本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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6月の梅雨時を中心に今月の上旬頃まで「紫陽花」のアクセスが急増。
この影響で一時的とはいえ、とうとう現時点では「鉢形城(国指定史跡)」を凌駕する結果に。
今年の4月初めから7月末までのフレーズ検索によるアクセスベスト10を調べてみますと、「城跡」のフレーズ以外は手抜きの目立つ「植物関係」の頁ばかりにございました。
何かの事情でアクセスされた方には衷心よりお詫び申し上げます。
また恐らくこれからの季節では、開花期間の長い「槿(ムクゲ)」が虎視眈々と首位の座を窺っている状況にございます。
誠にありがたいこととは存じながらも、「城館関係サイト」管理人(一応)といたしましては些か複雑な思いが頭を過ぎるのでありました(苦笑)
ともあれ「紫陽花」には責任はなく、花期終了間近の紫陽花に感謝。
この影響で一時的とはいえ、とうとう現時点では「鉢形城(国指定史跡)」を凌駕する結果に。
今年の4月初めから7月末までのフレーズ検索によるアクセスベスト10を調べてみますと、「城跡」のフレーズ以外は手抜きの目立つ「植物関係」の頁ばかりにございました。
何かの事情でアクセスされた方には衷心よりお詫び申し上げます。
また恐らくこれからの季節では、開花期間の長い「槿(ムクゲ)」が虎視眈々と首位の座を窺っている状況にございます。
誠にありがたいこととは存じながらも、「城館関係サイト」管理人(一応)といたしましては些か複雑な思いが頭を過ぎるのでありました(苦笑)
ともあれ「紫陽花」には責任はなく、花期終了間近の紫陽花に感謝。
埼玉県の全体図から各市町村のページにリンクできるようにしたいものと思い立ったのはもう2年以上前のこと。
加工してHPに掲載するとなると有償の電子地図でさえも事実上不可能。
結局、クレジット表示を前提としたフリーソフトの白地図を使用してみることに。
難点は時々読み込みエラーを含む不具合の発生することかと。
取敢えずの試作品はインデックス代わりの機能しかございませぬ。
元々の画像を270ピクセル分だけ縦にカットしているので、更新をする場合に上手くいくかどうかが全く不明なのであります。
⇒とりあえずの試作品
こんなことをしていたので、すっかりネコの朝ごはんを忘れてしまった。
加工してHPに掲載するとなると有償の電子地図でさえも事実上不可能。
結局、クレジット表示を前提としたフリーソフトの白地図を使用してみることに。
難点は時々読み込みエラーを含む不具合の発生することかと。
取敢えずの試作品はインデックス代わりの機能しかございませぬ。
元々の画像を270ピクセル分だけ縦にカットしているので、更新をする場合に上手くいくかどうかが全く不明なのであります。
⇒とりあえずの試作品
こんなことをしていたので、すっかりネコの朝ごはんを忘れてしまった。
埼玉県内の中世城館跡をめぐり始めてボチボチ3年近くに。
最盛期には半年間で100個所の更新を行っていた時期も。
然し現在は1年間で50か所の更新さえ覚束無く。
年齢に伴う体力の衰えに加えて取分け両膝の疾患や呼吸障害も発症。
視力の低下と共にキーボードの誤操作が頻発。
さらに打ち込み速度は今のところかつての半分以下にまで確実に低下しておりまする。
「城館紛いの地形」も気になることもあり、現在のペースでは埼玉県内を一通りまわり終えるまでには少なくともあと10年はかかりそうな気配。
そうなると何とか動き回れる年代までに完了しない可能性があるやも知れず...然しそれもまたひとつの人生なのでありましょうな。
最盛期には半年間で100個所の更新を行っていた時期も。
然し現在は1年間で50か所の更新さえ覚束無く。
年齢に伴う体力の衰えに加えて取分け両膝の疾患や呼吸障害も発症。
視力の低下と共にキーボードの誤操作が頻発。
さらに打ち込み速度は今のところかつての半分以下にまで確実に低下しておりまする。
「城館紛いの地形」も気になることもあり、現在のペースでは埼玉県内を一通りまわり終えるまでには少なくともあと10年はかかりそうな気配。
そうなると何とか動き回れる年代までに完了しない可能性があるやも知れず...然しそれもまたひとつの人生なのでありましょうな。
左馬助殿より事前に「川越百万灯まつり」に伴う交通渋滞情報いただいき、予め帰りの回避ルートを設定するなど万全の態勢で出陣したはず。
然し東松山市では「夏祭り」、小川町では「七夕」による交通規制が行く手を阻み..
加えてのっけからちょっとしたトラブル発生。
北本の「宮岡氷川神社遺跡」にて左側の路地に入るべく県道脇を歩いている時、後ろから走行してきた乗用車のサイドミラーが某の右腕にボコンと接触..
当然車内からでも大きな音がしたようで前方にて急停車。
同年輩の運転者の方は平身低頭し頻りに謝罪を。
交差点の近くであったため恐らく速度は20キロ足らず。
転倒式の合成樹脂製サイドミラーであったことと、当った個所が幸いにして手首と肘の間の腕の筋肉が最も厚い部分で、衰えた某の体の中では唯一頑健な部位。
このため、衝撃音に比べると痛みなどは全くなし。
このブログを打ち込んでいる現在でも打撲などによる内出血や痛みなどは皆無。
運転者の方は何を勘違いされたのか、寧ろ某のデジカメの方をしきりに心配。
ほんの少しずれていれば肘関節への影響は免れなかった可能性も。
何れにせよお互いに不幸中の幸いということなのでありました。
凸宮岡氷川神社遺跡(戦国期館の堀跡)(北本市)10時50分から11時40分
さて肝心な館跡は6月に発掘調査された後に2週間ほどで埋め戻されて現在は畑の一部のような更地。
北西側の氷川神社から西側の宮岡公会堂にかけて浅い谷津が所在する以外は、一帯は広大な平坦な台地であり格別見通しも利かずこれといって特徴のない地形。
その現状からはこの地に幅5メートル、深さ2メートル、長さ10メートルにおよぶ堀跡が存在しているとは某の貧困な発想からでは俄かに想像し難いものが。
新聞などによれば北本市教育委員会では一辺が一町四方の方形館を想定。
加えてかの上杉謙信の武州松山城救援時の石戸在陣の地としての可能性を示唆。
1万平方メートルほどの方形館であると仮定すると、その収容人員の限度は短期間かつかなり多めに見ても1千人以内と推定。
主力が在陣するとすれば通説どおり、やはり当時上杉方であった太田資正の属城と推定される石戸城(別名を天神山城)の方が、その防御性の高さや数千人規模の軍勢の在陣などの諸点からも相応しく思えるのでありました。
凸小川堀ノ内(小川町)12時40分から13時30分
新編武蔵風土記稿の比企郡小川村の小名として「堀ノ内」の名称が記されていて以前から気になっていた場所。
最近「小川町の歴史(上巻)」に概ねの比定地として記述されていることに気づき訪れた次第。
勿論中世城館との関わりについては一切不明。
現在は中郷(小字か)と呼ばれる江戸時代中期に建立されたと伝わる八宮神社の北側一帯には兜川から取水していると推定される曲折の目立つ用水路が所在し、更にその東域にも水路に囲まれた地域が続いておりました。
しかし本命はどちらかといえば兜川が大きく南に蛇行し槻川と合流する八宮神社南側近辺が尤もそれらしい印象。
なお、堀ノ内の北側に所在する比企丘陵の一部となる小川日赤病院近くの日向山とその南東側に隣接する竹林の生い茂る比高差40メートルほどの小さな独立丘陵地帯がなかなか趣のある地形を呈していることに改めて気づいたのであります。
このようにして気になる場所は増え続ける一方で、現在小川町の町内だけでも20か所以上はストック。
かくして当分は埼玉県内から脱出できない気配が濃厚に。
凸阿保境館(上里町、神川町)14時30分から14時40分
土曜日ということもあり、折から工場の南側に隣接するグランドでは少年サッカーの大会が開催中。
このため結果的にはサッカーに興ずる子どもたちの姿と道路の向側に所在する順調に成長を続けている緑が鮮やかな水田の風景を眺めるという結果に。
傍目には孫の勇姿を撮影しに来た関係者のような年代に近いことから、さしたる違和感はなかったのかも知れず..
こうした現況から、この地にかつて外周部が一町半四方におよぶと推定される大規模な阿保氏関係の館跡が所在していたことを想像するには至難の業なのでありました。
凸大御堂陣屋(上里町)14時45分から14時55分
代官頭伊奈備前守忠次の支配下にあったと推定されている近世の陣屋址。
現在でも北側の水路沿いに低い土塁跡らしき地形が長さ20m程にわたって続いていることが確認でき、陣屋址としての当時の面影を感じさせてくれます。
「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、林虎之祐の名が記されていますが、「上里町史」ではこの人物については備前守配下の代官・下代などと推定。
この林氏が一町四方の「陣屋」にして、七本木町、安保町、長浜町の町分の建設および新田川用水の普請にあたったものとしています。
このあと前回訪れた際に確認し忘れた吉祥院の五輪塔・宝篋院塔を撮影。
よく見てみると本来は五輪塔の空輪・風輪が宝篋院塔に混ざっているような光景も。
その何れも年代は古くいかにも中世のものといった印象が滲み出ておりました。
なお本日の車の走行距離は〆て160km。
国道254線の小川パイパスでは、既に「七夕」の交通規制に伴う交通渋滞も発生したこともあり往復所要時間は延5時間以上も。
それに見合う成果があったのかと自問すると、これがなかなか評価が難しく。
然し、両膝の三重サポーター巻きとはいえ、基本的に杖なしで延2キロメートルを無事に歩行できたということは別の意味で大きな収穫なのでありました。
然し東松山市では「夏祭り」、小川町では「七夕」による交通規制が行く手を阻み..
加えてのっけからちょっとしたトラブル発生。
北本の「宮岡氷川神社遺跡」にて左側の路地に入るべく県道脇を歩いている時、後ろから走行してきた乗用車のサイドミラーが某の右腕にボコンと接触..
当然車内からでも大きな音がしたようで前方にて急停車。
同年輩の運転者の方は平身低頭し頻りに謝罪を。
交差点の近くであったため恐らく速度は20キロ足らず。
転倒式の合成樹脂製サイドミラーであったことと、当った個所が幸いにして手首と肘の間の腕の筋肉が最も厚い部分で、衰えた某の体の中では唯一頑健な部位。
このため、衝撃音に比べると痛みなどは全くなし。
このブログを打ち込んでいる現在でも打撲などによる内出血や痛みなどは皆無。
運転者の方は何を勘違いされたのか、寧ろ某のデジカメの方をしきりに心配。
ほんの少しずれていれば肘関節への影響は免れなかった可能性も。
何れにせよお互いに不幸中の幸いということなのでありました。
凸宮岡氷川神社遺跡(戦国期館の堀跡)(北本市)10時50分から11時40分
さて肝心な館跡は6月に発掘調査された後に2週間ほどで埋め戻されて現在は畑の一部のような更地。
北西側の氷川神社から西側の宮岡公会堂にかけて浅い谷津が所在する以外は、一帯は広大な平坦な台地であり格別見通しも利かずこれといって特徴のない地形。
その現状からはこの地に幅5メートル、深さ2メートル、長さ10メートルにおよぶ堀跡が存在しているとは某の貧困な発想からでは俄かに想像し難いものが。
新聞などによれば北本市教育委員会では一辺が一町四方の方形館を想定。
加えてかの上杉謙信の武州松山城救援時の石戸在陣の地としての可能性を示唆。
1万平方メートルほどの方形館であると仮定すると、その収容人員の限度は短期間かつかなり多めに見ても1千人以内と推定。
主力が在陣するとすれば通説どおり、やはり当時上杉方であった太田資正の属城と推定される石戸城(別名を天神山城)の方が、その防御性の高さや数千人規模の軍勢の在陣などの諸点からも相応しく思えるのでありました。
凸小川堀ノ内(小川町)12時40分から13時30分
新編武蔵風土記稿の比企郡小川村の小名として「堀ノ内」の名称が記されていて以前から気になっていた場所。
最近「小川町の歴史(上巻)」に概ねの比定地として記述されていることに気づき訪れた次第。
勿論中世城館との関わりについては一切不明。
現在は中郷(小字か)と呼ばれる江戸時代中期に建立されたと伝わる八宮神社の北側一帯には兜川から取水していると推定される曲折の目立つ用水路が所在し、更にその東域にも水路に囲まれた地域が続いておりました。
しかし本命はどちらかといえば兜川が大きく南に蛇行し槻川と合流する八宮神社南側近辺が尤もそれらしい印象。
なお、堀ノ内の北側に所在する比企丘陵の一部となる小川日赤病院近くの日向山とその南東側に隣接する竹林の生い茂る比高差40メートルほどの小さな独立丘陵地帯がなかなか趣のある地形を呈していることに改めて気づいたのであります。
このようにして気になる場所は増え続ける一方で、現在小川町の町内だけでも20か所以上はストック。
かくして当分は埼玉県内から脱出できない気配が濃厚に。
凸阿保境館(上里町、神川町)14時30分から14時40分
土曜日ということもあり、折から工場の南側に隣接するグランドでは少年サッカーの大会が開催中。
このため結果的にはサッカーに興ずる子どもたちの姿と道路の向側に所在する順調に成長を続けている緑が鮮やかな水田の風景を眺めるという結果に。
傍目には孫の勇姿を撮影しに来た関係者のような年代に近いことから、さしたる違和感はなかったのかも知れず..
こうした現況から、この地にかつて外周部が一町半四方におよぶと推定される大規模な阿保氏関係の館跡が所在していたことを想像するには至難の業なのでありました。
凸大御堂陣屋(上里町)14時45分から14時55分
代官頭伊奈備前守忠次の支配下にあったと推定されている近世の陣屋址。
現在でも北側の水路沿いに低い土塁跡らしき地形が長さ20m程にわたって続いていることが確認でき、陣屋址としての当時の面影を感じさせてくれます。
「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、林虎之祐の名が記されていますが、「上里町史」ではこの人物については備前守配下の代官・下代などと推定。
この林氏が一町四方の「陣屋」にして、七本木町、安保町、長浜町の町分の建設および新田川用水の普請にあたったものとしています。
このあと前回訪れた際に確認し忘れた吉祥院の五輪塔・宝篋院塔を撮影。
よく見てみると本来は五輪塔の空輪・風輪が宝篋院塔に混ざっているような光景も。
その何れも年代は古くいかにも中世のものといった印象が滲み出ておりました。
なお本日の車の走行距離は〆て160km。
国道254線の小川パイパスでは、既に「七夕」の交通規制に伴う交通渋滞も発生したこともあり往復所要時間は延5時間以上も。
それに見合う成果があったのかと自問すると、これがなかなか評価が難しく。
然し、両膝の三重サポーター巻きとはいえ、基本的に杖なしで延2キロメートルを無事に歩行できたということは別の意味で大きな収穫なのでありました。