本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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一周間前の土曜は三番目の孫のお食い初めであった
帰りがけに店の入り口から車までのわずかな距離を、仲良く6歳(長女)と3歳(3歳)の孫の手を繋いで歩いた
その後は当人は車酔いがあるこので自宅までの10分ほどの道程をひとりトボトボと歩いた
たまたま自宅近くの一日最大500円の貸駐車場にて二人の孫と再び出会い、ごく自然な成り行きで再度手を繋いで帰宅
なおこの日はそんな6歳の方の孫の卒園式
この子は1歳から2歳にかけてよく熱を出したりしていたことなどから、その1年間に100日以上お守をしていたという記憶がある
こうしたこともあつてか、一時は父親よりも爺の方に慣れていたということもあった
その子も来月8日には小学校の入学式
先月中頃にはそうした先々の予定からは縁遠い環境におかれていた
とはいえ大腸がんの再発率はステージ2の場合で約15%ほどとされている
この先穏やかな日々が続いていくのかどうかは誰にもわからない
帰りがけに店の入り口から車までのわずかな距離を、仲良く6歳(長女)と3歳(3歳)の孫の手を繋いで歩いた
その後は当人は車酔いがあるこので自宅までの10分ほどの道程をひとりトボトボと歩いた
たまたま自宅近くの一日最大500円の貸駐車場にて二人の孫と再び出会い、ごく自然な成り行きで再度手を繋いで帰宅
なおこの日はそんな6歳の方の孫の卒園式
この子は1歳から2歳にかけてよく熱を出したりしていたことなどから、その1年間に100日以上お守をしていたという記憶がある
こうしたこともあつてか、一時は父親よりも爺の方に慣れていたということもあった
その子も来月8日には小学校の入学式
先月中頃にはそうした先々の予定からは縁遠い環境におかれていた
とはいえ大腸がんの再発率はステージ2の場合で約15%ほどとされている
この先穏やかな日々が続いていくのかどうかは誰にもわからない
この日は長男の次女のお食い初め(生後約100日)のお祝い
手術後の経過や退院時期の見通しが不明な時期にはほぼ参加が困難と思われた
しかし退院後の体調や食欲の回復傾向に鑑み目出度く列席可能となった
昨年末あたりから続いていた体調不良のため次女(孫)との対面はこれが初めてであった
長女(孫)の方は4月からは小学1年生に
生後1年位から養育の面倒をみていたこともあり、この子がランドセルを背負うまでは元気でいようという数年前からの目標はギリギリどうにか達成
なお、深更手術による切除箇所に符合すると感じる上行結腸部辺りで軽い疼痛があり目が覚めた
そのほか相変わらず歩行時の息切れと喉の渇きが強く感じられた
手術後の経過や退院時期の見通しが不明な時期にはほぼ参加が困難と思われた
しかし退院後の体調や食欲の回復傾向に鑑み目出度く列席可能となった
昨年末あたりから続いていた体調不良のため次女(孫)との対面はこれが初めてであった
長女(孫)の方は4月からは小学1年生に
生後1年位から養育の面倒をみていたこともあり、この子がランドセルを背負うまでは元気でいようという数年前からの目標はギリギリどうにか達成
なお、深更手術による切除箇所に符合すると感じる上行結腸部辺りで軽い疼痛があり目が覚めた
そのほか相変わらず歩行時の息切れと喉の渇きが強く感じられた
そういえばこの日は都内から当地へと転居後満60年という日であった
当時の世の中は後に高度経済成長時代と呼ばれることとなった真っただ中であったような
マイホームブームの先駆けとなる別名「都落ち」とも云われることとなった都内23区北西部からの転居であった
都内時代も一応は自宅ではあったのだが、土地に関しては所謂「地上権」のみを保有していたに過ぎず、当時の売却額は200万円程度と聞かされていたような
当初は京浜東北線南浦和駅近くの鹿手袋と呼ばれた地に転居する予定であったのだが、結果的には今後の住宅にかかる返済計画に鑑み50万円の手付金を放棄し、当地に土地建物合わせて200万円相当の不動産を取得することとなった
結果的にこの折の判断は正解であり、のちにこの地は京浜東北線と後年に開通した武蔵野線と貨物線に周囲を取り囲まれた住環境としては余り相応しくはない地帯となってしまったのである
転居もオート三輪2台に家族4人とともに家財道具が積載され、脳裏今でもには足元のステップの間からアスファルトの舗装路面が直に見えていたというどうでもよい光景が今でも克明に思い出される
これもまたどうでもよい話なのではあるが、数年後の後平屋から2階建てに増築された
この際にしばらくの間ではあったのだが8畳の自室からは西南の方角には霊峰富士の姿が克明に眺めることができていた
当時の「村」の人口が約6000人(現在は合併を経て約12万人)、隣の「村」(後に奉職することとなった)の人口が約4000(現在は約4万人弱)人という時代
「都民」から「県民」となり、しかも「村民」という正しく「都落ち」という刻印の代償として、小さいながらもマイホームという「楽しい我が家」を取得するに至った典型的な家族の物語でもあったのだろう
この当時は同村内には所謂「新興住宅地」なるものは他には存在していなかったという事情もあったことからなのであろうか、郵便物に地番の記載が欠落していても「〇〇村と姓名」の記載だけで配達されていたという記憶もある
なおこの年の10月には戦後経済復興の象徴でもある東京オリンピックが挙行されている
当時の世の中は後に高度経済成長時代と呼ばれることとなった真っただ中であったような
マイホームブームの先駆けとなる別名「都落ち」とも云われることとなった都内23区北西部からの転居であった
都内時代も一応は自宅ではあったのだが、土地に関しては所謂「地上権」のみを保有していたに過ぎず、当時の売却額は200万円程度と聞かされていたような
当初は京浜東北線南浦和駅近くの鹿手袋と呼ばれた地に転居する予定であったのだが、結果的には今後の住宅にかかる返済計画に鑑み50万円の手付金を放棄し、当地に土地建物合わせて200万円相当の不動産を取得することとなった
結果的にこの折の判断は正解であり、のちにこの地は京浜東北線と後年に開通した武蔵野線と貨物線に周囲を取り囲まれた住環境としては余り相応しくはない地帯となってしまったのである
転居もオート三輪2台に家族4人とともに家財道具が積載され、脳裏今でもには足元のステップの間からアスファルトの舗装路面が直に見えていたというどうでもよい光景が今でも克明に思い出される
これもまたどうでもよい話なのではあるが、数年後の後平屋から2階建てに増築された
この際にしばらくの間ではあったのだが8畳の自室からは西南の方角には霊峰富士の姿が克明に眺めることができていた
当時の「村」の人口が約6000人(現在は合併を経て約12万人)、隣の「村」(後に奉職することとなった)の人口が約4000(現在は約4万人弱)人という時代
「都民」から「県民」となり、しかも「村民」という正しく「都落ち」という刻印の代償として、小さいながらもマイホームという「楽しい我が家」を取得するに至った典型的な家族の物語でもあったのだろう
この当時は同村内には所謂「新興住宅地」なるものは他には存在していなかったという事情もあったことからなのであろうか、郵便物に地番の記載が欠落していても「〇〇村と姓名」の記載だけで配達されていたという記憶もある
なおこの年の10月には戦後経済復興の象徴でもある東京オリンピックが挙行されている
本日は皮膚科の通院日。
年末に予定していたクリニックなのだが、院長の入院により休診が続きこの日の診察。
自宅周辺では夕刻日没前後辺りから気温低下と暴風が吹き荒れるという予報。
然し、天候は帰宅途上の午後4時前頃から急変。
急激な気温低下と北西の暴風の洗礼を真面に受けることとなった。
自宅までの残りはあと約6kmの距離と雖も、何一つ遮るもののない関越道の側道沿いを風速20m超の強風を背に受けていた。
体感気温は経験上では0度前後かと。
勿論防寒対策などだけは抜かりなくザック内に防寒着、防寒手袋、防寒帽子一式(たぶん氷点下5度くらいまで対応)を携行。
尤もこの時の誤算といえば耕作地から舞い上がる砂塵の防塵対策であった。
埼玉のこの辺り地域限定の春先に見舞われる大砂塵である。
とにかく真面に目が明けられないほどの砂塵なのである。
平地林の防風機能、風向きなどを勘案し最短ルートにての帰宅となった。
この砂塵については、本来の赤土土壌に加え今季の著しい雨不足、長年の耕地の化学肥料過多などによる無機質化も背景にあるものと推察。
50年ほど前頃はこの辺りの耕地では小麦等を栽培している事例が多かったように記憶。
しかし今では一部の野菜畑を除くと休耕地同然とういう有様。
このため2月末頃から4月初め頃には砂塵で太陽が霞むほどの空模様となるのである。
それでも1月のこの時期に暴風と大砂塵に見舞われることは予想だにせず。
無論荒天時に好き好んで徒歩移動しているような人間は稀有の様であるらしく、自宅までの行程では誰一人として歩行者に出会うようなことは無かった。
今度通院する折には防塵ゴーグルも用意せねば、と痛感する次第であった。
年末に予定していたクリニックなのだが、院長の入院により休診が続きこの日の診察。
自宅周辺では夕刻日没前後辺りから気温低下と暴風が吹き荒れるという予報。
然し、天候は帰宅途上の午後4時前頃から急変。
急激な気温低下と北西の暴風の洗礼を真面に受けることとなった。
自宅までの残りはあと約6kmの距離と雖も、何一つ遮るもののない関越道の側道沿いを風速20m超の強風を背に受けていた。
体感気温は経験上では0度前後かと。
勿論防寒対策などだけは抜かりなくザック内に防寒着、防寒手袋、防寒帽子一式(たぶん氷点下5度くらいまで対応)を携行。
尤もこの時の誤算といえば耕作地から舞い上がる砂塵の防塵対策であった。
埼玉のこの辺り地域限定の春先に見舞われる大砂塵である。
とにかく真面に目が明けられないほどの砂塵なのである。
平地林の防風機能、風向きなどを勘案し最短ルートにての帰宅となった。
この砂塵については、本来の赤土土壌に加え今季の著しい雨不足、長年の耕地の化学肥料過多などによる無機質化も背景にあるものと推察。
50年ほど前頃はこの辺りの耕地では小麦等を栽培している事例が多かったように記憶。
しかし今では一部の野菜畑を除くと休耕地同然とういう有様。
このため2月末頃から4月初め頃には砂塵で太陽が霞むほどの空模様となるのである。
それでも1月のこの時期に暴風と大砂塵に見舞われることは予想だにせず。
無論荒天時に好き好んで徒歩移動しているような人間は稀有の様であるらしく、自宅までの行程では誰一人として歩行者に出会うようなことは無かった。
今度通院する折には防塵ゴーグルも用意せねば、と痛感する次第であった。