本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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先週の1月4日に引き続いて今回も栃木市内へ。
今回は夜明け前の午前6時に自宅を出発。
途中多少の信号渋滞に巻き込まれつつも、現地には概ね予定通りに8時20分頃に到着しました。




榎本城(栃木県栃木市大平町榎本、真弓)
午前8時25分から10時50分
平城
確認遺構 土塁、堀跡など
先週の4日に確認できなかった遺構、旧跡などを訪問

■榎本城の規模についての推論(仮説)

榎本城の規模については、一般に「増補版 栃木の古城を歩く」(2015)は「東西約600m×約400m」、「栃木の中世城館跡」(1982)は、「613m×696m」、「栃木の城」(1995)は「337間×217間(613m×396m)」、「大平町誌」(1982)は「613m×396m」、「栃木市史」(1985)は「東西613m×南北396m」、「復刻版 栃木県誌」(1977)は「337間×217間(613m×396m)」、「日本城郭大系」は「600m×400m」、「日本城郭全集」では「600m×400m」などと記しているように、南北方向よりも東西方向に広がりをみせる記述となっています。
この件については、城域の規模について疑問を呈している「近世栃木の城と陣屋」(杉浦昭博/著)が詳しいようです。
同書によれば、あくまでも西側を流れている永野川と東を流れる巴波川(うずまがわ)、杣行川(そまゆきがわ)が大きく流路を変えていないという前提に立てば、自ずから東西方向の広がりには限界があり、「下野一国」(慶安年間の作)の記述を参考にして、それらの通説とは異なる東西方向400m×南北方向600mの範囲内に収まるであろうとの仮説を呈示し、近世城郭の縄張を想定復元されています。
しかし、この仮説はその脈絡からあくまでも「本多氏によるところの近世城郭」としての城域を考察したものと考えられますし、中世城郭としての実際の遺構の広がりについては、北辺は清光院法王寺の北側にも3カ所に分かれているものの土塁や櫓台?をともなう堀跡も存在しているということも事実です。
またその南限については仮に日蓮宗法宣寺境内辺りが有力であるとし、これらが一帯の城郭遺構であるとの仮定にたてば、実際には南北約700mにおよぶという可能性も考えられます。
この点についてはその築城について、恒久的な「地域支配のための城郭」と見るのか、当時敵対していたとされている「皆川氏や佐野氏に対する陣城」と捉えるのかによっても変わってくる可能性がありますが、良質な同時代史料が限られており、かつ残存遺構が分散しているなどの事情から、いずれにしてもその全容を明らかにすることは困難なのかも知れません。



■近藤出羽守綱秀の墓所 午前8時25分から8時45分
天正18年(1590)豊臣秀吉の関東攻略により、八王子城で討死を遂げたとされる榎本城主の墓所です。
榎本城南西の妙性院境内に所在しています。
「とちぎの古城を歩く」(塙静夫/著)などによりますと、「約500m北に所在する曹洞宗大中寺に所在すると」記されていますが、墓所全体の印象から少なくともこの墓石に関してはだいぶ以前からこちらの妙性院に所在しているように思われます。

 
    妙性院          近藤出羽守綱秀の墓所
 

■本多忠純の墓所
 午前8時50分から9時00分
「宇都宮城の釣天井事件」もで有名な著名な本多正純の実弟本多忠純の墓所です。
正純も幕府内の権力抗争に敗れて悲惨な末路を辿りますが、榎本藩2万8千石の藩主となった弟もまた、家臣により惨殺されるという悲惨な死を迎え、養子を跡継ぎとしたものの病死したために榎本城は廃城となりました。


   本多忠純の墓所        古い五輪塔など


■お墓様と西城 午前9時05分から9時20分
いまでも西城地区で信仰を集めている榎本氏の墓所のひとつで、この時点では正確な所在地は分かりませんでした。
もしかしてこの小さな建物を指しているのかも知れないとも思い念のため撮影しましたが、これは字西城に所在している薬師堂と呼ばれる堂宇のようです。
小山氏の一族とされる榎本氏は当主高綱の時に皆川氏との合戦で討死を遂げたともいわれており、「タカツナサマ」または「お墓さま」などとも呼ばれる神社(尊武神社あるいは武尊神社)として祀られているようなのですが、「大平町史」には所在地が西野田字本郷と記されているのみで、今のところ詳しいその所在地については不明です。


    字西城付近          字西城の薬師堂


■北辺の遺構 午前9時30分から10時50分
前回は時間の関係で回れなかった北辺部の城郭遺構を確認してみました。
残存している遺構は大きく3か所に分かれてはいますが、3か所とも東西方向にほぼ直線に並んでいる形態となっていることから本来は北辺部の外郭を形成していたものと考えても良いのではないでしょうか。
特に永野川に近い西側部分の遺構については、櫓台状の地形も観察され概ね城跡北西角付近に位置していたものと考えられます。

 
  法王寺本堂北側の堀跡        同  前


   その西側の遺構          堀  跡


     堀  跡         土塁の東端付近

 
  そのさらに西の遺構        全   景


     南側から           同   前


 永野川と北辺の遺構遠景        同   前



大宮城(栃木県栃木市大宮町)
11時20分から11時50分、晴れ
平城
土塁、堀、櫓台?
別名 御城、大宮陣屋(大宮藩主堀田正虎2万石)、北城(地名)

城郭遺構関連遺構と思われる地形は大宮神社の南域に、次のように4か所ほどに分散して残存しています。
まず、県道44号線(栃木二宮線)から南参道を約200mほど北上すると、この参道東側(進行方向右側)に高い木立が目印となる小祠を祀った櫓台にも見える土塁(1)があります。

  櫓台にも見える土塁(1)


次にそのまま参道を150mほど北上すると、道は大宮神社境内の前で大きく東(進行方向右側)に直角に曲がりますが、この角にL字型の堀跡と土塁状の地形(2)が確認できます。

L字型の堀跡と土塁状の地形(2)


さらに、そのまま参道を100mほど東へとすすむと稲荷社を祀った土塁(3)が所在しています。
 
  稲荷社を祀った土塁(3)


また、(1)の土塁の個所から参道を北へ50mほどすすむと車両通行止めとなった水路沿いの小道があり、これを道なりに100mほど東進すると進行方向にやはりL字型の土塁(4)が現れます。
 
   L字型の土塁(4)


目視で確認できる遺構は概ね以上でかなり断片的ではありますが、北城と御城などから構成される複郭の城跡の存在が想定できるものと考えられます。




光明寺寺(栃木県栃木市都賀町家中字宿)
12時10分から12時35分、晴れ時々曇り、微風
平城
確認遺構 土塁、堀、櫓台?、小口?

別名を細井城とも呼ばれ、小山氏一族の細井光明が弘治年間に築城したとされるもので真言宗光明寺の境内が城跡です。
北東側の遺構を見る限りでは、本来は二重堀に囲まれた形式の城跡なのかも知れません。
現在は寺院として使用されてはいますが全体として遺構の残存状態は良好で、特に南西部の横矢を意識した土塁と堀跡付近のラインも印象的です。


  南西部の堀と土塁         南側の山門


   東側外郭の北半分        北側の内堀跡


  北東部角の櫓台状地形




西方城(栃木市西方町本城、元)
13時20分から15時30分、晴れ時々曇り 風やや強し
比高差約130m(道がよいので20分ほどで北郭の堀切に到達します)
確認遺構 土塁、郭、堀切、横堀、小口、井戸跡ほか多数

東麓の曹洞宗長徳寺近くに13台ほどが収容可能な城跡見学者専用の舗装された駐車場が整備されています。
山城へと向かう道筋は案内標識も多く、まず道を間違えるような心配はありません。
もっともイノシシが出没する模様で、猪除けのフェンスが設置されていました。
折しも谷沿いの道筋を辿り始めた矢先に、北側(進行方向向かって右)の尾根筋からガサゴソという物音は続いておりました。
谷筋の登り道は途中で右(北)へと分岐して、そのまま北郭の堀切から続く竪堀を通り山上の遺構群へと誘われます。
ここで分岐の案内標識とは異なり、そのまま斜面を登る道をとれば水の手とも考えられる山腹の平坦地(郭)へと続いています。


    西方城の遠景        ありがたい駐車場


    登り口付近          現地解説版


東向きの谷筋に見られる削平地    竪堀への分岐点


 北の郭(小口は画像右から)    横堀を伴う防御陣


   二の郭(二の丸)        土   橋
 

  主郭北側郭の虎口と堀切       同堀切


   主郭北側郭の虎口


    主郭北側小口         同   前


    主郭の土塁          主郭(本丸)


    東側中腹の郭      


    南の郭と堀           石垣か?


    井戸郭下の土塁        井戸郭の土塁


  井戸郭付近の複数の郭      東郭の桝形付近


      東の郭           東の郭切岸


 午後3時半で凍ったまま    高速道路の向う側の谷を登る



今回は始めに再訪した榎本城関係だけで約2時間30分を要してしまい、日没時刻も早いので結果的には再訪1か所を加えても計4か所となってしまいました。
さらにこの時期では、デジカメ撮影に相応しい時間帯は午前10時過ぎから午後2時頃までの4時間ほどで、その前後の計2時間はかなり朝日と夕日に影響を受けた画像となります。
探訪には絶好の季節なのですが、デジカメ画像の撮影にはいろいろと制約も出で来るという矛盾も痛感します。
今シーズンはあと1日ほどは栃木県内を回る心積もりですが、いくぶん風邪気味となってきていることから先のことは分かりません ^_^;
 

拍手[1回]

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お疲れ様です
西方城、素晴らしい城ですね
あの虎口の迫力は圧倒されます
個人的には井戸郭がお気に入りです
奥の郭も広くて手抜きなしですね
あの付近でお勧めは逆面城です
民有地なのでやや見学しづらいですが
見応えありました
軍曹 2017/01/14(Sat)18:33:15 編集
Re:お疲れ様です
こんばんは。
今回も貴サイト情報のお世話になりました。
どうもありがとうございました。

俄かに人の声が聞こえて、ほぼゴルフ場の敷地に囲まれているのを思い出したのは東郭の竪堀の辺りでした。
井戸郭近くの南東を向いた保塁の辺りの光景は石垣も残り素晴らしいですね。
今シーズンはあと1日くらいは栃木市内を探訪する予定でおります。
いろいろと情報をお寄せいただき感謝を申し上げます。
【2017/01/14 18:49】
別便送りました
こんばんは。
毎週の栃木攻めお疲れ様です!
当方も小荷駄隊として参陣致します。
途中、乱取りされぬ様頑張ります(汗)
みかづきぼり URL 2017/01/16(Mon)22:37:39 編集
Re:別便送りました
こんばんは。
2度続けて出かけたので、栃木市内はだいたい様子が掴めてきました。
あるはずの道が無いというミステリを含めてですが(笑)
詳細は別便にて。
【2017/01/16 23:27】