本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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定年を過ぎました~
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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左馬助殿より事前に「川越百万灯まつり」に伴う交通渋滞情報いただいき、予め帰りの回避ルートを設定するなど万全の態勢で出陣したはず。
然し東松山市では「夏祭り」、小川町では「七夕」による交通規制が行く手を阻み..

加えてのっけからちょっとしたトラブル発生。
北本の「宮岡氷川神社遺跡」にて左側の路地に入るべく県道脇を歩いている時、後ろから走行してきた乗用車のサイドミラーが某の右腕にボコンと接触..
当然車内からでも大きな音がしたようで前方にて急停車。

同年輩の運転者の方は平身低頭し頻りに謝罪を。
交差点の近くであったため恐らく速度は20キロ足らず。
転倒式の合成樹脂製サイドミラーであったことと、当った個所が幸いにして手首と肘の間の腕の筋肉が最も厚い部分で、衰えた某の体の中では唯一頑健な部位。
このため、衝撃音に比べると痛みなどは全くなし。

このブログを打ち込んでいる現在でも打撲などによる内出血や痛みなどは皆無。
運転者の方は何を勘違いされたのか、寧ろ某のデジカメの方をしきりに心配。
ほんの少しずれていれば肘関節への影響は免れなかった可能性も。
何れにせよお互いに不幸中の幸いということなのでありました。


宮岡氷川神社遺跡(戦国期館の堀跡)(北本市)10時50分から11時40分

さて肝心な館跡は6月に発掘調査された後に2週間ほどで埋め戻されて現在は畑の一部のような更地。
北西側の氷川神社から西側の宮岡公会堂にかけて浅い谷津が所在する以外は、一帯は広大な平坦な台地であり格別見通しも利かずこれといって特徴のない地形。
その現状からはこの地に幅5メートル、深さ2メートル、長さ10メートルにおよぶ堀跡が存在しているとは某の貧困な発想からでは俄かに想像し難いものが。

新聞などによれば北本市教育委員会では一辺が一町四方の方形館を想定。
加えてかの上杉謙信の武州松山城救援時の石戸在陣の地としての可能性を示唆。
1万平方メートルほどの方形館であると仮定すると、その収容人員の限度は短期間かつかなり多めに見ても1千人以内と推定。
主力が在陣するとすれば通説どおり、やはり当時上杉方であった太田資正の属城と推定される石戸城(別名を天神山城)の方が、その防御性の高さや数千人規模の軍勢の在陣などの諸点からも相応しく思えるのでありました。


宮岡氷川神社遺跡
宮岡樋川神社遺跡
2007/07/28 撮影


小川堀ノ内(小川町)12時40分から13時30分

新編武蔵風土記稿の比企郡小川村の小名として「堀ノ内」の名称が記されていて以前から気になっていた場所。
最近「小川町の歴史(上巻)」に概ねの比定地として記述されていることに気づき訪れた次第。
勿論中世城館との関わりについては一切不明。
現在は中郷(小字か)と呼ばれる江戸時代中期に建立されたと伝わる八宮神社の北側一帯には兜川から取水していると推定される曲折の目立つ用水路が所在し、更にその東域にも水路に囲まれた地域が続いておりました。
しかし本命はどちらかといえば兜川が大きく南に蛇行し槻川と合流する八宮神社南側近辺が尤もそれらしい印象。

なお、堀ノ内の北側に所在する比企丘陵の一部となる小川日赤病院近くの日向山とその南東側に隣接する竹林の生い茂る比高差40メートルほどの小さな独立丘陵地帯がなかなか趣のある地形を呈していることに改めて気づいたのであります。
このようにして気になる場所は増え続ける一方で、現在小川町の町内だけでも20か所以上はストック。
かくして当分は埼玉県内から脱出できない気配が濃厚に。


小川堀ノ内付近
小川堀ノ内付近
2007/07/28 撮影


阿保境館(上里町、神川町)14時30分から14時40分

土曜日ということもあり、折から工場の南側に隣接するグランドでは少年サッカーの大会が開催中。
このため結果的にはサッカーに興ずる子どもたちの姿と道路の向側に所在する順調に成長を続けている緑が鮮やかな水田の風景を眺めるという結果に。
傍目には孫の勇姿を撮影しに来た関係者のような年代に近いことから、さしたる違和感はなかったのかも知れず..

こうした現況から、この地にかつて外周部が一町半四方におよぶと推定される大規模な阿保氏関係の館跡が所在していたことを想像するには至難の業なのでありました。


阿保境館
阿保境館
2007/07/28 撮影



大御堂陣屋(上里町)14時45分から14時55分

代官頭伊奈備前守忠次の支配下にあったと推定されている近世の陣屋址。
現在でも北側の水路沿いに低い土塁跡らしき地形が長さ20m程にわたって続いていることが確認でき、陣屋址としての当時の面影を感じさせてくれます。
「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、林虎之祐の名が記されていますが、「上里町史」ではこの人物については備前守配下の代官・下代などと推定。
この林氏が一町四方の「陣屋」にして、七本木町、安保町、長浜町の町分の建設および新田川用水の普請にあたったものとしています。


大御堂陣屋
大御堂陣屋
2007/07/28 撮影


このあと前回訪れた際に確認し忘れた吉祥院の五輪塔・宝篋院塔を撮影。
よく見てみると本来は五輪塔の空輪・風輪が宝篋院塔に混ざっているような光景も。
その何れも年代は古くいかにも中世のものといった印象が滲み出ておりました。

なお本日の車の走行距離は〆て160km。
国道254線の小川パイパスでは、既に「七夕」の交通規制に伴う交通渋滞も発生したこともあり往復所要時間は延5時間以上も。
それに見合う成果があったのかと自問すると、これがなかなか評価が難しく。
然し、両膝の三重サポーター巻きとはいえ、基本的に杖なしで延2キロメートルを無事に歩行できたということは別の意味で大きな収穫なのでありました。

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HPを行った後、明日は最低でも2か所は訪れるつもりで、じっくりと資料整理などをしているうちにあっという間に時間が過ぎ去りとうとう翌日を迎えてしまったのであります。
こんなことで果たして起床できるかどうかが最初の難関に..トホホ

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早めの夏休みに娘が突然帰宅し、嵐のように去って行ったのはもう20日ほど前のこと。
その後2、3日ほどは食欲が落ちたもののすぐに回復。
しかし、ここにきてこの暑さの影響で2匹ともに明らかに食欲減退気味。

このため昨日は庭に生えていたエノコログサ(別名ネコジャラシ)で構ってみると、予想どおり2匹で横一線に仲良く並んで上方にて蠢くエノコログサを凝視。

その直後にイチゴ(♂2歳3か月、体長50Cm・体重約6kg)が背筋を伸ばして立ち上がり、見事にガブリと食いついたのでありました。
このネコは不思議なことに背筋をピンと伸ばして、妙に姿勢の良い歩き方をする癖があり、後ろ足で立ち上がり背伸びをすると忽ち巨大ネコに変貌いたします。
一方ポミ(♀2歳9か月、体長40Cm弱・体重約3kg、イチゴの母親)は残念ながら小柄で猫背のために全く届かず。

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朝少しだけ早く目覚めたため、何気なく「小川町の歴史」(下巻)を眺めることに。
そこで興味深い事実が二点ほど解明。

ひとつは、腰越城の石灰岩の採掘当時の写真が掲載されていたこと。
大正末か昭和初期の頃のものと思われ、消失した腰越城の南西側の様子と画像の右端には西の郭部分が実に克明に写し出されておりました。

また、八高線の小川町-寄居間の開通とほぼ同時期の大正年間に石灰岩運搬を目的とした貨物線である根古屋線が開業し、根古屋駅-槻川駅-大河駅(大河小学校、大塚八幡神社、大梅寺の北側を迂回)-小川町駅の間を小型SLの貨物列車が運行。

腰越城の採掘現場は間もなく資源の枯渇により廃止され、その後東秩父方面からはリフトを経由して石灰岩・蛇紋岩・木材の運搬などに供されたものの、地元出身の家内の話によれば、昭和30年台末か40年代初め頃に廃線となった由。
走行するSLが小学校の教室からも見えたようで、家内によれば子どもたちがよく手を振っていたとの証言も。
これで奇妙なカーブを描く道路の真相が漸くにして解明。
たまには少しくらい役立ってもらわねば..

もうひとつは大塚八幡神社の寄贈された石柱に刻まれた謎の「緑町」の地名で、名称からして如何にも新しそうなネーミング。
「みどりヶ丘」ならば近年に新しく宅地開発された地名であり、地理的にも明らかに無関係なので大分以前から気になっていたもの。
これもよくよく調べてみれば、昭和6年当時に命名された大字大塚の下に属する行政区名なのでありました。

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誠に古い話で恐縮にございます。
大分以前に高谷砦への登り口を探していたところ謎の洞穴に遭遇したことが。
高谷砦とは明らかに谷の反対側だし、恐らくは戦時中の防空壕跡などであろうか..とそのまま失念。

最近になって、別途の必要にせまられて「小川町町の歴史(下巻)」を何気なく見ていると、ようやくその真相が明らかに。
実は敗色の濃くなった太平洋戦争末期の通称「燕部隊」と呼ばれた第一航空軍の地下軍事施設の入り口であったことが判明。
かくて2年半もの月日を要し「戦争遺跡」の究明に成功..
元い、単に某の不勉強さ加減が暴露されただけのことに過ぎないのであります(大汗)


戦争遺跡
第一航空軍の軍事施設の入り口
2004/12/12 撮影


フルオートのコンパクトデジカメのため当時の画像をこうして眺めると、画像が粗いのがかえって懐かしくさえ感じられたのでありました。
およその位置は高谷砦の谷を挟んだ西側方面とだけ。
多分に酸素不足と崩落の危険性を伴うことから、具体的所在地につきましては非公開とさせていただきます(苦笑)

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