通しは全体として良好とはいえないものかを感じた。
特に主郭から西側の郭方面についてはノイバラに幾度となく進路を阻まれてしまった。
このため、西側方面の踏査は全く不十分となってしまっている。

だが片道約3時間を要していることからも、主郭とその周辺部だけをさっと見学してサヨウナラという訳にもいかず、気力の続く限りある程度主郭東側と南東側方面も歩き回ってみた。
水の手とも考えられなくもない池跡(※この時は暫く降雨がなく乾燥状態であったが、たぶん季節によるのかも知れない)は矢張り水気を多量に含んでおり、ためしに片足を踏み入れたところ約30cmほど沈み込んんでしまった。
なおよくよく池の中心部付近を観察してみると僅かに水面があることも確認できた。
なお本来の水の手とされている池北側の谷筋は、いきなり数メートルほど落ち込んだV字谷を形成しておりその規模と深さに驚いた。
この地形は恐らくは池部分の築造などに由来している可能性があるものなのではないだろうかとも思った。

   城跡入口の説明版

一方、池の南側周辺の郭付近にも何か所かは明確な土塁地形が残存している。
しかし後世のものと推定される山道が城跡のなかを通過していることから、土塁と山道が混在しているように思え、外見上の区別がつきにくい部分もあるように思われた。
なお善福寺付近も居館跡のような城館であったとされているが、懐疑的な見解もあるらしく、遺構等も皆無に近いことから今回は敢えて立ち寄ってはいない。


稲荷城(群馬県東吾妻町)
11時30分から12時30分
標高約400m、比高差約30m

事前情報については余り調べてはいなかったのだが、遺構の残存状況でいえば今年に入ってからの探訪した中では最も良好であるように感じた。
周辺には民家と耕地が所在していることから、どうにか主郭付近だけが残存しているという状況を想定していたのだがさに非ずなのであった。
「日本城郭大系」に掲載されている要図とほぼ遜色のない状態で少なくとも6か所からなる郭がほぼそのままの姿で残存していたのである。
もっとも主郭部とそれ以外の郭群との間においてやや防御性の差異を感じてしまう部分があった。

  郭内より南東の虎口

ただし有名な岩櫃城のように東吾妻町の文化財指定は受けてはいない。
このため標柱、解説版、案内標識の類は一切設置されてはいない。
当地の草刈りなどは地元の方のご厚意などを中心にして行われているのかも知れない。
主郭土塁とこれをとりまく横堀は高さ6mから10mという切岸と相俟って壮観でさえあった。
あとから気づいたのだが、この地はあくまでも東吾妻町であり中之条町ではなかったのだが、余り調べないで赴くというのも意外性を感じ取ることができる。
これからも時々は所在地のチェック以外には下調べなしに探訪するという楽しみを残しておこうと思ったりもした。


城峯城(群馬県中之条町)
13時00分から13時15分

福祉関係と思われる農業共同作業所の東側に所在しているのだが、現在その存在が確認できる遺構は西側の土塁部分と主郭と思われる削平地と北側の帯郭だけであるように感じた。
全体として草木が多めであることもあって、地表部分の観察には支障を感じたというのが真相でもある。
なお駐車できそうなスペースが無いことから半ば路駐に近いような状態であったので、実際のところ正味にして10分内外ほどの時間しか滞在できていない。

    標柱と説明版


和利宮城(群馬県中之条町)
13時30分から13時40分

神社鳥居下の端に車を停めて徒歩にて計100段ほどの石段を登ったのだが、その途中でかなり上の方までそのまま車で行けるということに気づいた。
神社造立に伴う階段状の基壇は存在しているのだが、丘陵の南側を切土により削平地を確保しているだけである。

     神社の石段

悉皆調査や町誌などにおいても中世城館跡として把握されているのだが、地形としての要害性は余り感じられず、現在の神社境内地の様子からは往時の様相を偲ぶことは困難なのであった。


群馬県内の低山でも今年の温かさが影響して既に新緑が芽吹き始めていた。

加えて下草の方も成長が著しいように感じる。
こうなってくると関東北部近県でも、少なくとも標高500m以上でなければ地表の観察は難しくなってきているように感じた。
もはや山城シーズンの最終ではあるが、何とかしてあと1度くらいは出かけたいと思うのだが先のことは自分にも分からない。
なお今月これで4度目の群馬方面探訪なのであるが、平日の場合には早朝を含む時間帯と夕方を含む時間帯における所要時間が余り変わらないことに気が付いた。
ちなみに今回の復路の所要時間は出発は午後3時42分。
間に二度の休憩を含めて自宅到着が午後6時50分なので約3時間ということになる。
復路の方が信号待ちを含めて渋滞も少なくは無かった筈なのだが、その所要時間の差は僅かに8分なのであった。
走行距離が約10kmほど短いとはいうものの、この差の少なさに半ば当惑しているのであった。

拍手[5回]

今回は少々方向を変えて群馬県安中市内に向かうこととした。
ボチボチと新緑や下草の成長加減が気になるが、現地での混雑は避けたいことから、できることならばサクラ満開の時期は避けたいという思いであった。
ふと「さくら祭り」などの最中に訪れてしまった2016年4月の東北(岩手県南)遠征を思い出した。
あの折には1日目の前沢城では「ボンボリ」が張り巡らされて駐車場所探しに難渋したが、2日目の一関城では「サクラまつり」の会場開設が始まり、城内では遺構のあちこちに関係機材が設置され写真の撮影構図に苦慮した。

群馬県内は今までに国道254号線沿線は藤岡市、旧吉井町、富岡市などを中心にある程度は訪れてはいる。
しかし山一つ越えた国道18号線沿いは全くの手つかず状態なのであった。
上野国衆を中心とした中世城館の数は決して少なくない。
国道18号線自体は過去に数十回は通過しているが、個別の地域については土地勘がほとんどないということもあるようだ。

この日は到着時刻が不明であったことから、午前4時20分に自宅を出た。
ルートは国道254~国道17号(深谷バイパス)~国道18号である。
「道の駅おかべ」で小休止した時点で未だ所要時間は90分であった。
この後最初の目的地である後閑城の駐車場に到着したのは午前7時前であった。


後閑城(群馬県安中市)
午前7時05分から8時50分
比高差約50m(麓から)

駐車場は中腹に設置されているが、サクラ関係のイベント直後であったこともあり、そこまでの山道は片側一方通行の信号機が設置されていた。
いずれにしても比高差の少ないことは大変有難いものを感じる。
これが麓から徒歩で登るとなれば、この年齢になってくるとそれだけで体力が枯渇してしまい城域を全て巡るということは到底不可能となってしまうのである。
整理すると50台位は駐車可能であると思われたが、この時刻ということもあってか先着利用者は1台だけであった。
この車の利用者には城内にて遭遇。
三脚とデジイチという出で立ちであったので、その時刻と考え合わせると野鳥関係乃至はサクラ関係に興味のある方と思われた。
一般に城跡巡りでは余り三脚は利用せず、せいぜい一脚などの携行性の高いものになると考えられる。

西郭、主郭、二の郭、南廓、東郭、北郭に加えて2度目は無いものと思いのろし台?方面を確認した。
城址公園化に伴い改変されている部分も少なくは無いものと感じたが、五つの方向に分かれた尾根筋のすべてを活用したその規模の大きさとともに北部の三重堀などの構造から考えると仮に依田氏あたりから始まり、その後後閑氏を経て戦国末期に大規模改修を受けている可能性を感じた。
国衆規模の城ではない、恐らくは広域権力である武田氏、後北条氏などの影響力を想定せざるを得ないものがあるように思われた。

 主郭から眺めた西郭と妙義山


名山城(群馬県安中市)
午前9時25分から11時20分
比高差約40m(西側林道部分から)

後閑城からは道程でも約5kmと近い。
しかし九十九川を渡過する橋が少なく、ルートもカーブとアップダウンが少なくなくその移動には実質で25分近くを要した。
小日向方面からの近道に気づいたのは、漸く自宅へと戻ってからのことであった。

現在至近には東日本震災後に増加した太陽光発電の施設が建設されている。
このため直接的ではないにせよ、城跡への影響も少なからず感じられた。
特に城域には含まれてはいない北側の尾根筋方面は当該発電施設工事によりかなりの地形改変が為されているようでもあり、尾根筋自体が変わってしまっていた。
城域最北の墓地辺りから入ったが、発電施設のフェンスと野荊の群生やアズマザサの群れに阻まれ約20分ほど時間を浪費した。
また本来西側の谷筋から入ることのできたルートの間際まで当該施設が建設されたことにより、そのルートは更に分かりづらくなっているように思われた。

城跡自体は簡略に言えば楕円状の主郭を中心として南東の稜線部に複数の腰郭が付随するという構造である。
築城の経緯や城主については明らかではないとされている。
主郭虎口は南北にあるとされているが、南側のものは不明であった。
南西部に大手方面からの虎口ではないかと推定されている竪堀状の地形が認められる。
総体的に樹木が叢生気味で、見通しも良好ではなく城域の全体像を把握するのに難渋した。
このため比較的小規模な遺構ではあるのだが、無論明確なルートも存在せず、アップダウンの多さを含めた城内での移動にこの日の体力の大半を消費してしまった。
特に上から2段目に相当する腰郭の切岸の高さは5mから6mと大きく、木の枝などの助けを借りなければ上り下りができない。
南東部に伸びた低い丘陵部を大手とするなどの見解もあるようだが、概ね平坦ではあるが概ね自然地形に近いものを感じた。
出口は本来のルートである発電施設フェンスに沿って脱出した。
なお、人家が近いとはいえこの山内では自分以外に動物の存在を感じ取ったことから、時々咳払いなどを試み渓谷的なシグナルを発した。
比高差も無く決して山深いという訳ではないのだが、足などを挫くようなリスクも視野に入れて、できれば物好きな同行者の存在が求められるのかも知れない。

   北側の堀切遺構


菅沼城(群馬県安中市)
11時40分から12時10分
比高差なし

曹洞宗海雲寺の境内が城跡である。
「日本城郭大系」に記されている概念図を眺めるとついつい期待をしてしまうのだが、すでに刊行以来40年を経過している。
このため現況確認を含む調査は約半世紀以前となる。
従って、現状との乖離はいたし方のないところではある。

それでも、境内の東側に堀跡を含む土塁が現存し、これ以外に一部ではあるのだが南西部の土塁も現存している。

   東側の土塁と空堀

境内は園芸種の椿と思われる庭木が満開を迎えていた。
人見城へと向かう途上で磯部温泉を通過することとなったことから、記念に名物の「温泉まんじゅう」ほかを購入した。


人見城(群馬県安中市)
12時40分から13時30分
比高差約45m(北麓の柳瀬川方面から)

この日2番目に訪れた名山城で結構疲れていたことと、碓井川南岸の地理に疎いことが加わり、このあとのスケジュールについて、国道18号線沿いの簗瀬城方面に向かうかどうかを考えていた。
しかしそれではあまりに安易であると考え、取敢えずはこの人見城へと向かうこととした。
この辺りの地形は北は柳瀬川と南は高田川に挟まれてはいるが、安中市域では広大な平坦地が広がっている。
このため妙義山方面の見通しが極めて良好であった。
その麓からは熱せられた風が巻き起こり大きく砂塵が巻き上がっている光景も目に入った。

駐車場は大宮神社近くの市道沿いにあった。
整理して停めれば20台位は駐車可能であろうと思われた。
境内に城跡の解説版が設置されているので、これを拝読した。
神社への参詣の後そのまま境内から入れるのかと思ったら、途中で密生する竹林に阻まれた。
そうなると集落の南側からアプローチする以外にはないと考え神社東側の市道を100m弱ほど南下。
その後集落内の通路を西へと入り、家庭ごみ集積所の個所から緩やかな坂となっている堀跡を進み、一番西側の堀跡まで足を延ばした。
切岸の高さは最大で6mほどを有していたが、東西方向に少なくも5か所ほどからなる郭が直線的に並んでいるという構造であった。

「櫓台」とも云われている個所

常総地方の城跡の雰囲気を想起させる密生度の高い竹林であったが、大きな違いは生育しているのが真竹であったことであろう。
郭間相互における差異や求心性は余り感じられず、この地における地衆などの寄居のようなものであったのだろうか。


磯部城(群馬県安中市)
13時50分から14時40分
比高差約40m(南麓の市道部分から)

市道から細い道を入ると直ぐに駐車場があるのでこれを利用させていただいた。
古めかしいトイレもあるが、水洗式で綺麗に清掃されていたが、その一方でドアが閉まらないという問題があった。
この同じ場所に縄張図付の解説版が設置されている。

駐車場からはそのまま比高差にして約40mの登り道をすすんだ。
始めに三の郭、二の郭、物見台、主郭の順で見学した。
三の郭、二の郭のそれぞれの基部に横堀がまわるというのがこの城の特徴らしい。
二の丸東側の大土塁については一部地山を利用している可能性もあるように思えたのだがどうなのだろうか。
サクラの季節も終わっていることから見学者は自分ひとりであったが、いくぶん解説版や標柱などの経年変化が目立っていた。

 大土塁から俯瞰した二の丸

なお、現在のところ主郭部はクマ笹が密集しているためにほぼ地表部の観察ができないのには困った。
後閑城と同様の城址公園ではあるが、その管理事情の落差を感じた。


今回探訪用の事前資料は予め8か所ほどを用意していた。
この時点で5か所を巡ることができ、基本的には当初の目標を果たしていた。
今朝の朝食はレンジでチンしたスープカップのトン汁一杯のみである。
行動中は元々昼食は摂らない習慣なのでもとより多少の空腹感は否めない。
しかしそれよりも早起きしてきたことから正直眠いほうが優っていたという状況でもあった。
こうしたこともあり、時刻は午後3時前ではあったが、探訪の続きは次回以降に譲り安中図書館へ立ち寄り資料収集へと舵を切った。

無理をして日没直前までの行動せず、結果的にこれが正解のようであった。
というのも図書館を退出した午後4時過ぎ頃からは、次第に晴れ間から小雨がぱらつき始めて恰も「狐の嫁入り」の様相を呈してきたのである。

なお、この日の帰路も交通事情は至って順調であり、もはやお馴染みとなってきた感のある国道18号から国道17号(バイパス)経由の待ち程度の渋滞を除けばスムースに移動ができた。
自宅到着は休憩無しであったことなども重なり、運転時間は僅か2時間50分に過ぎなかった。
最悪休憩時間を含めて途中の高崎、熊谷、東松山などでの渋滞を想定し約4時間ほどを覚悟していたのでこれは実に有難かった。

下草の生育はそろそろ限界で、新緑の方もかなりの速度で進行している。
長野、福島方面ならばもう少しましかもしれないのだが、なにぶんにも日帰りの場合には少し遠い。
新潟や富山方面の遠征も視野に入れていたが、ほとんどこの先の天候が読めずにいるので先延ばしとなる公算が強いようだ。
こうしてそろそろ山城を含む城館探訪に相応しい季節が終わっていくのだろう。

さて3月31日からこの4月9日の間の10日間だけで、それまでの停滞を打破するように4日計20か所ほどの探訪に至った。
日数の割に数が少ないのは、最初の一、二回目はそもそも動けるかどうかの自信がなかったことによるものである。
どうにか動けることだけは確認できたものの、足回りの痛み対策が不十分であったりしているので、歩くことのできる距離は20km前後までらしい。
加えてそ1日につきそれ以上探訪すると、全く記憶が追いつかなくなることに気付いたこともある。

このうちある程度その名を知られたところでは、赤堀城、天幕城、不動山城、後閑城、磯部城などが含まれている。
また、「堀切の有無」などを基準として、どうにか山城の分類に含まれそうなのは、棚下の砦、猫山城、不動山城、後閑城、名山城、磯部城などである。
しかしその比高差はそれらの全てを合計しても僅かに400mほどに過ぎないのであった (^^ゞ

拍手[6回]

 なんと今月2日に続いて2日おきの城館探訪である。
ある程度気力と体力がありそうに感じられ、天候がまずまずであれば即座に出かけるという以外の選択肢は無い。
とはいえ目的地が渋川市(旧赤城村)なので、拙宅からは上武道路が延伸されているとはいえ片道約120kmであることから、一般道利用では通常約3時間半前後と予想される道程であった。
このため今回は朝方の渋滞混雑を避けるべく午前5時前に自宅を出発することとした。
今回はいちおう5か所を予定したが、うち平地の2か所は時間に余裕があれば立ち寄るというものであり、あくまでも3か所の山城が今回探訪の中心である


棚下の砦(群馬県渋川市、旧赤城村)
午前8時45分から9時45分

現地に到着したのは早朝の走行ということも幸いし途中2度の休憩を挟んだにもかかわらず午前8時には現地付近に到達していた。
しかし、昨年訪れた長井坂城の近くであるにも拘らず現地では、本来の目的地探しに40分ほどを費やすこととなった。
他の方のネット情報にもあるように農道や高速道路の側道やらが複雑に入り組んでおり、即座には到達できにくい所在地なのであった。
もっとも現地の地形や高速道路の位置などに鑑み、なかばヤマ勘を働かせて訪れた場所が結局のところ最も該当地に近接していたのだが、付近の道路が複雑に配置されているようでこのような仕儀となった。
無論カーナビのガイドは農道などの道路事情も正確ではないことから、余りあてにはできなかったこともあった。
これほど迷ったのは多分初めてのような気もする。

さて肝心の城跡は関越道のすぐ西側の東西に伸びる尾根筋に所在していた。
北側からアプローチしたが関越道東側の林道が谷筋を超えるべく大きく南西方向にカーブした個所が城跡への入口であった。
しかし長井坂城のような入口の案内板などは全く無い。
強いて言えば関越道西側に所在するやや小ぶりの送電線鉄塔が目印なのかも知れない。
本来の林道から西へと分岐したやや荒れ果てた感じのする舗装済の林道を約100mほど進むと林道は180度方向を変えて再び関越道側へと戻るが、林道からは外れてそのまま目の前の樹林帯を西へと前進する。
なお、以前はこの林道から真直ぐに西へと延びる踏み跡が存在したが、周辺の樹木伐採により見通しは良くなっているものの、現在当該踏み跡は伐採された樹木が林道道路上に広がりそのまま進むのは困難となっていた。
無論よくよく見れば2か所ほど新しい踏み跡が確保されているので何れかをそのまま西に進めば約50mばかりも歩くと東側の二の郭と馬出との間の堀跡に到達する。
見どころはこの堀跡と馬出、標柱の所在する主郭などがある。
なお、主郭西側下の小郭はそのまま利根川の崖線部先端となっており断崖の比高差は約100mを有する。
かつては棚下不動堂方面からの登攀ルートも存在していたらしいが、斜度、斜面状況、足場の悪さなどから見るかぎりでは全く降りてみようという気にはならなかった。

 主郭西下の先端部からの眺望

※比高差はアプローチが林道からの下りなので事実上ゼロであり、いくら堀跡や切岸の登りを累計しても20mには届かないというのが嬉しい ^^


猫の寄居(群馬県渋川市、旧赤城村)
10時50分から11時00分

県道255号線と上越線により、この寄居と推定されている個所は西側と東側に分断されている。
「赤城村誌」の記述によれば約30年以上前には東側台地上に堀跡が遺存していたとされているが、現在では天然の河川に伴う浸食崖が確認されるだけでその地表状には明確な遺構を認めることはできなかった。
なお、当地に建立されている念仏供養塔(女人講)の基壇組石に「寄居」の地名が刻まれている。
時間にある程度の余裕も感じたことから、上越線敷島駅前の和菓子店にて「田舎饅頭」ほかを購入した。
 
念仏供養塔に「寄居」文字あり


猫城(群馬県渋川市、旧赤城村)
11時25分から12時20分

別名を猫山城とも。当該名称は恐らく根古屋(根小屋、ねこや)などの音を有した集落が麓に所在し、それが近世以降「当て字」により「根古屋城」が「猫城あるいは猫山城」へと転じたものと解される。
この日は朝方はそれほど暑くは無かったが次第に気温が上がり始めた。
元来が登りと暑さに弱い体質であることもあり、多少の藪が想定された東側方面からアプローチした。
予想していたよりも遥かに藪は薄くひたすらに「藪をかき分けて進む」ようなことも無かったのは幸いであった。
最初の棚下砦もそうであったように、斜面には小さな左岸質の丸石が少なくない。
これに「ドングリ」の実が混じっていることも加わり、さほどの斜面でなくとも足場は滑りやすいように感じた。
車の方は他の訪問者がそうしていたように未舗装の林道入口の分岐付近にに停めた。
この林道はかつては猫山のピークを迂回して宮田方面へと降りるようなルートであったが、現在では車による通行はその幅員と路面の状況から見てまず不可能な印象である。
城跡標柱の所在が分かりにくいという情報もあったが、画像のように西峰の主郭南斜面に所在していた。
ただし斜面に設置されいることとに加えて、設置後約10年を経過していることもありややぐらつき傾きだしていた。
全体重(約86Kg)をかけると約2cmほどは沈みこんだので、やはり少し浮き出し始めていたようだ。ついでに周辺の土を足で踏み固めておいたのだが、あとどれくらいの期間持つのかどうかは分からない。

 西峯に所在する城跡の標柱

帰路十二社からのルートを調べようとしてみたが山頂部の倒木等が障害となって先に進めず断念した。
なお「日本城郭大系」掲載の概要図は山頂部の小さな盛り上がりを過大評価している傾向があり、東側では事実上2段の切岸で、主郭となる西側では北辺部の腰郭が記されていないなどある程度の相違があるように感じられた。

※比高差は林道分岐からは下って登るものの約30mで、これに西峰でのアップダウンや帰路の分を加えても累計にして60mには届かないので頗る体に良いようだ ^^


宮田の寄居(群馬県渋川市、旧赤城村)
12時40分から13時05分

「マッピングぐんま」掲載の文化財データベース(※旧「群馬県文化財データベース」)に図示されているポイントは本来の所在地から約100mほど南東に離れた農家を指しているが、これは「赤城村誌」に記されている内容(写真画像、利根川支流の河川との位置関係)を信ずる限りにおいては、その北西の利根川北岸の河岸段丘部を指すと見た方が自然であるように感じられた。
ただし、当該地に関する地表上の遺構は確認できず、台地形状であることは認められるもののその現状は耕作地と一部宅地が存在しているのみである。
また下記の画像のように当地にはすぐ近くには屋敷囲いの土塁を有する旧家も現存しているが、寄居との関連性は不明である。

 画像中央やや右の畑付近か


不動山城(群馬県渋川市、旧赤城村)
13時30分から14時35分

城跡南端部付近の道路脇には城跡の標柱と解説版が設置されている。
この場所から竹林内部に道が続いており、そのまま道なりに進めばいちおう主郭とその北東に接する郭辺りまでは見学できるが、それ以外の部分については真竹やアズマザサ等が著しく繁茂しており暗く見えにくく立ち入りは難しく感じた。
事前に得ていた縄張図などからは余り想像ができなかったのだが、主郭、二の郭北西部は棚下砦の西端部ほどではないにしても、かなりの急斜面であり断崖といっても良いものがあるように思われた。
特に主郭部の比高差5mほどの斜面は崖線部に近く登攀はともかくとして、下りの方はもしも滑る方向を誤ると比高差約100m以上を滑落して利根川の急流に飲み込まれることとなる可能性も皆無ではないように感じた。
以前設置された木竹制の安全柵やロープなどは既に劣化し、この時点では全く役立ってはいないが、予めトレッキング用のストックを携行していたので大きな問題は無かったように思う。
城跡巡りは「自己責任」であるとはいえ、近年の「城跡ブーム」に鑑みると、文化財標柱やその解説板が設置されている市の指定史跡でもあり、私有地であるという事情などを加味しても、ある程度の安全策を継続的に行うことも必要ではないかとも感じた次第である。

 主郭(画像上)と腰郭(画像手前)


三の郭への登攀中に出会ったカモシカ

※こちらも比高差は丘陵上からのアプローチであることから、殆ど無いに等しく城内でのアップダウンを加味しても全体にして20mほどであろうか。


時刻は車の駐車場所まで戻った時点で午後3時前であった。
当所の予定ではこの後渋川市の図書館へ赴き資料を収集するという選択肢も想定していたのだが、早朝5時前からの運転に加えて夜間の運転走行は結構疲れることは昨年の青森八戸方面遠征において嫌というほど体験しているのことから、この際大人しくそのまま帰宅することとした。
途中上武道路にて初心者マークの方が時速50km走行を遵守されていたことから、いくぶん渋滞する状況に立ち至ったものの、結果的には午後7時前に自宅へと帰着した。
往路約3時間、復路約4時間、およそ240kmの一般道走行であった。
流石にこの暖かさゆえ、そろそろ草木の成長が目覚ましくなってきた。
今回は前回、前々回の伊勢崎市内の平地から緯度、標高を少し上げてみたので、草木の成長は余り気になるような場面は感じられなかった。
次回さらにこのまま探訪を続けるとすれば、もう少し標高を上げる必要を感じたが登攀する比高差が大きくては体が持たないのでこの点が悩ましいのである。

拍手[8回]

資料の複写申請を行ったコピーを受領するため1日おいて再び群馬県伊勢崎市へ。
往復にして6時間以上を要することもあり、折角なので一昨日探訪を諦めた天幕城などにも向かうこととした。
そうはいうものの前日セットしたはずの肝心な目覚ましが機能せず、起床した時刻はすでに午前7時半を回っていた。
このため自宅発の時刻はある程度の支度も必要であることから早くとも午前8時半となった。
そうなると途中の交通渋滞などの事情により現地到着時刻が大きく遅れることになることから、そのままずるずると日延べしてしまうことも考えられた。
こうした事態を数日前頃から、午前6時発、午前8時半発などのパターンについて予め想定し起床時刻の遅延を理由に探訪中止とならないように考慮していたのである。
もっとも直接的な寝坊の原因は目覚ましスイッチの入れ忘れなので、相変わらず自分自身の性格がよく理解できていないことに気が付いた。


天幕城(群馬県伊勢崎市)
12時10分から13時05分

こちらも一応は市指定史跡であり、赤堀城や毒島城に比べるとどちらかといえば史跡整備の按排は良さそうな印象があるようなに思えた。
もっとも夏季の蓮園開設と関連しているものであるのかも知れない。

主郭を中心として土塁、帯郭、空堀などの遺構を確認することができる。
主郭の虎口は北西角付近にもそれらしいルートが確認されるが、現在土塁の無い東側にも存在していた可能性も否定できないような気がした。
なお、西側の帯郭周辺に自然石である可能性の高い悩ましい石積も何カ所か確認できる。
ある程度成形された石がまとまって放置されているように見受けられる個所もあるが、これは河川の護岸工事などの遺物なのかも知れない。

   南東方向から撮影



磯前田遺跡(群馬県伊勢崎市)
13時15分から13時30分

出典は「マッピングぐんま」の「城館」をキーワードに検索した結果からに過ぎない。
もともとが埋蔵文化財の保全等を意識して作成された情報をプロトタイプとするものと思われるが、近年は他の市地理情報含めた総合化したデータベースが作成されていたりすることが珍しくは無くなってきている。
10年ほど以前と比較すると正しく昔日の感がある。
この事例では群馬県全体をカバーするシステムであるが、元々の情報選定を含むデータ入力には当該市町村担当者の力量、知見、姿勢などに依拠するものであろう。
このため大まかに言えば、あくまでも市町村により格差が存在するものであることに留意する必要があろう。
地図システムとの関連については民間事業者である「パスコ」の会社名もよく見かける。
昭和の終わり頃に仕事上の取引等で縁のあった事業者でもあるので懐かしいような気もする。

とはいえ殆ど事前情報は無く皆目不明状態。
強いて挙げれば、一般に「前田」という地名がその土地を支配する一族の本拠地にまつわる事例が存在していることぐらいなのであった。
いちおう屋敷林の伐採直後でもあり、古い石祠が祀られている盛土地形も存在していた。

   石祠が祀られた盛土

また遺跡としての捉え方が複合遺跡という性格もあり、余りにも予想通り不明な部分が多すぎた。
そのなかで強いて言えば地形全体としては包蔵地の南限の段丘地形とその東側の段丘地形などが挙げられるのかも知れない。
こうしたこともありいずれにしても徒歩での探訪は、多少時間はかかるけれどもある程度は有効なようだ。


宮前屋敷(群馬県伊勢崎市)
13時55分から14時05分

当地に所在している旧家の周辺部を道路沿いに巡りながら拝見をさせていただいた。
強いて挙げれば、北東部(道路沿い)にごく小規模な土塁状地形(長さ約20m、高さ約1.3m程度)が認められた。
ただしその性格や時代背景については今のところ全く分からない。
風除けのための屋敷囲いであるとすれば東側の一部が遺されていることに違和感があり、あるいは土地の境界を示すためのものであるとすると道路沿いからやや引っ込んだ個所に位置しているという意味が理解できない。
直接車で移動していてはまず目にすることのできない状況でもある。

  屋敷東側付近の土塁地形


白田屋敷(群馬県伊勢崎市)
14時30分から14時40分

大きなビニールハウスのある旧家の辺りがこれに相当するものと思われた。
なお宅地北側には石祠が祀られた区画が存在しL字型をした土壇状の盛土が現存している。
ただしその時代背景は今のところ不明。


 付近の近観音堂(市指定重文)


板野屋敷(群馬県伊勢崎市)
14時14分から14時50分

手持ちの資料などから概ねの所在地は把握していた。
なお東側にはコンビニも所在している。
当該地には屋敷門と土蔵などが存在する地元の旧家が所在しており、こちらが「板野屋敷」に相当するものと思われたが、それ以外の地表の様子などについては周辺からは確認できない。

さてこの日は天幕城を含めて全て徒歩で探訪している。
むろん極力路駐を避けたいという信念のようなものもあるのだが、何と言っても見落としが少ないことが大きなメリットでもある。
このため今回も徒歩でなければ気づくことのなかった地面の傾斜や地表の凹凸を感じ取ることができている。
〆て約20kmの散歩であった。
 
 
この日の気温も一昨日と同様に春を通り越した摂氏25度前後という初夏の陽気であり、極度に暑さに弱い管理人としては一昨日の筋肉痛とも相俟って文字通り足取りの重い探訪であった。
この後の行動計画として何しろ気温の上昇が尋常ではないことから、近県では今シーズン最後の山城的な個所を探訪するべく計画を練っている。
しかし足回りの老化をひしひしと感じていることから、比高差と傾斜角度、道の有無に左右されることはいう間でも無さそうである。

何しろ最近は到底先々の加齢とこれに伴う健康状態が読めないことを認識し、行けるうちに行くことを鉄則にしているのである
なお、帰路は予想以上に順調に走行し全く同じルート戻っているのだが、帰宅時の混雑を見込んで図書館で少し時間つぶしをしたところ、都合2時間半と往路よりも寧ろ早い結果となった。

拍手[4回]

今年は1月下旬から頭痛などが続き、漸く小康状態となってきたところで今度は膝の具合がおかしくなった。それらが落ち着い始めたと思えば、風邪や別の偏頭痛気味の頭痛も発生。そして3月に入ればこれに花粉症も加わってしまい、結局のところ1月中旬以降は全く動くことができなかった。
このまま寝たきりになっても困るので、そろそろ意を決して出かけることとしたのだが、今度は気温が上がり過ぎて断念。そのような次第で何と約3か月ぶりの探訪となった。
しかし予定していたのが、本来は1月下旬に予定していた目的地なので下草の成長が懸念されることとなったのであった。


久長氏陣屋(群馬県伊勢崎市、旧東村)
午前8時30分から9時20分

県外にしてはやや遅い午前6時15分に自宅を出たこともあり、この季節ではすでに日の出後の時刻ではあったが、途中県道14号線の利根川を渡過する上武大橋拡張工事が完成していた。このため車の流れは極めてスムーズとなっており、行楽日和の土曜日であったにもかかわらず目的地に到着したのは予想よりも遥かに早い時間帯であった。
駐車場は神社西側の公園付属のものを利用できるらしく収容台数も40台位はある。
しかしこの日は土曜日の行楽日和であるにもかかわらず、「市民のもり公園」「華蔵寺公園」なとほかの名所が少なくなく、ややサクラの本数自体も少ないこともあるのか陣屋跡の大東神社および西隣の公園の利用者は全くの皆無であった。

なお当陣屋跡は伊勢崎市指定史跡でもある。
旗本久長氏の近世陣屋であるが、一説によれば中世城館跡としての起源の可能性も想定されるらしい。


   陣屋跡の西側から


田部井館(ためがいやかた、群馬県伊勢崎市、旧東村)
9時45分から10時20分

この日は目的地の行く先々で桜が満開であった。
旧東村の公共施設ゾーンの図書館利用者用駐車場に車を停めて、いくぶんまばらな花見客と満開の桜を横目にしつつ徒歩にて西の早川方面へと移動した。
川沿いの堤防付近には、これまた今を盛りと言わんばかりに菜の花(セイヨウアブラナ)が咲き誇っていた。
当所は難読地名でもあり、予備知識が無ければ普通は「たべい」と読むものと思われる。
「日本城郭大系」が編纂された半世紀ほど以前には未だある程度の地表上の痕跡を追い求めることができたようなのだが、外見的にも県道68号線で分断されていることも加わり現在では堀跡を含め全くその痕跡が感じられない。
 

画像左手の辺りが城館跡南東部

そうはいっても折角なので一応かつての内堀跡に沿って辿ってみることとしたが、やはりその地表部や道路の形状などからは城館跡の雰囲気を感じ取ることは困難を極めた。
ちなみに外郭部に相当する個所に位置するカラオケスナックの店名は「たてぼり」であった(^^ゞ


斉藤屋敷(群馬県伊勢崎市、旧東村)
11時00分から11時20分

当所は鯉沼と呼ばれている用水池の西側付近に所在している。
 おそらく主郭部であろうと想定されている宅地の周囲には、かつては堀跡などが存在していたらしいのだが、やや微高地であることと集落内の一部曲折した道路が確認される以外には中世城館跡に繋がるような形跡を見出すことはできなかった。
北関東自動車道のすぐ南側に位置していることもあり、その建設以前とは周辺の景観が大きく変貌していることが感じられた。
同地区内に所在している共同墓地の墓名を拝見してみたところ、城館跡との関連が窺われる斉藤姓とならび重田姓のお宅が非常に多いことが目立った。
共同墓地内の薬師地蔵同脇の駐車スペースをお借りした。


 懐かしのホーロー看板健在


赤堀城(群馬県伊勢崎市、旧赤堀町)
12時00分から13時00分
伊勢崎市指定史跡

主郭北辺西側の巨大な土塁と空堀跡、ならびに北辺東側から東辺の土塁とその間に所在している虎口が見どころである。ただし土塁上を見学できそうなのは北東部の一部に限られ、他は急傾斜や樹木の繁茂などにより困難である。
また主郭内自体も耕作地であることから中央部の農道などの一部以外には歩くことのできる部分は限定されている。
なお、「日本城郭大系」ではその北西側にも堀跡などの遺構が記されているが、現在ではほぼ消失している。

手元の資料からは赤堀氏一族については断片的な記述しかなく、通史的な理解が得られていない。このため引き続いて地元の赤堀図書館などを利用し参考・補填して行こうと思う。

   北辺土塁と空堀跡

当然のことではあるが、赤木山麓という地形条件なので河川はそのほとんどが南流している。
このため一見平地のように思われる地形でも、実際には北高南低となっていることに改めて認識した。


毒島城(群馬県伊勢崎市、旧赤堀町)
13時30分から14時00分
伊勢崎市指定史跡

周囲を低丘陵に囲まれた低地の中央部に取り残されたように所在している独立丘陵に所在している。
その後の地形改変が顕著であることから果たして単郭がどうかは不明であるが、いちおう丘陵中腹に刻まれたやや幅のある帯郭がこの郭を取り巻いている。
虎口を南西部に想定している見方もあるようだが、郭内自体が全面的に耕作地とされていることから、どうも城館跡という印象を強く感じることができなかった。

サクラの時期ではあったが、城跡となる丘陵では折からソメイヨシノが満開で期せずして「花見」の探訪となった。
しかしここでも訪れる人々は少なく、同時刻においでになった人数は数人に過ぎなかった。
もっともソメイヨシノそのものの本数もそこそこの大木ではあるものの合わせても20本ほどとやや少ないことと確実な駐車スペースが存在しないことも影響しているのかも知れない。
道交法の路駐には当たらない箇所は丘陵南東部の土地区画整理記念碑付近の空きスペース約1台分だけであり、丘陵麓ではほかに許容されそうなグレイゾーンを合わせても合計3台ほどである。

  北側方向からの遠景
 
このあと、日没までは約4時間もあり本来ならばそのまま近くの天幕城方面へと徒歩移動をする予定であったが、地元の図書館にも立寄る心積もりと、最早持病と化しつつある左足第五指の痛みがひどくなり始めたこともあり、結局旧赤堀町の図書館へと戻った。
足の痛みのせいもあり、約3kmほどの道程を長く感じてしまった。あらためて色々な意味で年齢の限界というものを感じている。
赤堀図書館では「赤堀町誌」「東村誌」「境町史」「伊勢崎市史」等を閲覧し、必要個所の複写申請を行った。
資料の確保読込並びに付箋処理などに約30分を要した。
この時点で既に午後3時半であり、セルフサービス方式ではないことから、当日の受領が困難と思われたが、まさにその通りとなったことは極めて致し方ないことでもある。


ふと気が付けば日の出が約午前6時、日没が午後6時頃という季節となっていた。
実に分かり易いことなのではあるが、平地ではそろそろ下草も伸び始めており緯度や経度を上げる必要性を感じ始めたが、体力と気力の面で問題が多く花粉症の災いしており、自分の意志と体ではあるのだがこの先の行動は全く読めないでいる。
ちなみに帰途は同じルートをほぼそのまま戻ることとしたが、見事なまでに週末行楽帰りの車列渋滞に嵌ることとなり、伊勢崎市から自宅までの所要時間は何と3時間20分を要した。
目立った渋滞個所は工事によるものを除くと、これも予想通り、熊谷市内、東松山市内、川越市内の以上3か所なのであった。

拍手[6回]