本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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定年を過ぎました~
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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21日は日比谷へ向かう前に、半蔵門と桜田門ならびに桜田濠方面を散策しておりました。
別段、他意はなくただひたすら、江戸城周辺を体力にあわせて、少しずつ徘徊しているだけであります。

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11月16日の土曜日に所要のため都内へ。
少し時間があったので、かねてから予定していた北の丸公園付近を散策。
本丸方面まで足を伸ばすつもりが、残り時間の関係で千鳥ヶ淵と清水門付近の観察だけで終了してしまった。
田安門方面は、ただ今全面改修中のため工事シートが掛けられていました。
清水門付近も清水建設が一部改修工事中。
清水門付近でも石垣の中段付近が、やはり幾分せり出し気味の模様。
画像は、千鳥ヶ淵から半蔵濠越しに眺めた国会議事堂方面の景観

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還暦を過ぎて、この2年の間に確実に歳をとりました。
まず2011年の大晦日に発症した原因不明の目眩は、その後約10ヶ月にわたり途切れること(>なく継続しました。
2012年の途中からは、これに伴う運動不足が影響したらしく、足回りの筋力が大幅に低下しました。ふくらはぎで4センチ、太ももで5センチものサイズダウン。
加えて、極度の腰痛、右膝関節痛、右足踵骨の骨棘障害、右足首筋力の大幅低下、相変わらずの緊張性頭痛等々を常に抱え込んでおります。

あわせて、2011年の4月頃より、長時間にわたる電車の乗車が困難となりました。
現在は、電車の方は多少乗ることが出来るようになりましたが、今後も新幹線、長距離バスは依然として困難な模様です。

記憶力の方は、首の皮一枚で何とか持ち堪えておりますが、視力はさらに一段と低下してしまいました。元々年齢相応の白内障ですので、そろそろ手術する頃合いを考慮すべき時期にさしかかってきたのかも知れません。

気力の方は、50代の時にくらべるとめっきりと減退してきたようで、何事も先延ばしをする習性がついてきたようです。
もっとも、先延ばしするだけの時間があるかといえば、こればかりは全く分かりません。
そういえば、10月の始めからひきはじめた風邪が、未だに治らず仕舞いです。
とはいえ、「あと数年は自力で移動できる生活が送れれば」などと勝手なことを考えております。

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史進どののお誘いで、約2年ぶりの城郭探訪。
昨年一年間は、原因不明の目眩の連続。
今年に入ってからは、これにともなう運動不足と加齢による極度の筋力低下が顕著に。

とりわけ当方の足回りの老朽化は著しく、もはや慢性となった右膝痛+腰痛+右足首筋肉痛に加えて、再発した目眩+風邪気味という体たらく(>o<)


菅生城 常総市 8時00分から9時00分
 
 約5年ぶりの再訪です。
案内板が新らしく設置され、周辺の農道や排水路整備もかなりすすんでいましたが、屈強な藪は相変わらず健在でした。

内守谷城 9時15分から9時35分
 菅生城の東方の台地ですが、水田などの湿地帯に阻まれ、ぐるっと大きく迂回しないと辿り着けないというこの辺り独特の地形的な特性があります。狭い農道をすすめば真っ直ぐに行けなくもないのですが、雨続きだったために路肩が軟弱なのと、車のすれ違いが難しいので安全策をとりました。
肝心の遺構はあるようなないような、この地域に多い平坦な舌状台地が広がっておりました。
 

羽生館 10時から10時30分
 鬼怒川の西の法蔵寺の所在する独立丘陵が城跡と推定されています。遺構自体は微妙です。このあとはひたすら北上してつくば市方面へ移動。
 

手子生(てごまる) つくば市 11時30分から12時30分
 
 主郭とこれに伴う水堀と土橋、掘跡、土塁等が残存しています。城跡の石碑もありましたが、低湿地のため地盤が軟弱で、土地改良の記念碑と思われる立派な石碑が、先年の大地震で倒壊しておりました。

栗崎城 13時00分から14時00分
 
 正福寺境内北側に明確な土塁遺構が残存していましたが、現在は震災に伴う本堂の建てかえ工事等が進行しているため、城郭遺構の保全は風前の灯火かもしれません。上手くいけば、北側および西側斜面中腹の帯郭とこれに伴う部分的な土塁の方は残されるかも知れません。
 

吉沼大坪館 14時10分から14時40分
 栗崎城の東側の谷津を挟んで北側に張り出した台地先端部に所在しています。
 低い土塁が存在しましたが、南側方面はお馴染みの竹藪が障害となり行く手を阻んでおりました。

吉沼大祥寺城 14時50分から15時15分
 大祥寺北側の山林の中に謎めいた大規模な堀切地形と周辺の切岸地形等を確認できますが、城郭の範囲を含めて判断に迷う部分がありました。

館宿城 15時20分から15時30分
 城域の東側は宅地化されていましたが、史進殿の探索によりますと、西側の斜面中腹に帯郭状の地形が見られたとのことです。なお、この部分が伝聞調となっているのは、僅か幅1メートルほどのコンクリート製の水路を飛び越えることができなかったという実に悲しい事情がありました(>o<)

吉沼笠根城 15時40分から16時00分
 台地全体で北側の低地を意識して城郭を形成しているようですが、そのほとんどが宅地内であるため確認は困難です。この城館を含む吉崎地区の城郭は、仮に同時代に存在していたとすれば、恐らくは、栗崎城に関連する寄居であった可能性も考えられますが、今後の検討課題です。

本日は、合計で1万7100歩あまり。始めは左膝に軽い痛みが。最後は、やはり左足首の筋肉痛に
なりました。
このような年寄りにお付き合いいただいた史進殿に深謝。


 
 


 
 

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岩谷時子さんが亡くなられました。
子ども時代から青春時代まで親しんだ歌の数々。

「愛の賛歌」
「ラストダンスは私に」
「ふりむかないで」
「恋のバカンス」
「ウナ・セラディ東京」
「サン・トワ・マミー」
「夜明けの歌」
「君といつまでも」
「ほんきかしら」
「恋の季節」などなど

ご冥福をお祈りいたします。
合掌。

 

 

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