本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 11
12 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新CM
(07/01)
(11/09)
無題(返信済)
(12/17)
(10/13)
(03/22)
最新記事
最新TB
プロフィール
HN:
武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
性別:
男性
職業:
定年を過ぎました~
趣味:
「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
バーコード
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
アクセス解析
フリーエリア
[38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48]
航空写真画像の編集加工の手順について

 画像加工作業の手順は
1.「電子国土」での該当画像検索
2.同サイトからの画像ダウンロード
3.フォトシッョプによる該当部分の切取り拡大編集
4.ウインドウズ付属ペイントによる編集加工(テキスト等の加筆)
5.フリーソフトによる画像の軽量化(通常約200KB前後)
 という作業工程を経ている。

作業をやり直ししやすくするためにその都度上書き保存していくと、JPG画像としての解像度が次第に低下していくことになることから保存は完成直後に一度だけ行うものとする。

このため一連の作業時間はおよそ1時間から2時間ほどを要することになるので、最終段階で誤りに気づいた時には心身にダメージをうけて暫く更新作業から遠ざかり、再開時に更に同じ間違いをしてしまうという悪循環に陥ることも少なくはない。

拍手[2回]

いつも通りに午前4時半過ぎには自宅を出発した。
決して股関節付近の按排は芳しくは無いと思うが、極端に悪化しているという訳でもない。
それでも今動かねば、来年、再来年という選択肢は無いようにも思えてくる。
そうこう思案しているうちに最初の目的地に到着した。
時刻は未だ午前7時前である。
僅かにトイレ休憩1回を含めても延べ2時間15分という運転時間であった。
1月頃であれば未だ夜明け前という時刻だが、流石に4月に入ったので日差しは眩しく明るくなってきたようだ。

 

川白田の砦(かわしろたのとりで/群馬県前橋市)
午前6時50分から7時30分

上武道路をきっちり制限速度の60kmで走行していたので、これほど早く到着するとは思わず。
「マッピングぐんま」や「群馬県の中世城館跡」などにより「砦跡」として把握されているのは、おおむね現在は前橋市の水道施設が所在している一帯を指しているらしい。

比高差3m以上の崖地

従って当該施設建設のため地山が大きく掘削されていることにより、「砦跡」としての面影は感じられないという状態であった。
それに対してあくまでも当該地東側の隣地になるのだが、どうやら「川白田の庚申塔」が所在する一帯付近にかつての面影を辿る以外には無いようであった。

「川白田の庚申塔」

また、丘陵の自然地形としての有利性を生かすとするならば、寧ろこの東側の崖線地形を利用しない手は無いようにも思えたりする。
山崎一氏の先行研究である「群馬県古城塁址の研究」とこれをベースにしている「群馬県の中世城館跡」とて、微細な個所では所在地情報等の誤謬も皆無ではないということもある。
また、「日本城郭大系」ではその規模について東西50m、南北80mの小塁としていることから、このほかには該当地西側の宅地区画部分についても北側屋敷林付近がやや気にはなる。

元々の丘陵と東側崖線部

一方で小坂子交差点以東の個所については市道の新設などにより、地山である丘陵地帯が高さにして少なくとも2mから3mほどの削平を受けているものと受け止められた。
実際、市道の北側部分についてはコンクリート擁壁の高さは約2mから3mほどを有しており、また市道の南側部分についても地山の削り残しと推定される地形が残存していた。

市道南側部分の地山の削り残し

特に東側丘陵部と小坂子交差点との元々の比高差は大きいらしく切通し状の削平工事無には過度の傾斜により冬季などの通行に支障が発生する恐れのあったことに起因するものなのかも知れない。
いずれにしてもこれらの土木工事による地形改変を考慮せねば、かつてのその旧情を想起することが叶わないという困難性を有していた。

なお、市道南側の少し奥まった個所に市道と並行する位置に石積を伴う低土塁状の地形が確認できるのだが、これは近世以降における屋敷境、風除け、或いは猪垣の設置などに関連するものなのであろうか。

イノシシ除け等か


小坂子要害城(こざかしようがいじょう/群馬県前橋市)
午前8時00分から8時40分

中心部とされている個所がほぼ民家宅地となっていることから主に周辺の地形を中心に踏査するこことし、城跡の北方に所在している小坂子公民館に車を停めさせていただき徒歩にて城跡西側の谷沿いから廻りこんでアプローチしてみた。
西側の谷との比高差は国土地理院の地形図には明確に表れてはいないが、最大で12m前後を測る部分もあり舌状の丘陵を巧みに利用している城跡であることが理解できた。

西側崖線部を北方から俯瞰    南端部から丘陵を見上げる

試に北部丘陵上から直接西側の谷筋に下りることができるかどうか確かめてみたが、10m近い断崖が形成されておりほぼ困難に近いことも分かった。
なお、城館跡としての遺構についてはほぼ消滅しているという印象であり、僅かに西側谷筋の崖線部分がその名残を伝えているように感じた。


嶺城(みねじょう/別名を田中城とも、群馬県前橋市)
午前9時10分から10時50分

この日の探訪メニューのなかで少し藪があるとはいえ最も遺構が残存している城跡である。
滞在したのは約90分ほどの所要時間であるが、東西それぞれの谷筋からの遠景の様子も確認しての時間であったので城内に留まっていたのは正味で1時間ほどであった。
構造上は堀切で各郭を区画しており山城と平城の区分で言えば山城に近いのだが、東麓の集落との比高差は数メートルの個所もあるので登りといっても息切れするような心配はない。

築城の時期は不明だが、厩橋城主であった北条高広の支配下でかつては長尾家の家臣筋であった田中大弐が城代を務めていたともいわれている。
現在確認されている郭は主郭部を含め5か所ほどで、かつては南端部にも郭が存在していたようである。

西麓の様子

東麓に所在する現地案内標識に従い歩みをすすめると、北から2番目の堀跡を経由して北から2番目の郭を大きく回り込み主郭北側の郭の西側を横堀に沿ってアップダウンを繰り返しながら南下し、主郭南西角付近で虎口への切岸を登るという構造となっている。
主郭(本丸)とされている部分には土塁が周回し、虎口も現存している。

本丸(主郭)


主郭虎口と空堀

但しこれは地元の自治会の方々により整備されたもののようであり、このルートが本来の登城ルートであるのかは不明である。
また東麓側は民家宅地が隣接しているという事情もあることから、各郭の連携関係が分かり辛くなっているようにも思われた。

そうしたなかでやや危惧されたのは「山火事」と思われる形跡であった。
落雷などの自然災害に起因するものであるのかは不明ではあるのだが。
異常乾燥と強風の季節でもあり火の取り扱いは要注意であることを痛感した。

南端部の郭先端付近
 
前橋市の史跡指定はなされていないようだが、地元旧芳賀町自治会により解説版や案内標柱が設置されておりたいへんに分かり易い。
あらためて地元の皆様方に深謝申し上げます。

東麓の入口



皆沢城(みなさわじょう/群馬県前橋市)
12時05分から12時45分

「嶺公園」から徒歩で結果的には約3Km以上も先に所在する目的地へと向かった。
霊園が併設されているこの公園には公衆用トイレがあり、また頗る西方の眺望が素晴らしい。
車での移動は便利ではあるのだが、現地での駐車スペース探しという問題もある。
また車移動では把握できない細かい地形のアップダウンなどの観察の方をを優先するという姿勢もある。

「嶺公園」からの眺望

とはいうものの実のところ本来はできるだけ公園内の北寄りに駐車する予定であった。
しかしこの辺りは全く初めてでもあり、東西約1km、南北約1.2kmという「嶺公園」自体の広さを実感として把握してはいなかったようだ。
また恥ずかしくも地図の縮尺を読み間違えていたこともある。
この間は主に1/1万スケールの地図ばかり参照していたこともあり、ついうっかりしてそのまま1/3万スケールの地図にあてはめて誤読していたのである (^^ゞ
つまりは距離500mと思ったルートが、実際には1.5kmなのであった。
このため往復約2kmと思い込んでいたのが実は約6kmの誤りであり、しかも駐車場所を南寄りに取ったので更に約1kmの加算となった。
これについてはあくまでも己の不明を恥じるほかは無いのであった。
 
北西付近から西側の崖線部

 
なおこの城館跡については概ね養豚施設が設置されていることもあり、堀などの城館跡に関する形跡はほぼ存在していないように思えた。


茶釜屋敷(ちゃがまやしき/群馬県前橋市)
14時00分から14時25分

復路の渋滞を避けるべく午後2時過ぎの撤収を予定していたのだが、ひとつ前の「皆沢城」への徒歩による往復移動のため、約2時間半ほどを要することとなった。
このため当地については割愛するという気持ちにもなったのだが、おそらく2度は来訪することは無さそうであることから立ち寄ることとなった。
明確な屋敷遺構などは確認できないのだが、屋敷跡西側のたぶん水田跡と思われる帯状の低地の存在が目立っていた。

北方から俯瞰



帰路では夕方の交通ラッシュをギリギリ避けることができたようで、2時間半ほどを要して午後5時過ぎに自宅へと帰還した。
この日の歩数は約2万6千歩であった。
本来ならば現今の足回りから考慮すれば2万歩以内に止めるべきであったと思う。
昨年から何度も発症している両足の脹脛の痙攣はランニング用のサポーター着用により回避できてはいる。
しかしこれはあくまでも比高差の少ない平地での状況であり、連続した斜面のアップダウンに対応できるものであるのかは不明である。

さていずれにしても早ければ今年の6月頃には県内の総合病院で受診する心積もりではある。

それでも可能ならば長期に亘る入院とリハビリは避けたいと思っている。
このまま先延ばしにして対処療法などで誤魔化しながら過ごすかどうか。
同じ部位に神経痛も出始めているが、これが股関節付近の痛みよりも強烈である場合があるのには正直困っている。

拍手[3回]

今月は延べ3日間の探訪となった。
中世城館跡だけではなく、中世初期頃の用水路とされている「女堀」や古墳、神社、仏閣あるいは野仏の観賞と焦点が定まらないでいる。
尤も当初はこういうスタンスであったので、本人にとってはけっして違和感のあるものでは無い。

城館跡は合計15か所ほど。
うち明確な遺構のあるものは僅かに2か所であった。
足回りの様子が不透明であるとこから、あまり比高差のある個所には赴いていない。
そうはいっても、今のところはどうにか歩けているので、1日当たり2万歩前後であれば対応できている。

桜が咲き春は少しずつ深まりを見せ始めている。
草木の芽吹きが地表観察の障害となるのは来月20日頃からであろう。
現下の体力/気力に鑑みると、この間に出かけられそうな日数はあと3日くらいである。
今後は少しずつ北上するか、西北へと向かうのかただ今考慮中である。


拍手[3回]

目覚ましは時計4時半にセットしていたのだが、どういう訳か午前3時に覚醒してしまった。
生来から二度寝すると寝起きの芳しくない性質である。
やむを得ずのんびりと身支度を整えたりして出かける支度を始めたが、如何せん時間を持て余しすこととなってしまった。
このため当初の予定よりも早く自宅を4時半過ぎに出発した。
こういう場合には往々にして早い時間に活動エネルギーが欠乏するという傾向があるらしいのだが。


◎大国神社(おおくにじんじゃ、群馬県前橋市境下渕名)
午前6時10分から6時30分

いつも上武道路を通行するたびに気になっていた個所であり、神社境内に関係すると思われる地形であるが、明らかに人工的な地形の改変跡と認められる地形である。
今回は未だ時間も早いこともあり立ち寄ってみることとした。
国土地理院の情報では、境内地西側の標高は57.2mで境下渕名(さかい/しもふちな)の集落が全体として緩やかな低丘陵となっていることが分かる。
実際に現地を歩いてみた限りでは、やはり神社境内の東側部分については人工的な地形改変が行われている印象を強く感じる。
ただしそれが神社境内整備に伴うものかそれ以外の要因によるものなのかは判然としなかった。

町名は元々の渕名が上下に分かれ、近年の市町村合併により旧境町のエリアについては、先頭に「境」の文字が付されることとなったので、「さかいしも/ふちな」ではない。
当地は大国神社の縁起にもあるとおり、古くから人々が在住している地域でもある。


◎波志江の土塁(はしえのどるい、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前7時10分から7時20分

今回は以前よりもさらに集落内となることから、当初は「いせさき聖苑」北側の公衆トイレも設置されている「赤城見台公園」の駐車場をあてにしていた。
しかし、毎週火曜日は定休日で閉園のため次候補であった鍛冶原公民館の駐車場に車を置かせてもらい、徒歩にて西方の中屋敷方面を目指すこととした。
すると蟹沼西北の信号から約100mほどの地点に旧家の屋敷林が目に入った。
目を凝らして観察してみると、市道南側に沿って東西方向に土塁状の地形が確認できた。
延長は約60mで高さは60cmから80cmほどを測るであろうか。
これに並行するような形で道路沿いには幅4メートルほどの堀跡とも見られる細長い区画も存在しているように見られた。

むろん「群馬県の中世城館跡」には掲載されてはいない。
宅地の北側でもあり近世以降の屋敷の風除けという可能性もあるが果たしてどうなのであろう。

中屋敷(なかやしき、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前7時30分から7時50分

北関東自動車道とそのETCインターチェンジ建設などの影響を受けており、その面影はほぼ消滅しているといっても良いように思われた。
やむなく「中屋敷」の地名が記された地元の集会施設の表札を撮影した。


岡屋敷(おかやしき、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前8時00分から8時15分

上記同様に北関東自動車道の建設により旧景は著しく失われているが、それでも僅かではあるのだが東側堀跡の屈曲部に相当する路地跡は確認できた。



中野屋敷(なかのやしき、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前8時25分から午前8時50分

民家の宅地などに隣接していることから、その北西側を流れている神沢川沿いからの遠望となった。
しかし、よくよく考えてみると1週間前に訪れた「赤石城」の近くで、何とはなしにこの景色を眺めていたことに気がついたのである (^^ゞ



波志江館(はしえやかた、群馬県伊勢崎市波志江町)
午前9時10分から午前10時00分

地元旧家の周囲に館跡に関連する堀跡、土塁などが存在していたようであるのだが、近年の宅地化などによりそうした形跡は消滅しかかっているらしい。
それでも金蔵寺西側の裏手には延長40メートルほどの堀跡および土塁状の地形などが残存しており、この地形の延長線上に金蔵寺境内地の西側が続き微妙な地形が残存しているように思われた。
また、北側に隣接する愛宕神社の境内にも築山のような盛り土が所在しているが委細不明である。




◎地蔵山古墳(じぞうやまこふん、群馬県伊勢崎市五目牛町/ごめうしちょう)
午前10時40分から11時15分

車を停めさせていただいた蟹沼方面からは否応なしに古墳状の地形が目に入ってしまったので、ここからは暫時古墳めぐりを始めることとなった。
附近にはこれ以外にも、少なくとも4か所ほどの古墳が所在しているのだが、次第にその全てを廻るという気力が無くなり始めるのを感じていた。


新土塚城(しんどつかかじょう、群馬県前橋市二之宮町)
12時00分から12時40分

この地は元々が荒砥川と神沢川に挟まれた地形であり、それに加えて八坂用水がその北側を流れているため、些かアプローチし辛い地理的環境である。
とくに華蔵寺公園方面から向かうと神沢川を渡河できる橋は薬師堂北方の一か所である。
しかもそのあとは八坂用水を2度ほど渡らねば到着できないのであった。

何と言っても城跡東側に残存する堀跡の地形が一番の見どころである。
この個所については何度見返しても見事な堀跡である。
その土木工事量も半端なものでは無く大がかりであったことが偲ばれた。
そうした経済力と動員力の源泉の存在が気にかかる。

また、ここでも集落の東西を貫通している道路の北側、文殊堂の東約50メートルほどの地点に荒砥史談会の設置された標柱があり感激した。
ただし、道路脇に植栽されている樹木の成長が著しく、いくぶんその存在が見づらくはなっていた。

午前中の天候は花曇りというのにふさわしい曇天であった。
しかし、次第に天候は回復し気温の急上昇とともに紫外線も強く感じ始めた。
暫時休憩を兼ねて未だ花見には早い華蔵寺公園近くの蕎麦屋にて昼食を摂ったこともあり、正午過ぎという時刻にもかかわらず眠くなってきた。
当初は西方の下増田館へと赴くという選択肢も考えてはいたのだが、この日の目標が4か所から5か所でもあったことから即座に撤収を決意した。

本日も今月3度目となる前橋方面であった。
しかしよく考えると主に神沢川の東岸なのでほぼ伊勢崎市内なのであった。
来月の前半にはほんの少々比高差のある個所をまわり、その後は再び遺構の乏しい平地へと向かうこととなるのかも知れない。

拍手[1回]

ここざっと1年近くの間に断続的に戦国時代末期頃に白井長尾氏の重臣として活動していた牧一族関係についていろいろと調べていた。
結局のところその系譜、本貫地を含めて良く分からないのである。

しかし近世の編纂である「加沢記」「石川忠総留書」などには登場するものの、現段階ではどうも同時代史料には見当たらないようだ。
関連する城跡としては、「猫山城」ないし「猫の寄居」、不動山城(多留城、田留城、樽城などとも)、大室城などがあるらしいのだが。

牧一族の最期についても、その誅殺の現場が大室城、多留城の何れであるのかも明確ではない。
歴史の中に埋もれていった一族のひとつにすぎないのだろうが、どうも気になって仕方がないのである。

そのようななかで、「大室城」の項目においてメモ代わりに「石川忠総留書」を元に「牧一族」についての事跡を纏めてみた。

http://kogasira-kazuhei.sakura.ne.jp/jyoukan-gunma/oumuro-jou-maebasisi-gunma/oumuro-jou-maebasisi-gunma-2018-04-24.html

拍手[1回]