本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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定年を過ぎました~
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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栃木市を訪れたのは2014年6月以来ですが、その時は全く別用で訪れたために県道11号線の辺りを少しだけ歩いただけで、城館関係は全く探訪しておりません。
少し時は遡りますが、現在は栃木市となっている旧大平町を訪れたのは2009年3月頃のことで、ご案内いただいた儀一さんと共に雨がそぼ降る富田城の辺りを彷徨しただけでした。
今回は先月25日のミニオフの影響も加わり、そろそろ栃木県方面にももう少し足跡を残しておこうと考え決行したものです。
宿泊遠征や昨年神奈川の電車を利用した日帰りなどを別にすると、この時期の車での単独日帰り探訪は実に2011年春先以来のことになります。
また、ここ数年は体調不良が続き山城シーズンの最中には長く風邪を拗らせていることも多かったことも関係しています。

さてこの日は午前4時前に起床し、午前5時には一般道経由にて自宅を出発しましたが、未だ辺りは漆黒の闇に閉ざされておりました。
このため日中の感覚と異なり、何と利根川橋の手前で道を間違えるという失態も ^_^;

高速を利用すれば現地までは休息を入れても約100分ですが、まだ新年の4日目ということもあり予想よりも早く約120分ほどで到着しました。



榎本城(栃木市大平町榎本、真弓)
午前7時10分から午前8時10分、晴れ
確認できる遺構 土塁、空堀

早くとも午前7時30分頃の到着を予定していましたが、だいぶ早く着きすぎてしまいなかなか太陽が昇ってきません。
このため到着時刻から日の出を待つべく10分間ほど待機することに。
畑には霜が降り、辺りの凍てつく空気は氷点下で、体が順応するまで少々時間を要しました。
肝心の遺構は城址碑が所在する個所に巨大な土塁と空堀が残されているほかに、その北側の民家宅地北西側および日蓮宗法宣寺境内北西部にも土塁とおもわれる地形が確認できました。
法宣寺の地形については境内の内側からは些か微妙な按配ですが、外部から見る限りでは一応西側と北側が切岸状の地形を成しているのが確認できます。
また法宣寺境内北側の低地(耕作地)も堀跡である可能性も感じられ、法宣寺と城址碑の所在する民家との間にも南北方向にのびる薬研堀状の堀跡地形を確認することができました。
とはいえ城址碑の個所以外のものが、全て榎本城に直接関係するものであるのかは不明です。
 このときは遺構の確認ばかりに関心が注がれて、榎本氏、近藤氏、本多氏関連の墓所参詣を失念してしまいました。
またこの後、夕刻に訪れた栃木市図書館で閲覧した「栃木市遺跡分布地図」によりますと、さらにその北の法王寺の北側付近にも遺構が存在しているようです。


   日蓮宗法宣寺東参道        同寺山門


   日蓮宗法宣寺本堂       同寺境内北西部


    法宣寺西側           法宣寺北側


  法宣寺北側の堀跡?       法宣寺境内北側


   南北方向の堀跡         同    左


                     城址碑


     空堀と土塁          同   左


   城址碑北側の遺構       西側を流れる永野川


   城址全景(西側から)    熱気球が風に揺られて


 午前8時過ぎになっても暗い
 
 
 
 
沼和田陣屋(栃木市沼和田町)
午前8時40分から8時45分、晴れ
確認できる遺構 なし

「近世栃木の城と陣屋」の記述から推測しますと、目安は「岩下の新生姜」で知られた「岩下食品」の工場の東隣り、県道153号線の東側の旧家付近のようです。
幕府旗本土岐氏2000石の陣屋とされているようです。
周辺は栃木市内の市街地の外れですが、すでに宅地化が進み近世陣屋としての面影はありませんでした。


    南東側付近から      県道153号線の東側


    南西方向から       県道153号線沿い


御辺館(栃木市箱森町)
午前9時20分から9時35分、晴れ
比高差ほぼなし
遺構かどうかは不明な地形の段差は確認できる

「栃木の中世城館跡」によれば、かつては水田との比高差2m、東西約120m、南北約150mの規模で、土塁と堀にわり囲まれていたとのことですが、その歴史的な経緯についてはあまり明確ではない模様です。
北側に隣接する「栃木住宅公園」(住宅展示場)側から拝見すると、比高差2mほどの地面の段差を確認することができますが、如何にも新しい造成工事のような印象があります。
また、栃木日産に近い竹林中にも同様の比高差のある平坦地が目視できますが、外部からではその詳しい様子が確認できませんでした。


    西側の公道から       南隣の鷲宮神社


    住宅公園から         同    前


     住宅公園          北側の小河川


なお、ここでこの辺りの公道上で半家ネコさん4匹と遭遇...というよりも地元のネコ4匹が部外者と思われる爺にストーカーされた、と表現したが合致しているのかも知れません。
2匹のネコさんには逃げられましたが残りの2匹とは少しの間だけコンタクトに成功しました。


   少し怒ってます     やっぱり睨まれているようです



館野城(栃木市箱森町)
午前9時50分から10時00分、晴れ
比高差 なし
遺構 ほぼ無し

「栃木の中世城館跡」や「栃木市遺跡分布地図」の記述によりますと、かつては南東に大沼という湧水池が存在していたということですが、現在は文字通り漢字表記が変わり雨水および付近の小河川の遊水池となっていました。
この遊水地から見て北西側の微高地がその推定地とされている模様です。
現状は宅地化がすすんでいるために、その面影は微塵も感じられませんでした。

このあと車を停めたセブンイレブンにて購入したハムサンドで遅めの朝食兼早めの昼食。


   推定域の中心部付近      南東部の遊水地



泉川陣屋(栃木市泉川町)
午前10時30分から10時40分、晴れ

「近世栃木の城と陣屋」によると、真言宗泉光院の南南西約120m付近に所在する民家付近とされているようですが、現在では屋敷林の伐採などもあったのか景観が大きく変わり微高地である以外にはこれといった地形的な特徴を見出すことができませんでした。
なお、泉光院の南約100m地点に長さ80mほどの土塁状の地形が確認できますが、近世以降の屋敷林に伴う風除けなどのための土塁である可能性も考えられます。


   陣屋跡東隣の屋敷林      推定陣屋跡付近


    南側からの遠景       北方の泉光寺観音堂


吹上城(栃木市吹上町元陣屋)
午前10時55分から11時45分、晴れ
比高差約15m

中世城郭の吹上城が廃城とされた後に、18世紀末に代官陣屋として利用され、さらに幕末の天保年間に上総からの領地替えにより有馬氏1万石の大名陣屋が置かれたと考えられています。
確認できる遺構は、吹上中学校南の住吉神社付近と同校北側に残されているとされていますが、すぐ北側がゴルフ場開発が行われているために直接空堀を目にすることは難しく、あくまでも金網越しに眺めるという状況になっています。
またゴルフ場へと向かう道の西側に僅かに土塁の残滓らしい存在を見ることができますが、この年明けの時期でも草木に覆われて見過ごしてしまうような状況でした。


   吹上中学校南側         住吉神社社殿


    住吉神社の参道       境内の郭状削平地


   境内の土塁状地形        境内背後の地形


  ショートカット不成立      土塁跡の残滓か



   校庭北側の地形


木村館(栃木市都賀町木)
12時05分から12時15分、晴れで弱い風が出始める

「栃木の中世城館跡」(1982)の記述をもとに探訪してみました。
鹿島神社の東約100m付近が館址と推定されているようです。
鎌倉初期佐野氏一族木村氏の館跡といわれています。
市道建設により南側の一部が分断されてはいますが、典型的な平地の方形館の趣がありました。
jまた、北辺には一段低くなった長さ約120m、幅約5m(農道部分を含めると約7m)ほどの細長い区画の水田(堀跡の名残か)などが所在して、往時の景観を髣髴とさせてくれるものを感じました。
 
 
   西方の鹿島神社        北側の低地(堀跡)


   北側の低地(堀跡)      北側の低地(堀跡)


  南西方向からの全景       鹿島神社の全景
 
このあと昨年末からの念願であった「かっぱまんじゅう」購入のため隣の鹿沼市へと移動。
翌日の5日は臨時休業だったので、この日の探訪は正解でした。
また、こうして投資をして今後の探訪に支障を来す懸念(家庭事情)を払拭。


 かっぱまんじゆうの松屋     城もあったし河童もいた


 
神楽ヶ岡城(栃木市都賀町木)
13時30分から14時20分
晴れ時々曇り、のち西方に雲が出て曇りになり冷たい風に変わる
比高差約30mくらい
確認できる遺構 土塁、横堀、郭、小口?
綺麗に樹木等の伐採が行われているので、少なくともあと1年くらいは夏場を避ければ見通しは良好ですが、できればトレッキング程度の足回りは用意したいところですし、この時期、枯葉の切岸はよく滑ります(はい、見事に滑りました)

三ノ宮神社の境内経由、あるいはその西側から北へと延びる小道から丘陵を登ります。
リンクさせていただいている「城郭図鑑」さんなどからの情報の通り、今のところは樹木の伐採と地表の笹薮刈取りの効果などで、ほぼすべての横堀を歩き回ることができます。
これがあと10年も若ければ、るんるんとスキップをしたくなるような快適な探訪を味わうことができました。
比高差約30mほどの独立丘陵に占地したその基本的な縄張は、南北方向に連なる連郭式の3から4の郭を横堀で区画するというスタイルのように見受けられました。
特に東側の丘陵地形は比高差は多くはないものの、その斜度は45度を超える急傾斜を成しておりこちら側からの侵入を固く拒んでいることが窺えました。
ただし、仮に城域を主郭が北限として捉えるとすると、主郭に伴う1条の土塁と横堀だけが存在するのみであり、東北自動車道建設による影響もあり、堀切などの明確な遺構の存在が窺えない北側の緩やかな尾根続きに対する防備の物足りなさが幾分気にかかりました。
また主郭から南側へと分枝している2本の尾根筋の間の傾斜の緩やかな浅い谷戸地形付近にも明確な侵入遮断意図が見られず、この方面からの侵入対策をどのように講じていたのかについてももう少し時間をかけて考察したいという気持ちになりました。
そうしたことを含めて、ここ数年以上は縄張図(概念図)作成を諦めている管理人でも、3時間もあればある程度の縄張図が起こせそうな感触がしましたが、日没時刻までの残り時間と、この後の予定、全体的な疲労の具合、サポーターで保護しているものの次第に増幅する両膝の鈍痛などの事情により踏査を断念しあっさりと撤退。


    南側からの遠景       東側からの遠景


   三ノ宮神社参道石段       境内裏の地形

 
   この右の道を登る    破棄されたバイク辺りから城跡


     横  堀           土  塁


   作業用の道かと         腰   郭

 
     小口かも   


   主郭北側付近の横堀


    主郭の南西下         同  左


    小口かどうか?       西側が高い主郭


    主郭の北端部        主郭南の空堀か?


     土  塁         郭を分かつ空堀

 



良く見れば郭のラインも見える

歴史的な経緯としては、その縄張りの指向性も示しているように、皆川氏による北東の宇都宮氏に対する防備を意図したものと考えられているようです。




西方陣屋(栃木市西片町元町)
14時30分から14時35分、曇りのち時々晴れ
比高差なし
確認できる遺構なし
探訪時期は農繁期を除けばいつでも大丈夫そうでした。

「近世栃木の城と陣屋」などによりますと、おおむね西方小学校の北側の水田が陣屋跡ということのようなのですが、目前には沈みかける鈍い夕日を浴びた寒々とした水田が広がっているだけでありました。
せっかくなので、西側に所在する西方城、二条城方面の丘陵をしっかりと目視して本日の探訪を完了。


   推定陣屋跡付近        西方、二条城方面


このあとは、栃木市図書館に立寄り「栃木市遺跡分布地図」「栃木市史」「西方町史」などの必要個所を複写し、帰宅の途へとつきました。




平成の大合併により栃木県内では、それまでは50か所近くも存在していた自治体が25か所に半減してしまい、未だに新しい自治体の名称とその行政区域が頭の中に入らず難儀をしております。
今回は車を利用しているので16キロメートルほどしか歩いてはおりませんが、近年足元の劣化は止まることを知らず、このように痕跡の乏しい近世陣屋跡で無理やり探訪数を水増してお茶を濁すという悪癖に嵌っております(苦笑)
また、老眼の進行も著しく遠近両用使用6年目ですが県別マップルが、年を経ることに確実に見えづらくなっております。
新しいカーナビは画面も大きいのでまだ何とか見えてはいますが、この調子では乱視の調整を試みても、おそらくあと4年ほどで車を利用した単独での城館探訪は打ち止めとなる公算が濃厚になって参りました。
そのあとは主に電車等を利用した近世城郭+整備された有名所にシフト(ほとんど観光地巡りか)していくことになるものと思います。
また、その後の運転免許証の返納はおおむね75歳頃までを想定しております。
と、そのような感慨を抱かせるに十分な一日なのでありました。
(この記事は1月7日に記述しています)

拍手[3回]

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栃木市界隈の城跡
神楽ヶ岡城、多少なりともお役にたてて嬉しい限りです。
特に城跡としての整備ではなさそうですが、伐採は有難いですね。
あの付近だと布袋ヶ岡城がありますが遺構なのかどうなのか判別しがたい箇所が多い城でした。ただ、横堀はなかなか見事ではあります。
それよりもやはり西方城ですね。素晴らしい城跡です。麓の寺までは車で行けると思います。
二条城は藪がひどくあまりおすすめしません。あの藪では全容が把握できませんでした。また、車の場合、城の真下までは行けないと思います。
意外と楽しめたのがゴルフ場を挟んで西にある真名子城でした。二重堀切はかなり見づらい場所ではありますが。
都賀の城は面白いのでぜひお出かけください。
軍曹 2017/01/08(Sun)18:10:25 編集
Re:栃木市界隈の城跡
こんばんは。

「神楽ヶ岡城」の件、大変助かりました。
あらためまして多岐にわたるご教示、ご指南感謝申し上げます。

西方城は次回に出かけてみる所存であります。
登りのあるのはこれ1か所にいたします ^_^;

なお、栃木図書館で複写してきた「栃木市遺跡分布地図」(2015年刊行)がいろいろと役立ちそうです。
【2017/01/08 19:02】
無題
栃木市探訪おつかれさまです。
周りの方の探訪記を読んでいると、刺激を受けて行って観たい衝動にかられます。
冬の間に資料収集をかねて小山周辺を再訪出来ればと思っています。
みかづきぼり URL 2017/01/09(Mon)12:13:20 編集
Re:無題
こんにちは。
コメント忝く存じます。

今シーズンは、1日につき5か所くらいを目安にのんびりと栃木、茨城と下総近辺を徘徊する予定でおります。
平日の探訪が多くなりますが、行先・日程が合いそうでしたら、ご遠慮なくご一報くださいませ。
【2017/01/09 12:50】