本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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郡山城 福島県郡山市 午前8時30分から8時50分

事前に所在地情報等を「城郭図鑑」さんのHPより入手させていただいておりました。
しかし市街地内であるということ、交通事情と道路事情等が不明のため、念のため宿泊したビジネスホテルから片道約2キロほどの距離を徒歩にてアプローチ。
現地には案内板のようなものは見られないものの、城跡は桜木町1丁目の台地を中心とした地域に相当する模様。
もとよりその現状からは明確な遺構等を確認できるような状態には非ず。
また中心部は宅地分譲予定地の看板が立てられ、造成工事そのものは開始されてはいないもののすでに大きく地形が改変されている様子も。
城跡の名残りについて強いて挙げるとするならば、最大比高差8メートルほどの台地北縁部と東側の細長い都市公園に面した辺りに何処と無く面影が残されているようにも。

現状では多少の起伏を伴う地形とはいえ、僅か往復4キロ強の道程さえも時速約4キロ前後という情けなさ。
3日目とはいえども、この歩行速度の著しい低下現象に確実に体力の衰えを痛感して暫し呆然。
帰路に地元の地酒と土産物を購入して取敢えず所期の任務を達成。

郡山城
郡山城



三春城 福島県三春町 午前11時45分から午後1時30分

始めに入館料350円を支払い町立歴史民俗資料館に立寄り情報と資料の収集を。
やはりある程度の規模の城館跡は縄張図などの基礎資料は不可欠。
町史関係がディスカウントされ1冊1800円という格安さ。
このため古書サイトよりも遥かに安い価格で新品を入手。
ここで資料館の方に頼み込んで事務からの三春城の全景を撮影。
城郭関係書籍掲載の全景画像は概ねこの位置からのもののようでありました。

さて肝心の城跡遺構。
石垣関係は部分的に残存していることを確認。
主郭、二の郭への搦手口?脇と主郭東側辺縁部に顕著に残存しておりました。
復興?された櫓台の石垣は何処と無く不全な感じも拭えず、少なからず周囲の景観にそぐわない様な印象も。
寧ろ主郭東側の出郭周辺の帯郭、腰郭、切岸などの方が印象に残ることに。
この周辺に時間をかけすぎたため、主郭大手口付近、東館方面を確認する時間的余裕が完全消滅(汗)
この後の予定時間を考慮するとこれ以上の長居はできそうもなく、また季節柄樹木の繁殖も盛んなため再訪することを心に刻みつけ次の目的地へと移動。
観光シーズンと重なる可能性が懸念されるものの、竪堀遺構などの確認ならば10月下旬頃の再訪も一考に価するやも知れず。

三春城
三春城


御祭館 福島県三春町 午後2時05分から午後2時10分

予備知識は三春町公式HPのみ。
小浜城へ向かう県道沿いに所在する大内氏に対する三春城主田村氏最後の防衛拠点とのこと。
その割にはこじんまりとした比高差30m、南北方向150mほどの独立小丘陵。
無論余り時間も無いことから、あくまでも所在地確認が主目的。
とはいえ100%この場所であるかどうかは不明のまま。
一応北側には堀切ないしは構堀遺構があるとのこと。
しかし丘陵全体を覆う樹木の生育状況から見る限りこの時期の確認は困難と勝手に判断。

御祭館
御祭館


七草木館 福島県三春町 午後2時20分から2時25分

こちらも同様に所在地確認のみ。
比高差約35mとはいえ東西方向約300mと丘陵自体の規模は遥かに大きく、その分この時期の探索の困難さが一層明瞭に。
他に候補地となる地形が周囲に確認できないことから、所在地そのものについては概ね一致しているものと推定。
御祭館と同様に「田村48館」のひとつとされ、季節と時間を恨めしく思いつつも次の目的地へ移動。

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 七草木館


宮森城 福島県二本松市 午後2時45分から2時55分

現地へと赴いたところ、事前に当りを付けておいた推定地はものの見事なまでの的外れに。
てっきり県道40号線の西側と思い込んでおりましたが実は県道の東側で。
よく見れば現地にはしっかりと案内板まで立てられておりました(苦笑)
さらにあらためて地形図を確認すれば、麓を北流する小浜川を天然の水堀とすることができるのは東側の丘陵しか無い訳で。
しかし往還を扼するには比高差は同程度としても西側丘陵の方が20メートル近く標高も高く...くどくど、くどくど

宮森城
宮森城


小浜城 福島県二本松市 午後3時00分から午後3時30分

旧岩代町役場北側の丘陵に所在。
主郭南部に蒲生氏時代の石垣が部分的に残存。
主郭部分は児童公園として整備。
とはいえ三春城の児童公園と同様に麓の集落からの比高差60mの公園内には人影は皆無。

石垣以外には主郭東側切岸ラインが見所かと。
その折の付けられた形状、傾斜角度の組合せが誠に見事な城郭遺構として残存しておりました。
整備に伴う補助金がらみかも知れませぬが、比高差60mの山上の児童公園は三春城と同様に如何なものかとも思うのでありました。

小浜城
小浜城


二本松城 福島県二本松市 午後5時00分から午後7時00分

縄張図などの基礎的資料を持ち合わせないことから、始めに市役所へ向い関係課にて資料と情報を収集。
次に市立資料館へと赴き市史関係資料を入手。
この際教育委員会の方にわざわさ資料館までの道をご案内いただき感激を。

さて、まず途中で見つけた高台墓地からの遠景撮影ポイントへ移動し超望遠画像を撮影。
再び資料館方向へと戻り、ひと山超えて麓の駐車場へと到着。
三脚付デジカメを担いで復元?された箕輪門と二重櫓の個所から見学開始。
既に午後5時を過ぎていることから有名な観光スポットとはいえども人影はまばらというよりも殆ど見当たらず

ここから頂上までは比高差にして約100mほどの距離。
遊歩道の整備された登り道は、薮蚊と蒸し暑さを除けば快適そのものの環境。
めっきり衰えた管理人の足で、のんびり歩いても僅か20分足らずで整備された山頂の本丸へと到着。

山上からの眺望は予想通り良好の一言。
復興本丸天守台跡にて、本日6本目となる500ml入りの飲料水で水分補給。
勿論当人以外は全くの無人で、時折吹き抜ける風はまさに一服の清涼剤。
このようにして思惑通りに二本松城本丸を独り占めし、贅沢かつ至福のひと時を過ごすことに。

折りしも安達太良山に夕日が沈みかけ、「♪♪東京の空~ 灰色のそおら~」と倍賞千恵子の歌が脳裏をよぎり暫くの間リフレインを繰り返し続け。
このあと城内の搦手口、二本松少年隊の碑、千恵子抄の碑など幾つかの史跡・名所を回り麓の駐車場へ戻ったのが午後7時ちょうど。
無論残念ながら見落とした個所も幾つか。
しかし夏至前の晴天でなければとても行動不可能な時間帯なのでまずまずの締めくくりと考えることに。

そういえば、こちらの麓にも何故か唐突に児童公園が所在。
なお戊辰戦争での解説板等には新政府軍の呼称は官軍、征討軍とは呼ばずに「西軍」との表記が目立ちました。
考えれば未だ140年ほど以前の出来事故に、未だにある種の拘りがあっても然るべきかと納得を。

二本松城本丸石垣
二本松城本丸石垣





3日間の訪城で合計22か所(⇒うち麓から眺めただけが7か所も)+史跡1か所(⇒偶然の産物)を回ることにどうにか成功。
全く初めて訪れたにしては我ながら上出来の部類かとも。
なお、本日の食物摂取関係はビジネスホテルのサービス朝食のお握り一個+味噌汁一杯のみ(苦笑)
この日も腹具合が余り思わしくなく、昼食抜きで行動していたので高速SAにて夕食を予定。
しかし、午後9時を過ぎると自販機のみの営業に。
かくして2食抜きのまま午後11時半に自宅へと無事到着。

往復および移動を含めて合計700キロメートルの走行。
平日夜間の東北自動車道は渋滞とは無縁。
このため平均時速100キロメートルで走行することも可能。
しかし夜間は極端に動体視力が低下する体質のため、時速80キロで大型トラックのあとをトコトコと走行していたのでありました。

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須賀川城 福島県須賀川市 午前8時から午前8時30分

近世の絵図などによれば、須賀川市内の市役所北側400mほどの地点に所在する二階堂神社付近が主郭跡と推定されている模様。
現地には城跡であることを示す解説版も設置され、かつ社殿には高さ2mほどの段築が施されていることからかつての城跡の残滓なのかも知れず。
しかしこれを除くと現状の地形からは市役所方面と比べ全体として比高差3mほどの微高地を形成していることがわかる程度。
主郭部分から見て東側の方も幾分微高地となっているのでかつての郭跡であるようにも思えるのであります。
何れにしても市街地のど真ん中に所在していることから、それ以上の収穫は見込まれそうにもなく。

須賀川城主郭
須賀川城主郭



越久館 福島県須賀川市 午前8時50分から10時20分

30年近く以前に刊行された「日本城郭大系」によれば小丘陵上の竹林に状態の良い遺構が所在するとの記述が。
とはいえ大分昔の調査であることと6月中旬という季節を勘案すれば、ここはひとつ所在地の確認程度で誤魔化そうなどとも。
そうはいっても寺院(無住)と神社付近だけでも確認しておこうと、取敢えず寺院の石段をヨタヨタと上へ。
確かに寺院境内なので削平されて平場には相違なく。
次に西側の一段高い神明社の平場へと移動...このとき何時もの如く右足首に激痛が。
このためやむを得ず横歩きの要領にて僅かばかりの斜面を恐る恐る登り、さらにもう一段上の物見台跡とされる平場へとどうにか移動することに成功。

前掲著によれば、この場所が最高地点との記述。
しかし、どう見ても南西側の郭の方が明らかに高いという印象が濃厚。
さらにその間には上幅10mから15m、深さ最大7mはあろうかという空堀も樹木の間から垣間見え明らかにテンションが上昇傾向に。
比高差20m足らずの小丘陵ということもあり、この際足回りのことは気にせずに薮蚊・蜘蛛の巣を払いつつ竹木が叢生する空堀跡を前進。
けれども前進を阻む倒木類を跨ぐという動作は、実に膝と足首に負担を強いるものなのでありまする。

搦手と思われる郭の切岸部分は最大8mにも及ぶ個所も所在し正に見上げるような高さ。
竹藪が濃密なため確認できない部分が多いものの、戦国期の城館跡としては驚くほどに遺構状態が良好であることに率直に感動を。
ただし前掲著の縄張図は近世の村絵図のごとく余りにも簡略で、位置関係も余り正確ではないよう模様。
冬季に再訪できる機会があれば是非とも再確認したい城館跡なのでありました。

越久館の空堀
越久館の空堀



下宿御所館 福島県須賀川市 午前10時50分から12時頃まで

「日本城郭大系」によれば、岩瀬氏との関わりが想定されるものの歴史的な背景は不明とのこと。
越久館同様に全く期待しない城館ではありましたが、時間をかけて執拗に捜索した甲斐があったのでありました。
見どころは平場ないし郭西側の大がかりな二重の土塁と堀跡。
特に内側の土塁の高さは最大8mに及ぶ個所も。
堀幅も上面で10mから15mはあろうかという規模。
なお残念ながら西端の空堀跡は宅地化などにより概ね消失したものと思われます。
また西側と南側については、この時期に安易に踏み込めるような状態からは程遠く。

2の郭とされる平場には伐採による切株が各所に点在。
北側にカーブした内側の土塁には近年削平された跡も生々しく。
この切株に腰を下ろし、近くのコンビニで購入したサンドイッチにて昼食。

尤もこの場所にたどり着くまでには、情けないことに二度も場所を間違えた上に斜面で転倒し完全に横倒しに。
それでも光量不足対策用の三脚付装備のデジカメだけはしっかりと支えておりました。
幸い体の方も左側面が斜面と平行になっただけで打撲などの症状もなく皆無。
この上体の頑丈さを足周りに分与できぬものかと思った次第なのであります。

下宿御所館
下宿御所館



星ヶ城 福島県郡山市 午後1時から1時20分

坂上田村麻呂が築いた?と伝わり、戦国期には二階堂氏に関連する城館跡とされている模様。
比定地に関する情報の入手が全く不足。
このためとりあえずは、御代田小学校北西に所在する菅布禰神社の丘陵を含む一帯と推定することに。
一応は社殿の北側を中心に切岸状地形が確認できるものの無論確信などは全く無いも同然なのであります。

星ヶ城
星ヶ城



守山城 福島県郡山市 午後1時45分から2時30分

城跡は谷田川と黒石川に挟まれた段丘上に占地し、主郭部は東側の小高い位置に所在。
近年において蒲生氏時代の野面積みの石垣が発掘調査により確認された城跡で、主郭と推定される通称城山八幡にも郭と土塁が残存。

二の郭石垣の高さは4mから5mほどで西側から南側へと回り込んでいる様子も確認できます。
また、主郭北西隅には櫓台跡のような高まりも明確に残されておりました。
三の郭と推定されている城跡の西側部分は守山小学校の校庭および民家の宅地が広がり、城域の範囲が掴みにくくなっておりました。
なお時間が許せば周辺をじっくりと歩きながら観察したいところではありましたが、この時点で既に3か所もの感動的な遺構と対峙することが叶い本日の目標はおおむね達成されたも同然。
何れ近いうちに再訪することを深く心に刻んで次の目的地へと移動。

守山城
守山城



守山陣屋 福島県郡山市 午後2時35分から2時50分

宝暦年間に水戸家の支藩として松平家2万石の陣屋がおかれたもので、当時の遺構は残存していないとのこと。
それでも陣屋跡とされる北西付近には大きく曲折した道路が残っておりました。
城下町などによく見られる道路形状ですが、そのまま関連遺構と断定するには余りにも資料不足で。
なお、地元の集会施設には葵の御紋が掲げられておりました。

守山陣屋跡
守山陣屋跡



市野関館 福島県須賀川市 午後3時55分から4時まで

水郡線川東駅南側の独立丘陵なので場所は間違えようもなく。
元々殆ど遺構が無いとのことで、あくまでも所在地の確認と遠望のみの城館。
数稼ぎとの指摘がなされれば、誠に御尤もにてございまする。
たまたま見かけた水郡線の車両と直ぐ西側を流れる阿武隈川のゆったりとした流れがとても印象的なのでありました。

市野関館
市野関館



石見館 福島県須賀川市 午後4時20分から4時30分

雨田地区の蔀久保に所在。
西側の水田面からは比高差にして35mほどの独立小丘陵。
縄張り図等からは単郭で土塁、小口が残るととのこと。
とはいえ思いのほか規模が大きく木々の緑の深さとアプローチなどの問題から、こちらも遠望するに留めましてございまする。

石見館
石見館



三城目城 福島県矢吹町 午後5時10分から5時25分

東西南北共に400mほどの規模を有することから所在地はすぐに判明。
しかも入口の道路脇には説明板までも設置されておりました。
しかし残り時間と著しい資料不足のため、ごく手前の部分畑付近を拝見するに留めました。

三城目城
三城目城



観音山館 福島県矢吹町 午後6時25分から6時50分

近くまでは直ぐに行けたものの、途中でものの見事に方向感覚を喪失し幾度も方位磁石のお世話に。
原因は二叉路を右に進んだことによるものらしく確実に30分以上のタイムロスに。

このため漸く神社の鳥居のある入口に到着した時には辺りはすでに夕やみに包まれておりました。
鬱蒼と草木が生い茂る全く人気のない林の中へ侵入する姿は普通に考えればどうみても不審者かとも。
仕事柄か歳のせいかは分からねども、暗闇と超常現象の類は全く気にならず。
ほぼ暗闇に包まれどこか重たい空気さえ感じる200mほどの曲がりくねった参道を西へ。

土橋の両側には意外なほど大きな空堀跡が残存。
あらかじめ想定していたものの三脚付でなければとても撮影不可能な暗さ。
デジカメのシャッタースピードは、ISOを800に切り替えても「0」を表示。

3の郭とされる八幡神社の辺りは幾分林が開け取敢えず参拝。
すると右手の石段がおいでおいでと手招くようにも(汗)
その手に乗って名称の語源と思われる観音堂が所在するはずの2の郭へ。
途中、草木に覆われた2の郭の南側には規模は小さいものの空堀跡の暗闇も確認。

しかしその先に所在すべき観音堂らしき建物が全く見当たらず。
そのまま雑草に覆われた2の郭を横目に坂小口を登ると三峰神社の小祠が鎮座する主郭へと到達。
この時点でほぼ日没となり、これ以上の遺構確認は困難と考え撤収開始。
帰りがけに2の郭にて建物の残骸と思しき古材の塊を発見。
位置関係からすれば、どうやらこれが「観音堂跡」である模様なのでありました。

観音山館
観音山館




このあと、耕地整理により辛うじて主郭だけがぽつんと残っているはずの「国神城」へ。
ところが元々正確な所在地を把握していないため未確認のままタイムアップ。
こうなると素泊まりの予定のため途中のエコス(スーパー)で夕食やペットボトル飲料を買い漁っていた時間が恨めしく。
とはいえ予定していた11か所のうち10か所を回れた(⇒正しくは「見た」!)ことはそれなりに評価せねば。
かくして1時間遅れでどうにか郡山のビジネスホテルへと滑り込み、またしても深更まで翌日のプランの練り直しに勤しんだのでありました(苦笑)

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《暫定版》
福島の1日目は、白河小峰城、白河城、天王館、赤館城、棚倉城のみでした。
予想通り白河小峰城に時間がかかり、明日のルートを変更しなくては(汗)
なお、野草の方は10種類ほど。
埼玉と比べて半月ほど季節の進み具合が遅いような印象です。
ホテルのPCで書き込んでいるので以上でございます。


《本編》
自宅を出かけたのは午前6時前。
当初は遅くも午前4時頃には出発するというスケジュール。
しかし、資料などの読込みと整理に思いのほか手間取り、ようやく就寝したのは当日の午前1時過ぎ。
これでは早朝に起きられるはずなども無く。

さてアクセスを含め下りの東北道は至って順調。
ところが腹具合が不調となり、少なくとも30分以上のタイムロス。
このため白河インター到着は午前9時を大きく超過。
そのあとも止せば良いのに小峰城を遠望しつつ土手に咲く野草の観察などをして20分ほどのタイムロス(苦笑)


白河小峰城 福島県白河市 午前10時15分~午後1時10分

ここで本日二度目のトラブルが。
持参したデジカメのオートフォーカスの動作異常。
レンズ故障のため別のレンズに換えたことによるものか。
しかし事前に機能チェックだけは一通り実施したつもり。
マニュアル確認して事無きを得たものの、結局ぱ約15分ほどのタイムロス。

まず復興された三重櫓と城門を撮影するポイントを探すべく広場へと赴くことに。
ところが恰も城攻めに群がる軍兵のごとく、保育園の団体がゾロゾロとあちこちに散開中。
お弁当や色とりどりのシートなどの荷物が芝生の上一面に展開しまさに百花繚乱。
加えて併設されているバラ園を含めた見学者・観光客も少なくなく。
さらに観光ボランティアと目される方が目立つところで職務を全うすべく立哨中。
おまけに三脚でデジカメ撮影しているのが珍しいのか、件の園児ら数名に取り囲まれ暫し子どもたちとのお相手なども。
5歳児にして実に味わいの深い心温まるイントネーション。
かくしてどうにか写真を撮影できる状態になるまでに都合30分ほどのタイムロス。

人出が少なくなるのを待ちながら、この際殆ど人気の無い東側の石垣部分からじっくりと開始見学。
この個所は大きな樹木も無く石垣の様子もよく観察でき思わぬ収穫に。
堀跡らしき幅の広い窪みも確認。
また南側の水堀の感触も石垣上からはなかなかの佳景。

白河小峰城の南側水濠と石垣
白河小峰城の南側水濠と石垣


無論復興された有名な三重櫓も角度を変えて心ゆくまで撮影...
とはいえ、このあとの予定に鑑みて余り多くの時間を費やすわけにはいかず。
主郭ではなかった...え~と...本丸の上を大まかにぐるっと一周。
このあと西側からの遠景撮影のため堀跡沿いの堤へと赴いたものの、やはり時節柄余りに樹木が繁りすぎていてどうにもならず。
また土手の紫露草が接写してくれと言わんばかりに見事なまでに咲き誇り...(苦笑)


■丹羽長重廟ほか 福島県白河市 午後1時30分~2時頃まで

時間に余裕があれば必ず訪れておきたい史跡。
しかし今回は探している時間もなく、予定が押気味のためスルーするはず...
ところが世の中というものは、何が幸いするか分からないもので。
白河城へ向かうはずの道を間違え、今更戻るのも面倒なのでそのまま進むと廟所史跡の案内板が道路脇に設置。
かくして長重公の重厚長大な宝篋院塔とともに松平氏の五輪塔2基をも文字通り拝むことに成功。
石段の歪みがかなり目立ち足元は不安定。
しかし、ここでは今までなかなか思い通りの画像が無かった睡蓮、今まで余り目にしていなかったムラサキサキゴケ、山紫陽花なども拝めるという幸運に恵まれたのでありました。

丹羽長重墓所
丹羽長重墓所


白川城 福島県白河市 午後2時20分~午後3時

車で主郭の近くまでいけることを知らず林道の分岐手前から徒歩にてアプローチ。
このためにまたしても約20分ほどのタイムロス。
手持ちの数少ない資料によれば、主郭東西南北にも郭、土塁、空堀、堀切などの多くの遺構が存在している模様。
この時期に見学できるのは残念ながら整備の良い主郭部分周辺限定版。
時期を見計らって再訪する(できるか!)こととして、主郭上の野草観察に勤しむことに(汗)
従って城跡を見学できたのはほんのごく一部。
坂小口と思われる個所に残存する土塁の断片と削平された主郭、並びに南側尾根筋とを分ける堀切状地形を確認したのみ。
尤も、その全てを確認しようとすれば東西700m、南北400mの標高400m前後の尾根筋を右往左往しなければならず。
おそらくその所要時間は最低でも4時間以上はかかりそうな印象が。

白河城北西部
白川城北西部

▲表郷堀之内 福島県白河市 午後3時40分~午後3時50分

実は何を隠そう、次の川東田城と間違えて立ち寄った場所。
同じように南側に張り出した独立丘陵を形成。
一応は堀之内という小字名を有する南側に水田地帯を抱える集落で、南北双方に如何にもそれらしい地形の独立丘陵が所在。
集落を東西に抜ける往還を扼するには南北に拠点があったほうが合理的と感じるのは現代人の感覚なのかとも。
川東田城ど同様に、白河結城氏の一族が居館としていても不思議はなさそうな立地条件...などと強がりを(笑)
但し北側は地元の方の墓所で、南側の小さな比高差20mほどの小丘陵には神社が所在するのみでありました。
帰りに道路わきに設置された地名表示の支柱には、確かに「表郷堀之内」と表記が...


川東田城 福島県白河市 午後4時~4時30分

読み方は「かとうだじょう」で、別名を天王館(てんのうたて)、天王寺館(てんのうじだて)とも。
棚倉方面へのルートに位置することと、白河市の史跡として市のHPに掲載されていたことから前日に急遽予定に組み入れたもの。
入口には白河結城氏の一族である河東田氏が居城とした旨の解説版なども設置されている由緒正しい城館跡。
しかし生憎こちらも縄張図が手元に無いので大まかな見学に終始。
それでも、主郭北側の切岸をはじめとして神社参道西側の二重土塁などを確認。
本日の中では一番意外性に溢れた城館跡なのでありました。

川東田城西側の二重土塁
川東田城西側の二重土塁



赤館(城) 福島県東白川郡棚倉町 午後4時55分~5時15分

上台と呼ばれる「赤館」(あかだて)の主郭上からは北側の往還および南側の棚倉の町並みが俯瞰できる要衝の地。
このため戦国期の後期には幾度となくく白河結城氏・芦名氏と佐竹氏の双方により争奪の対象とされた城館。
結局は佐竹氏が抑え南奥州への拠点となり、後に関ヶ原合戦で佐竹義宣が形勢を観望した地でもあるとのこと。
さらに慶長15年には九州柳川へ戻るまでの間に立花宗茂が1万5千石の大名として入封したという大変由緒のある城館。
しかし主郭に相当する部分は概ね公園化され、この季節では樹木の繁茂が盛んで主郭の切岸、帯郭などのほかには印象的な遺構を確認するには至りませんでした。
なお、「館」の後ろにわざわざ「城」をつけなくなくとも良さそうな感じも。

赤館が所在する丘陵
赤館が所在する丘陵

棚倉城 福島県東白川郡棚倉町 午後5時10分~6時過ぎ頃まで

本日のメインのひとつにも拘らず、ようやく訪れることができたのは日没前という余りの計画性の無さに我ながら呆れる始末。
残存している遺構は概ね四方を水堀で囲まれた本丸部分のみ。
本丸の広さと比較して、水堀の大きさがいかにも近世城郭らしく印象的。
然し城址公園化されていることから水堀には噴水が施され、中世城館に慣れ始めた管理人としては些かの違和感も。
近くの長久寺に移築されている城の南門は、小雨・日没コールドのため見学に至らず。

棚倉城西側の水濠
棚倉城西側の水濠



なお本日の訪城予定個所は〆て18か所という凡そ実現不可能な計画。
もとより全て回りきれるとは当初より思わず、あくまでも現地での選択肢としてメニューに含めたまで。
それにしても現実は厳しく以上の通りなのでありました。
また埼玉に比べて夏へ向かっての季節の進み加減はおよそ半月遅れというような印象も。
幾度かのタイムロスに見舞われつつも、僥倖にも恵まれどうにかこうにか5城訪城を達成したことはそれなりに評価すべき結果なのかも知れず。

この日は須賀川市内まで戻りビジネスホテルに宿泊。
今まで福島方面は東北道にて通過した経験はあれども、一般道を走行した経験は皆無。
実際のところ土地勘は事実上ゼロに等しく。
その後深夜まで翌日というか当日の計画変更に無い知恵を絞る管理人なのでありました。

⇒只今、画像整理中です。
今夜10頃には何とか...(苦笑)
結局完了したのは翌日(6月20日)の夜でしたm(__)m

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珍しく「休みと天候と体調」が一致。
というか先日痛み止めの注射などをして無理やり一致。(これが痛みの原因よりも痛く...)
かくして月曜日辺りから少し北の方へ参ろうかと存じまする。
余り北へ行きすぎてしまうと今回の地震の影響も懸念材料。
また、資料不足も大きな問題。

ここはまず福島中通の県南付近を中心にを焦点を定むるべきかと。
かくして候補地を絞り込んでいる最中にて。
しかし立ち寄りたい場所が次第に増殖を開始。
このため未だ50ヵ所以上にも。

一応は一筆書きの要領でルート設定。
山城が殆ど無いとは申せども、土地勘皆無の全く初めて同様の場所。
最近の自分の身体能力と時間配分から冷静に考慮すれば、全日程でも合計にして20か所が限界のはず。

やはり定石通りに中世の平山城、丘城関係は、今秋の訪城予定地として遠望のみに限定。
今回は、できるだけ近世城郭跡にウエイトを置いて...
と、書いておかぬと自制心を喪失する恐れが。
簡易な地形図だけは一通り入手済。
然し右も左も分からぬ山中にて藪と竹林の中に突入...してはならぬのでありまする(苦笑)

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植物図鑑の掲載数が漸く100種類に到達。
この一月余りの間は、「植物図鑑と表示するからには100種類は最低ライン」との目標を掲げ、恰も物に取り憑かれたように似非園芸関連サイト管理人に変身しておりました。

今後は精進を重ねて、草本・木本あわせて300種類くらいは掲載いたさねば...とはいえ、自分の能力に照らして冷静に考えますとやはり実現不可能(汗)
勿論これからも折を見ては少しずつ更新いたしますが、ボチボチ本業の方に戻ろうかと存じまする。
それにしても城館の更新と比べて労力・所要時間などが5分の1くらいなので、ついつい楽して癖になる恐れが濃厚なので困っておりまする(苦笑)

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