本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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今月の2日に続いての群馬城館探訪。
昨年末とうとうルビコン川ならぬ神流川を越えてしまった。
こうなると上州への出陣にもはや歯止めが利かず。
うずたかき更新未処理の山は放置されたまま。
このため未処理の城館跡の怨念かどうか分らぬが、出がけからどうも体調が思わしくなく。

朝から晴天のはずがどんよりとした圧曇り。
加えて寒気がするようなしないような。
おまけに息苦しいようなだるいような。
気持ちが悪いような倦怠感が体中に蔓延。
その後天候が急速に好天に回復したものの、体全体の倦怠感が抜けきれず。
平地を歩いていても直ぐに息切れが発生。
予定に入れていた山城1か所を冒頭から敢え無くキャンセルすることに。


吉井陣屋(群馬県吉井町 以下同)10時05分~10時45分
本来は吉井町関係の資料収集が第一の目的。
そのついでにいくつか城館跡に立ち寄れればといったような極めてうテンションの低い今回の出陣。
はじめに郷土資料館に寄って資料の物色などを。
ここで4点ほどの資料を収集。
この寒い新年早々から来館者などがそうそう来るはずもないようで展示室の照明が消えておりました。

立派な構えの陣屋門自体は郷土資料館などの公共施設が集まる敷地に移築されたものらしく。
西側の少し離れた個所には吉井藩当時の武家長屋が現存。
4世帯の方が現在も居住されているとのこと。
ついでに図書館にも立ち寄ってみると施設の狭さに対して資料構成自体は充実しているという好印象も。
ただし書架間の有効幅が80センチなので、思わず単位面積当たりの荷重計算などをしてしまうのでありました。

奥平城 11時15分~12時00分
河川の合流点となる畑の先端部分が東の端に相当する模様。
つまりは城跡を道路が城跡を東西に縦断しているということらしく。
この時期でないと入り込むことができない竹林を北側の崖線沿いの踏跡を辿り探索。
竹林の切れ目に近い西側に僅かばかりの堀切状の溝があるようなないような。
ことによると工場の建設の際の造成に伴い消失している可能性があるのかも知れず。

奥平城
奥平城遠景


長根陣屋 12時30分~12時45分
吉井町の「文化財ガイドブック」(2006)によれば、天正16年(1588)にこの地を知行された徳川氏旗本奥平氏の陣屋跡で「城の内」との地名が残ると解説。
...って、どこか時代背景がずれているような気がするのであります。
「吉井町誌」に記された山崎一氏の記述には含まれていないので、何処かで取り違えたのかも知れず。
街中なので無論遺構などがあるべくもなく、用水路の曲折が往時の姿を僅かにとどめるということらしい。

長根城 12時50分~13時50分
二の郭の一部分に明確な土塁と空堀が現存。
ただし民家の敷地内なので遠くから拝見することに。
主郭の小口部分の土塁は墓地となって辛うじて残されているという印象。
寧ろ東側の長根神社方面の土塁と空堀らしき地形がやたらに目についた次第。

多胡砦 14時10分~14時25分
舌状台地の先端部に所在していることから眺望は良好。
独立した城砦というよりも多胡館とほぼ近接していることから居館と砦という密接な相互関係があった時代も想定されるような立地条件。

多胡館 14時25分~14時50分
源先生義賢の館跡と伝わる方形館。
歴史の古いことは発掘調査の結果から間違いのないところ。
事実上文献史料が存在しないのでこの経緯に関しては肯定も否定も難しく。
明確な土塁と空堀が残存していることは見ての通りなのですが、何分にも竹林の元気が良すぎて北側の一部分しか見えないところが残念と言えば残念。

多比良城 15時20分~16時00分
本日の中では最も収穫のあった部類かと。
郭はほとんど畑として耕作されているものの、廓の形状はほぼ原形が保たれている状態に見えたのであります。
また東西を深い谷に挟まれた舌状台地の先端部分を利用した実に効率的な縄張りであることもよく分ります。
主郭の形状も思いのほか明確に残されており、平井城の背後を防御する役割は十分に果たしていたと考えられます。

多比良城の本郭
多比良城の本郭


一郷山城 16時20分~16時30分
この途中にて日没コールド。
模擬天守へ向かう道路が11月からは午後4時で閉鎖。
道路の建設で西側部分、さらに近年の模擬天守(展望台)の建設でほぼ消滅しているとの情報。
目の前に見上げるようにして壁のように立ちはだかる稜線。
もはや比高差約100mの丸太の階段を登る気力はなく。
八束城の登り口の確認作業もこの時点で完全に気力が消滅。


平地の城館ならば、問題ないかと思いきや足取りさえも覚束かない状態。
コースタイムを見ていると、如何に途中での休息時間(こまめに食料摂取を含む)が長いか明白。
こうしてみると食欲はあるものの、やはり未更新のまま放置されっぱなしの城館たちの祟りかもしれず。
もとより歳を省みず出かけすぎの傾向は確かに否めないところかも知れず。
冗談はともかくとして、そろそろ体のあちこちの定期点検に赴かなくては。
  

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昨年末のミニオフにて天候の急変のため訪れることができなかった清水山城方面へ。
午前6時に目覚ましはセットしたもの毛頭起きる気などなく。
ネコの朝食などの面倒を見ているうちにどんどん時間が経過。
かくて8時40分にようやく出発という運びに。


常岡城(群馬県藤岡市 以下同様)午前10時40分~11時30分
麓のどこか寂しげな小さな神社にて初詣などを。
露天さえ設置されていた金鑚神社と金鑚大師の初詣とは誠に大違いかと。
もっとも詣でる人が少ない分だけ、ご利益は多目かも知れず。

肝心の遺構については篠竹の藪が酷く、実のところ明確な遺構が確認できないまま悪戯に時間のみがズルズルと経過。
尾根筋の先端部分にあるはずなのですが、その先端部分があまり明確ではないような。
きれいに笹が刈り取られたあたりを想定したいものの何処か何かが違うような印象。
沼の位置との関係で当りをつけても、どうもいまひとつすっきりとしない按配。
およその場所自体は合っているはずなので、とりあえずはこの辺りかも知れないと自分自身を納得させるのにかなり苦労するような始末。
初訪城にしては出だしから暗雲漂う一年の始まりなのでありました。

常岡城
常岡城(推定)


清水山城 
正午~午後2時40分
先月の30日の時には突然本降りの雨に。
しかし本日は120%の晴天。
問題は登り口の所在。
資料によれば西側の集落から鞍部を目指す模様。

ところがやはり直接鞍部へと続く山道はなさそう。
このため取敢えず畑の間の畔道から稜線を目指すことに。
ほんの少しだけ藪こぎをすると思ったよりも明確な道に出会うことに。
地元の方が作業などのために設置された道のようで、無論登山道でないことは確か。

いくつかの分岐が所在するも、より鞍部に近い方を選ぶことに。
それでも最後には道は消滅。
踏み跡ともいえないような斜面を斜めに登り、鞍部の東側へと無事到達。
ここまで来ればしめたもの。
あとは稜線に沿って山頂を目指すだけ。

途中削平された平場、半ば埋まっている堀切などを経て主郭へと到達。
250平方メートルほどの広さのを有する主郭の東西には思いのほか規模の大きな腰郭が所在。
主郭南側には謎の石積みなどもあり、けっして大規模な城郭ではないものの遺構の残存状況は良好。
ここで倒木に腰かけて軽く食事。
何時も立ち寄る神川町のローソンで購入したミックスハムサンドから片づけることに。
同時に購入したおにぎり2個は後回しにして、万一の時の非常食糧に。

清水山城
清水山城堀切

登り口から山頂までの某の所要時間は30分。
遺構の確認などに最大でも30分程度。
下山は20分もあれば大丈夫かと。
比高差130メートルしかないことに加え、麓から山頂が見えているというのは気持の上でも大変登りやすいという事実を改めて確認。


七村城 午後3時20分から午後3時40分
付近は標高600メートル以上もある上に日照時間も少ない谷沿いの地形。
このため途中の県道177号線も一部は路面凍結状態。
この状況を確認した段階で、所在地および登り口の確認だけとなる可能性を覚悟。

北側の沢伝いの林道脇には50センチほどの氷柱が溶けずにそのまま成長中。
登り口となる栃の木沢に架けられたコンクリート橋は右岸の川岸がそっくり流失。
このため、丸太を束ねた臨時の橋が継ぎ足されておりました。
登り口も明確で地形から判断した所要時間は最大でも2時間ほどかと。

七村城麓の氷柱
七村城麓の氷柱



さて登り口付近は稜線の東側なので、気温の低下が著しくおそらく摂氏3度前後という状態。
指先の感覚が次第に無くなっていくのをひしひしと感じ、デジカメが故障しないうちにとっとと撤退することに。
この結果3番目の七村城は所在地と登り口を確認しただけにとどまることと相成りました。


本日の目標は出発時間が遅いので3か所を予定。
然し清水山城の登り口へ向かうための歩行時間が予想以上にかかったこと、清水山城から七村城までの距離が長く路面の凍結などの道路状況に支障もあり結果的にタイムロスを連発することに。

ことのついでに「鼠喰城」へのアクセスを確認しようとおもったものの、生憎と林道は標高900m前後の北側斜面。
この時期は標高600mでもこの状況なので、通行止めの表示どおり間違いなくあちこちで路面凍結しているはずかと。
「鼠喰城」については4月上旬頃の方が訪れやすいのかも知れず。

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パソコンの前にいるうちに年が変ってしまった。
「門松や 冥土の旅の 一里塚 目出度くも...」とは昔からよくいったもので。
正直この歳になると正月だからとて格別嬉しいという気分にもならず。
もたもたしているうちに、あと10日もたてば57歳に。

父親の時代には55歳定年制。
50歳定年という企業も珍しくはなく。
昔ならば楽隠居の年代。
だいたい磯野波平の年代設定は53歳くらい。
さすれば完全なる横町のご隠居さんに。
しかし年金は65歳からの支給。
それさえも信用ならない昨今の社会情勢かと。

子供のころには正月といえば、理由もなく何かわくわくした気持ちになっていたのが何処か懐かしく。
そういえばお年玉をもらったという記憶もあまりなく。
子供の頃、我が家ではお年玉をもらうというしきたりがなく。
正月早々から「く」(苦)ばかりが続き縁起でもございませぬ。
それでも子供心にも「一年の計は元旦にあり」などとませた気持でいたことは確かにて。

さて冷静に残りの人生設計を真剣に思案すべき年代に入ってきたことは間違いないところ。
家庭的、経済的な問題はさておいて、健康面から考慮してあと何か所くらい城跡に行くことができるのか。
正月早々からどうしてもこの問題に焦点が絞られてしまうのでありました。
もはや人生の主要課題として位置付けられているのでありまする。
取敢えず今年の目標として群馬、栃木を中心に凡そ100か所程度を目途としておくことに。

「更新は如何に!」
「お、お許しくだされ、お代官様...」
「娘を差し出さば考えなくもないぞ」
「そ、そればかりはお許しを...」

そういえば大阪の長女はここの所、真剣に人生を考えているらしく。
俄にスキルアップを検討中。
差し出しても受け取るべき相手が居そうもなく、経済的な援助もあと3年が限度かと。

以上、元旦早々の年寄りの戯言にございまする。

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5月下旬から9月の初め頃まで極度の体調不良が継続。
このため訪れた城館関係の数は再訪を含めても110か所という結果に。

とはいうものの11月に大阪城方面、12月に群馬県西南と、ようやく3年目にして県外へと進出。
「城郭図鑑」のモナーどのに触発され、本年初めて訪れた城館のベスト5を発表仕候。

第1位 凸高山城(群馬県藤岡市)

昨日の上州ミニオフにて、「城逢人」管理人史進殿のご推挙により急遽登場した複合城郭遺構。
筆舌に尽くしがたい麓の石垣・巨大空堀に加え、俄には形容しがたい天屋城の見事なる5条もの堀切の数々。
まさに9回の裏、代打逆転満塁本塁打にございまする。

第2位 凸武州松山城(埼玉県比企郡吉見町)
低丘陵先端部に所在するにもかかわらず、その空堀のスケールは掛け値なしの称賛に値いたしまする。
3回訪城。

第3位 凸伝大串氏館(埼玉県比企郡吉見町)
その経緯の詳細は不明。
近世屋敷の構堀の可能性も。
いずれにせよ北側に所在する明確な堀跡に感激をいたしましてございまする。
3回訪城。

第4位 凸古御岳城(埼玉県秩父郡横瀬町)
主郭西側の険しい岩場を文化財の標柱を背負い登攀。
ご尽力された地元の高齢者事業団の皆様に感謝と敬意を込めて。

第5位 凸りゅうがい山(埼玉県飯能市)

けっして素晴らしい遺構が所在するという訳ではございませぬ。
余り知られていない城郭遺構であることに加え、無論「城郭もどき」の可能性も全面的に否定はできず。
合計4回訪れたという管理人の思い入れのある場所ゆえ、無理やりの第5位にございまする。

今年1年ご愛顧を賜り厚くお礼申し上げます。
皆様どうぞよいお年をお迎えくださいませ。

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年末年始にかけてのミニオフを予定。
然し年末の多忙期のため、暇人の某とは異なり些か日程調整が難航。
それでもどうにか本日の決行と相成りました。

ところが昨晩からの雨模様。
夜半過ぎには本降りに。
天気予報では降水確率0%の表示。
ともあれ小雨模様のなかを上野に向けて進発。

それでも日の出とともに雨雲は次第に薄くなり、時折晴れ間も見える空模様。
山城ゆえに昨夜からの降雨により、足元に問題もあるやも知れず。
予定通り神川町にて集合。
すぐさま目的地へと直行。

三ツ山城(群馬県藤岡市 以下同様)午前8時~11時
明確な所在地、登り口とも詳細不明。
地形図を元に登り口らしき個所から登攀。
しかし遺構に辿り着くまでのルートが途中から難航を極め予定
所要時間を大きく超過。
ルートは険しかったものの最終的には主郭部分と予想以上に見ごたえのある堀切2か所を含む遺構確認に成功。
また南側の遺構に向かう尾根筋の途中では、城郭遺構かどうか判断に迷う腰郭状の削平地のような地形があちこちに所在。
眺望は思ったよりも良好。
平井金山城を俯瞰するような立地条件。

三ツ山城南側堀切
三ツ山城南側堀切


なお最長老約1名(某のこと)は、途中から次第に足首に力が入らなくなりメンバーから著しく遅れること頻り。
己の余りの体力低下に茫然自失。
息切れも酷くなりはじめ徐々に頭の中が無酸素状態に突入。
かくしてなかば夢遊病者のような風体に。

比高差約200m+明確なルート不明+登り口不明+足場の悪い急斜面の連続+荊の不意打ち等の悪条件が完備。
これでは訪れる物好きな人は希少かと。
危険は少ないものの、仮にもう一度行けと言われたら脱兎の如く逃亡したくなる山城かとも。

高山氏館 11時20分~11時25分
養蚕学校の高山社発祥の地で、近世以来の館跡とのこと。
解説版に備え付けのパンフレットを拝領し、道路からのみそっと拝見。

なお、このあたりから次第に雲行きが怪しくなりはじめ小雨模様に。
清水山城に向かう途中には本降りに変貌。
「降水確率0%の予報責任者を呼べ」といいたい所なれども、谷間の山村のため携帯は圏外にて。
清水山城の登り口と思われる付近で停車したものの、なかなか雨の弱まる気配が見られず。
三ツ山城では上手くいったものの、登り口不明に加えて本降りの雨模様ではどうしようもなく。
清水山城はここであっさりと断念。
やむを得ず次の目的地である比較的登りやすそうな子王山城方面に向かうことに。


子王山城 11時40分~12時15分
まずは峠の「みはらし茶屋」にて、北西の冷たい季節風を避けながらほんの少しだけ腹ごしらえ。
茶店は残念ながら冬季休業。
風が吹けば桶屋が儲かる..ではなく、天候の回復が期待。
事実空が次第に明るくなり雨の降り方も大分小降りに。
小雨模様の中、濡れそぼった比高差80mほどと思われる400段の階段を黙々と登攀。
ここでまたしても何度も足が止まり忽ち息切れする管理人。
頭の中が真っ白になりつつも山頂の主郭に到達。
次第に北側の赤城山方面の見通しが良くなり、季節風が冷たい分確実に天候回復の兆候。

子王山城
子王山城

黒沢屋敷 12時30分~12時40分
地元の公民館駐車場に駐車。
手元の資料に記されているかつての屋敷跡の名残はほとんど見当たらず。
古い墓地が近くに所在する以外にその面影を辿ることは困難かと。
天候も完全に回復し、このあたりからは子王山城の山容が実に印象的。

駒留城 12時40分~13時35分
黒沢屋敷近くに所在しているので、そのまま引き続いて小学校脇の谷川沿いの道を辿り城跡へ。
比高差は90m弱で然も緩い上り道。
それでも次第にメンバーから遅れ始める管理人。

主郭北側の大木が落雷により倒壊し著しくワイルドな光景がメンバーの眼前に。
主郭には地守神社奥社の石祠が所在。
神社の奥社からは古い参道が。
下り道としては至って便利な急坂。
然し、これを登れといわれると..

駒留城(まかぶ じょう)
駒留城(まかぶ じょう)

高山城 14時~16時30分
日没まではだいぶ時間の余裕が。
かくてメンバーのS氏一押しの城郭跡へ。

平井金山城は対岸に所在し、この場所からはその山容が明瞭に眺望。
麓の空堀の規模は上幅4間以上、深さ5mと正に大城郭並み。
一部残存するシュールな印象の石垣遺構にも感激。
言葉では言い尽くせない要害山の構堀、天屋城の5か所に及ぶ見事な堀切。
2007年の締めくくりの訪城に誠に相応しい遺構群なのでありました。
ゴルフ場の建設により消滅した部分があるとはいえ、これだけ良好な城郭遺構が存在しているという事実にあらためて感動。

高山城
高山城

然し120%疲労困憊の極致にある管理人は相変わらず夢遊病者のごとき足取りにて。
ひたすら他のメンバーに多大の迷惑をかけ続けるのでありました。

東平井砦 16時40分~16時45分
帰路の途中に所在しているため、6日前に続いての再訪。
今回は東側の堀跡遺構の存在をしっかりと確認。
とはいうものの、傍目には枯草に覆われた冬枯れの野原という表現の方が正しいような。

東平井砦の堀跡
東平井砦の堀跡(推定)



今回の訪城では改めて基礎体力の低下を思い知り愕然。
比高差200mの悪路を伴う山城攻略はそろそろ限界なのかとも。
単独行であるならば、2か所も行けたかどうかさえ分からず。

ご案内、ご同行いただいた史進どの、モナーどの、
最初から最後までヘロヘロの某にお気づかいいただき厚くお礼申し上げまする。
これに懲りずに来年も本年同様お付き合いくだされm(__)m

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