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ある程度気力と体力がありそうに感じられ、天候がまずまずであれば即座に出かけるという以外の選択肢は無い。
とはいえ目的地が渋川市(旧赤城村)なので、拙宅からは上武道路が延伸されているとはいえ片道約120kmであることから、一般道利用では通常約3時間半前後と予想される道程であった。
このため今回は朝方の渋滞混雑を避けるべく午前5時前に自宅を出発することとした。
今回はいちおう5か所を予定したが、うち平地の2か所は時間に余裕があれば立ち寄るというものであり、あくまでも3か所の山城が今回探訪の中心である。
凸棚下の砦(群馬県渋川市、旧赤城村)
午前8時45分から9時45分
現地に到着したのは早朝の走行ということも幸いし途中2度の休憩を挟んだにもかかわらず午前8時には現地付近に到達していた。
しかし、昨年訪れた長井坂城の近くであるにも拘らず現地では、本来の目的地探しに40分ほどを費やすこととなった。
他の方のネット情報にもあるように農道や高速道路の側道やらが複雑に入り組んでおり、即座には到達できにくい所在地なのであった。
もっとも現地の地形や高速道路の位置などに鑑み、なかばヤマ勘を働かせて訪れた場所が結局のところ最も該当地に近接していたのだが、付近の道路が複雑に配置されているようでこのような仕儀となった。
無論カーナビのガイドは農道などの道路事情も正確ではないことから、余りあてにはできなかったこともあった。
これほど迷ったのは多分初めてのような気もする。
さて肝心の城跡は関越道のすぐ西側の東西に伸びる尾根筋に所在していた。
北側からアプローチしたが関越道東側の林道が谷筋を超えるべく大きく南西方向にカーブした個所が城跡への入口であった。
しかし長井坂城のような入口の案内板などは全く無い。
強いて言えば関越道西側に所在するやや小ぶりの送電線鉄塔が目印なのかも知れない。
本来の林道から西へと分岐したやや荒れ果てた感じのする舗装済の林道を約100mほど進むと林道は180度方向を変えて再び関越道側へと戻るが、林道からは外れてそのまま目の前の樹林帯を西へと前進する。
なお、以前はこの林道から真直ぐに西へと延びる踏み跡が存在したが、周辺の樹木伐採により見通しは良くなっているものの、現在当該踏み跡は伐採された樹木が林道道路上に広がりそのまま進むのは困難となっていた。
無論よくよく見れば2か所ほど新しい踏み跡が確保されているので何れかをそのまま西に進めば約50mばかりも歩くと東側の二の郭と馬出との間の堀跡に到達する。
見どころはこの堀跡と馬出、標柱の所在する主郭などがある。
なお、主郭西側下の小郭はそのまま利根川の崖線部先端となっており断崖の比高差は約100mを有する。
かつては棚下不動堂方面からの登攀ルートも存在していたらしいが、斜度、斜面状況、足場の悪さなどから見るかぎりでは全く降りてみようという気にはならなかった。
主郭西下の先端部からの眺望
※比高差はアプローチが林道からの下りなので事実上ゼロであり、いくら堀跡や切岸の登りを累計しても20mには届かないというのが嬉しい ^^
凸猫の寄居(群馬県渋川市、旧赤城村)
10時50分から11時00分
県道255号線と上越線により、この寄居と推定されている個所は西側と東側に分断されている。
「赤城村誌」の記述によれば約30年以上前には東側台地上に堀跡が遺存していたとされているが、現在では天然の河川に伴う浸食崖が確認されるだけでその地表状には明確な遺構を認めることはできなかった。
なお、当地に建立されている念仏供養塔(女人講)の基壇組石に「寄居」の地名が刻まれている。
時間にある程度の余裕も感じたことから、上越線敷島駅前の和菓子店にて「田舎饅頭」ほかを購入した。
念仏供養塔に「寄居」文字あり
凸猫城(群馬県渋川市、旧赤城村)
11時25分から12時20分
別名を猫山城とも。当該名称は恐らく根古屋(根小屋、ねこや)などの音を有した集落が麓に所在し、それが近世以降「当て字」により「根古屋城」が「猫城あるいは猫山城」へと転じたものと解される。
この日は朝方はそれほど暑くは無かったが次第に気温が上がり始めた。
元来が登りと暑さに弱い体質であることもあり、多少の藪が想定された東側方面からアプローチした。
予想していたよりも遥かに藪は薄くひたすらに「藪をかき分けて進む」ようなことも無かったのは幸いであった。
最初の棚下砦もそうであったように、斜面には小さな左岸質の丸石が少なくない。
これに「ドングリ」の実が混じっていることも加わり、さほどの斜面でなくとも足場は滑りやすいように感じた。
車の方は他の訪問者がそうしていたように未舗装の林道入口の分岐付近にに停めた。
この林道はかつては猫山のピークを迂回して宮田方面へと降りるようなルートであったが、現在では車による通行はその幅員と路面の状況から見てまず不可能な印象である。
城跡標柱の所在が分かりにくいという情報もあったが、画像のように西峰の主郭南斜面に所在していた。
ただし斜面に設置されいることとに加えて、設置後約10年を経過していることもありややぐらつき傾きだしていた。
全体重(約86Kg)をかけると約2cmほどは沈みこんだので、やはり少し浮き出し始めていたようだ。ついでに周辺の土を足で踏み固めておいたのだが、あとどれくらいの期間持つのかどうかは分からない。
西峯に所在する城跡の標柱
帰路十二社からのルートを調べようとしてみたが山頂部の倒木等が障害となって先に進めず断念した。
なお「日本城郭大系」掲載の概要図は山頂部の小さな盛り上がりを過大評価している傾向があり、東側では事実上2段の切岸で、主郭となる西側では北辺部の腰郭が記されていないなどある程度の相違があるように感じられた。
※比高差は林道分岐からは下って登るものの約30mで、これに西峰でのアップダウンや帰路の分を加えても累計にして60mには届かないので頗る体に良いようだ ^^
凸宮田の寄居(群馬県渋川市、旧赤城村)
12時40分から13時05分
「マッピングぐんま」掲載の文化財データベース(※旧「群馬県文化財データベース」)に図示されているポイントは本来の所在地から約100mほど南東に離れた農家を指しているが、これは「赤城村誌」に記されている内容(写真画像、利根川支流の河川との位置関係)を信ずる限りにおいては、その北西の利根川北岸の河岸段丘部を指すと見た方が自然であるように感じられた。
ただし、当該地に関する地表上の遺構は確認できず、台地形状であることは認められるもののその現状は耕作地と一部宅地が存在しているのみである。
また下記の画像のように当地にはすぐ近くには屋敷囲いの土塁を有する旧家も現存しているが、寄居との関連性は不明である。
画像中央やや右の畑付近か
凸不動山城(群馬県渋川市、旧赤城村)
13時30分から14時35分
城跡南端部付近の道路脇には城跡の標柱と解説版が設置されている。
この場所から竹林内部に道が続いており、そのまま道なりに進めばいちおう主郭とその北東に接する郭辺りまでは見学できるが、それ以外の部分については真竹やアズマザサ等が著しく繁茂しており暗く見えにくく立ち入りは難しく感じた。
事前に得ていた縄張図などからは余り想像ができなかったのだが、主郭、二の郭北西部は棚下砦の西端部ほどではないにしても、かなりの急斜面であり断崖といっても良いものがあるように思われた。
特に主郭部の比高差5mほどの斜面は崖線部に近く登攀はともかくとして、下りの方はもしも滑る方向を誤ると比高差約100m以上を滑落して利根川の急流に飲み込まれることとなる可能性も皆無ではないように感じた。
以前設置された木竹制の安全柵やロープなどは既に劣化し、この時点では全く役立ってはいないが、予めトレッキング用のストックを携行していたので大きな問題は無かったように思う。
城跡巡りは「自己責任」であるとはいえ、近年の「城跡ブーム」に鑑みると、文化財標柱やその解説板が設置されている市の指定史跡でもあり、私有地であるという事情などを加味しても、ある程度の安全策を継続的に行うことも必要ではないかとも感じた次第である。
主郭(画像上)と腰郭(画像手前)
三の郭への登攀中に出会ったカモシカ
※こちらも比高差は丘陵上からのアプローチであることから、殆ど無いに等しく城内でのアップダウンを加味しても全体にして20mほどであろうか。
時刻は車の駐車場所まで戻った時点で午後3時前であった。
当所の予定ではこの後渋川市の図書館へ赴き資料を収集するという選択肢も想定していたのだが、早朝5時前からの運転に加えて夜間の運転走行は結構疲れることは昨年の青森八戸方面遠征において嫌というほど体験しているのことから、この際大人しくそのまま帰宅することとした。
途中上武道路にて初心者マークの方が時速50km走行を遵守されていたことから、いくぶん渋滞する状況に立ち至ったものの、結果的には午後7時前に自宅へと帰着した。
往路約3時間、復路約4時間、およそ240kmの一般道走行であった。
流石にこの暖かさゆえ、そろそろ草木の成長が目覚ましくなってきた。
今回は前回、前々回の伊勢崎市内の平地から緯度、標高を少し上げてみたので、草木の成長は余り気になるような場面は感じられなかった。
次回さらにこのまま探訪を続けるとすれば、もう少し標高を上げる必要を感じたが登攀する比高差が大きくては体が持たないのでこの点が悩ましいのである。
往復にして6時間以上を要することもあり、折角なので一昨日探訪を諦めた天幕城などにも向かうこととした。
そうはいうものの前日セットしたはずの肝心な目覚ましが機能せず、起床した時刻はすでに午前7時半を回っていた。
このため自宅発の時刻はある程度の支度も必要であることから早くとも午前8時半となった。
そうなると途中の交通渋滞などの事情により現地到着時刻が大きく遅れることになることから、そのままずるずると日延べしてしまうことも考えられた。
こうした事態を数日前頃から、午前6時発、午前8時半発などのパターンについて予め想定し起床時刻の遅延を理由に探訪中止とならないように考慮していたのである。
もっとも直接的な寝坊の原因は目覚ましスイッチの入れ忘れなので、相変わらず自分自身の性格がよく理解できていないことに気が付いた。
凸天幕城(群馬県伊勢崎市)
12時10分から13時05分
こちらも一応は市指定史跡であり、赤堀城や毒島城に比べるとどちらかといえば史跡整備の按排は良さそうな印象があるようなに思えた。
もっとも夏季の蓮園開設と関連しているものであるのかも知れない。
主郭を中心として土塁、帯郭、空堀などの遺構を確認することができる。
主郭の虎口は北西角付近にもそれらしいルートが確認されるが、現在土塁の無い東側にも存在していた可能性も否定できないような気がした。
なお、西側の帯郭周辺に自然石である可能性の高い悩ましい石積も何カ所か確認できる。
ある程度成形された石がまとまって放置されているように見受けられる個所もあるが、これは河川の護岸工事などの遺物なのかも知れない。
南東方向から撮影
凸磯前田遺跡(群馬県伊勢崎市)
13時15分から13時30分
出典は「マッピングぐんま」の「城館」をキーワードに検索した結果からに過ぎない。
もともとが埋蔵文化財の保全等を意識して作成された情報をプロトタイプとするものと思われるが、近年は他の市地理情報含めた総合化したデータベースが作成されていたりすることが珍しくは無くなってきている。
10年ほど以前と比較すると正しく昔日の感がある。
この事例では群馬県全体をカバーするシステムであるが、元々の情報選定を含むデータ入力には当該市町村担当者の力量、知見、姿勢などに依拠するものであろう。
このため大まかに言えば、あくまでも市町村により格差が存在するものであることに留意する必要があろう。
地図システムとの関連については民間事業者である「パスコ」の会社名もよく見かける。
昭和の終わり頃に仕事上の取引等で縁のあった事業者でもあるので懐かしいような気もする。
とはいえ殆ど事前情報は無く皆目不明状態。
強いて挙げれば、一般に「前田」という地名がその土地を支配する一族の本拠地にまつわる事例が存在していることぐらいなのであった。
いちおう屋敷林の伐採直後でもあり、古い石祠が祀られている盛土地形も存在していた。
石祠が祀られた盛土
また遺跡としての捉え方が複合遺跡という性格もあり、余りにも予想通り不明な部分が多すぎた。
そのなかで強いて言えば地形全体としては包蔵地の南限の段丘地形とその東側の段丘地形などが挙げられるのかも知れない。
こうしたこともありいずれにしても徒歩での探訪は、多少時間はかかるけれどもある程度は有効なようだ。
凸宮前屋敷(群馬県伊勢崎市)
13時55分から14時05分
当地に所在している旧家の周辺部を道路沿いに巡りながら拝見をさせていただいた。
強いて挙げれば、北東部(道路沿い)にごく小規模な土塁状地形(長さ約20m、高さ約1.3m程度)が認められた。
ただしその性格や時代背景については今のところ全く分からない。
風除けのための屋敷囲いであるとすれば東側の一部が遺されていることに違和感があり、あるいは土地の境界を示すためのものであるとすると道路沿いからやや引っ込んだ個所に位置しているという意味が理解できない。
直接車で移動していてはまず目にすることのできない状況でもある。
屋敷東側付近の土塁地形
凸白田屋敷(群馬県伊勢崎市)
14時30分から14時40分
大きなビニールハウスのある旧家の辺りがこれに相当するものと思われた。
なお宅地北側には石祠が祀られた区画が存在しL字型をした土壇状の盛土が現存している。
ただしその時代背景は今のところ不明。
付近の近観音堂(市指定重文)
凸板野屋敷(群馬県伊勢崎市)
14時14分から14時50分
手持ちの資料などから概ねの所在地は把握していた。
なお東側にはコンビニも所在している。
当該地には屋敷門と土蔵などが存在する地元の旧家が所在しており、こちらが「板野屋敷」に相当するものと思われたが、それ以外の地表の様子などについては周辺からは確認できない。
さてこの日は天幕城を含めて全て徒歩で探訪している。
むろん極力路駐を避けたいという信念のようなものもあるのだが、何と言っても見落としが少ないことが大きなメリットでもある。
このため今回も徒歩でなければ気づくことのなかった地面の傾斜や地表の凹凸を感じ取ることができている。
〆て約20kmの散歩であった。
この日の気温も一昨日と同様に春を通り越した摂氏25度前後という初夏の陽気であり、極度に暑さに弱い管理人としては一昨日の筋肉痛とも相俟って文字通り足取りの重い探訪であった。
この後の行動計画として何しろ気温の上昇が尋常ではないことから、近県では今シーズン最後の山城的な個所を探訪するべく計画を練っている。
しかし足回りの老化をひしひしと感じていることから、比高差と傾斜角度、道の有無に左右されることはいう間でも無さそうである。
何しろ最近は到底先々の加齢とこれに伴う健康状態が読めないことを認識し、行けるうちに行くことを鉄則にしているのである。
なお、帰路は予想以上に順調に走行し全く同じルート戻っているのだが、帰宅時の混雑を見込んで図書館で少し時間つぶしをしたところ、都合2時間半と往路よりも寧ろ早い結果となった。
今年は1月下旬から頭痛などが続き、漸く小康状態となってきたところで今度は膝の具合がおかしくなった。それらが落ち着い始めたと思えば、風邪や別の偏頭痛気味の頭痛も発生。そして3月に入ればこれに花粉症も加わってしまい、結局のところ1月中旬以降は全く動くことができなかった。
このまま寝たきりになっても困るので、そろそろ意を決して出かけることとしたのだが、今度は気温が上がり過ぎて断念。そのような次第で何と約3か月ぶりの探訪となった。
しかし予定していたのが、本来は1月下旬に予定していた目的地なので下草の成長が懸念されることとなったのであった。
凸久長氏陣屋(群馬県伊勢崎市、旧東村)
午前8時30分から9時20分
県外にしてはやや遅い午前6時15分に自宅を出たこともあり、この季節ではすでに日の出後の時刻ではあったが、途中県道14号線の利根川を渡過する上武大橋拡張工事が完成していた。このため車の流れは極めてスムーズとなっており、行楽日和の土曜日であったにもかかわらず目的地に到着したのは予想よりも遥かに早い時間帯であった。
駐車場は神社西側の公園付属のものを利用できるらしく収容台数も40台位はある。
しかしこの日は土曜日の行楽日和であるにもかかわらず、「市民のもり公園」「華蔵寺公園」なとほかの名所が少なくなく、ややサクラの本数自体も少ないこともあるのか陣屋跡の大東神社および西隣の公園の利用者は全くの皆無であった。
なお当陣屋跡は伊勢崎市指定史跡でもある。
旗本久長氏の近世陣屋であるが、一説によれば中世城館跡としての起源の可能性も想定されるらしい。
陣屋跡の西側から
凸田部井館(ためがいやかた、群馬県伊勢崎市、旧東村)
9時45分から10時20分
この日は目的地の行く先々で桜が満開であった。
旧東村の公共施設ゾーンの図書館利用者用駐車場に車を停めて、いくぶんまばらな花見客と満開の桜を横目にしつつ徒歩にて西の早川方面へと移動した。
川沿いの堤防付近には、これまた今を盛りと言わんばかりに菜の花(セイヨウアブラナ)が咲き誇っていた。
当所は難読地名でもあり、予備知識が無ければ普通は「たべい」と読むものと思われる。
「日本城郭大系」が編纂された半世紀ほど以前には未だある程度の地表上の痕跡を追い求めることができたようなのだが、外見的にも県道68号線で分断されていることも加わり現在では堀跡を含め全くその痕跡が感じられない。
画像左手の辺りが城館跡南東部
そうはいっても折角なので一応かつての内堀跡に沿って辿ってみることとしたが、やはりその地表部や道路の形状などからは城館跡の雰囲気を感じ取ることは困難を極めた。
ちなみに外郭部に相当する個所に位置するカラオケスナックの店名は「たてぼり」であった(^^ゞ
凸斉藤屋敷(群馬県伊勢崎市、旧東村)
11時00分から11時20分
当所は鯉沼と呼ばれている用水池の西側付近に所在している。
おそらく主郭部であろうと想定されている宅地の周囲には、かつては堀跡などが存在していたらしいのだが、やや微高地であることと集落内の一部曲折した道路が確認される以外には中世城館跡に繋がるような形跡を見出すことはできなかった。
北関東自動車道のすぐ南側に位置していることもあり、その建設以前とは周辺の景観が大きく変貌していることが感じられた。
同地区内に所在している共同墓地の墓名を拝見してみたところ、城館跡との関連が窺われる斉藤姓とならび重田姓のお宅が非常に多いことが目立った。
共同墓地内の薬師地蔵同脇の駐車スペースをお借りした。
懐かしのホーロー看板健在
凸赤堀城(群馬県伊勢崎市、旧赤堀町)
12時00分から13時00分
伊勢崎市指定史跡
主郭北辺西側の巨大な土塁と空堀跡、ならびに北辺東側から東辺の土塁とその間に所在している虎口が見どころである。ただし土塁上を見学できそうなのは北東部の一部に限られ、他は急傾斜や樹木の繁茂などにより困難である。
また主郭内自体も耕作地であることから中央部の農道などの一部以外には歩くことのできる部分は限定されている。
なお、「日本城郭大系」ではその北西側にも堀跡などの遺構が記されているが、現在ではほぼ消失している。
手元の資料からは赤堀氏一族については断片的な記述しかなく、通史的な理解が得られていない。このため引き続いて地元の赤堀図書館などを利用し参考・補填して行こうと思う。
北辺土塁と空堀跡
当然のことではあるが、赤木山麓という地形条件なので河川はそのほとんどが南流している。
このため一見平地のように思われる地形でも、実際には北高南低となっていることに改めて認識した。
凸毒島城(群馬県伊勢崎市、旧赤堀町)
13時30分から14時00分
伊勢崎市指定史跡
周囲を低丘陵に囲まれた低地の中央部に取り残されたように所在している独立丘陵に所在している。
その後の地形改変が顕著であることから果たして単郭がどうかは不明であるが、いちおう丘陵中腹に刻まれたやや幅のある帯郭がこの郭を取り巻いている。
虎口を南西部に想定している見方もあるようだが、郭内自体が全面的に耕作地とされていることから、どうも城館跡という印象を強く感じることができなかった。
サクラの時期ではあったが、城跡となる丘陵では折からソメイヨシノが満開で期せずして「花見」の探訪となった。
しかしここでも訪れる人々は少なく、同時刻においでになった人数は数人に過ぎなかった。
もっともソメイヨシノそのものの本数もそこそこの大木ではあるものの合わせても20本ほどとやや少ないことと確実な駐車スペースが存在しないことも影響しているのかも知れない。
道交法の路駐には当たらない箇所は丘陵南東部の土地区画整理記念碑付近の空きスペース約1台分だけであり、丘陵麓ではほかに許容されそうなグレイゾーンを合わせても合計3台ほどである。
北側方向からの遠景
このあと、日没までは約4時間もあり本来ならばそのまま近くの天幕城方面へと徒歩移動をする予定であったが、地元の図書館にも立寄る心積もりと、最早持病と化しつつある左足第五指の痛みがひどくなり始めたこともあり、結局旧赤堀町の図書館へと戻った。
足の痛みのせいもあり、約3kmほどの道程を長く感じてしまった。あらためて色々な意味で年齢の限界というものを感じている。
赤堀図書館では「赤堀町誌」「東村誌」「境町史」「伊勢崎市史」等を閲覧し、必要個所の複写申請を行った。
資料の確保読込並びに付箋処理などに約30分を要した。
この時点で既に午後3時半であり、セルフサービス方式ではないことから、当日の受領が困難と思われたが、まさにその通りとなったことは極めて致し方ないことでもある。
ふと気が付けば日の出が約午前6時、日没が午後6時頃という季節となっていた。
実に分かり易いことなのではあるが、平地ではそろそろ下草も伸び始めており緯度や経度を上げる必要性を感じ始めたが、体力と気力の面で問題が多く花粉症の災いしており、自分の意志と体ではあるのだがこの先の行動は全く読めないでいる。
ちなみに帰途は同じルートをほぼそのまま戻ることとしたが、見事なまでに週末行楽帰りの車列渋滞に嵌ることとなり、伊勢崎市から自宅までの所要時間は何と3時間20分を要した。
目立った渋滞個所は工事によるものを除くと、これも予想通り、熊谷市内、東松山市内、川越市内の以上3か所なのであった。
ユニークアクセスで6時間ほどの間に1000件を超えていた。
数年前に比べてこのところアクセスは低調安定傾向。
はじめは何かの間違いか、はてはカウンター故障とも。
少し調べてみて原因が判明。
今晩のニュース等でも伝えられていた古銭発掘が行われた「新井堀ノ内」(埼玉県蓮田市)に対するアクセスであった。
尤も拙サイトでの遺構名は「馬場堀ノ内」である。
しかし別名を「新井堀ノ内」とも呼称されている旨を付記していた。
間違いなくこれがアクセス集中の原因なのであった。
因みに今回の発掘に隔するニュース以外に「新井堀ノ内」に関する経緯背景を説明しているサイトは極めて少ないらしい。
すでに12年も前の2006年に訪れた個所ではあるが多少は役に立ったのかも知れない