本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
カレンダー
02 2026/03 04
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
最新CM
(07/01)
(11/09)
無題(返信済)
(12/17)
(10/13)
(03/22)
最新記事
(03/15)
最新TB
プロフィール
HN:
武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
性別:
男性
職業:
定年を過ぎました~
趣味:
「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
バーコード
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
アクセス解析
フリーエリア
[157] [158] [159] [160] [161] [162] [163] [164] [165] [166] [167]

所用が予定よりも早く済み、2日目の午後からは京都市内の史跡を探訪。
いわゆる観光地には余り接近せずに、あくまでも概ねひたすらに石碑、石柱を求めて歩くという構図。

東本願寺
烏丸通を北上するというルートの必然から撮影をしてみたまでです。

本能寺跡 12時55分から13時05分

かの有名な事件の現場。
最も最初に訪れたかった史跡でもありました。
無論、遺構などは皆無。
また所在地も町名(元本能寺町)などからの推定の模様。
堀川高校の周囲に石柱、石碑が各1か所設置されておりました。
跡地とはいっても、著名な事件の史跡としてはやや寂しい印象がなくもなく。 

本能寺跡
本能寺跡


茶屋四朗次郎邸跡 13時15分から13時20分

徳川家康に関与した著名な京都商人の邸跡。
南蛮寺を探していたら、偶然民家の塀沿いに説明板が設置されていた。


南蛮寺跡 13時30分から13時35分

信長が庇護したイエスズ会のキリスト教寺院跡とのこと。
所在が分かりにくく、地元の方に伺っても不明だったのは想定の範囲。
通りの名称から追っていき、ようやく確認に成功。
然し肝心の石柱は自転車とバイクの陰に隠れて埋もれて...


二条御新造跡 14時55分から

織田信忠が数百名に及ぶ家臣団とともに討死を遂げた史跡。
京都国際マンガミュージアム(旧龍池小学校)の校門脇に石柱。
現在史跡であることを示しているものはこれだけらしい。
 

二条殿址
二条殿址


妙覚寺跡 15時05分から

本能寺の変当時に織田信忠の宿所となっていた日蓮宗寺院跡なのですが、現在の町名で残されている以外には往時を伝えるものは無さそうでした。


東三条院殿趾

詳細は分からねども史跡は史跡(汗)


妙顕寺城跡 15時10分から15時15分

秀吉が築いたとされる二条城東側の城跡ですが、西福寺境内の南側(押小路通)に石柱と解説板が設置されているだけです。
通りからは二条城の南東櫓も見えましたが、サクラのライトアップをしているような観光シーズン。
ある程度の混雑が予想されることから、遠くから一瞥したのみで東方向へとUターン。 

妙顕寺城跡
妙顕寺城


足利義昭邸跡 15時40分から15時45分

平安女学院北西の一角付近に石柱と解説板。
当該解説によれば東は京都御苑の敷地の一部にかかるほど広大な規模を有していたようです。
以前はフェンス越しの御対面だったようですが、現在では画像のように改善されておりました。


京都御所

足利義昭邸の復元石垣遺構を探しに行ったのですが、終始分からず仕舞いのまま(汗)
止むを得ず蛤御門へと移動し、禁門の変の戦跡見学へ。
たしかに旧式銃と思われる弾痕らしき窪みが門扉や門柱のそこここに散見。

蛤御門
蛤御門


在原業平邸跡

ボーッと信号待ちをしていたら、目の前に石柱が設置されておりました。
本日3度目ですが、それだけ歴史的な史跡の密度が高いことの現れなのでありましょう。


同行者は諸事情により途中でリタイア。
この日の歩行距離は凡そ約20kmほど。
2年ほど前の頃に比べて、膝ベルトの未装着も影響したのか愈々足回りの方は確実に衰えが...
史跡の所在地の特定と移動に予想以上の時間を消費することが判明。
このため翌日の予定を大きく変更することを余儀なくされました。

拍手[0回]

手持ちの資料には食用・薬用として記されているノゲシ(キク科、別名をハルノノゲシとも)の若葉。
自宅のに葉には例年になく豊作(草むしりをサボっているだけ)
なお生でも食べられるとありますが、流石に苦みがきつすぎて敬遠(家内が実験台)
よく水で晒して昨日、本日とあくまでもほんの少量ですが、其々塩茹でとバター炒めで食べてみました。
予めよくゆでた後に水で晒せばさらに苦みが消えそうです。
黄緑色の新しい葉ならばどちらの調理法でもそこそこ味わえることを実体験してみました。

拍手[0回]

二ツ山城の再調査のため先月30日に続いて富岡市へ
前回の経験からストック、ヘルメット、ゴーグル+αという装備に変更

藤田城(富岡市) 10時00分から10時25分

二ツ山城への経路のため必然的に通過。
そのついでに堀切跡と南尾根腰郭並びに削平地(戦後の植林等に伴うものか)を確認。


二ツ山城(富岡市) 10時35分から13時10分

前回は消化不良気味に終始したので、再訪にあたり地形図を詳細にチェック...したはず。
しかしその結果は捗々しいとはいえず。
乏しい成果の内訳は、前回の地形の北西に続く「堀切1条」(下記画像)と「削平地」(8m×25mほどの郭状の地形)だけでした。

二ツ山城の堀切
二ツ山城の堀切

今後における気力・体力を勘案すると、この先3度目の調査は無いものと思い、標高約550mの「二ツ山」そのものの山頂部自体も確認しましたが、山崎一氏作成の縄張図に相当する地形はとうとう見出せませんでした。
都合2回の調査結果を概念図に表しますと、完全に2か所の遺構群に分かれてしまうことから益々同氏の縄張図(単郭、腰郭)からは遊離していくのであります。
ことによると、「中世城館報告書」の編纂過程で何らかの齟齬があったというのも一つの見方なのかとも。
こうした点については藤岡市の三ツ山城に酷似しているようにも。

未だ日差しは高く、風もなく穏やかな日和。
日没まではたっぷり時間があったものの、急斜面を連続して上り下りしたことにより足回りが限界に。
このため以上2か所の再訪のみに。

拍手[0回]

あ、飲食店の掲示ではありませぬ。
先月30日に訪れた富岡市の二ツ山城の話題です。
その後、関係資料を精査して所在地を推定。
「中世城館報告書」に記された位置からは、さらに北西に400mほどすすんだ地点に所在する標高550mピーク付近が如何にも怪しそう。
等高線の形状、複数の腰郭の位置と方向などから見る限りではまず間違いがなく。

いままで山城分野については所在地の推定を誤った経験はほぼ皆無。
そういう意味では群生する棘に行動を阻まれたとはいえ、今回の一件はかなりの恥辱なのかとも。
ただいまフル装備で再挑戦を果たそうと準備中。
ただし発症中の腰痛さえ軽減されればの話ですが(汗)
現地は多少標高がありますが、棘もふくめた草木の生育環境に鑑みれば探訪可能なのは4月半ば頃までと推定を。
こうしている間に山城の季節はうつろっていくのでありましょうか。

拍手[0回]

所用のため今月の中旬に大阪に出かける予定。
このさいなので、所用の方はとっとと済ませる方針。
即ちあわよくばと、京都市内の史跡探訪を計画。
ただし行動可能時間は新幹線の都合で約6時間前後。

絞り込んだ探訪先は左京区を中心に精選17か所。
うち城郭関係は約10か所。
移動のための時間を無視しても、1カ所当たりの時間配分は20分程度(呆笑)
瞬間移動でも行わない限り不可能なことは自明の理。
石碑だけのところは夜間巡回という選択肢ありうるが、観光地とはいってもこれは常識的に考えるとかなり怪しいかも知れない(爆)

拍手[0回]