本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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 今回は何故か、ふと思い立って普段は殆ど赴くことのない神奈川県の市街地へ。
車でのアクセスが不向きな土地柄ゆえ、なかなか足が向かなかった地域ではあります。
午前4時30分に自宅を出てから、東武東上線-副都心線-東急東横線を乗り換えなしの直通通勤急行なので乗車は最短の時間1時間半弱。
座席にも座れ、かつ無事に通勤ラッシュも回避。

思えば便利にはなったもので、ひと昔前ならば池袋、品川での乗り換えが不可避で所要時間は2時間を優に超えるはず。
こうして横浜駅に到着した時にはラッシュ前の午前6時35分前。
鍵となるのは、雨と蒸し暑さなどが懸念されたこの日の空模様。

権現山城(神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷) 午前6時50分から7時40分

横浜駅に近い横浜市内なので、まず駐車できるような場所はありませんので電車利用が大前提。
従来の城跡推定地は「城郭大系」などでは「幸ケ谷公園」とされてきたようですが、最近刊行された「神奈川中世城郭図鑑」によりますと、もう少し東側の幼稚園や小学校の所在する辺りが権現山のピークではなかったのかという説が有力視されているようです。
15世紀初め頃の伊勢氏と扇ケ谷上杉氏による「権現山合戦」の舞台と伝わります。


 
  京急神奈川駅前の解説     権現山城のネコさん


  一応解説版がありました   かつての推定丘陵先端部付近


なお城跡と麓の神社にて割合と懐こいネコさん2匹と対面し記念撮影。
鳥を眺めているのか、中空を凝視しているのか不明な不思議なネコさんは「さくら耳」(去勢済み)でした。


  丘陵中腹の洲崎神社境内    鳥を眺めているネコさん


 
  仏公使館があった甚行寺      境内の紫陽花



青木城(神奈川県横浜市神奈川区高島台付近) 午前8時00分から8時10分

現在曹洞宗本覚寺の境内地となっている台地が遺されているだけで、地表上の遺構は確認できません。
旧来は権現山城と一体となっていた城跡であるという考え方が定説となっている模様です。
なお、幕末期には米国の領事館が置かれていた時期もあり、山門脇に史跡の標柱も設置されていました。
また、この石柱後方の緑豊かな台地が権現山城に当たります。
「権現山合戦」では上杉方の藤田氏によって、伊勢氏側に加担した上田蔵人の籠る要害が落城したとも伝わります。


  城跡の曹洞宗本覚寺      こちらは米国領事館跡


   タイサンボクの花       この辺りに堀切が



以上の僅か2か所(⇒実質1か所のようなもの)を訪れただけで、風はあるもののじっとりと湿った南風が吹き、体中から汗が止めなく吹き出すような湿度は予想以上。
早起きのせいなのか、歳のせいなのかは分からねども、この時点ですでに早くも疲労が顔をのぞかせはじめました。

それでも、本覚寺のすぐ南西側で東急反町駅へと向かう最短距離の専用通路を見出し欣喜雀躍。
・・・と、なってしまったことが全ての誤算の始まりでした。
前日の睡眠の直前までは、本来はこのあとでいったん京浜急行神奈川駅あたりに戻り、鶴見駅方面からバスまたは徒歩にて総持寺の北側を通過して諏訪坂方面へと向かい、ふたたび上手い具合にバスがあれば県道85号線を西へと向かうというような理想的ルートを描いておりました。


 
 セイヨウアジサイ(3枚共)    ついでに露草も

それが専用通路の標識を目にした途端にコロッと失念して、能天気に上の早咲きのアジサイを撮影し始めたりしており、このあとの相当に無駄な労苦を積み重ねることに繋がっていきました。
あとで測ってみたところでは無駄に歩いた距離は何と約10キロメートル弱に。



寺尾城(神奈川県横浜市鶴見区馬場3丁目一体) 9時20分から10時40分

後北条氏家臣諏訪氏の城と伝わりますが、基本的に駐車できる場所はありません。
東急の妙蓮寺駅から県道85号線を北東に向かいます。
このとき最寄りのバス停で確かめた時刻表ではこの時間帯のダイヤは1時間に2本。
ならば己の足を信じて歩くのみと判断したのが大間違い。
東急バスの方は通勤・通学時間以外の最も少ない時間帯でも1時間当たり6本もあったという事実に気づいたのは、このあとの諏訪館から戻る途中であったのてありました。

市街地化が著しく遺構に乏しい様子でしたが、事前に下調べしたところでは、だいたい次の3か所くらいは見ておきたいところでありました。
ところが思いのほかの比高差と元々地理不案内のために、比高差が少ないとはいえ丘陵地帯を二往復半するなどして、かなりの時間を費やすこととなりました。

 
 麓からの比高差は20mほど   この石段は結構つらい


◎城跡石碑 
丘陵の山頂近くに所在してるのですが、具体的には寺尾3丁目15番の住宅地南西角の道路沿いに所在しています。
この日は横浜市内ということもあるのか、同好の士の方と遭遇することがたびたび。
城跡石碑の前で軽く情報交換などを。



◎馬場稲荷 
ウェブ地図などには「馬場稲荷」の表記があります。
石碑の箇所よりも比高差で10メートルほど低位に所在しており、このためアプローチには北西側の道路からが便利です。



◎殿山公園

公園内の西側住宅よりに空堀(竪堀)とこれに平行する土塁を確認できますが、周辺の宅地開発が進行しているため、いささか今後の遺構保全が気がかりです。
 
徒歩などの場合には北側の県道から、まず「馬場稲荷」、次に「城跡石碑」の順番で訪れ、最後に城跡石碑脇の細い道をそのまま東側へと向かい行き止まりとなる手前南側(右側)に「殿山公園」入口の木柱がありますので、この順路で廻るのがアップダウンも少なくて比較的楽なルートだと気が付きました。
もちろん丘陵南東麓からも行けますが、疲れない最短ルートは上記のとおりです。
ちなみに管理人は「城跡石碑」探しでは山頂の住宅地を一周半し、「馬場稲荷」では2度あの石段を往復し、殿山公園を探すにあたっては東高校の方まで足を伸ばすという無駄骨を折っております。

 丘陵上からの殿山公園入口    左の画像近くの解説板


    竪堀と土塁       細長い公園の中ほどの解説版


以上の寺尾城での彷徨が終了したのち、何かとても大事なことを忘れていたことを思い出し、漸くそのことに気付いたものの時すでに遅く、すでに次の諏訪館へと向かっている途上なのでありました。



  水連(ヒツジグサ)とも       同 左

下記の個所に向かう途中で立ち寄った水天宮境内の池に咲いていた水連です。



諏訪午之丞館(神奈川県横浜市鶴見区諏訪坂) 11時55分から12時20分

比較的狭い道が多く無論駐車できるような場所はありません。
「城郭大系」などによりますと、前記の寺尾城の城主であった諏訪午之丞の居館があったと伝わる場所ですが、現状は丘陵に崖線が確認できるものの一面の住宅地となっております。。
県道85号線が大きくカーブしているので、地図上の最短距離を進もうとしたのがまたもや大きな誤算になつてしまいました。
そもそも県道が大きくカーブしているのは丘陵地形が多いがための回避措置であり、こうした地形の最短距離をすすむということは正に「丘を越えて」いくことに他ならず。
僅か比高差20メートルほどの丘陵でも、2か所越えれば40メートルという計算に。
いわゆるだらだら坂もきついのですが、登るのが嫌気をさす急坂も疲れます。
あとで調べてみたところでは、このようにしてこの日に登った比高差は都市部の丘陵地帯であるにもかかわらず、累計で160メートルは超えておりました。

 
  途中にあった熊野神社    解説版の後方は只今工事中


  道路左側が推定館跡      上記解説版部分拡大


上記の解説版と現在の道路が幾分異なっているため、その相違を理解するまで些か時間を要しましたが、本来は古墳などとともに東西約150メートル、南北約100メートルほどの規模で崖線先端部付近に所在していたものと思われました。
このあとは、いくぶん遅めの昼食を摂り彼我の情勢(肉体疲労と空模様)を分析したのち、東急バスにて終点の「菊名駅」へ。
駅に着いてから次へと向かうか、そのまま自宅へと戻るかを決めるつもりでしたが、まだあと少しくらいならば歩けそうな気配でしたので重たい足を引きづりながら篠原城方面へと向かいました。



篠原城(神奈川県横浜市港北区篠原町)15時00分から15時15分

近年に城郭研究者の方が確認して話題となった中世城郭で、所在地から推定すれば小机城の支城のような役割が想定されます。
新横浜駅南側の丘陵地帯に奇跡的に残存していた城郭遺構ですが、この一帯は最近の宅地造成などにより主郭部周辺を除いて宅地化の波に飲み込まれてしまいました。
比較的狭い道路が多く、無論駐車できるような場所はありません。

それにしても南側の丘陵方面からアプローチすると、城跡が所在する向こう側には新横浜駅周辺の高層ビルの上半分がが覗いていたりするという何とも不思議な光景を見ることができます。
最寄の菊名駅からは横浜線北側の市道を西にすすんで丘陵の麓へと到達するのが、平坦でもあり最も便利かもしれません。
自分の通った「錦が丘分譲地」方面経由ですと、最悪比高差20メートル近い丘陵を登って下るという無駄に等しい疲労の激しいコースになります(^_^;)


     郭跡かも         主郭東の横堀付近


さて肝心の遺構ですが、以前に発掘調査が行われた際の詳しい解説パネル類などは見当たらず、今回宅地化された個所以外にはそのまま立ち入り禁止のフェンスが巡らされておりました。
しかし現在でも主郭切岸の一部と主郭東側の横堀については、フェンス越しからも現存していることが明確に確認できます。
このほかには主郭南側の平場と、辛うじて新しい造成宅地にも郭群切岸の一部が遺されているようにも見受けられました。




この日の本来の目的地はこの時期でも行けそうな小机城と茅ヶ崎城がメイン。
時刻は未だ午後3時15分過ぎで、新横浜駅までは徒歩約1キロメートルほど。
しかも未だ5か所しか探訪していないという冷徹な現実に暫し茫然。

小机城での歩行距離は駅からの徒歩を含めてもせいぜい4キロメートルくらい。

しかし生来の欲をかく悪癖が頭をもたげ、これに頑固な性格が輪をかけて、この日ここまで歩いた距離は何と32キロメートルを超過しておりました。
10年近く前には50キロメートル以上を歩いた経験はあるものの、足回りの痛み対策を行っているとはいえ、加齢に加えて手荷物の加重(約6キログラム)と徒歩の場合には車のような間の休みがないことなどを失念してしまい、確実に踵へのダメージが蓄積されていきました。

さらにこれに追い打ちをかけるようにして、時々路面に落ちる小雨と相俟って遠雷の轟も心なしか激しくなり始め、空模様もかなり怪しげに変貌していきました。
かくしてせめて小机城の遠景くらいは拝みたいという微かな願いも叶わず撤退を余儀なくされました。


本日の教訓
「丘を越えて」行くのは辛い。
道路が曲がるのには必ず訳がある。

拍手[2回]

さきほどこれまでに訪れた城館跡をあらためてカウントし直してみました。
すると何と未更新の塩漬け物件がとうとう30パーセントの大台を超えておりました。
無論未更新の件数そのものも、とうに300件を遥かに超えているような始末なのであります。

定年退職した2011年以降から各種ブラウザ対応、言語表記、画面解像度、携帯対応など様々な互換性などを一切考慮せずに従来通り更新していくのか否かなどといろいろ思案を重ねているうちに、どんどん記憶も遠視も進むなか無情にも年月だけは瞬く間に過ぎ去り、ただ只管に在庫物件が増殖していく管理人なのでありました。

拍手[1回]

この日は、みかづきぼりさんのお誘いで栃木県小山市へ。
先月、岩手県南への遠征時に比べますとごくごく短距離の遠征です。
また道筋も今年3月末の再訪ということもあり、近年物忘れが進行している年代とはいえまだまだ記憶に新しいルートでした。

連休明けの日曜日で、午前6時に拙宅スタートという好条件も加わったのかも知れませんが、極道16号線、県道3号線、国道125号線、国道4号線という経路にも殆ど渋滞が見られないという誠に幸先のよいスタートをきることができました。


野木神社(栃木県野木町) 午前7時40分から7時55分

国道4号線沿線に所在していることと小山市立博物館の開館時間との兼ね合いもあることから、ここを含めて野木町内の4か所を再訪してみました。


野木城(栃木県野木町) 午前8時00分から8時25分
再訪。
やはり今年3月末に比べますと、いささか野草の伸びが目立ち始めていることは否めず、城跡切岸の顕著さが減衰されておりました。


法音寺城(栃木県野木町) 午前8時30分から8時50分
再訪。
思川(おもいがわ)に向かう手前の市道沿いの山林内に遺されている櫓台を伴う城跡北東側土塁は、この時期であるにも関わらずまだ何とか目視できる状態でした。


乙女の土塁(栃木県野木町) 午前9時00分から9時10分
再訪。
隣接する北東部では太陽光発電施設の組立中でした。
土塁の一部にかかる北東側の樹木伐採は、この発電施設建設に伴う日照確保のためのものであったことが分かりました。
当該土塁状の地形については、近年の街区道路整備にそのままリンクしている地形であるという点が何とも悩ましいものがあります。

この直後に小山市博物館に立ち寄り、小一時間ほどを要して、開催中の「戦国時代の小山」企画展(料金200円)を見学。
遺跡発掘調査報告書の所管などが変更されたことや人員配置なども影響しているのかも知れませんが、企画展自体の内容もさることながら、3月末に訪れた時と比べてやや業務縮小されたような何とも漠然とした印象が残りました。

と、ここまではあくまでも記憶に新しい今年の3月末日に続く再訪であることから、城跡めぐりそのものについてはほぼ順調に推移して行きました。
つぎの小谷城からは、いよいよ小山市内となります。



小谷城(こやじょう、栃木県小山市上生井、下生井小谷) 午前10時30分から10時50分

明治期に編纂された「栃木県誌」(1904刊行)によれば、「小谷俊景が築城し、その後永享12年(1440)に網戸十郎村重が城主となったが、小山氏の支配下に置かれ、元亀2年(1571年)に小山弾正秀綱が再興して大橋右京亮を在城させたが天正年間に廃城となった」というような旨が記されています。

自分の勘違いにより、城跡石碑設置場所の所在地確認に少々難航しました。
城跡石碑(下生井に所在)は、生井集落を南北方向に縦断する県道174号線東側沿道、旧思川流路の北約80メートルほどの地点に所在する「水天宮」の小祠を祀る小さな境内に「現地解説版」とともにしっかりと所在しておりました。



当該遺構については、明治期にはまだ土塁と堀跡遺構などが明確に遺されていた模様ですが、「栃木県の中世城館調査報告書」などの記述によると、「直径250メートルほどの不正形円形の堀跡低地が囲み、西北部の一部にに高さ3メートル、幅10メートルほどの土塁が遺されていたが、圃場整備によって消失した。郭内は概ね田畑となっている。」との記述があります。

なお、上生井集落東部にも小さな「神明社」の境内がありますが、この東側約100メートルほどの地点には宅地に続く長さ10メートル余りの小さな土塁状地形や、城跡東側堀跡の一部とも考えられるような水田の低地を認めることもできますが全く確証はありません。



ただしこの土塁状地形については、旧思川の堤防の一部、あるいは水害除けの「水塚」などに関連するものである可能性の方が濃厚であるとも考えられます。



網戸城(あじとじょう、栃木県小山市網戸字追切) 午前11時10分から11時40分

「城跡の解説版」は網戸神社鳥居脇に所在しています。
「中世城館調査報告」などによれば、「思川西岸網戸集落にあり、かつては当地の網戸神社東の約3ヘクタールにわたり古城という本丸部分があったが、思川の堤防新設工事により分断された」というような経緯が記されています。

鎌倉時代初期には結城朝光の五男である網戸朝村(あじとともむら)の居城したとも伝わり、神社南側隣接してこれらに関係する五輪塔と宝篋印塔が祀られています。
参拝のあと、神社境内に駐車させていただいてから徒歩により暫時遺構の確認を。
神社西側の長慶寺の周囲には水田や水路などの水濠跡らしき地形を現在でも目にすることができました。


   水堀跡らしき水田      寒川尼と網戸朝村の墓石

なお、城跡の一部でもあった網戸小学校跡地では、現在太陽光パネルの小さな発電所が稼働していました。



◎浅間塚古墳(栃木県小山市) 11時35分から12時15分頃まで

通りすがりであったことから著名な古墳にも立ち寄ってみましたが、その物見台にも相応しい地形と南側の窪地に興味をそそられました。


  浅間塚古墳南側の凹地形


◎十二所館(栃木県小山市) 上記時刻の範囲にて
「小山氏の盛衰」(松本一夫著/2015年、戎光祥出版)に少しだけ掲載されていたのですが、これ以外には詳細な情報や関係資料を持ち合わせていなかったことから、その詳しい所在と歴史的な背景は不明なのですが、後日のメモ代わりとして記載しております。
ちなみに同書には「千駄塚古墳の南側では、十二所館と呼ばれる南北130メートル、東西91メートル以上の方形館の存在が確認され・・・」た旨が記されております。


◎薬研堀跡(栃木県小山市) 上記時刻の範囲にて
こちらも詳細な所在は不明、他はについては同上のとおりです。
よくよく考えてみますと、どうやらこの北方約500メートルほどの地点に存在している下記の「千駄塚浅間遺跡」に含まれる推定「館跡」に関連する薬研堀のことを指しているのかも知れません。



千駄塚浅間遺跡の館跡(栃木県小山市) 12時35分から13時20分頃まで

付近の道路建設に伴い2008年頃の埋文発掘調査によりその存在が推定された遺構ですが、記録後は埋め戻されて現状では地表上の遺構を確認することはできません。

「栃木県埋文センターだより2008年7月号」によれば、この台地東側で中世の薬研堀2条が検出され、そのうちの大規模なものは幅6メートル、深さ4メートルを計測したとされ1990年代の初めころに確認された中世城館との関連が示唆されています。

西側河岸段丘の崖線は比高差10メートル以上もある切り立った急崖地形でもあることから、おそらくは最盛期の小山氏による思川東岸の防御ライン一翼を担っていた可能性があるのかも知れません。


  東側方面から遠景を撮影


    北側の崖線部

なお余談になりますが、当該城館跡の存在が示唆されている台地の西側にもうひとつ小さな方形の台地が存在しているのですが、この台地の性格がいま一つ分かりません。
この二つの台地を挟む形でごく小さな川が流れてはいるのですが、それにしては崖線部の比高差が10メートルを遥かに超えるような深さを伴っています。
基本的には思川の流路がもたらした河岸段丘の一部なのかもしれませんが、少なくともその西側の思川沿いでは多分に後世の河川改修あるいは橋梁工事など伴う残土処理などを連想させる人工的な区画形質の変更が加えられている様子も窺えることから、東側の台地との関連性を含め果たして一体どこまでが自然地形であるのかその判断に苦しみます。



安房神社北側の二重土塁(栃木県小山市) 13時40分から13時45分

宮内の土塁に赴く途中でたまたまキョロキョロしていて気付いたのですが、安房神社境内の北側には土塁を伴った二重堀のようにも見える地形が遺さています。

北側からの神社参道により一部湮滅し幅の広い土橋状の地形となって分断されてはいますが、その総延長は60メートル以上を有しており、その最大幅も10メートルを超えるような規模があり、現在ではだいぶ埋もれているものの堀自体の深さも1メートルを優に超えている個所もありました。
中世からの古道に面しているという性格などからも、たぶんに城館遺構などとの関連を連想させる地形なのでありました。


  土塁と堀跡に見える地形   古道から眺めた安房神社社叢


宮内の土塁(栃木県小山市) 13時50分から14時00分
既に南側隣接地では分譲地の販売が実施されていましたが、これに伴って樹木が伐採されていたおかげで、この時だけは明確に土塁を拝見することができました。
従前の状況のままですとなかなか土塁まで接近することが難しそうな藪が広がっていた可能性が考えられます。
小山市の埋蔵文化財情報では約50メートルほどの範囲が記されていましたが、現状の土塁は長さ20メートル弱で、幅が6メートル、高さが1.2メートルほどを確認するのみでした。



土塁はこの南側60メートル付近にも一回り小さなものがもう1か所あるらしいのですが、その奥の藪などの様子を目の当たりにして断念しました。
 
このあとは、少し遅めとなってしまった昼食を摂取しつつ小休止をしました。



鷲城(栃木県小山市) 14時45分から15時30分頃まで

祇園城と並ぶ小山氏一族の中核的な城郭です。
現在遺されている広大な郭跡は、一部の土塁の残存状況などから勘案すると、東西方向に大きく3か所ほどに分かれていたものと思われます。
西側の搦め手下方に存在する土塁は、その南端部で南側からの崖線地形と組み合わさって巧妙な縄張が形成されていた模様です。

鷲神社も所在している広大な郭の西側には崖線部に沿って半円形の土塁が遺されているようなのですが、残念ながら現在では樹木が叢生してその全容を目にすることが極めて難しくなっておりました。
なお、この土塁はそのまま崖線の切岸につながり深さ10メートル以上の深い谷を形成していることから、湧水を伴う沢が流れているために、先ほどの西側の搦め手下方に存在する土塁の東側は足元の緩い湿地となっておりました。


  西搦め手下方の土塁        土塁と崖線


    土塁の遠景       藪の中でひっそりと佇む土塁



長福城
(栃木県小山市) 15時40分から15時50分

思川東岸の河岸段丘に所在しており、現在でも八幡町1丁目にある「やはた公園」の反対側(北東側)に明確な塁遺構を見出すことができます。
西側の土塁は総延長が約60メートルほどで、高さは目測で最大3メートルほどで緩やかなS字カーブを描いでおります。
野球場に面している東側のものは、目測で延長は約30メートルから40メートルほど、高さは2メートルから3メートルをほどを確認できますが、残念ながら南側の一部が重機により破壊されております。
「城郭大系」などを参考にしますと、元々は一体の土塁であったことが窺われますが、現在ではそれぞれ別々の遺構のように見えてしまうほどに、刻々とその旧状は失われているように思われました。
なお以前は空堀を伴ったものであったようですが、現在ではその存在確認が難しくなっておりました。


    城館跡の石柱         西側の残存土塁


  東から見た西側土塁        東側の土塁



小山御所
(栃木県小山市) 16時15分から16時25分

駐車場所探しに苦労するのを避けるべく小山市役所に駐車させていただき、そこから徒歩にて小山城(祇園城)とともに探訪しました。
探訪してから気づいたことですが、近年は城跡北東の空き地となった個所に少なくとも数十台ほどは収容できそうな専用の駐車場が整備されておりました^^

徳川将軍家の日光参拝のための宿所とされておりますが、西側の堀跡などの旧状は確認することができません。


  小山御殿と祇園城の幟旗     小山御殿東側崖線部


    現地解説版         小山御殿西側崖線部


祇園城(栃木県小山市) 16時30分から17時00分

小山一族の本拠地であり、現在でも土塁に囲まれた郭や遊歩道になった巨大な堀跡なども確認はできますが、城址公園化の際に少なからず地形の改変を受けている様子も窺えました。


   城址公園南側から       南郭西側の土塁



   南郭の東側土塁      帰りがけに遭遇したネコさん


◎小山評定の石碑(栃木県小山市) 17時05分頃

市役所の駐車場から出ようとしたところで何気なく北側方向を眺めたところ、ふとこの有名な事象の石碑と石柱が目に入りましたので、あらためて駐車し直してから記念撮影を敢行しました。


 有名な「小山評定」の石碑等


石塚館(栃木県小山市下石塚) 17時30分から17時40分

粟宮氏の一族である石塚氏の居館とも伝わります。
この場所は神社の社叢が目印なのですが、水田の中に集落からも外れてぽつんと建っていることもあり、やや分かりにくいかも知れません。
星宮神社境内が城館跡そのものではありますが、滋養館跡の石柱以外には際立った印象ものはなく、辛うじて石鳥居の両側近くに堀跡のようにも見えなくもない窪地を確認できますが堀跡などとの関連性は不明です。


    城館跡の石柱       堀跡だったら嬉しい窪地

ここの終了時点ですでに時刻は午後5時を過ぎていました。
画像のようにだいぶ日差しも西へと傾いてきていましたが、上手くいけばあと2か所くらいは何とかなるかも知れないなどと念じつつ次の目的地へと移動を開始。



御城(みじょう、栃木県小山市) 18時00分から18時10分
 
前述の「栃木県誌」などによりますと、梶原景時の流れをくむ鎌倉府の奉公衆である梶原氏の居館と伝わっているようですが天正18年の後北条氏滅亡により廃城となった模様です。
事前にウェブ地図などで確認したところでは適当な駐車場所が無さそうでした。
しかし実際には神社境内に駐車可能なスペースが確保されていることに気づくという己の不始末にあきれる始末でした。

明確な遺構はありませんが、城址碑とともに参道から2番目の石鳥居脇には水堀跡(現在は水路)と推定される窪んだ地形も確認できます。


  暮れなずむ城址碑      南側石鳥居近くに堀跡の名残

ここで活動時間は12時間を経過し午後6時をまわり、長くなったとはいうものの初夏の日差しもとうとう山際近くに傾き始めました。


  大平山方面に沈む夕日



史跡曲輪跡(栃木県小山市) 18時40分から18時50分頃まで

時刻もだいぶ経過し、ほぼ日没直前から日没後にかけての探訪です。
少しだけ迷いつつも何とか東北新幹線高架東側の城跡石碑に到着。
裏側は月ぎめの貸駐車場になっていることもあるのか、ゴミの不法投棄が目立つ土塁遺構なのでありました。
なお、この場所は道路幅員も約4.5メートルほどと狭く車を止める場所に難渋します。
訪れる際には比較的車の通行量の少ない日中などの時間帯がよろしいようです。
なお仮に城址碑脇の僅かなスペースに駐車しますと、結果的にマイカーの記念撮影となってしまうのであります。


      城址碑


そのあとは下記の当該解説版が設置されている高架西側の地点に車で移動。
こちらの方はごく短い時間ならば解説版南側の道路脇の部分に多少のスペースが確保できるので、城跡石碑の探訪に比べますといくぶん安心です。


   遺跡の解説版

画像では未だ明るくも見えますが、実際には日没時刻を優に過ぎ太陽はとうに地平線に沈んでおりました。


以上てんこ盛りに盛って20か所、実質では15カ所ほどを探訪。
このような事前学習不備な年寄をお誘い、ご案内いただいた、みかづきぼりさんのご労苦に心より深謝申し上げます。

と、ブログを記述してはおりますが、毎度のこととはいえ画像編集整理やその後の作業中の地震などのために実際に書き起こしていますのは探訪翌々日の2日後なのであります^^。

拍手[1回]

先月一週間を要した東北長期遠征では、従来抱えていた厄介な足回りの痛み対策が功を奏したことで、今後の活動見通しがかなり立てやすくなったことも大きな成果でした。
しかしその後しばらくは2000枚近い画像の整理、探訪資料整理などに忙殺されるとともに、ほぼ日中は半端ではない睡魔が襲い爆睡の日々が続いてしまいました。
最初のに三日はそれほどでもありませんでしたが、一週間が経過したあたりからどっと疲れが出てきたようです。

このためこの連休中も行楽などの混雑を避けるべく、自宅に籠りっきりでただひたすら関係資料の整理に追われておりました。
こうして少なくとも奥州市方面再訪の準備だけは整いましたが、その成否は気力と体力+幸運次第化と思う今日この頃です。

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岩手県遠征もとうとう最終日を迎えました。
この日も天候次第で一関市内の川崎、藤沢方面か、或いは昨日に引き続き奥州市以北を国道4号線で北上するのか迷いましたが、ここは確実に遺構と対面できそうな可能性のある平地の城館跡が多い後者の方を選択することにしました。
 
 
栗林遺跡(奥州市水沢区真城字八反町) 午前9時05分から9時10分

下姉体城へと向かう道すがら、たまたま参考までに遠景を撮影させていただいたものです。
およそ100メートルほど離れた県道197号線沿いからでもとても目立つ、ひときわ構えの大きなお屋敷を含む数軒ほどの集落でした。



後日少し調べてみますところでは、どうやら中近世の屋敷跡との関わりがあるようです。
帰宅後に奈良文化財研究時所の遺跡調査報告書データベースを幾つか調べてみましたところ、当該遺跡と直接関係するものは登録掲載されてはいませんでした。
しかしいくつかの報告書には「周辺遺跡」のひとつとして収録されており、やはり中近世の屋敷跡であることが判明しましたので1か所加算してみました(笑)

この一帯の胆沢扇状地にはその起源が中世にまで遡るとみられる環濠屋敷形態の旧家が少なくなく、こちらもそうした経緯があるようにも思われるような景観でした。


 
下姉体城(奥州市水沢区姉体) 9時30分から9時55分

別名を内館ともいって、下姉体城の本丸とも伝わる遺構です。
たぶん新山神社が地図上の目印と考えも先ずは神社境内前に駐車させていただき、恒例となっている参拝ののちはそのまま境内から北側にのびた農道経由で隣接する西側の集落へ。
すると行く手の左側には城跡の石柱と解説版の姿が目に入り、加えてその背後の屋敷北側には堂々とした屋敷をとりまく土塁遺構がその姿を現しました。
北側土塁の高さは最大で3メートル弱、長さは60メートルほどでそのまま西側方向に続いています。
南側の土塁はほぼ消失しているように見受けられますが、これに付随する約5メートルほどの幅を有していたとされる堀跡は現在の集落内の通路となっている様子も窺われます。


   新山神社の参道         北側の土塁



   北側土塁を西側から       土塁の上部

平地に占地しているにもかかわらず、下調べ不十分で訪れたこともあり、意外性のある城館遺構との対面に余りの感激を来たし、帰宅後に気づいたことではありますが、迂闊にも関連する複郭などの周辺遺構を確認することを失念しておりました。
「安永風土記」によれば、葛西家重臣である大内氏の居城と伝わっています。



上姉体城(奥州市水沢区姉体) 10時10分から10時30分

市街地の外れとはいっても地図情報などからは周辺の宅地化がすすんでいることが窺え、けっして溢れるような期待感を持って訪れた訳ではありませんでした。
しかし国道343号線を左折して一般市道に入った途端に眼前に切岸により頑強に防御された遺構が現れました。
城館周辺部をとりまいていたであろう堀跡は北側と西側部分を除いてほぼ埋め立てられているのですが、北側から見上げる最大4メートルを超える郭切岸の威容には感動を覚えます。


    北西側から           東側から


   南側の標柱と解説版      西側の土塁と堀跡


    北西側から


後から知ったことですが、こちらも旧水沢市内では保存状態良好な城館遺構として著名のようで、だいぶ以前に刊行された市史においても縄張図付で掲載されておりました。
この上下二つの姉体城については、近年の平地化が進行する平地に所在しているという厳しい環境下にあってなおも奇跡的に残存している良好な城館遺構であるといえましょう。

なおこの主郭が所在する元々の台地地形については、恐らくは胆沢扇状地の形成過程のなかで長い年月を経て支流である胆沢川の北進とその本流である北上川の流れにより、形成されていた扇状台地の一部が次第に浸食されて形成されたもののように思われます。

18世紀後半に編纂された仙台藩の地誌「安永風土記」によれば、天正年間に柏山家家臣の千田豊後が居住していたと記されています。



築館(奥州市水沢区佐倉河) 12時20分から12時55分

一部のサイトなどではすでに消滅したともいわれております。
管理人も始めは、南側の坂下から胆沢川が形成した河岸段丘の地形が眼前に広がり、その先には宅地化された台地が続くという景観を眺めそうしたような印象を抱きました。
それでもこの時点ではまたまだ気力体力も多少残っていたこともあり、直接の関連は無いものと思いつつも、まずは念のために遠く東側に見えた崖線上に所在する神社の祠を目指してみました。


 少し東側に外れすぎている   この円弧状地形の正体は

始めは活断層による断層帯の影響なのかとも思いましたが、このあまりにも美しい造形を描いている緩やかなカーブを伴う崖線が合致しませんので、その真相がとても気にかかりました。
自宅に戻った後にいろいろ調べてみますと、この地形については、学術的には「胆沢川」の流路の変遷による河岸段丘形成活動であると考えられているようでした。
北上川西岸に所在する広大な胆沢扇状地は胆沢川の流路の変遷がもたらしたものと考えられますが、長い年月を経て胆沢川自体も大きく流路を変遷させ次第に北上していったとされているようです。



 この地形は確実に電子国土に   市道に戻り目を転じれば


    南側の堀跡       北側堀跡に降りてみました


  西側の堀跡は埋戻しが


しかし上記の画像からも分かるように、よくよく現地を踏査してみれば、実際には近年において新たに建設された南北に走る市道西側に現在でも所在しており、郭北側の堀跡も明確に遺されておりました。
前日に降った水たまりが残された北側堀跡は少しばかり足元が沈みそうでした。

市道の西側道路沿いに立ちますと、今もなおつての堀跡である湿地を確実に俯瞰することができます。
ただし東側の堀跡はこの道路建設により完全に消失していることも判明します。
南側も現在は水田として耕作されていますが、はっきりと上記画像のような堀跡の形跡を遺しています。
なお西側堀跡は耕地化などによる一部埋戻しなどにより、幾分分かりにくくなっておりました。



佐野館(奥州市水沢区佐倉河) 12時20分から12時30分

別名をタテツバタケとも。
水沢インターチェンジの北側約300メートルほどの地点ある宿集落内に所在しています。
有名な胆沢城から見た場合には西南西約1キロメートルの方角になります。

こちらは予め城館跡というような知識が無ければほぼ見落としてしまうような目立ちにくい耕作地内の微高地ですが、よくよくじっくりと踏査してみれば周辺の水田面との比高差は1メートル前後を測ることを確認できます。


    東側切岸付近        西側の切岸付近


   西側の農道から       周辺の案内図にも掲載

後世の耕作等によりその形状がある程度変わっているという可能性も考えられますが、本来は方形の複数の郭群から構成された縄張を有していたものなのかも知れません。
この場所からは少し離れた沿道に設置されていた宇佐地区内の案内板にも「佐野館遺跡(城館跡)」との所在が表記されていました。

この案内板を含めてざっと周囲を見渡した限りでは、現地には城館跡に関する標柱や解説版の類は見当たらず、南西角付近に3基の太陽光パネルとともに戊辰戦争当時の新旧の鎮魂碑が設置されているだけでした。



胆沢城(奥州市水沢区佐倉河)  13時25分から14時30分

市の埋蔵文化財センターに立ち寄り関係資料の収集。

ここで13時30分からの「アテルイ」関係のビデオ上映(約30分)に唯一の観客として貢献を。

9世紀のはじめ頃に坂上田村麻呂が築き、その完成後には多賀城の鎮守府が当地に移されて、10世紀の後半頃まで機能したとされる有名な古代城柵。



   県道沿いの案内板     奥州市埋蔵文化財センター


      石碑            復元遺構


  北側から政庁方面を撮影     台地の北側辺縁部


 こちらの方が気になります   これもよく見る撮影ポイント



北館(奥州市水沢区佐倉河) 14時40分から14時50分

葛西一族柏山氏の家臣菊池氏の館とも伝わる。
別名を館屋敷とも。


  北館と記された指導標         北館




上館(奥州市水沢区佐倉河) 15時00分から15時10分

文化財センターでいただいた資料のおかげで、所在地そのものは明確に確認できたのですが、現地は湧水などのため些か足元が思わしくなく、藪もそこそこあったことから踏査は断念いたしました。
現地で収集した資料からは、三つの郭とこれに伴う堀跡などが遺されているということのようです。
別名を川端館とも。


  三代清水といわれる湧水   この湧水の東側台地先端に



鳥海柵(金ヶ崎町西根縦街道南、原添下、鳥海、二ノ宮後) 15時50分から16時20分

「陸奥話記」に記された安倍一族鳥海三郎宗任の柵跡と伝えられ、国史跡指定をうけている著名な遺構です。
発掘調査などからは蝦夷の時代から奥州藤原氏の治世まで利用されていた痕跡が窺えるようです。


 パンフレットの表紙のような   たまたま桜が満開に・・


  駐車場の現地解説版     サイトはこの辺の画像が多い


    谷筋の開口部         反対方向から

  
   大きな標柱と郭跡      水仙も咲いていたので

 
  コントラストを強めに    少し堀跡に降りてみました




金ヶ崎城(金ヶ崎町)  16時40分頃

この時点では関係資料不足のため詳しいルートが分らず、結果的に県道沿いからスルーして手抜きをすることとなりました。






舟形館(金ヶ崎町) たぶん17時過ぎ頃

夕刻につき、手抜きついでにもう一カ所。






この間九州熊本地方では大きな地震に見舞われ、日付が変わったばかりのこの日の深夜にもさらに規模の大きな地震が発生いたしました。
迅速な人命の救助並びに被災された方々の一日も早い復興をお祈りするばかりです。
途中休憩で立ち寄った国見サービスエリアで、災害支援派遣されている秋田の陸自の方々が小休止されておいでになりましたので、先行する陸自車列の皆様を叩頭して見送らせていただきました。
このあとは延々と高速を走り続けて久喜からは圏央道、関越経由でそのままノンストップ走行。
その後埼玉の自宅に帰宅したのは17日の午前1時30分前後に。


お陰様でこうした渦中にあっても管理人は岩手県遠征の7日間が無事に終了いたしましたが、顕在化する加齢現象に加えて、こうした近年の頻発する地震など自然災害の発生頻度などを考慮いたしますと、今後の再訪があるのかどうかは全く先が読めないでおります。
それでもどうにかして岩手県南部までは辿りつき、7日間で約1100キロメートルを運転し、延べ120キロメートル以上を歩き続けることができたことだけは確かな事実でもあることから、もうあと何年かは頑張れそうな気持ちもしてきた「みちのく遠征」となりました。

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