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5日の土曜日から続けて芽依ちゃんのお守に出かけています。
40度近くの高熱を出していました。
原因はほぼ突発性発疹と風邪のようでした。
加えて昨日からはママが育児休業明けで出勤。
芽依ちゃんにとっては、ジイジとバアバが居るものの事実上は「はじめてのお留守番」でした。
保育園の方はお休みで、「飲まない」「食べない」「寝ない」「むずかる」といった塩梅。
今日も引き続いて「お守の任務」(自宅発午前6時)です。
予想通りジイジも風がうつったようで、昨晩から咳が出始めました。
加えて背中の左側に痛みが発生。
生後11か月ですが8.6Kgになりましたので重いです。
幸いなのは続けて通っているので「人見知り状態」が少しだけ良くなったことです。
というような次第で、いずれにしても当分城跡巡りの方はお休みです (^^ゞ
--前口上--
これはあくまでも直接標高737mの高野平城へのルートを辿ろうとして、結果的に何と標高974.5mを測る薬師岳に登ってしまったという笑い話です(^^ゞ
このブログはサイト更新などの作業のため便宜上5月1日に記していますが、実際に山行した日は4月27日です。
その4月27日の項には次のように記しています。
「凸高野平城(こうやひらじょう、群馬県東吾妻町、中之条町)
10時20分から11時40分
標高737m、比高差約120m(南麓の林道部分から)
宮坂氏は牧場側から登られたようなのだが、できるだけ比高差を圧縮すべく儀一さん、余湖さんなどのネット情報を参考にさせていただいた。
駐車場所はこれもネット情報を頼りに路傍に余裕のある林道の山側を選んだ。
と、書いていると如何にも順調に探訪ができたような表現である。
しかし実のところここに至るまでは朝の6時過ぎから約4時間ほどの格闘があったのだが、これについては余りにも「お間抜け」であったことから反省を含めて別記する。」と記していました。
--現在地確認は大切--
さて、この日自宅を出たのは午前3時前ということもあり、現地の中之条町と東吾妻町の行政境に所在している「高野平城」近くの吾妻神社付近に到着したのは午前6時前でした。
まさかこれほど早く来れるとは予想だにしなかったこともあり、先ずはこの神社と近くの善福寺を参拝しました。
この辺りに来るのは既に今月2回目であることから、ここまでは全く迷いようのない場所ではありました。
さて、参拝後当該城跡の南麓を目指してナビにはほぼ表示されない林道をそのまま車で登って行きました。
尤も、途中Y字路分岐手前の山田古城の所までは前回も行っていることもあり、その後の2か所ほどの行先表示のない林道の分岐なども地形を確認しながら問題なく通過し、ここまでは極めて順調に城跡の南麓方面へと回り込みました。
塩梅の良さそうな林道分岐
しかし、できるだけ楽に登れそうな地形を探すあまり、結果的には本来直登すべき個所を直線距離にして南方向に約600mばかり行き過ぎていたようです。
言うなれば極々初歩的な誤りなのであります (^^ゞ
本来であればこの時点で現在位置の詳細な確認をすべきところ、ついつい登り易そうな未舗装の林道が目に入り然もほぼ同じくらいの比高差である尾根筋があったことから大きな勘違いを犯してしまいました (^^ゞ
比高差50mほどの尾根筋
--反省の弁--
さて経験上「遭難」という用語を真剣に把握しなければならないのは、季節や天候などにもよりますが概ね標高1000m以上ではないかと思います。
しかし難しいのは標高500m以上1000m未満程度であっても山深い山岳です。
いわゆる山の懐が深いところで、春先に遭難騒ぎの発生した「三頭山」周辺なども同様です。
最寄りの人家まで徒歩で1時間以内で行けるかどうかというのも目安です。
近年では携帯の圏内であるかどうかもそうした目安になりました。
関東近県でも昭和40年代くらいまでは、里山は無論のこともう少し深い山でも林業や炭焼きなどの山仕事を含めた作業のために尾根筋や峠道は今よりも遥かに山道として整備されていたと記憶しています。
ところが山間部の集落が人口の流失に伴い過疎化、消滅が進み始めて、残られた方々も高齢化して、こうした山道の利用がどんどんと減少し道そのものが消失していったと考えられます。
また、クマやイノシシの出没の問題もありますが、これについては長くなりますのでまたの機会に譲ります。
これはたぶん鹿のような
--間違いに気づいたのは何時か--
では、こうした間違いに気づいたのはどの時点かということになります。
実は最初の標高750mのピークを過ぎた時点で太陽の当たる方向に違和感を感じていました。
ところがこのピークを城跡の西に位置する標高759mのピークと勘違いをしたことから迷走が始まったようです。
なお、完全に方向を誤ったことに気付いたのはこの直後で、東へと移動していなくてはならないにも拘らず、全く反対方向である西へ向かっているという事実に気付いた時点でした。
なお、この時の標高も約750m前後です。
登り始めてから既に40分以上を経過していますので、登るべき稜線を誤認したということは確実になりました。
なお、時刻はメモによりますと午前6時40分過ぎでした。
--何故薬師岳まで向かったのか--
流石に標高800mを超えた時点で間違いはもう120%の確信へと変わっていましたが、ここまで来たら折角なので高野平城方面の様子を俯瞰できないものかとも考えました。
もう、ここまでくれば普通の山登りとなりました (^^ゞ
標高約800m付近
また山深い地域でしか見ることのできない植物との出会いに対する期待もありました。
なおこの時は普段の装備とは異なり、高度計、非常食(約1日分)、昼食(おにぎり2個、パン1個)、飲料水約1.5Lを携行しておりました。
またレインコート、防熱シート、レジャーシート、携帯ラジオ他も携行し国土地理院のコピーした地図も持参していましたし、当然のことながら方位磁石も携行していましたので一応山岳モードではあります。
無論、天候に関してもラジオの天気予報が伝えているとおりで、まず雨が降るような可能性はゼロに近いこともありました。
なお、仮に薬師岳に登るとすれば西尾根伝いを除けば、この東ルートは唯一の登攀可能なルートであることもある程度は理解していたということも後押ししたようです。
さて、標高800mを超えた辺りからはコピーしてきた地形図どおり斜面の傾斜は大きくなり携行しているストックを使用しても這い上がるのに難儀する個所も次第に増えてきました。
標高900m付近
幸いにして物凄い岩場には直面しなかったことから、一度も滑るようなことは無く山頂部の南側を迂回して程なく山頂へと到達しました。
この時の時刻はメモによれば午前8時頃です。
薬師岳山頂の石祠
有難い山頂のプレート
--薬師岳山頂からの移動--
さて薬師岳山頂で、おやつ代わりにおにぎり1個を頬張って今後の進路について熟慮しました。
まずコピーした地形図が示しているように、明確な山道のある北西部の尾根筋ルートは明らかに吾嬬山(かづまやま、1182m)から続く稜線であり、その東端部の独立峰である薬師岳への往復ルートであるとことを確信しました。
つまりは自分が登ってきたルートはあくまでも登山道とはいえないような獣道であり、いわゆるハイキングコースではありませんでした。
所々に地下足袋と思われる山仕事に関連した方が通過したという印象のおぼろげな形跡はありましたが、普通よく見かけるようなゴミの類は全く見られませんでした。
薬師岳からは北東方向に派生している尾根筋を辿れば理屈の上では直線にして約1.5kmほどで城跡付近に到達するはずです。
しかしその尾根筋は薬師岳山頂からは比高差にして約170mほどは急斜面が連続しているように記されていました。
加えて西尾根のような踏み跡自体は全く見えませんので、果たしてその尾根筋でよいのかどうかも躊躇するような具合でありました。
この先辺りなのですけど・・
元々が岩山であることは山頂付近の露岩から理解していましたので、下山途中で露岩に遭遇すると「遭難騒ぎ」へと繋がりかねないことを認識し、北東尾根筋からの移動はきっぱりと断念しました。
かくして、ほぼ元登ってきたルートをそのまま戻るという無難な下山コースを採用するに至りました。
なお折角でしたので吾嬬山への西尾根を距離にして片道約400mほどを歩いてみました。
自分が登ってきたような獣道とは異なり快適な尾根筋のハイキングコースでした。
南東の榛名山方面かと
下山ルートは急斜面の続く標高800m付近までは、往路の際にマーキングした跡を確認しつつ正確に往路ルートをトレースしました。
見知らぬ山中では上りと下りでは景色が違って見えますので、必要に応じてマーキングをしたり、振り返って地形を確認するなどの慎重な行動がいざという時には役に立ちます。
なお緩斜面の途中からはノイバラ、ニガイチゴ、タラノキなどの有刺植物の多い個所を避けるべく、南側に迂回して元は開拓した耕作地であった野原へと出ました。ここであらためて現在位置を確認して、そこからはそこへと向かうために築かれたと思われる林道を下り、結果的にはほぼ自分の車を停めた個所と100mと違わない地点へと下山することができました ^^
この後本来の城跡付近へと移動して比高差約130mに再挑戦しましたが、西側尾根筋の防御が思いのほか簡素であるのは、その必要性が殆ど無いからであることが身を以て理解できました。
高野平城はあくまでも東側と南側を意識した縄張であり、急斜面を伴う北側と薬師岳から続く長大な難路のある西側の防備は手薄であっても何の問題もないように感じました。
しかし、130m登れば良いところを+330m+100mも登ったことから、少なくとも560mは登ってしまい、この時点で既に両足の脱力感は極限に達しておりました。
そのまま帰宅への道を辿るという選択肢も脳裏に浮かびました。
しかし通りすがりに立寄る程度ならば、もう少しは動けそうに思われたこともあり、あとはその時の成り行きにまかせることとしてみました。
--なぜ間違えたのか--
1.現在位置確認の不履行
2.林道分岐からの距離の未確認
3.東方からの遠望での目標把握の失敗
以上、これに加えて自分の年齢では明らかに不相応な行動という認識を含め、今後の糧とすべく反省を兼ねて纏めてみました (^^ゞ
この日は気合を入れ午前3時前に自宅を出た。
午前4時には既に上武道路を走行していた。
しかし気合とは裏腹に、その後の探訪の前半は波乱に満ちたものとなることは当人も予想せず。
東の空が漸くほんの少し闇が薄れ始めたのは午前4時半過ぎ頃。
その後も車は順調にスイスイと進んでゆく。
これだけ早い時間であると渋川市内まで来ても通勤などの車も少ない。
今回は上武道路から続く国道17号バイパスを中村交差点で左折。
県道35号線を利用して少し前にも訪れている山田地区へと向かった。
ここでも早朝ということもあり、通行している車は少ないのだが、国道に比べるとやや急カーブが多いかも知れない。
進行方向に遠望できると思われた「高野平城」、しかしその位置がよく分からない。
あとで、国土地理院の3Dを確認してみよう。
このため途中トイレ休憩を挟んだものの、現地には午前5時40分頃に到着した。
現地到着後、未だ太陽の位置が低いこともあり林道入り口近くの吾妻神社ほかを参詣して時間調整。
この時の参拝した祈りが通じたのか(功を奏した、あるいは利益の有無)どうかは今もって不明であるのだが・・・
凸高野平城(群馬県東吾妻町、中之条町)
10時20分から11時40分
標高737m、比高差約120m(南麓の林道部分から)
宮坂氏は牧場側から登られたようなのだが、できるだけ比高差を圧縮すべく儀一さん、余湖さんなどのネット情報を参考にさせていただいた。
駐車場所はこれもネット情報を頼りに路傍に余裕のある林道の山側を選んだ。
と、書いていると如何にも順調に探訪ができたような表現である。
しかし実のところここに至るまでは朝の6時過ぎから約4時間ほどの格闘があったのだが、これについては余りにも「お間抜け」であったことから反省を含めて別記する。
諸先輩方はそのまま城跡南部の斜面に向かって行かれているようだが、こちらは古稀前でもある些か草臥れた年代でもあるので、数十メートルほど西側に所在している鞍部を目指すこととした。
何と言っても先ほどまでその更に西側の山中を彷徨していたので、漸くにしてこの辺りの地形が頭と体により理解できてきたらしい。
ところで林道から鞍部までは比高差にして約50m前後、直線距離にして約120mである。
従って、その平均斜度は25度未満で仮に多少足場に難があったとしてもその上り下りは容易である。
また鞍部から東へと向かう上りでも、平均斜度は30度に満たないので岩場などが所在していたとしてもリスクはより軽減されるはずである。
一方城跡の南部を直登した場合には、比高差約120m、直線距離約150mである。
このため当該平均斜度は40度弱となり、しかも上に行くほどに斜度がきつくなると思われる。
このようなことから、その所要時間は別としても転倒や滑落のリスクを天秤にかければ前者の方が遥かに安全で体への負担もより軽減される・・・などと手持ちの資料などから現地で計算しているのだからかなりの暇人ではあるのだろう。
と、先ほどまでとは打って変わった万全に近い情報把握。
西側の鞍部へのアプローチは正解で、イノシシ駆除の罠が設置されている旨の表示がでていたので、茂みではストックで確認しつつ比較的視界の開けた緩斜面を上がり中腹の作業道へと出た。
折角なので途中この道を西へと歩き、当該鞍部がすぐ上に見えていることから多少クマザサなどが茂る斜面を九十九折に登攀し鞍部へと到着した。
尾根筋には以前にはある程度利用されていた山道が所在しているが、現在ではクマザサが茂り見通しは良くない。
特に西方の薬師岳から続く方面は全く人の通った形跡が確認できない。
薬師岳の山岳ルートは吾妻山からの往復ルートであるようだ。
こうした状況を見る限りではやはり、少なくとも薬師岳からこちらへと向かうルートは相当なリスクが潜んでいそうなことが理解できた。
なんといっても平均予想斜度が40度前後という急斜面は、仮に岩場の存在も考慮すれば論外なのであろう。
いずれにしても先ほどの中腹に設置されている作業道と同様にレアな山岳ルートとしても近年ではあまり利用されるというようなことは無くなってきているらしい。
尤も城跡へと向かう東側の道は、多少の斜度こそあるものの木の枝などにしがみつく必要もなくそこそこの見通しもありその登攀は快適でさえあった。
急斜面の中腹には尾根筋を通過しない巻き道の跡も見られるが、これは後世の山仕事などの便宜によるものと考えられる。
城跡へは二、三段ほどの小規模な腰郭を経て西端部の郭跡へと続いている。
実にあっけのないほどの西側尾根筋の防御ではある。
長年の風雪に耐えたことも影響しているのか、全体として郭切岸や主郭の土塁も低く堀切もさほどは深くない。
東側と南側を意識した縄張であり、急斜面を伴う北側と薬師岳から続く長大な難路のある西側の防備は薄い。
東端の郭から主郭と堀切
復路は車を停めた場所の問題もありテープでマーキングした同じルートをそのまま戻った。
この時点で既に両足の脱力感は極限に。
そのまま帰宅への道を辿るという選択肢も脳裏に浮かんだ。
しかし通りすがりに立寄る程度ならばもう少しは動けそうに思われたので、あとはその時の成り行きにまかせることとした。
〇大戸関所ほか(群馬県東吾妻町)
12時20分から12時40分
大戸資料館付近に駐車ができる場所を探したのだが、先客もあり結局駐車できる場所が見つからず集落外れの水田に面した崖下付近に停めさせていただいた。
あくまでも観光地としての観光用施設であることから、正にそれなりのものではあったのだが・・・
大戸関所(想像復元)
凸大戸平城(おおどひらじょう、群馬県東吾妻町)
13時00分から13時30分
標高約540m、比高差約35mほど
大戸関所からは徒歩にして10分足らずである。
北東の集落内を通り製材所の脇を抜けてお邪魔した。
標高は高いが形式的には所謂丘城に近いものがある。
以前には存在していたのかも知れないが土塁部分は確認できない。
4か所ほどの郭群、切岸、虎口、堀切などから構成されている。
宮坂氏の図面で示されている郭2と3の切岸部分が最も城跡らしい景観であった。
麓の一部は耕作地化され竹林も少なくは無いが、最南端の郭部分を除いて所有者の方のご理解もあるらしく、ひととおりは歩いて回れるようになっていたことは誠に有難かった。
また、手作りの城跡表示についても嬉しかった。
大戸平城二の丸と背後の大戸城
凸萩生城(はぎゅうじょう、群馬県東吾妻町)
14時00分から14時20分
標高約650m、比高差約20m(南麓の境野集落より、ただし国道406号線からは約40mを測る)
萩生地区にある境野集落北側の丘陵が城跡である。
南東の宝篋印塔の祀られた個所から細道を進んだ。
この宝篋印塔近くに所在している縦長土塁の役割については、全体の縄張の中でよく分からない存在であるように感じた。
丘陵頂部に所在していることから構成の害獣除けでは無さそうに思うのだか。
南側の耕作地を開墾するために切土するとしても、寧ろ全体を削平した方が作業としては簡単である。
このあとは主郭手前辺りまで行き内堀でもあるアズマザサの密生している横堀の存在を確認。
主郭部は耕作地でもあることから、結局は外側からのみ拝見することとなった。
萩生城の遠景(南から)
今年は標高650mの地点でも例年に比べて下草の成長が早いらしい。
矢張り山城探訪の季節もそろそろ閉幕を迎えているようだ。
この後は国道406号線沿いの戸田書店へと立ち寄り、版元である「みやま文庫」では品切れとなっていた「上野の戦国地侍」ほかを購入した。
むろん公立図書館で複写しても良いのだが、後々の整理作業などを考えると現物の書籍の方が遥かに使い勝手が良いことだけは間違いがない。
1月後半から3月まで頭痛に悩まされて殆ど未稼働であった。
3月末から伊勢崎方面を手始めに体調などを確認しつつ今月の4月は延べ6日の稼働となった。
昨年11月は2度の遠征もあったので延べ9日も稼働していたが、関東近県で延べ6日稼動は久しぶりであるような気がする。
この後からの連休中は混雑するので先ずは暫時休養態勢に。
連休明けからは梅雨が始まる前までは北へと向かうか、関東近県の平地(遺構の無さそうな場所)を彷徨するか・・・
「県別マップル」にマーキングしつつ、いろいろと思案するのも悪くは無いとも思う。