今年は夏の間体調をくずしていたこともあり、年末の時点での残日数は26日余り。
翌年に繰り越せるのは20日分まで、あとの残り分は権利消滅の憂き目に。
有給休暇の残日数が年末の時点で30日を割り込むことができたのは凡そ30年ぶりくらいかと記憶。
仮に毎年10日ずつ権利消滅していったとすると、実労働日数が250日ほどのため少なくとも一年分は闇の中に消えていったという計算に。
このため、事業所一同(とはいえ総員3名)繁忙期が過ぎ去り、交替で有給休暇消化強化月間に突入。
凸池田館(埼玉県神川町 以下同様)午後0時30分~1時20分
冒頭から本日のメインディッシュ。
旧家の西側と北側に見事な堀跡と土塁遺構が現存。
とりわけ西側部分の折の個所の土塁の規模には瞠目。
東側は御嶽城を水源とする金鑚川の流れが天然の堀跡。
遺構の有無ということのみに限れば、このあとの行き先では唯ひたすらテンションが低下することになるのが目に見えている次第。
西側の畑からだけではありましたが、存分に地表の凹凸を堪能させていただきました。
ふと、南側の方角に視線を転じると、先日訪れたばかりの金鑚御嶽城の稜線が目前に。
しかし東側の物見岩の個所はこちら側からは逆光であるとともに、山頂から派生している稜線の陰になり肉眼ではその確認が難しく。
いつもは滅多に使用しない常備の双眼鏡での観察を試みたものの結果はほぼ同様にございました。
上方から見渡すことが可能でも、下方からはその所在が分かりにくいとは摩訶不思議にて。
凸岡部屋敷 午後1時40分~2時05分
珍しくコンビニで昼食を購入し腹ごしらえ。
単独行の場合には時間節約等のため、だいたい昼食抜きが当たり前にて。
しかし何故かザックの中には2日間位は生存できる高カロリー保存食料等を常備しているのであります。
近くの農業用水路では改修工事の真っ最中。
このため車の通行に支障があるかと思い、500mほど離れた個所から徒歩にて接近。
勿論遺構と呼べるようなものは皆無に近く。
歴史を感じさせるものとしては、唯一北西の角部分に宝暦年間の墓石などが所在。
中世の板碑も所在しているとのことでありましたが、表面の摩滅が著しく近世以降の墓石との判別が難しい状態に。
この場所からも金鑚御嶽城の稜線が一望に。
耕地整理された畑よりも金鑚御嶽城の遠景写真を撮影する時間が長く。
凸中新里館 午後2時30分~2時55分
規模の大きな遺構とされていますが、圃場整備の実施により平坦な地表に現存する遺構に結びつくような存在は殆んど確認できません。
その中で唯一関連付けることができるのが東側の用水路部分で、一応東側の堀跡の推定ラインと符合しています。
折りしも館跡推定地の中心部分では農業用水の建設作業が進行中で、その殺風景なことこの上なく。
このほかに、歴史を感じさせる存在としては館跡東側の「東城稲荷」の祠が所在。
如何にもその名称が気になるところでありますが、中世の館跡との関係は不明なのでありました。
凸光権寺館 午後3時10分~3時40分
圃場整備のため比較的近年の発掘調査によって二重堀を有する中世の館跡が確認された遺跡とのこと。
僅かに北西側に所在していたとされる堀跡と現在の用水路が幾分接近していることを除けば、梨園として活用されているその現状から当時の様子を窺うことは難しく。
雪を頂いた浅間山はよく見えるのでありますが、平坦な畑と梨園の保護ネットを様々な方向から撮影しても、師走の午後の日差しが大分傾き始めていたためどれも同じような風景となってしまうのでありました。
凸安保氏館 午後3時50分~4時20分
以前より幾度となく前の道路を通過するのみにて。
今年だけでも4往復はしているはず。
自分の描いた手順通りでないと、先へとすすめないという幼少時からの誠に因果な性格が原因。
しかし先日念願の金鑚御嶽城を訪れることができたこともあり、今回やっと正式に訪城の運びに。
大分以前に本郭的な発掘調査が実施され、堀跡を含む大規模な遺構が確認されているとはいえ、現状は概ね畑と宅地のみで地表上の遺構の形跡などは跡形もなく。
加えて「史跡の石碑および文化財の現地解説版」が、館跡の推定地の西のはずれにポツンと所在しているという奇妙な配置。
かくてこの目標物がすぐには見つからない場合が少なくないのは至極当然のようにも。
しかし文化財の解説版と石碑が所在するということは、訪れるものにとってはそれだけでも有難いこと。
ふと思えばこの場所も半世紀近く前に訪れているはず。
何処となく阿保神社境内の社殿の配置やご神木にも微かな記憶があるような。
当時小学校高学年の某にとっては、まさに何も見るべきものも無くひたすらふてくされていたような気も。
まして当時はこのようにして訪れることになろうとは全く予想だにせず。
しかし館跡北方の塚(古墳か)が気になった以外には何も無いことには変わりは無く。
二重堀が所在していたとされる辺りには、既に収穫を終え冬支度の済んだ地元特産の「梨園」が所在。
「梨」だけに「無し」という「落ち」にて。
先日と撤収時間は偶然にも全く同じ時刻。
但し本日は平地の城館跡とはいえ一応5か所。
遺構が少なく、歴史的経緯も不明な個所が殆んど。
このためHPの更新が楽...ん、どこか本末転倒のようにも...
また足回りの健康状態を確認するには無難な内容で。
事前に予防措置を講じておきさえすれば、歩行自体には目立った支障も見られず全体としてもまずまずの成果。
年内に最低あと1日は訪城することを深く心に刻んで、見慣れた外秩父山系のシルエットを横目に見ながら2時間20分かけて自宅へと車を走らせたのでありました。
そこで恒例の「城館アクセスランキング」を公表仕候。
今回はアクセス累計が1千件以上のものを対象に。
順位付けは前回と同様に「アクセス累計件数/HP公開延日数」により割り出された数値(小数点第2位未満切捨て)を基礎にしておりまする。(便宜上、これを「基準値」と表現)
⇒第2回、第1回当時と比べますと掲載城館数自体は増加しておりますが、各城館一日当りのアクセス件数はむしろ漸減する傾向にあるようでございまする。
なお、集計数値は2007年12月18日現在のもので、「-」表示は前回のランキング外にございます。
順位 |
城館名 |
基準値 |
同前回 |
累計数 |
同前回 |
1(-) |
小鹿野町要害山 |
6.26 |
- |
1,253 |
- |
2(3) |
美里町円良田城 |
2.31 |
2.57 |
2,245 |
1,650 |
3(-) |
名栗根古屋城 |
2.28 |
- |
1,521 |
- |
4(6) |
鉢形城 |
2.25 |
2.28 |
2,739 |
1,871 |
5(1) |
伊奈城 |
2.22 |
4.16 |
1,148 |
750 |
6(-) |
嵐山町杉山城 |
1.73 |
- |
2,075 |
- |
7(-) |
川越市寺尾城 |
1.49 |
- |
1,542 |
- |
8(-) |
朝霞市岡城 |
1.39 |
- |
1,145 |
- |
9(10) |
熊谷市別府城 |
1.37 |
1.48 |
1,482 |
1,084 |
10(-) |
小川町腰越城 |
1.29 |
1.69 |
1,504 |
1,240 |
第1位の小鹿野町の要害山の一日平均6件以上というアクセスは、HPの表紙に掲載していることとその名称の所以かと。
こうしてみますと拙サイトのような非力なサイトといたしましては、あらためて一日当たり1件以上のアクセスを維持するということの難しさを感じるのであります。
一昨年と比べると明らかに体力が低下。
元気で動ける年月には自ずから限界というものが。
かくて両足に不安材料を抱えたまま懸案の神川町の御嶽城方面へ。
本来ならば一昨年の冬に訪れているはず。
そのうちになどと先送りしているうちに、早くも2年の月日が経過した次第。
凸真鏡寺館(本庄市-旧児玉町)午前11時40分から午後12時55分
御嶽城へのコースの途中に所在していることから立ち寄っていくことに。
館跡は南向きの丘陵地帯の緩斜面に所在。
手元の資料によれば南側の畑の中に堀跡の痕跡が確認できるとのこと。
さっそく畑の中の堀跡へと向かうと、以前は水田であったと思われる帯状の細長い低地がに東西方向にのびておりました。
また東側の道路、西側の道路付近も堀跡の痕跡が漂う低地を形成。
本堂の北側には延長60メートルほどの堀跡も所在。
ただし遺構の状態としては境内地という事情もあり些か微妙な塩梅かと。
西側の牛舎近くでは堀跡のためか某の体重のためか原因は不明なるも、何故かずぶずぶと足元が沈み込むのでありました。
旧児玉町地域では天台宗はこの一寺のみ。
天台密教といえば修験との関わりが。
渋谷金王丸(土佐坊昌俊)を開基とする経緯も理解できるような。
ただし渋谷氏と塩谷氏との関わりについては明確でなはないようです。
しかし周囲をのんびりと2周もしてしまったために、本日のスケジュールがこの時点で早くも押し気味に。
凸御嶽城(神川町)午後1時10分から午後4時20分
コースどおり、始めは重要文化財の多宝塔を見学。
神社境内の南側から整備された遊歩道に従いつつ、特別天然記念物の「鏡石」方面へ。
本日は足元に不安材料があるだけでなく、緩やかな遊歩道であるにも拘わらず忽ち息切れ状態。
一回りくらいも年嵩の年配者に追い抜かれるという情けなさ。
尤もこちらは5Kgほどの荷物を背負ってはおりまするが。
息も絶え絶えの状態でどうにか尾根筋へと到着し、そのまま東廓へと向かうことに。
ふと入口を眺めると何やら小口のようにも見える地形。
弁慶の穴、物見岩などの名所を見学。
この物見岩については御嶽城の物見台という見解もあれば修験道関係のものとする説もあるようですが、いずれにしても眺望は実にすばらしいものがあります。
さて、御嶽城の本郭へ向かうべく今来た道を戻って遊歩道とは別れて尾根筋の細い山道へ。
途中には見過ごしてしまうような小さな堀切が2か所ほど所在。
真竹の目立つ痩せ尾根をいくらも歩かないうちに、それとわかる堀切部分に到達。
幾分尾根筋の傾斜がきついためトラロープが設営。
この場所を過ぎるとあっという間に本郭へと到達。
御嶽城の本郭であることを記した標柱が所在するのみで、残念ながら眺望はほとんどない状態。
本郭の規模も思いのほか小さく、小屋掛けできるかどうか微妙な大きさ。
さて、この山頂から派生している3方向の尾根筋の何れへと向かうべきか暫し思案。
実はこの時点で右膝にも軽い痛みが。
ついでに左足のアキレス腱にも違和感が。
いくら標高が低いといっても冷え込みの厳しい山中での立ち往生は避けたいところ。
足元の状態、日没までの残り時間を念頭に、手始めに登り降りが楽で比較的ルートが明確な西側のルートを選択..したはず。
しかし何故か北西の2の郭方面へと向かっておりました(汗)
また、この時期にもかかわらず藪が酷く地面の観察が難しく。
再び山頂に戻り西側のルートを地形図と方位磁石を頼りに探すことに。
なんせ山頂からは叢生する樹木と藪のために、確かに派生しているはずの尾根筋が全く見えず。
それでも西側の帯郭の先端部分からのルートを探し当て西進。
このとき再び左足に鋭い痛み。
原因は荊のトゲにて。
よく見ると尾根筋のあちこちに荊が。
2番目の堀切は掴まるものがないと昇り降りが面倒なくらいの急斜面。
しかし滑り落ちたとしても痩せた岩尾根ではないのでその点は安心。
この堀切の北側谷沿いに所在する平場には石積みがあるはずとの情報。
しかし何分にも藪がひどく、足元も悪く地面がよく見えず。
石の破片が目立つ以外には明確に石積みといえるような遺構は確認できず。
しいて言えば下記の画像の個所くらいのものでありました。
一番西側の物見台と推定される標高314メートルのピークまで移動。
眺望は思いのほか良好で時間さえあればゆっくりと食事でもしたいところ。
しかし、時刻はすでにこの時点で3時40分に。
山頂の本郭へと戻ったの時には午後4時ちょうど。
このあと予定通り修験道の法楽寺跡を経由して神社の駐車場へと到着。
谷沿いの地形で、西方の雲が厚いこともあり事実上の日没。
南側の尾根筋、2の郭から派生している2本の尾根筋方面については確認できず仕舞い。
比較的条件の良い西側のルートでもかなりの藪が。
残りの部分は本郭からの比高差がそれぞれ50メートル以上はある難路かと推察。
自宅に向かっていくらも車を走らせないうち完全に日没。
3か所程度は訪れることができるかと皮算用。
結果は1か所+約2分の1。
現在の自分の足元の状態から考えると、本日はこの程度で納得しておかねば。
と、それほど大げさなものではありませぬが。
植物名 |
2007/12/16 |
2007/06/10 |
2006/07/10 |
1位 ムクゲ |
2949 |
3位 1340 |
6位 421 |
2位 ヒマワリ |
2870 |
1位 1762 |
2位 660 |
3位 アジサイ |
2528 |
2位 1360 |
圏外 |
4位 ゴマ |
1623 |
4位 1114 |
4位 593 |
5位 コスモス |
1574 |
6位 810 |
圏外 |
6位 ハクモクレン |
1308 |
5位 1078 |
1位 709 |
7位 タチアオイ |
1123 |
10位 656 |
圏外 |
8位 ヒガンバナ |
971 |
7位 795 |
5位 521 |
9位 コブシ |
928 |
圏外 |
掲載なし |
10位 ワタ |
819 |
9位 739 |
3位 605 |
数値はアクセスの累計にございまする。
こうしてみて見ますと、やはりベスト3の「槿」「向日葵」「紫陽花」の健闘が際立っている模様にて。
当面この3種で熾烈な上位争いが展開されるのでありましょうか。
特に槿、向日葵のアクセスは鉢形城を超えておりまする(苦笑)
また、下位では「立葵」「辛夷」の伸びが目立っているような。
名称が分かっているものが大分溜まってきておりますが未だ更新に至らずにおりまする。
こんなことをしている暇があれば、HPのアップができそうなものに御座まするm(__)m