朝一でJR大坂駅前のホテルから地下鉄谷町線にて娘のアパートへ。
大分急いで片付けたようですが、相変わらず部屋は散らかっておりました。
ワンルームなので居場所もなく、3人で予定通り天神橋の博物館へ。
しかし火曜日は生憎の休館日。
そういった予定は家内に一任。
当方はもとより城館関係しか念頭になく、如何に長く単独行動できるかで頭が一杯。
このため予定変更して少しばかり天神橋の商店街を散策。
この早い時間から開店している店も少なくタクシーで大坂城へ移動。
凸大坂城(大阪市中央区)午前10時より午後3時15分
西側の大手口より入城。
ここで如何に上手く立ちまわれるかが本日のポイント。
娘も既に社会人なので父親に写真を写されて喜ぶ年齢ではなく。
さりとてあからさまに別行動をとるのも大人げなく。
何よりも家内のご機嫌も損ねては今後に支障が(冷汗)
結局は目立たぬように家内たちから遅れて行く心理作戦を敢行。
これがものの見事に成功し、少なくとも夕刻まで別行動できる結果に。
近世末期の建築物とはいえ重要文化財に指定されている建造物を逐一確認し、城内から登れる個所はできるだけ時間をかけて観察。
時間の関係で予め再建天守内には基本的に入らない方針を樹立。
大手門、六番矢倉、太鼓櫓跡石山本願寺跡推定地、豊国神社、ごく最近建立された秀吉の銅像、一番櫓、千貫櫓、焔硝蔵、金蔵、山里曲輪、淀君などの墓所、淀君・秀頼自刃の石碑、秀吉時代の凡その天守台推定地などを回ったのち極楽橋を渡り蓮如の石碑へと移動。
そのあとは京橋口から天守方向を撮影しつつ、ついでに夜景の撮影ポイントも確認。
西の丸は閉園するので、京橋口方面が良さそうなことが判明。
気がついてみれば飲まず食わずきで5時間以上が経過。
かくして日中の大半を大坂城内で過ごす結果に。
とはいえ所期の目的が達成され足まわりの疲労を別にすれば充実した時間。
お馴染の土塁と空堀の城館とは異なり、近世城郭もまた別の味わいが。
一方些か気になることもないではなく。
代表的な観光地とは思えない山里曲輪付近の工事方法。
東側石垣からの排水と天守南西の巨大な配管設備。
石垣内側の石段全体に歪みが目立つこと。
派手好きの娘曰く「コテコテの天守外壁の装飾」など
これらを一切ひっくるめて、これが大阪の文化と納得するような印象もあるような。
凸桜の岸砦(ろうのききしとりで 大阪市中央区)午後3時35分から3時45分
石山合戦の舞台となった砦跡のひとつらしい。
うーむ、余りにも資料不足の感が。
復路の土佐堀通り沿いには、かつての船着場、魚河岸等の所在を明らかにした文化財石柱が設置。
かつてこの辺りが大阪湾の沿岸部であったことが偲ばれたのであります。
永田屋昆布本店前に置かれた「八軒屋の今昔」という貴重なパンフレット(24頁オールカラー、非売品)を拝領。
大坂城が上町台地の北端に所在するという事実確認とともに、自分の足で歩くことの大切さを改めて実感した次第。
■玉造稲荷神社(同)午後4時35分から4時40分
「豊臣秀頼ゆかりの神社」らしいとしか手持ちの資料では分かっていないのでありました。
実際に訪れてみると思いのほか大きな神社で神職の方もお住まいの模様。
すでに夕闇に包まれ始めた境内には、ライトアップされ七五三参詣の旗指物(商品名「桃太郎旗」とも)がはためく賑やかさ。
秀頼寄進の鳥居、千利休に因んだ石碑なども所在し豊臣家との関わりの深さが窺われたのであります。
凸真田丸出城(同) 午後4場55分から5時15分
三光神社近くの公園には「真田幸村の銅像」と「大坂城から通じる抜け穴」が所在。
有名な真田信繁(幸村)が活躍した大坂城の出城の推定所在地ということですが、真田山小学校が当地に所在することと「○○真田山」との名称のマンションがやたらに多いことを除けば真田勢の活躍した舞台とは思えず。
それでも今も空堀町や長堀通(但し近世の運河跡ですが)の地名がのこる。
推定地には幾つかの候補地があるようで「明星学園付近」「宰相山」(別名を真田山?とも)などが有力な候補地とされている模様。
しかし仮に3千もの将兵が守りを固めていたとすれば、少なくとも1万坪以上の広さを要求されることから、宰相山公園を中心に明星学園から真田山小学校を含むかなり広範囲な地域が想定されるものと考えられます。さて、夕闇の中を強引に彷徨していたものの、西側に厚い雲が生じていたために午後4時過ぎには早くも夕闇が迫り辺りは日没も同然の薄暗さ。
街灯が点灯し次第に闇に包まれ始めた宰相山墓地を徘徊する怪しい人物に。
画像は場所が場所だけに心霊写真のようなものばかりにて。
いずれにせよ真田丸出城については翌日あらためて再訪することを深く胸に刻んで。しかし、よく考えてみると移動時間含めて正味4時間程度で4ヶ所も回りきれるのかという素朴な疑問が浮上
さて、こうなったら大坂城の夜景を撮影せねばと北風の中を再び京橋口から入場(爆)
レントゲンのように息を止めての夜間撮影を繰り返した後、そのまま徒歩にてJR大阪駅まで行軍。
かくして本日の歩行距離は累計で約18kmに達し、運動不足の我が足はものの見事に足のマメがつぶれたのであります。
さて、ホテルへ戻り就寝前に1時間以上かけて移動ルートと交通手段の綿密なプランを検討。
始めにJR環状線にて玉造駅で下車し玉造町周辺一筆書きの要領にて最短距離で巡回⇒その後は再び玉造駅から2つ先の桃谷駅へ電車で移動して徒歩20分の距離に所在する御勝山(岡山砦)へ⇒生野市役所で関係資料を漁りタクシーで天王寺方面へ移動し茶臼山へ(約2キロ近い距離があるので、マメがつぶれた足を以ってしては時間の浪費となることは最早自明の理)⇒そのあとは再び徒歩にて天王寺砦の推定地へと赴いて、市営地下鉄谷町線で東梅田へと戻る。
このルートの合計所要推定時間は約4時間なので、新大阪駅からの新幹線乗車時間との整合性などを考慮して午前8時30分にはホテルを出発することに決定。
大阪で一人住まいで働いている長女に会いに行くのが本来の目的。
アパート探し等のため家内の方は既に何度か訪問。
しかし自分は全く初めて。
というより、大阪自体が初めて。
だいたい半世紀以上生きていて、京都より西へ行ったことさえなく。
前回は確か20年ほど前に仕事で京都日帰り。
遠距離出張には全く縁がなく、個人的にも連休がなかなか取れない職業人生。
新幹線に乗車するのも人生でこれが漸く3回目(恥)
思えば新婚旅行も仕事でキャンセルしたような。
当然、飛行機も乗ったことがなく。
都内の城館跡さえ意識して訪れたところはなく。
それがいきなり大阪へと出かける羽目に。
尤もこういう機会でもないと恐らく一生訪れない可能性さえ。
凸平塚城(東京都北区)午前8時05分から8時35分
久々の墓参りも兼ねて立ち寄ることに。両親は戦後間もなくこの神社で結婚式。
遥か半世紀以上前に不肖某もここで七五三などを。
数年前に他界した父とは頻繁に散歩に出かけた場所。
早い話が自分の生まれ故郷。
卒業した小中学校もこのすぐ近く。
何故か校歌も未だに記憶。
「きよ~らかに~ただしく、なおく、もろともに」
区立なのにこうして文字にすると何か讃美歌のような..GHQの影響か..(笑)
そういえば校舎裏に薪を背負い本を読む「二宮金次郎の石像」が転がっておりました。
「東に、希望の空輝き、平和の富士、西に高し..」(ミソソミ、ララソラ、ドラソラ、ソミ..)
内田康夫氏のミステリ小説に登場する主人公。
昔は榎木孝明、次に辰巳琢朗など、そして今は沢村一樹だったかと。
その主人公の実家が東京都北区西ヶ原3丁目という設定。
自分の生まれた住所と偶然の一致。
尤も自分の住んでいた所はかつての谷田川沿いの低地。
屋敷町は確か北側の高台の方角に所在していたという記憶が。
このため子どもの時から平塚亭の団子はお馴染。
この日もお参りの後に買い物。
朝まだ早い時間帯のため、生憎と団子は無く出来たての豆大福を購入。
大分以前の郷土史関係資料。
この平塚神社の洪積台地を城跡と明確に記述。
なかには切り通しの道路沿いに生育する樹木の傾斜を空堀の存在に結びつける見解なども提示。
さらには「飛鳥山城」との記述に加え、果ては「西ヶ原城」の存在さえ示唆(苦笑)
しかし最近の研究者の見解では、平塚城が名族豊島氏の拠点であったかどうかについてその実在が些か危うく。
実在したとしてもこの台地ではなく、もう少し南寄りの方面との説も。
ことによると関連しそうな神社東側の城官寺にも立ち寄ることに。
ところが法要のため様々な葬祭用具が設置され写真撮影がなかなか難しく。
そういえば卒業した小学校の隣に所在する大学の敷地は、あの有名な「下瀬火薬」の海軍工廠。
道理で有刺鉄線が張り巡らされた高い頑丈なコンクリート塀や防空壕があった訳で。
どうもこの年齢になると矢鱈に昔のことばかりが脳裏に浮かび。
それに反して最近の記憶が一段と曖昧に。
かつては奥行200m以上はあったと思われる神社境内の参道。
経営上の理由からか、参道両側の半分以上が月極めの貸駐車場に変貌しておりました。
凸野田城(大阪市福島区)午後2時20分から2時40分
JR大阪駅から大阪環状線に乗り換えて2駅目のJR野田駅下車。
往復時間徒歩2分を含めて10分間の訪城。
現地は大阪の市街地の一角。
以前は銀行の支店が置かれていたらしい細長いマンションの左側にポツンと石碑が設置。
戦国史では著名な三好一党、織田信長、石山本願寺と馴染の名前が登場。
それにしては余りにあっさりとしているようにも思われるのでありましたが、日没までの時間が迫りつつあるのでとっとと移動。
凸若江城(東大阪市)午後3時40分から4時10分
若江公民館分館前に設置された解説板はすぐに発見。ところが予め資料として用意していた本が古かったせいか、若江小学校近くと思われる肝心の石碑の所在地がなかなか見つからず。
できるだけ優しい口調で、下校途中の5年生くらいの男子児童に尋ねてみることに。
始めは関西弁なので会話不成立。
というか、何を言っているのか分からず。
要は「下校途中なので、案内したいけど寄り道になるので一緒にはいけまへんがな」と言っていたような。
指差した方向にどうやら目標物があることを漸く理解。
丁寧にお礼を言って、もと来た方向へと少し戻ると小堂宇の一角に土地改良組合の顕彰碑などとともに鎮座。
以前よりも確実に歩くスピードが低下。
僅か1.5kmほどの距離を歩くのに20分以上も
電車の本数が少ないことと合わせて思ったよりも時間を浪費。
辺りは次第に夕方の気配が漂い始め次の目的地へと先を急ぐことに。
凸木村重成墓所(東大阪市)午後4時25分から4時45分
第二寝屋川沿いの公園の一角に大きな石碑とともに所在していたので迷うことなく現地到着。
解説によれば元々は寝屋川沿いに所在していたものを河川改修により現在の場所へと移転したとのこと。
若江小学校の南東約直線600mほどの地点。
とはいえ近道をしても徒歩10分以上もかかってしまった。
明らかに歩行速度が低下していることを痛感。
さて日暮れ時の公園にはホームレスの方がお二人と黒ネコが3匹。
どうやらネコたちは飼いネコの模様。
ちゃんとネコ用の段ボールとブルーシートが。
そのうちの一匹はベンチで大人しくお座りをしておりました。
しかし肝心の人間の方の居場所は何処に在りや。
凸山口重信墓所(東大阪市)午後4時50分から5時00分
大阪夏の陣の「若江の戦い」で木村長門守重成と合戦を行い討死を遂げた徳側方の武将の墓所。
家康の勘気を被っていた父重政は後にこの重信の戦功などにより1万五千石の譜代大名として復活。
子孫はそのまま幕末まで牛久藩主として存続したとのことです。
両者の墓所は第2寝屋川を挟んで南北に対峙しておりましたが、こちらの墓所の方が100mほど東に寄っているので東軍としてはそれなりに整合性のあるような配置状況かと。
始めは他の墓石に紛れてその所在が分からず。
市街地とはいえ幾分肌寒さを感じる日没後の薄明かりの墓地に佇む人影などは皆無。
仮においでになればそれはそれで些か不気味なものが。
デジカメではそれなりに見えておりますが肉眼では限りなく夜に近く..ASA800に感度修正。