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中世城館跡だけではなく、中世初期頃の用水路とされている「女堀」や古墳、神社、仏閣あるいは野仏の観賞と焦点が定まらないでいる。
尤も当初はこういうスタンスであったので、本人にとってはけっして違和感のあるものでは無い。
城館跡は合計15か所ほど。
うち明確な遺構のあるものは僅かに2か所であった。
足回りの様子が不透明であるとこから、あまり比高差のある個所には赴いていない。
そうはいっても、今のところはどうにか歩けているので、1日当たり2万歩前後であれば対応できている。
桜が咲き春は少しずつ深まりを見せ始めている。
草木の芽吹きが地表観察の障害となるのは来月20日頃からであろう。
現下の体力/気力に鑑みると、この間に出かけられそうな日数はあと3日くらいである。
今後は少しずつ北上するか、西北へと向かうのかただ今考慮中である。
目覚ましは時計4時半にセットしていたのだが、どういう訳か午前3時に覚醒してしまった。
生来から二度寝すると寝起きの芳しくない性質である。
やむを得ずのんびりと身支度を整えたりして出かける支度を始めたが、如何せん時間を持て余しすこととなってしまった。
このため当初の予定よりも早く自宅を4時半過ぎに出発した。
こういう場合には往々にして早い時間に活動エネルギーが欠乏するという傾向があるらしいのだが。
◎大国神社(おおくにじんじゃ、群馬県前橋市境下渕名)
午前6時10分から6時30分
いつも上武道路を通行するたびに気になっていた個所であり、神社境内に関係すると思われる地形であるが、明らかに人工的な地形の改変跡と認められる地形である。
今回は未だ時間も早いこともあり立ち寄ってみることとした。
国土地理院の情報では、境内地西側の標高は57.2mで境下渕名(さかい/しもふちな)の集落が全体として緩やかな低丘陵となっていることが分かる。
実際に現地を歩いてみた限りでは、やはり神社境内の東側部分については人工的な地形改変が行われている印象を強く感じる。
ただしそれが神社境内整備に伴うものかそれ以外の要因によるものなのかは判然としなかった。
町名は元々の渕名が上下に分かれ、近年の市町村合併により旧境町のエリアについては、先頭に「境」の文字が付されることとなったので、「さかいしも/ふちな」ではない。
当地は大国神社の縁起にもあるとおり、古くから人々が在住している地域でもある。
◎波志江の土塁(はしえのどるい、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前7時10分から7時20分
今回は以前よりもさらに集落内となることから、当初は「いせさき聖苑」北側の公衆トイレも設置されている「赤城見台公園」の駐車場をあてにしていた。
しかし、毎週火曜日は定休日で閉園のため次候補であった鍛冶原公民館の駐車場に車を置かせてもらい、徒歩にて西方の中屋敷方面を目指すこととした。
すると蟹沼西北の信号から約100mほどの地点に旧家の屋敷林が目に入った。
目を凝らして観察してみると、市道南側に沿って東西方向に土塁状の地形が確認できた。
延長は約60mで高さは60cmから80cmほどを測るであろうか。
これに並行するような形で道路沿いには幅4メートルほどの堀跡とも見られる細長い区画も存在しているように見られた。
むろん「群馬県の中世城館跡」には掲載されてはいない。
宅地の北側でもあり近世以降の屋敷の風除けという可能性もあるが果たしてどうなのであろう。
凸中屋敷(なかやしき、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前7時30分から7時50分
北関東自動車道とそのETCインターチェンジ建設などの影響を受けており、その面影はほぼ消滅しているといっても良いように思われた。
やむなく「中屋敷」の地名が記された地元の集会施設の表札を撮影した。
凸岡屋敷(おかやしき、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前8時00分から8時15分
上記同様に北関東自動車道の建設により旧景は著しく失われているが、それでも僅かではあるのだが東側堀跡の屈曲部に相当する路地跡は確認できた。
凸中野屋敷(なかのやしき、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前8時25分から午前8時50分
民家の宅地などに隣接していることから、その北西側を流れている神沢川沿いからの遠望となった。
しかし、よくよく考えてみると1週間前に訪れた「赤石城」の近くで、何とはなしにこの景色を眺めていたことに気がついたのである (^^ゞ
凸波志江館(はしえやかた、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前9時10分から午前10時00分
地元旧家の周囲に館跡に関連する堀跡、土塁などが存在していたようであるのだが、近年の宅地化などによりそうした形跡は消滅しかかっているらしい。
それでも金蔵寺西側の裏手には延長40メートルほどの堀跡および土塁状の地形などが残存しており、この地形の延長線上に金蔵寺境内地の西側が続き微妙な地形が残存しているように思われた。
また、北側に隣接する愛宕神社の境内にも築山のような盛り土が所在しているが委細不明である。
◎地蔵山古墳(じぞうやまこふん、群馬県伊勢崎市五目牛町/ごめうしちょう)
午前10時40分から11時15分
車を停めさせていただいた蟹沼方面からは否応なしに古墳状の地形が目に入ってしまったので、ここからは暫時古墳めぐりを始めることとなった。
附近にはこれ以外にも、少なくとも4か所ほどの古墳が所在しているのだが、次第にその全てを廻るという気力が無くなり始めるのを感じていた。
凸新土塚城(しんどつかかじょう、群馬県前橋市二之宮町)
12時00分から12時40分
この地は元々が荒砥川と神沢川に挟まれた地形であり、それに加えて八坂用水がその北側を流れているため、些かアプローチし辛い地理的環境である。
とくに華蔵寺公園方面から向かうと神沢川を渡河できる橋は薬師堂北方の一か所である。
しかもそのあとは八坂用水を2度ほど渡らねば到着できないのであった。
何と言っても城跡東側に残存する堀跡の地形が一番の見どころである。
この個所については何度見返しても見事な堀跡である。
その土木工事量も半端なものでは無く大がかりであったことが偲ばれた。
そうした経済力と動員力の源泉の存在が気にかかる。
また、ここでも集落の東西を貫通している道路の北側、文殊堂の東約50メートルほどの地点に荒砥史談会の設置された標柱があり感激した。
ただし、道路脇に植栽されている樹木の成長が著しく、いくぶんその存在が見づらくはなっていた。
午前中の天候は花曇りというのにふさわしい曇天であった。
しかし、次第に天候は回復し気温の急上昇とともに紫外線も強く感じ始めた。
暫時休憩を兼ねて未だ花見には早い華蔵寺公園近くの蕎麦屋にて昼食を摂ったこともあり、正午過ぎという時刻にもかかわらず眠くなってきた。
当初は西方の下増田館へと赴くという選択肢も考えてはいたのだが、この日の目標が4か所から5か所でもあったことから即座に撤収を決意した。
本日も今月3度目となる前橋方面であった。
しかしよく考えると主に神沢川の東岸なのでほぼ伊勢崎市内なのであった。
来月の前半にはほんの少々比高差のある個所をまわり、その後は再び遺構の乏しい平地へと向かうこととなるのかも知れない。
ここざっと1年近くの間に断続的に戦国時代末期頃に白井長尾氏の重臣として活動していた牧一族関係についていろいろと調べていた。
結局のところその系譜、本貫地を含めて良く分からないのである。
しかし近世の編纂である「加沢記」「石川忠総留書」などには登場するものの、現段階ではどうも同時代史料には見当たらないようだ。
関連する城跡としては、「猫山城」ないし「猫の寄居」、不動山城(多留城、田留城、樽城などとも)、大室城などがあるらしいのだが。
牧一族の最期についても、その誅殺の現場が大室城、多留城の何れであるのかも明確ではない。
歴史の中に埋もれていった一族のひとつにすぎないのだろうが、どうも気になって仕方がないのである。
そのようななかで、「大室城」の項目においてメモ代わりに「石川忠総留書」を元に「牧一族」についての事跡を纏めてみた。
http://kogasira-kazuhei.sakura.ne.jp/jyoukan-gunma/oumuro-jou-maebasisi-gunma/oumuro-jou-maebasisi-gunma-2018-04-24.html
しかも明らかに遺構の少ない地域である。
元々前橋方面は個人的には空白地帯であった。
昨年頃から資料だけは纏めてはいた。
この下調べは嵌りだすと止まらないので要注意でもある。
未訪問の資料件数は概ね1000か所前後はあるものと思われる。
いずれにせよ忘れないうちに出かけておかないとタダの資源ごみと化するのである。
◎女堀(群馬県前橋市)
午前7時20分から8時30分
今年の1月に訪れた平安時代末期とされる女堀遺構の西域を8か所のブロックに分けて踏査してみた。
画像は前橋市二之宮町の女堀沼付近の様子である。
この辺りでは流路掘削の関係上からその堀上土があたかも小山のような景観を呈して東西方向に続いている。
凸二宮赤城神社(群馬県前橋市二之宮町)
午前8時45分から9時50分
赤城神社の境内に遺されている土塁と堀の遺構であり、無量寿寺、宮下西館と合わせて「二之宮環濠遺構群」ともいわれている。
単に赤城神社ともいわれてはいるが、県内には同名の神社が数多く存在している。
また「にのみや」については「二之宮」(地名、町名)「二宮」(前橋市文化財の呼称)があり、いささか分かりにくいものを感じる。
このため前橋市文化財の呼称等に従うものとした。
なお人為的に堀と土塁に囲繞された一定規模の区画ではあるが、その地域勢力の求心性、防御性などの点でいわゆる城館跡とは異質な部分を感じなくもない。
如何にしてこのような規模の神域を確保し維持できたのか、そうした宗教的、政治的、経済的、軍事的な背景などについて興味は尽きないものがある。
現在の参道の設置されている南側を除き概ね三方に堀と土塁が残り、内郭部も北と西側に確認できる。
北東角付近の土塁 東方からの遠景
「環濠遺構」には、群馬県内では大田市、伊勢崎市、前橋市、高崎市、玉村町方面などにしばしば散見され、その形態から大別すると概ね「単独の屋敷周りの方形をした水堀」「これらの複数から成る集合体」に分けることができるようにも思われる。
それらの成り立ち、時代背景、地侍層などとの関わりなど、これらの研究には取り敢えず「前橋市史」などに記されたものがあるのでこれを手がかりにもう少し調べてみようと思う。
凸無量寿寺(群馬県前橋市二之宮町)
午前10時00分から10時25分
赤城神社の東南東約300mほどの地点に所在し、「群馬県の中世城館跡」などによれば、かつては同寺の境内地に方形の環濠跡が遺されていたとされている。
筑波山古墳
むろん境内地、墓苑の整備、周囲の宅地化などの影響により、その現状からは南東部に所在している筑波山古墳を除き、地表観察からそれらの遺構を確認することはできなかった。
凸宮下西館(群馬県前橋市二之宮町)
午前10時30分から10時50分
赤城神社から見て南東約200m付近に所在している環濠屋敷跡である。
西側に小流を伴う比高差5メートルに満たない小さな崖地を有する一画であり、現在は3軒ほどの民家と耕作地が所在している。
西側外郭部附近か
このあと、朝食ぬきであったことから暫時休憩を兼ね、国道50号線沿いの「そば花」にて昼食を摂った。
凸赤石城(群馬県前橋市飯土井町)
11時50分から12時10分
昼食後そのまま帰宅するというのも如何かと思い、1か所だけ出向いてみた。
赤城山の中腹を水源とした神沢川とその支流に東西を挟まれた細長い丘陵先端部に所在している。
周辺の大室城からは南へ4kmほどの地点でもある。
上武道路が貫通しているこのあたりの地域になると赤城山の南麓とはいうもののその傾斜は益々緩やかなものとなり、現在における周囲の水田面との比高差も目立たないほどに少なくなっている。
戦国期の大永年間頃に赤石左衛門尉が城主であったとされ、のちに伊勢崎へと転じたと伝わるらしいのだがその詳細は不明である。
城跡とされる一帯は工場、店舗、倉庫、住宅などの敷地の用に供されている。
「前橋市史」の記述によれば、その当時は比高差5メートルから7メートルを測ったという旨が記されているが、現在では3メートルから1メートルあるかないかというように削平を受けているようであり、往時の面影は微塵もないように感じた。
城跡の名残である崖線部
その名称の割に遺構は皆無に近いことは把握していたが、本当に何も見当たらないという形容に相応しいような気がした。
唯一城跡であったことを示すものは、有難いことに「荒砥史談会」の方々が設置された「城跡標柱」のみであった。
城跡の標柱
かくてこの日は僅かに城館類似遺構1か所と標柱のみが所在する城跡1か所となった。
復路の上武道路は何時もよりいくぶん渋滞気味のようであつた。
このため約2時間半ほどを要して、午後2時半過ぎ頃に自宅へと帰着した。
薬で抑えている花粉症と低気圧接近に伴う頭痛の関係もありこのあたりが限度であるようにも感じていた。
むろん少し頑張ればあと2か所くらいは廻れなくもない。
しかし今回はインターバルが4日間である。
今後のダメージへと繋がらないようにかなり早めに撤収した。
今月はあと1度くらい平地を廻わるか、ほんの少しだけ登ることとするのか暫く考えてみよう。
今年は暖かくなるのが異常に早く、もたもたしているうちに山城の季節が終わってしまいそうな気もする。
当然健康寿命の方も、ピコピコとカラータイマーが作動し始めているように感じる。
「東京新聞」2019年3月16日付
「あの人に迫る」(藤原良雄/藤原書店社長)より引用
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出版不況といわれ続けて早や10年以上が過ぎている。
自分自身も1990年代の出版ブームを仕事を介して体験している。
旧知の大阪屋、大洋社、栗田書店、鈴木書店、大手、中小の取次店が次々と倒産などにより消えていった。
町の本屋も最盛期の3割くらいまでに減少した。
近年は大手の書店であった芳林堂も消滅した。
仕事上の取引のあった地元の書店もここ10年ほどの間に3軒ほど閉店した。
出版と流通をめぐる複雑な問題があることは事実である。
今や大手出版社は「アマゾン」の動向に気を遣わずにはその経営が成り立たないようである。
「売れる本より読みたくなる本を。
一時のブームに左右されない長く読み継がれる本を大事にしたい。」
まさに至言である。
尤もこの出版社とは仕事絡みで少しだけ因縁があったのだが、それももう30年以上も前の話である。