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しかし、天候に恵まれず午後2時過ぎまで大平町の図書館にて待機。
勿論二人ともに、その間はひたすら資料漁りの職務に専念。
凸富田城(栃木県大平町) 9時20分から9時40分
大平町の図書館に向かう途上の探訪。
とはいうものの、そぼ降る小雨はなかなか止みそうな気配もなく。
ささっと小学校北側の土塁遺構を拝見したのみの探訪に。
このあと、町立図書館にて大平町内の関係資料も確保。
後日、改めて再訪...できるかどうかは何ともいえないような(苦笑)
凸要害山城(栃木県佐野市) 15時30分-16時山頂-遺構踏査ののち17時25分下山
単郭とはいうものの、主郭周辺には野面の石積み遺構。
このほかに南北の稜線を中心に堀切3条、腰郭3群を伴う。
コンパクトではあるものの本格的構造を有する山城。
特に東側は登攀困難な急斜面。
山頂の主郭からは彦間(飛駒)の集落が一望。
監視のための物見と同時に在地領主の詰城として相応しい規模と立地条件が具備されているようにも。
麓からの比高差約170m。
登攀所要時間はのんびりあるいても約30分。
わずかこの程度の比高差で息切れしてしまうという厳しい現実。
過去には実質比高差1千m以上の山に、少なくとも100回以上登攀していたとは自分でも全く信じられない体たらく。
30年以上の歳月というものは、あくまでも冷酷に体力の著しい低下現象を招来するものなのであります。
凸要害山の館(栃木県佐野市) 17時30分から17時45分
要害山城の根古屋といわれる館跡。
東西方向に細長くのびた要害山南麓の低丘陵に占地。
遺構としては堀切(空堀)1条とL字型の土塁が予想以上に良好な状態で残存。
さてあともう1ヶ所くらいは何とか...と逸る気持ちとは裏腹に、太陽はすでに山入端にその姿を隠して久しく。
暮れなずむ彦間川沿いの県道を南下し帰途へとついたのでありました。
最近「俯瞰図」に凝り始めた管理人。
資料漁り飽きたので、30分ほどを費やして「松虫陣屋」(ただし部分、かなりの手抜き)を完成?
デッサン風とイラスト風の2通りで描き分けるという、些か姑息な手法も思いつき。
下手の横好きとはよく言ったもので、早くも通算で15ヶ所、20枚ほどに。
ただし、山城と大規模城郭は全く未知の領域。
とりわけ元になるある程度の縄張り図などが無いと、どうにも手をつけることができないレベルなのであります。
今回は佐野市の要害山(小野城とも)とその根古屋館。
丘城である館の方は全く問題なし。
しかし、単郭とはいえ比高差160mの山城の俯瞰図を作成するというのはかなり無謀な予感が...
というような次第で、城館な探訪よりも如何にして「俯瞰図」を作成するかに比重が移りつつあるのでありました(苦笑)
最近幾分貧血症状が再発。
儀一殿との集合時間に30分も遅刻したルーズな管理人なのでありました。
全体像をデジカメ撮影できるはずもないので、「中世城郭事典」等の縄張り図の丸写しであります。
それでも平面図を俯瞰図に置き換えるには、ある程度の加工処理が不可欠であります。
頭の中でイメージを構成することとあわせて、これがなかなかに面倒な作業工程なのであります。
現在筆記用具は7ミリと9ミリのシャープペンシルを使用。
5ミリ以下のものは、筆圧に合わず使えないのであります。
芯の硬度はHB、B、2Bを使用。
メーカーは三菱、パイロット、ぺんてる、プラチナ、ダイソーの各社。
このため使用するするシャープペンシルは本日現在何と9本に増加。
このような次第で、本日も更新が滞っているのであります(爆)
凸鎌刈館(千葉県印旛村) 11時00分から12時40分
事前の情報でも、果たして中世城館と断定できるかどうかというような遺構。
下総にはこうした同様の遺構が少なくなく、今後の試金石とするために敢えて80m四方にも満たない方形遺構をじっくりと見学。
確かに郭と思われる土塁の内側に巨大な空堀が所在するという通常は理解しがたい縄張構造。
このほかにも郭の中心部の南北方向に空堀と土塁が存在し、さほど広くは無いと思われる郭を東西に分割。
あわせて郭自体の削平も極めて不十分でかなり凹凸の目立つ印象。
また台地上の遺構にしては、郭の狭さと比較して土塁、空堀の規模が大きすぎるようにも。
舌状台地における占地についても、防御が容易な台地先端部ではなく台地の基部に所在。
周辺の土塁遺構と関連した広大な集落の防御施設の一部、近世の牧などの諸説も首肯できるような印象も。
凸高田山城(千葉県印旛村) 13時20分から14時35分
鎌刈館からは直線で約1.2㎞離れた師戸川を挟んだ対岸の舌状台地先端部に所在。
ただし、間に視界を遮るものがほとんど何も無いとはいえ、鎌刈館が台地基部に所在することから互いに視認することは不可能な模様。
切り立った地形の台地先端部に所在することから、一見防御性は高そうに思えます。
しかし現状では思いのほか比高差が少なく、北側麓から頭上の腰郭を目指して這い上がればあっという間に主郭付近に到着。
麓から見上げたよりも郭内はある程度見通しも確保されています。
とはいえ多少藪に慣れていないと手や顔の擦り傷程度は不可避かと。
残蔵する遺構は、主郭と2郭の複郭構造。
ただし主郭部分の規模は小さくおよそ60m四方。
これに台地続き部分を2郭が西側と南側を取り巻く形の構造。
主郭部分の塁線折歪多用に比較して、遺構規模の大きな2郭の土塁・空堀遺構は一部に折歪と出枡が見られるものの全体的には直線的な構造。
こうしたことからこれらの遺構が同時期に普請されたものではなく、元来は単郭構造であったものを後に複郭とした可能性も指摘されているようです。
ただし残念なことに周辺では様々な開発行為が迫っており、この藪に隠れた素晴らしい遺構が何時まで存在できるのか不安を感じました。
凸米津出羽守屋敷(千葉県印旛村) 14時50分から15時45分
歴史的経緯も分からなければ、明確な所在地も不明。
このため遺構の詳細については全く不明。
にもかかわらず1時間近く当たりをつけた一帯を散策。
土塁や平場など気になる地形はあちこちに散見。
しかしそれが直ちに陣屋跡に関連するものかどうかは全く不明。
凸岩戸城(千葉県印旛村) 15時50分から16時05分
この時点で未だ本日の最低目標の半分(苦笑)
日没までの残り時間と西側の雲の厚さ等を考慮して足早に見学。
臨済宗西福寺の境内地なので、あれこれと場所を探すような手間は全くかからず。
寺院の入口から土塁そのものがすぐに目に入るという便利さ。
ご本尊の場所が分からないので摂りあえず寺院の建物の方に向かって参拝。
郭内からでも土塁の高さは3mを越える個所も所在。
遺構については土塁・空堀ともに北辺と東辺の状態が良好。
南辺も土塁については概ね残存。
空堀も土塁側で見かけ上は最高5mの深さを測ります。
凸船戸城(千葉県印旛村) 16時20分から16時35分
こちらも所在地は直ちに判明。
住宅の裏側の台地が郭跡。
宅地化に伴いかなりの部分が消滅している模様。
それでも西側の空堀、北側の腰郭、主郭の出枡などは良好な状態で現存。
然しいよいよ日没までの時間が迫り始めたため、とっとと師戸城方面へと移動。
凸師戸城(千葉県印旛村) 16時40分から17時30分
本日最大の目玉となる城郭。
公園化されているので予め黄昏時の探訪を想定。
土曜日なので日中は家族連れなどで多少賑わうことが予想されたのであります。
外郭は駐車場、さらにその内側の広大な郭は野球場。
やはり日中に訪れなくて正解でありました。
公園整備されているものの郭塁線の折歪は美しく。
土塁上からの景観も予想以上。
ただし麓が宅地化されていることから城跡らしい遠景の撮影が難しく。
帰りがけに師戸城内を住処とする2匹のネコさんとお近づきに。
はじめは近寄ると一定距離を空けるという動作の繰り返し。
こんな時には鶉古城以来持ち歩いている「ネコのコリコリ餌」。
5粒ほど駐車場のアスファルトに置いてみたところ忽ち食餌モードに突入。
本日も早起きに失敗して自宅を出たのは午前8時20分。
前日の雨による足元の悪さ、予報には無かった朝方の強風、花粉症に伴うアレルギー性喘息...と理由はいくらでも(苦笑)
やはり気力の問題が一番大きいのかとも。
それでも最低目標としていた印旛村の踏査を概ね終了。
訪問3度目にして少しは本埜村、印旛村の地理が飲み込めてきた模様。
日没後には予定通り佐倉市立図書館で資料収集。
印旛村、旧山田町、旧下総町、成田市などについて、午後8時の閉館時間に間に合うように複写作業。
国道16号線経由で自宅へと帰りついた時刻は午後11時過ぎに。
元来より著しく更新作業が遅い管理人。
最近はこれに俯瞰図・概念図・縄張図には程遠い極めて主観的な悪戯書きを追加。
これがなかなかに時間がかかるのであります。
かくてますますサイトの更新作業は遅延していくのでありまする。