本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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月が変わってしまったが、今週は火曜日から金曜日まで連続4日間孫のお守りとなった。
かくして月末の金曜日辺りに単独で出かける目論見は見事に画餅と化した。
先月11月は今年5月の20日間には遠く及ばないものの合計にして7日間の守役。
今月は4日くらいは外出を考えているのだが、すべては孫の体調次第なのである。
今のところお腹の方は回復したようだが、いくぶん風邪気味のように感じられる。

さて、来週末はどうやら本格的な寒波が襲来するらしい。
このため10日間予報では関東北部では雪または霙模様と予想されている。
そろそろ転進の季節を迎えたようだ。

昨年は遠征疲れなどの影響もあり、12月中旬から3月末までは冬籠りをしてしまった。
11月は4度の出陣が叶ったことも影響したのか、幸いにして足回りの筋力の低下が緩やかになっているようだ。
この状態を維持すべく来春を迎えたいものなのだが、あまり先のことは分からない年代となっている自分の存在に気づき暫し愕然としている。

拍手[2回]

午前4時10分自宅発。
走行ルートはいつも通り上武道路を経由した。

現地到着時刻午前8時10分
この日は、軍曹殿とともに利根川東岸の城跡を巡った。


棚下の砦(群馬県渋川市)
午前8時20分から午前8時55分

春に訪れた時には、ものの見事に所在地を外した。
しかし今度はこれに続く再訪であるので、全く問題なく現地へと直行できた。
利根川の断崖越しに見える子持山の雄姿は相も変わらず見事の一言に尽きた。

 「棚下の砦西端から子持山」


長井坂城(群馬県渋川市、昭和村)
午前9時10分から9時55分

前回の1年前に訪れた折には、ついつい主郭東側の土塁上を歩くという楽しさに心を奪われて、主郭枡形が明確に撮影できずにいたことが心残りであった。
果たして今回はどうなのであったのだろうか。

  「長井坂城の主郭枡形」


阿阻城(群馬県昭和村)
午前10時25分から10時50分

この城跡は、長井坂城を始めとした棚下の砦などの城館群と比べて、余りにもあっけらかんという印象で整備されているので、ある意味で期待を裏切るようだ。
無論城跡には二重堀の一部と郭跡も残存しており、何よりも見晴らしがよく子持山。武尊山などの名峰の眺望が優れている。

 「阿阻城の外堀と子持山」

駐車場も整備され城跡標柱、石碑、解説版も完備している。
しかし、平日ということもあるのか、今回も他に訪れてくる人影を目にすることは無かった。


◎加藤丹後守腹切石(群馬県昭和村)
11時40分頃

今回も森下城への途中に所在していることから立ち寄った。
民家脇に所在しているが、今回は車庫スペースの車がなかったこともあり撮影しやすかったように思われた。


森下城(群馬県昭和村)
11時55分から12時00分

この夏の台風の影響だろうか、解説版が以前よりも更に大きく傾きはじめていた。


猫の寄居(群馬県渋川市)
12時50分頃

敷島駅前の荒井商店で「まんじゅう」を購入する関係でついでに立ち寄った。


猫城(群馬県渋川市)
13時10分から13時50分

再訪なので、主に要所のみを確認。
西郭群の一部に残存している土塁遺構を再確認した。
このため所要時間は移動時間を含めても僅か30分であった。
アプローチの鞍部での藪が増えたようにも感じた。
加えて台風の影響と思われる倒木が目立っているようにも思えた。

   「西郭の土塁」

時刻は未だ午後2時前ではあったが、そこそこしっかりと探訪できたこともあり、本日の打ち止めに。


1年前の同時期や半年前の春に比べて、総じて台風被害の倒木が目立っていたように思う。
また何れの個所も再訪地ではあるが、やはり相変わらず見落としが多いことを痛感した。
足元の方は二重、三重の備えを講じたこともあり、今回もおおむね支障はなかったように感じる。

長時間にわたりナビ&ご同行をいただいた軍曹殿に深謝申し上げます <(_ _)>

注記
再訪の翌日から私事が忙しく、このブログは12月1日に記述しております。

 

拍手[2回]

いつものように午前4時半自宅発。
午前8時半に羽田城の麓付近に到着。
ここまでタイムスケジュールは当初の予定通りに進行していた。
しかし、山間の地域でのこの時刻の光線の加減は未だ弱いため、デジカメ画像が荒れ気味となった。
この時期ではデジカメでの撮影は、早くとも午前9時以降の方が良さそうだ。



羽田城(群馬県東吾妻町)
午前8時30分から午前10時10分

やはり主郭の北西角部分の堀切と横堀が交差する辺りの景観は相変わらず見事である。

   主郭北側の堀切


主郭部北側の堀切の傾斜も急であり、ストック無ではやや厳しいものがある。
その反面南側の横堀では半年前に比して更に笹が伸び始めており、些か踏査がし辛くはなっていた。
むろん私有地であることを考えれば、立入等の制限が為されていないだけでも有難いというべきなのであろう。

前回は、東側の横堀は主郭部から俯瞰したのみに留まっていたが、今回は途中まで直接踏査したが、南東部の竹藪は更に見通しが効きにくくなっているように感じられた。
再訪なので、探訪のタイム・スケジュールは幾分前倒しに。

なお帰路は予定通りに地元の農園に立寄り林檎を購入し、吾妻川に架かる万年橋の南側から岩櫃山の絶景を鑑賞した。

      岩櫃山 
たぶん夕日の方が陰影が上手く表現できるのかも知れない・・・


岩下城(群馬県東吾妻町)
午前11時10分から12時30分

東郭群の三重堀切は健在だが、藪はいくぶん成長しているようにも思えた。
半年前は概ね尾根筋をそのまま進んでいくことが可能だったのだが、東側斜面への迂回行動を余儀なくされた。
東西の郭群を隔てている大堀切も健在なのだが、真横から撮影すると当該規模が大きすぎて画面に収まりきれない。

     大堀切

また、西郭への斜行ルートも相変わらず崩れやすい。
それでも半ば無名に近いことから、この半年間に100人は訪れてはいないらしくどうにか歩くことはできる程度の荒れ方であった。

西郭の腰郭ではニホンカモシカの幼体に出会った。
こちらが少し近づくと、少し移動する。
なかなか彼我の距離は縮まることなく、北側の谷筋へとその姿を消した。
なお帰路は、自分の車の屋根が見えたので、東郭群の腰郭から直接小走り気味に駆け下りてみた。
また同じようなことを考えた方もおいでらしく、僅かながら踏み跡も残されていた。
下方に林道が所在し、かつ深い谷筋はなく比高差も約50mほどであるので、イノシシ罠などに留意すれば、問題が無いようだ。
むろんあくまでも自己責任には違いないのだが。
今回は自分の足回りの養生は万全の対策を講じてきたつもりなので、多少の負荷については特に問題なさそうな感触を得たのであった。

なお、この城に関してはほぼ道は無いのだが、いちおう踏み跡はあるので国土地理院などの地形図と当該縄張図くらいは必携するべきであろう。
むろんクマ除け対策もそれなりに。

ここでもタイムスケジュールが繰り上がり、昼食時間に余裕を持たせることが可能となった。
八ツ場ダムの東方に所在する「道の駅吾妻峡」にて、暫時昼食。

 
稲荷城(群馬県東吾妻町)
13時50分から14時50分

あくまでも気のせいなのかもしれないが、4月頃よりも幾分主郭部付近の雑草類が目立ったように思われた。
他方、西側に隣接した方形の郭群の方は下草となる笹などが刈り取られており、とても歩きやすく感じられた。
地権者の皆様方に感謝。

ここも再訪なのだが、明らかに主郭部の普請のレベルと西側郭群との差異は歴然としていた。
築城主体の相違若しくは、普請された年代の相違であるのであろうか。

   主郭土塁上から虎口

この時期の日の傾きは予想以上のスピードのようで、午後3時を過ぎるとデジカメ撮影には不向きとなり、やはり早めの撤収が正解であった。

 
本日訪れたのは全て東吾妻町で、今年の4月に続く再訪であり、余り著名であるとは言い難いが、その何れもが一定の遺構が現存し、かつ城址標柱や解説版などの類は未設置である。

なおこの日は「みかづきぼり」さんにご同行願った。
一人の場合には、近年は余り再訪はしていないというか再訪する機会がない。
再訪して初めて分かる部分もあり、むろん見落としや勘違いなども正すことができる。
以上、いちおう山城3か所ではあるが、実際の累計比高差は150m未満なので、最近衰えの目立つ足回りでも未だ何とか対処できているようだ。

早朝からの遠征にもかかわらず、ナビ&長時間にわたりお付き合いいただいた「みかづきぼり」さんに深謝申し上げます。

拍手[3回]

今月11日の新潟遠征では、尾根道の些細なアップダウンの繰り返しで近年の体力低下を露呈してしまった。
両足の太腿が痙攣するというのは、全く初めての経験であり、ご同行いただいた皆様方には、ただただ足手まといとなり誠に申し訳ない失態でありました。
 
そうしたこともあり、現在における体力・気力の状態を検証すべく、今年の春先に行きそびれた山城へと向かうこととした。
とはいえ、それほど遠方に出向くのは厳しいので、ある程度はその様子が分かる地域となった。

この日は自宅を午前4時30分に出発。
いつも通り国道254線から407号線へと入り、熊谷からは今年だけでも数回は往復している上武道路経由で渋川へと向かい、17号線を北上して353号線長野街道を中之条町へとひた走った。
途中2度ほどトイレ休憩などを挟んだが、概ね午前8時前には最初の目的地の麓へと到達した。


横尾八幡城(群馬県中之条町)
午前8時00分から8時50分

◎城跡へのアプローチ
中之条町から国道145号線を北西に進んだ。
横尾交差点で左折して県道231号線を北東に約500mほど進んだところに城跡への登り口が所在している。
一般にはこの栃瀬集落南西の林道から向かう方も多いようである。
しかし、ここからは城跡までそのまま車で行けるかどうか、駐車スペースの存在を含めて微妙であった。

そこで少々遠回りなのではあるが、確実に駐車できそうなさらに400m先にある城跡北東の林道入り口へと向かってみることにした。
結果的にこの林道入口には軽ならば2台ほどは停められそうなスペースもある。
また、城跡の解説版も設置されていることもあるので寧ろ分かり易いようにも思えた。
こうして、まずは起点は確保することができた。

   城跡北東部の登り口

次にこの地点に戻ることも選択肢に入れつつ、試に直接城跡近くまで車でアプローチしてみた。
林道は100mほど走ると途中で二差路となるが、無論ここは城跡の方向である左へと進んでゆく。
林道は舗装済みでなのではあるのだが、落ち葉が降り積もっていることからタイヤが滑り易いので注意が必要だろう。
小さな谷筋を渡ると再び二差路の分岐に出る。
ここを左に進んで城跡の西側へと到着した。
起点からは僅か約400mほどの距離に過ぎないのであった。

事前情報通りとくに見学者用の駐車スペースは無いが、短時間ならば林道脇に寄せるなどをすれば駐車は可能な様子であった。
むろん林道自体の道幅が狭いこともあり、3ナンバーでは迷惑の度合いも大きく、あくまでも「軽ならば可であるのかも知れない」というところであるのだろう。
栃瀬集落南西の林道も反対側から登ってくるので同じ場所に出る。
道路の傾斜や路面状況を勘案すると、やはり北東側からアプローチする方が問題が少なそうに思われた。

   北東方からの遠景

◎見学と感想
やはり事前の情報通り、主郭付近はすでに落葉の季節ではあったのだがヤブが酷かった。
主郭部の東屋と標柱付近については、ある程度下草を刈り取っているという形跡は感じられたのだが、全般的に通しが良くないのが残念であった。
主郭東側はノイバラの類が群生中で、東側虎口を視認したところでそれ以上の前身は断念することとなった。
主郭部の土塁も一応現存しているが、土塁上とその周辺にもヤブが多く視界が遮られていた。
腰郭と思われる部分には地元の墓地が散在しており、見学にはあくまでも失礼の無いように心掛けねばならない。
有名な真田氏による築城説もあり、町指定史跡でもあるのだが、諸般の事情により史跡としての整備は十分では無いように感じた。
「草刈りボランティア」の募集でもあれば喜んで参加したいとさえ思った。
ここで早朝に購入しておいた朝食代わりのサンドウィッチを給水を摂りつつ腹におさめた。

さて、中世の沼田街道はこの城跡の北部を通っていたという説があるらしい。
もしそうであるとするならば、主郭部が土塁や腰郭などによりぐるりと囲繞されてはいるが、それほど防御性が高いという印象は感じられなかった。
北側の土塁を含む切岸の高さは最も高い部分でも3m強を測るのみであったが、東側になるに従い高さを減じていた。
さらに南側に至っては土塁の高さ1m前後を測るに過ぎなかった。

もちろん経年劣化や土地利用などにより、そうした遺構の規模が減じられていることを考慮に入れても、天正17年の戦いで尻高氏を含む真田勢が、数に優ると考えられる後北条氏の軍勢を援軍とともに撃退したとは俄かには信じがたいものを感じたというのが正直な感想である。
そうした歴史的経緯のある城跡であるとすると、その遺構の現状からは縄張の規模の小ささと防御の脆弱性については疑問の余地があるように思えたのであった。

なお枡形が所在するという部分は、識者により見解が分かれているようである。
地元の研究者である飯森氏が指していると推定される個所はアズマザサなどが繁殖し地表観察はほぼ困難であった。(「ぐんまの城30選」)
宮坂氏の指している枡形は土塁により曲折した通路を形成してはいるが、後世の地形改変の影響も少なくないのか、残存している土塁自体の規模が些か貧弱であるようにも思われて、その防御性にさえも疑問を感じてしまったのであった。

     主郭部

この城に関しては「在番衆」に関する古文書(八幡山番帳)が伝わっていおり、吾妻地衆による各組30名ほどの在番が2組交互で在城していたとされている。
危急存亡の臨戦態勢下においても、そう多人数が籠ることのできる規模ではなく、短期間であったとしても100名ほどが上限であるように感じた。
あくまでも沼田へ通じる街道監視のための役割に限定された城塞であったのかも知れない。

 北側から眺めた榛名山方面


並木城(群馬県高山村)
午前9時25分から10時00分

国道145号線に戻り東方の尻高元宿集落に向かった。
泉龍寺の高野槇への案内標柱が設置されている個所に「尻高城」に関する解説版も併設されていた。
並木城は山上の狭義の尻高城の里城というように解されているらしい。
もしも足回りに余り自信が無ければ、この解説版と並木城の標柱などを撮影して次の目的地へと移動するという選択肢も無くは無いとも思う。

現地の案内板などでは並木城と表記されているが、別名を戸室城ともいい、諸書によると白井長尾氏から分かれたといわれている尻高氏の本拠地であるとされている。

並木城の案内板は北の泉龍寺へと向かう緩やかな上り坂の道路右端に設置されている。
並木城跡の標柱と解説版は、そこから少し離れた直線で南東約100mの地点に所在しており、その所在の探索に少々手間取ってしまったのだが、少しうろうろと歩き回るか、おいでになる地元の方にお聞きすれば多分分かるとは思った。

   城跡標柱と解説版

因みにこの里城が所在している元宿の集落からは直接尻高城の主郭までは直線にして約1.2km、比高差にして約250m前後はあるらしいので、できるだけ麓近くまでアプローチができることを祈った。
なお当該地点からは尻高城の尾根筋は概ね視野に捉えることができていると思われた。

   尻高城方面の遠景


 城跡中心付近の土塁状の地形
 
 
           城跡を北側から

 
尻高城(群馬県高山村)
午前10時20分から午後12時30分
昼食午前11時40分から11時50分
(コンビニで購入したオニギリ1個と水分補給)

どうにか城跡山麓の南側まで車でアプローチできたことから、お蔭で主郭部までの比高差は約170m程度まで圧縮ができた。
しかし、尻高城自体はそのルートにある程度の急斜面が含まれている山城である。
先日の日曜日に発症した太腿の痙攣のような状態だけは何としても避けねばならない。

もし仮に上りで発症した場合には、即刻退散することも事前に選択肢として脳裏に刻んでいた。
この程度の山城でアウトならば、年齢的にももう今後は山城探訪とは縁遠くなるのであろうことも念頭に置いていた。
むろん事前の対策として、所要か所に複数のテーピング、両膝保護にもサポーター装着、歩きはじめの前に筋肉の違和感の有無をチェックした。
いわば背水の陣であった。

さてルートは途中2か所で急斜面が所在していたが、やや新しめのロープが設置されていたことからそれほど難は無く登ることができた。

   有難い岩場のロープ

一方心肺機能の方は時間をかけてゆっくりと登って行ったことから余り問題は無かった。
けれども多少の急斜面があるとはいえ、わずか比高差約170mを1時間20分も要していることから、比高差300mを約1時間前後で登っていた50年前の昔をいたく懐かしく感じていた。
若い元気な方ならばたぶん40分前後で登ることができるのかも知れない。

一方下山の方は滑らないように注意は必要だが、概ね40分ほどを要すだけにとどまった。
これもお若い元気な方ならば多分所要時間は30分少々なのだろう。
下りの基本はは両膝のバネを利かして降りるのだが、最早自分の膝にはバネは喪失しているらしく、携行しているストックを頼りに枯葉で滑落しないように用心深く歩く以外にはなかった。

10年以上前に秩父地方の山城に出かけた際には、お遍路にも利用されている穏やかな下山路を大股で走って降りてきたことをふと思い出した。
あの時分は登りは苦手だったが、未だ下りの方は割と早かったようだ。
今は、ゆっくりと、転ばぬように、滑らぬように、怪我をせず、何をおいてもとにかく無事に帰るということが最優先となってきている。

さて、遺構の方は明確な堀切が2か所のほか削平された郭が稜線部と中腹に数か所ばかり存在しているが、虎口、土塁の形跡は確認できなかった。

    主郭近くの石祠

かりに定説通りに築城された時期が15世紀の初め頃とすれば、この山城についてはその後の大掛かりな改修などは行われず、実際には戦時などにも余り活用されることなく、むしろ消極的に存続していたということも考えられるのではないのだろうかとも思った。

    中腹の堀切地形

それでも、稜線部は滞在には適さないと思われる一方で、南斜面の中腹部には小屋掛けできそうな削平地も存在している。
かりに戦いの場があったとすれば、それはそうした中腹部と里城をめぐる争奪であったような気さえしてきた。
尤も、急斜面のルートは確かに余人を近づけないものを感じるので、いざという時の籠城にはそれなりに効力を発揮するのかも知れないとも思うのだか。

 主郭と東の郭を隔てる堀切

尻高氏の領地は「尻高」「大塚」「平」「赤坂」「市城」の範囲であるともいわれている。
これらの集落の生産高は近世初期の寛文検地では約4500石を越えているのだが、有名な沼田城主真田氏の改易事件の後には約2300石ほどに減じられている。(「角川地名大辞典」より)
一般的に石高1000石に付30人程度の軍役が可能であるとすれば、単純計算では凡そ60人強程度の軍役負担となる。
白井長尾氏の一族とはいえ、あくまでもその庶流である尻高氏一族の勢力を糾合したとしても、その支配地の範囲から招集する限りでは、おそらくは100名前後の将兵を掻き集めるのが限度ではなかったのだろうか。

   西方の浅間山方面


役原城(群馬県高山村)
13時00分から13時20分

役原地区住民センターに車を停めさせていただき、時計回りに集落内の道路を歩いてみた。
城址標柱と解説版は、先ほどのセンターから北に約120mほどの道路沿い右側(東側)に所在していた。
群馬県内でもほぼ無名に近いような城館跡であるようだが、所在地に関して迷うことも無く、かつ不審者と思われる可能性も減るので、こうした配慮は大変ありがたいものである。

西側の道路を歩いている限りでは分かりにくいのだが、北側から東側へと回り込んでいくと台地地形の辺縁部を確認できる。

   北東側から撮影

「現地解説版」などによると尻高氏一族の城館と考えられているが、並木城との関係がよく分からないが、尻高重儀の隠居城である旨が記されていた。

  現地解説版と城跡の標柱

山城である尻高城からは東に直線で2kmほど離れており、その間には名久田川支流である赤狩川が流れ深い谷筋が形成され両地域を隔てているが、高地に所在してはいるものの半ば平城に近く、それほど防御性が高いという地形ではない。
隠居城ということもあり、居住性等に重点を置き、余り要害性に拘泥する必要が無かったのかも知れない。


沼田街道を中之条町から東へと移動したが、結果的に本日巡った4か所の城館は全て尻高氏に関連するものであった。
この時点で未だ時刻は午後2時前であったが、「道の駅中山盆地」に立寄り地場産の物産(林檎と田舎饅頭)を購入し、三国街道経由でショートカットして渋川市へと向かい再び上武道路経由で帰宅した。
帰路に渋川市の図書館に立寄るという選択肢も考えていたが、夕方の道路混雑などを勘案し明るい時間帯で早めの帰宅を選択した。
帰路はある程度の渋滞を予測していたが、途中の上武道路が首都高速以上に早く走行できることもあり、途中トイレ休憩を入れたにもかかわらず今回も4時間足らずで自宅に到着した。
一般道走行で往復約7時間半、走行距離は約300kmほどであった。

追記
このブログはサーバー動作不良のため11月17日に記述しています。

 

拍手[3回]

午前6時半に自宅発で三芳PAから関越道を北上。
今回の目的地は10月8日にも出かけた新潟県南魚沼市。
群馬県に入り次第に雲量が増加。
例年この時期にはよく見えているはずの赤城、榛名の連峰も薄雲がかかりボンヤリと霞んでいた。

昨日の午前中までは、いちおうは晴れの予報。
しかし午後からの予報では概ね曇りに変わっしまっていたのが気がかり。
上越国境に近づくにつれて、やはり少しずつ雲行きは怪しさを増していた。
待ち合わせポイントである関越トンネル手前の谷川岳PAからは、気流の乱れが手に取るように観察できるぼどであった。
高速道路情報でも、「降雨 路面注意」の掲示がされ始め、長いトンネルを抜けるとやはり小雨となっていた。

唯一の救いは、目的地はここから40kmほど先の平地部の低山であること。
石打・塩沢インターまで北上すると、雲に覆われた前方の景色は次第に明るさを帯び、小雨も止み始め路面も次第に乾きはじめていた。


雷土城(新潟県南魚沼市)
午前10時40分から12時20分(山頂での昼食時間含む)

西福寺の駐車場脇の林道を車でそのまま登る。
林道終点には舗装された駐車スペースが存在し、3台から4台位は駐車可能。
むろん、我々のグループ以外に訪問者は見かけず。
このまま今回の尾根筋歩きでは、ハイキングを含む他の訪問者には出会えず。


  湯谷城から雷土城方面

駐車場所からは先ず南東約700mほどの地点に所在している比高差約90mのピークを目指した。
城域の西限には堀切が所在。
尤も、南北方向に峠を経由した里道もあることから分かりにくい。


  たぶん西側の堀切地形

城山と名付けられた雷土城の山頂部までの比高差は更に60m以上。
これに加えて二重堀切と鎖場などがあるので、郭面の兵站部は余り広くは無いもののその防備は万全であるようにも思えた。
尾根筋の形状も総じて痩せ尾根状を呈しており、南北方向の自然地形の有利性が生かされていた。


鎖場の堀切の高さは概ね6mから8mなのだが、登ってみるとなかなか登りがいがある。

湯谷城へ向かう尾根筋も比高差30mほどの下りではあるが、鎖場などもあり中心部となる郭群の防備は厚い。

山頂では少し早目の昼食を摂った。
参加者全員が「南魚沼産コシヒカリ」の握り飯であった。

 
  雷土城(板木城)主郭

疲れていることに加えて、次第に天候が回復し景色も眺めることができるようになり、その美味さが倍加していたように感じた。


  主郭西側の桝形虎口



   雷土城と湯谷城


湯谷城(新潟県南魚沼市)
午後12時20分から14時30分(復路の駐車場までの所要時間含む)

このあたりでは天候もすっかり回復し、遠望は効かないものの雷土城の山頂部より標高はさらに14m高いこともあり見晴らしは良好。
雷土城の鎖場を含むアップダウンなどでそこそこ疲れていた。
この湯谷城山頂から派生する比高差50m以上の2か所の尾根筋については、この場所からただただ俯瞰するのみであった。
小休止の後は駐車場所までの尾根道をそのまま戻った。
ただ単に往路をそのまま戻るだけではあるが、再びアップダウンの繰り返しとなった。


湯谷城主郭の山頂から北尾根


「鎖場」の方は兎に角しがみ付けばどうにか上り下りできるのだが、復路の尾根筋でのアップダウンは堪えた。
とくに標高322m、比高差僅か40mほどに過ぎない斜面辺りで、まず右足の太腿が痙攣し始めていた。
痙攣する部分を右手で抑えつつ痙攣が収まるのを待った。
少し歩きはじめたものの、やはり違和感があり、軸足を左足へと切り替えた。
しかし今度は左足の太腿が痙攣を開始した。
こうなるとそう簡単には前へと進むことは難しくなった。
国土地理院の地図上での距離は約1kmに過ぎないのだが、少し痙攣が収まるまで待機した。
かくして、最初の駐車場まで辿り着くのに遅れること、先頭からは10分以上となっていたのであった。


    湯谷城方面


◎管領塚(新潟県南魚沼市)
午後15時05分から15時15分

国道291号線沿いに所在する関東管領上杉顕定戦没の地とされる史跡公園に立寄る。
多宝塔形式と思われる石塔などが祀られていた。


    管領塚史跡公園

道路反対側の店にて「大判焼」をテイクアウトした。
むろん即刻食した。
なお付属のトイレは閉鎖中であった。
また、この辺りで漸く太腿の痙攣が治まりはじめていた (^^ゞ


今月7日、8日と続いて孫の面倒を見ていたことも影響していたのか、このところ太腿付近の筋肉には違和感を感じてはいた。
けれども、脹脛についてはいざ知らず、歩行中にこれほどの筋肉痛(太腿の痙攣)に見舞われるとは全く思いもよらず。
予め携行していた「ゼノール」(医薬品第3類)の効果はほぼ見られず。

還暦を過ぎたころから心肺機能の低下は自覚していたが、太腿の筋肉痛は予想外であった。
年齢的にも余り無理は効かなくなってきたのかも知れない、とあらためて自省するにいたった。
今回の走行距離は往復にして約380kmの行程であった。

貴重な時間を浪費し、大変ご迷惑をお掛けしました。
同行いただいた御一同に衷心より深謝申し上げます <(_ _)>

拍手[4回]