12 | 2025/01 | 02 |
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このところ三週連続で出かけている勘定になることから、頭の回転が始まる前にほぼ無意識に体が自然に動いているようにも思える始動。
こうなってくると、何処となく仕事の様な具合で、ルーチンワークのような趣も呈し始めてきている。
今回は疲労を考慮し、行先を絞り込んでできるだけ早めに切り上げる計画を考案。
凸矢上城(神奈川県横浜市港北区日吉4丁目) 午前6時50分から7時15分
東急日吉駅で下車し、駅前の植栽を撮影したのち県道2号線を北上、途中で東へと道をとりそのまま慶応日吉キャンパスの外れへ余りに日吉台の台地に近づきすぎ、キャンパス内の部活施設近くに迷い込んだりしながらも東方の矢上城方面へと到達。
横浜市内では、やたらにあちこちに登場することの多い中田加賀守の居館とも伝わる。
鶴見川支流の矢上川が東から南へと大きく蛇行する地点で、慶応大学日吉キャンパスの外れに所在する小規模な単郭の城郭。
仮に現在遺されている単郭のままであったとするならば、ごく少人数により機能した物見砦のようなものを想定するのが妥当なのだろうか。
いずれにしても、台地続きである南側の旧情が不明であることから憶測の域を出ず。
事前の情報通りとはいうものの、残念ながら周囲はフェンスとコンクリート擁壁で囲われ、石碑をふくむ郭、堀切などを直接見ることは叶わず、麓から比高12メートルほどの小さな丘を見上げて探訪終了。
新幹線が潜る矢上城の現況 中田加賀守との関わりを示す石柱
さて日吉といえば、だいぶ昔の半世紀以上前のこと、たまたま当時父親の勤めていた仕事先(記憶では慶応大学の学食)がこの日吉にあり、何かのついでに一緒についていった記憶が。
その当時は、草の生えた殺風景な台地に校舎が点在し、旧日本軍関係の防空壕やらのむき出しのコンクリートで構築された軍事施設跡が点々と所在していたという光景が記憶に。
とはいえ終戦から10年余りしか経っていない東京タワーが芝の岡に建設中の頃の話。
もうこの平成の時代にそうした形跡はないものと日吉台の北麓を城跡に向かい歩いている最中、切り立った崖線中腹部に何やら2か所ほどの古びたコンクリート施設が視界に。
出入り口はコンクリートにより塞がれているものの恐らくはそうした関連施設である気配が。
無論こちらもフェンスにより立入禁止。
凸桃井播磨守館関連地1高田天満宮(神奈川県横浜市港北区高田町)
午前8時10分から8時30分
日吉駅から横浜市営地下鉄グリーンライン高田駅下車。
今日一日はこの4両編成のカワイイ車両のお世話になる予定。
「城郭大系」および「古城址探訪」様よりご教示いただいた情報から、まずは北方に所在する高田小学校方面を目指して県道106号線を道なりに北上。
徒歩10分足らずで最初の目的地である高田天満宮に到着。
駅前からでも、それと分かるような比高差20m以上はあろうかという丘陵先端部に所在し、南方と東方は天然の要害に相応しい地形を呈す。
徒歩10分足らずでも、この傾斜のはなかなか登り甲斐が...終いには30段ほどの石段も。
神社境内は季節柄、至るところアジサイが満開状態に。
こんな次第で今回の撮影は概ね紫陽花尽くしの趣に。
神社社殿背後には恒例となる立派な神社の土塁も存在^^
南参道方面の十分な比高差と良好な眺望が印象的で、北西側の台地続きを除いて神社境内の丘陵自体も南方へ大きく突出した半島状地形を形成。
天満宮の手書きの由緒書きには、南北朝初期に領主であった桃井播磨守直常が当社を建立した旨が記されていた。
これは恐らく「新編武蔵風土記稿」に収められている都筑郡之五神奈川領、高田村の条を引用したものと解される伝承を記したものと解される。
高田天満宮遠景 高田天満宮由緒書
社殿裏側の「土塁」 神社境内の紫陽花
神社境内 南側の崖線部
削平されている地形 比高差は十分
西側の住宅地からの社叢
未だ2か所目の端緒に過ぎないにも拘らず、すでに体力的にはこの辺から折からの蒸し暑さに加え、次第に足元の鈍痛がその厳しさを増加させ徐々に疲労が蔓延。
かりにこれが片道1時間ほどの目的地ならば、即刻帰還するかも知れずと思いつつ次の個所へと移動。
凸桃井播磨守館関連地2(神奈川県横浜市港北区高田町)
午前8時40分から8時50分
塩谷寺が所在する一帯が台地と丘陵先端部により囲まれた地形を形成。
この地点に赴くには比高20mほどの急坂をハアハアいいながら往復しなくてはならないという苦行の宿命が。
塩谷寺の山門と境内 同寺西側の丘陵
このあと高田(たかた)小学校付近を歩いて東西方向に伸びている台地地形を確認。
北側の比高差は南側に比べて、その半分ほどの10m前後と幾分不足気味であることも確認。
凸桃井播磨守館関連地3(神奈川県横浜市港北区高田町)
午前9時00分から9時15分
台地北東部先端の興禅寺境内付近。
同寺の寺伝では元応2年(1320)に桃井直常が再興したと伝わる。
「新編武蔵風土記稿」では所在地について明記は無く、「天神社より西の方に天神の原と云う所あり、此所桃井播磨守が館迹なりといひ傳ふ...」とのみ記載。
念のため付近の様子を拝見してみたところ、同寺北東の民家に僅かに土塁状の地形の一部が残存。
方角から見る限りでは風除けの土塁ではなさそうな印象。
だいぶ消失しかかっているが、崖線部を含めL字型形跡を確認。
しかし城館遺構との関連は不明。
民家境の土塁 たぶん土塁かと
消失間近な崖線と土塁 興禅寺の由来
天台宗興禅寺山門
凸山田城山比定地1(神奈川県横浜市都筑区山田町) 10時10分から10時30分
「新編武蔵風土記稿」巻之85都筑郡之5山田村の条によれば、小名堀ノ内、殿谷につづき「城山(じょうやま)東の方にあり、前の殿谷(とのやと)の丘を云、高さ三丈(約9メートル)餘(あまり)登りて一丁四反許(約1400平方メートルばかり)の處(ところ)なり、今城跡と唱ふるは北の方にあり、されど誰人の居城なることをつたへず、或は鎌田兵衛正清が居住せし處なりといへど覚束なし、...」と記されている。
この記事によれば、城山が殿谷の比高9mの丘で北の方角にあるとも、或いは比高9mほどの殿谷の丘とは別に、北の方角にある城山が所在しているようにも読めるように思われる。
伝承の曖昧な鎌田正清の居城の真偽はともかくとして、この古城址の存在について具体的にその所在は何処なのかということになる。
1番目の比定地は通称鎌田堂という地蔵尊が所在する南側背後の丘陵。
比高差は確かに10mほどであり、「新編武蔵風土記稿」にも「地蔵堂 村の東中原新道にあり、これを土人(地元民)鎌田堂と云、2間に3間なり、...此邊(このあたり)を土人呼て城山或は鎌田屋敷などと云」とも記されている。
これら「新編武蔵風土記稿」の記述を信頼すれば、有力な比定地のひとつには違いないのだが、現在では生憎とこの竹林への立ち入りが禁止されていることから付近から拝見するに止まった。
住宅背後の丘陵 鎌田堂
鎌田堂背後の竹林 鎌田正清館跡の文言を含む石碑
立入禁止の竹林を手前から
凸山田城山比定地2(神奈川県横浜市都筑区山田町) 10時40分から11時10分
2番目の比定地は「城郭大系」が示していると推定される、現在URの集合住宅が所在するコンフォール城山の丘辺りで、西方には堀ノ内の地名も伝わる丘陵。
西側麓には城山交差点、城山バス停なども所在する土地柄。
中原街道を鎌田堂方面から歩いていくと、南西約250mほど先にひときわ大きくせり出す比高20mほどの丘陵先端部が視界に入る。
中原街道旧道に入り最初の十字路を右折し、北側の住宅内の細い坂道を息を切らしながら道なりに北上していくと、200mほどすすんだ辺りに東側へと入る竹林の山道がある。
これをさらに南東方向に道なりに100mほどすすむと高圧線の鉄塔が所在する個所に到達し、眼前には人工的な地形が展開している。
ひときわ目立つ丘陵 竹林の中の道をすすむ
堀跡に見えなくもないが 小口ではなさそうな
その現況については、一見小口のようにも見えなくもない地形や、堀跡のようにも見えてしまう地形も所在したりして全く飽きさせないものもあるが、多分に近年の重機などの工作跡のような印象も感じられる。
凸山田城山比定地3(神奈川県横浜市都筑区山田町) 11時20分から11時50分
前項の比定地2から中原街道旧道をそのまま何性方向にすすみ「のちめ不動」を過ぎ、百石橋西側交差点を渡り、そのまま120mほどすすんだところに幾分戻るような北側に曲がる細い道に入る。
そのまま距離にして約50mばかり進むと進行方向左手に南西方向に登ってゆく石段があり、これを少し登った個所に「堀之内稲荷」の小さな祠が所在している。
ここからそのままフェンス沿いに登ってゆくと、すぐに進行方向右手に土塁のようにも見えなくもない細い尾根筋が視界に入る。
さらに歩みを進めていくと山田神社境内の東側へと到達する。
堀之内稲荷 途中の尾根筋
山田神社東参道 境内の北側崖線部
鎌田正清の名がある神社由緒 南側参道から
南側参道 南側参道の途中
南側表参道麓
山田神社境内は北側は切り立った崖線を形成しているものの、東側は先ほど登ってきた比較的緩やかな稜線であり、西側にはあまり比高差を感じることのできない住宅地が広がっている。
さらに南側には約300mに近い長大で緩やかな傾斜を有する参道が続いている。
南方の視界は良好であるものの、伝承性の色濃い中世初期の武士の館は別として、いわゆる要害地形としては些か不十分な印象が強い。
以上3か所の山田城山の推定地についても、「城郭大系」のほか、「古城址探訪」様よりのご教示によるものです。
凸殿山伝承地(神奈川県横浜市都筑区早淵) 12時50分から13時10分
山田城山からの道のりが、ほんの僅かとはいえ早渕川の段丘を超えるルートであり、かつ直線ではないこともあったりして、この日の蒸し暑さも加わり8割がた探訪断念寸前にまで疲労困憊。
あくまでも「殿山」の地名から訪れてみた場所であり、早渕公園の南側に隣接している比高5mほどの造成宅地西側斜面に丘陵としての名残を止めていた。
伝・殿山付近 同 左
こちらも探訪のきっかけは「古城址探訪」様よりのご教示によるものです。
帰りがけに路線バスを当てにしていたものの、午後2時という時間帯は僅かに1本のみで、しかもバスは今しがたの13時6分に出たばかりという最悪の状況。
ここは英気を養うために遅めの昼食を摂るべく、左右の沿道を眺めつつ東山田駅方面へとよろよろと歩を進めるも、あるのはラーメン店が2軒に松屋にマックという按配。
足の痛み、肩の痛み、梅雨晴れの暑さの三重苦のなか目に入った和風レストランの「味の民芸」
このさい贅沢は言えないので何を食べようが、とりあえずエアコンにあたりたいという一心で入店。
頼んだのは「三元豚のつけうどん」と「ミニソースかつ」(かつ2切れ)を追加。
食事時間を含む都合1時間ほどの休憩により、どうにか残りの目的地へと赴く気力だけは復活。
凸茅ヶ崎城(神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東2丁目) 14時35分から15時20分
広い城址公園をこの時期訪れていた人は皆無で小机城同様に城跡を独占。
ところが事前に想像していたよりも夏草が元気に繁殖し郭一面を覆い尽くし、復元された主郭の小屋址の石も草に覆われ足でかき分け捜索するような始末。
堀底が舗装されていることから郭間を歩く分には問題がないものの、予想されていたこととはいえ、郭の形状、土塁の規模、配置、小口の様子を観察するには矢張り不向きな時期であった。
草刈りのお手伝いをしたいところなれども持病の腰痛が。
茅ヶ崎城入り口 画像中央が主郭
主 郭 主郭(左)と西郭
主郭(左)と西郭 主 郭
西 郭 西郭北側の土塁
西郭の土塁 堀切か
主郭(右)と西郭 主郭(左)と東郭の土橋・堀切
主 郭 東郭の腰郭手前の堀切
東郭からの眺望 東 郭
主郭と北側土塁 主郭と南側土塁
北 郭 北郭から見た主郭小口付近
このあと市立博物館に立ち寄り、休憩がてらに暫し資料関係を収集。
「都筑まもる」くん 横浜市立博物館玄関
ここで携行していることを忘れていた副作用の常習性もある「痛み止め」2剤を服用。
薬の効果はその後帰宅した後まで継続。
しかし、2日後に重度の腰痛と肩痛が発生。
つまりは痛みを一時的に麻痺させていただけのことで、本質的に痛みの原因を取り去るものではないのであった。
凸大塚遺跡(神奈川県横浜市都筑区大棚西) 15時50分から16時30分
有史以前の環濠集落跡で、あくまでも帰りがけのルート沿いなのでついでに立ち寄る。
復元環濠集落 復元竪穴式住居
この幅くらいの環濠の規模では仮に排水路などとして利用されることは想定できても、人間を含む外敵の侵入を防ぐという防御性を高めるうえで、果たしてどれほどの効果があったのかどうかについてはいささか疑問も残った。
また堀の外部に土塁と柵列があるが、内部からは見えづらく外敵が身を隠すことのできる不都合な配置となっていることも明白であり謎は深まる。
この日は〆て4万歩なので、前回に比べれば歩いた距離はたかだか31キロメートルほどに過ぎず。
また延比高差の方も先週よりもはるかに少なく、僅かに延べにしても約150メートルばかり。
数の上では10か所だが、あくまでも比定地などが多いことから実質は6か所ほどという成果に。
一方で今回試してみたスポーツサンダルは可もなく不可もなく。
確実なところでは、踵には優しいがやはり斜面には不向きという結論に。
また踵サポーターはその装着方法の工夫次第なので、ある程度は歩行に伴う痛みは軽減可能であることを再確認。
この日の暑さに伴うと疲労もかなりのものだったことから、今回は今までの状況に加えて右腰(足の痛みをカバーして歩く姿勢)と左肩(たぶんデジカメの携行によるもの)にダメージ発生。
携行した痛み止めは当座の対処としては効果覿面なのだが、翌々日から腰と肩の痛みを併発して、只今継続中(6月13日午後4時15分現在)で少なくとも一週間程度は身動き不可に。
以前から横浜方面は全く地理不案内。
公共交通機関での所要時間は地下鉄副都心線、東急直通があるというものの正味で約1時間半。
これが乗り継ぎの場合には2時間近くに。
自宅から最寄り駅までの所要時間をプラスするとだいたい片道2時間半。
これがいままで敬遠してきた最大の理由のひとつ。
三度目となる訪問で、ようやく東急東横線の南北方向に加え、菊名経由のJR横浜線、日吉からの市営地下鉄グリーンラインの路線図が何とか脳裏に浮かぶようになってきたことは大きな成果。
さて今後四度目の横浜探訪があるかどうかは、今後の梅雨の空模様と気力次第に。
今日あたりは降水確率20パーセントでも、細かい霧雨が断続的に降っています。
1時間当たりの降水量は1ミリメートルに達しないので、予報が外れているということでは無いようなのですが、うかうか外出もできない空模様です。
洗濯物も干せず、部屋干しに。
昼食は以前特売で購入した「まるちゃんのカップ麺」で済ますことに。
流石に元気がなくなってきた昨年末に植えたビオラ(⇒商品名は「よく咲くスミレ」)10株ほどを処分。
花壇の植え替えには好都合の空模様なので、近所の生花店で園芸種の矮性ペンタスとニチニチソウを購入し植え替え作業を実施しました。
両方とも通常は秋頃までは持つはずなので、あとは些か切戻しのタイミングが難しいペチュニアの面倒を心掛ければよいはずです。
途中撤退することとなった先月の借りを返すべく再び横浜方面へと赴きました。
この地域で遺構の残存状態では良好な部類に含まれ、かつ季節的に訪問可能な小机城、茅ヶ崎城、榎下城方面は遠望するまでにも至っておりません。
当面の城館探訪にあたり、喫緊の課題でもある長時間歩行に伴う両足踵の痛み対策などを新たに考案。
極力歩行距離を抑制し、比較的短い距離でもタイムロスのない限りはできるだけ電車、バスを活用する方針と合わせて現状でとりうることのできるプランを考案してみました。
果たしてその結果は...
凸獅子ヶ谷殿山(横浜市鶴見区獅子ヶ谷町) 午前7時00分から8時20分
この日の手始めは獅子ヶ谷の殿山で、東急大倉山駅から徒歩にて向かう東急東横線東側の低丘陵地帯です。
この時ふっと脳裏に浮かんだ発想とまでにも至らないような漠然としたイメージが、後々の所要時間浪費の伏線を暗示していたとは思いもよらず。
1 師岡公園
途中で稜線上に所在する上記1の師岡公園を左に見ながら、比高差20mほどの丘陵を越えて丘陵に挟まれた谷底道のような細い市道にて殿山南麓に所在している横溝屋敷方面へと歩みを進めていていきました。
この一帯は南北を東西に延びる細長い丘陵に挟まれており、いろいろと魅力的な地形が各所に散見されますが、その多くは宅地開発により旧情を窺うことが難しくなっています。
すると、また今しがた越えてきたばかりの画像2の丘陵ラインがほんの少しだけ目視できるような緩やかな下り坂の地点へと到達。
2 稜線は師岡公園の一部
上記の稜線が気にかかる地形のひとつでしたが、当面の目的地とは300メートルほど離れた地点でもあり、そのままスルーして目的地のひとつ手前の永昌寺に立ち寄り、念のため尾根筋からのルートが無さそうなのを確認してから「みその公園、横溝屋敷」へと向かいました。
南側から見上げる殿山の景観は画像3のように比高30メートルほどの低丘陵でありながらも、両脇に支尾根を抱えるなかなか堂々とした山容でありました。
3 殿山(民家背後の正面あたり)4 横溝屋敷
横溝屋敷の古民家の風景を外部から撮影し、さていよいよ殿山へ登ろうとフェンスに近づいたところ、何と南京錠により施錠中というまさかの事態に直面し暫し茫然。
時刻は確かに未だ午前7時なので、施錠管理されていれば未開錠も道理といえば道理かとも。
しかし脇の方からも入れるような隙間もなく、やはり昨日までの予定通り先に大倉山方面に赴くべきであったなどと独白してもあとの祭りとなりました。
このあと、付近の地形を観察しルートを探し、少しだけ苦労して(⇒ホントはかなりの体力消耗)尾根筋の散歩コースへ到達し再度殿山方面へ。
5 この稜線は市民散歩コース 6 この先が殿山の山頂
あとから判明したことですが、横溝屋敷経由の入り口の開錠時刻は画像7のように午前9時30分でした。
それでも元々散歩コースとして管理整備されているため、それ以外に少なくとも4方向からアプローチできることを知りました。
また悔しいことに、先ほどの画像1の師岡公園からは、そのまままっすぐ尾根筋を辿ればこの殿山に到達できることも判明するというお粗末さ(笑)
周辺のアクセス環境を把握できたとはいえ、まさに徒労の一言に尽きました。
この時点で当所の予定時間を軽く1時間近くもオーバーするというおまけつきです。
7 横溝屋敷の開館時間 8 殿山山頂付近
9 横溝屋敷へと向かう痩せ尾根 10 殿山山頂付近
頂上部は公園整備が行われているので旧情は不明ですが、確実に削平地形が存在し低丘陵の割には明確なピークを形成していることは把握できます。
「城郭大系」では小田切氏との関連を示唆し、かつ「堀と土塁の存在」を示していますが、現状では削平地の周辺に確認はできません。
強いて言えば山頂部の斜面は切岸にも見えなくもないような気がしてきますが、たぶん気のせいなのかもしれません。
12 殿山山頂付近の斜面
帰路はそのまま尾根筋を南西へと向かい、想定通り師岡公園へと到達しました。
公園北東部には、一見すると土塁のようにも見えなくもない地面の盛り上がりも所在。
無論公園造成の際に大きく丘陵地形が改変されている可能性が想定されます。
13 尾根筋の削り残し 14 同 左
15殿山よりも城跡らしい景観
この程度の丘陵歩きですが、右往左往した結果比高差累計はすでに約80メートルに。
帰路、大倉山駅方面へと向かう道すがら、ここで早くも踵部分の違和感が発生。
未だ歩行数は9000歩と少しなので、今までの経験上からはあと1万歩くらいは大丈夫かと。
しかしそれでは大倉山方面で終わってしまうことになるというのは如何なものか...往復に伴う所要時間5時間の元を取るには少なくとも延べ5カ所程度は...などと愚にもつかないような皮算用をし始める愚かな管理人なのでありました。
管理人の思惑を嘲笑う様な連続し漸増する痛みとの激闘は、これがあくまでも序章に過ぎませんでした。
凸大曾根城(横浜市港北区大曽根町) 午前8時50分から10時50分
今度は獅子ヶ谷殿山しは反対側ととなる大倉山駅西方の高台です。
東急東横線の軌道により丘陵が大きく分断されていますが、本来はそのまま東側へと続いていた地形のようです。
1 丘陵を南北に通過する東急 2 この辺りでまだ三分の一
3 大倉山記念館 4 同 左
5 6 説明版もありました
7 この個所には味わいが 8 細長い郭状の地形です
9 確かに眺望は優れる 10 途中の尾根筋も公園化
11 龍松院境内
笠原氏関係の石碑が所在しているという龍松院は閉門しておりましたので、石碑は拝見しておりません。
12 この辺が最もそれらしく 13 これは新しい腰郭(笑)
上記左側の画像の個所が、下記の右下の画像の個所に繋がっています。
14 龍松院山門 15この右側辺りが気になります
上記画像の右側に通行止めのロープを渡した個所がありました。
だいぶ不確かな情報ですが、ことによると何らかの足跡が存在するのかも知れませんが道路沿いから拝見する限りは何とも言えません。
ここでもまた初っ端から比高差25メートルほどを2度ほど上り下りしたのて50メートルほどに。
これで登った高さは早くも延べ約130メートルほどになりました。
16 尾根筋が括れていた個所
太尾見晴らしの丘公園に赴くにあたり、牢尻緑地の南東側の市道を登り尾根筋沿いに移動開始して都合25メートルほどを登ってみました。
目指す地点は画像16の場所で、地形図などからも分かるようにこの地点は尾根筋が大きく括れていることから堀切などを置くには好都合な鞍部でした。
17 南西側のv字谷 18 北東側の谷
画像16から18に示したように、なかなか感じの良い尾根筋の括れを確認できましたが、残念ながら現在付近一帯は大々的に送電線関係の工事の真っ最中らしく、肝心の個所には建設資材運搬用のリフトが架設されておりました(苦笑)
もともと過剰な期待はしていませんでしたが、気持ちを新たにして北西の尾根続きにある「太尾見晴らしの丘公園」(画像19、20)へと移動しました。
19 太尾見晴らしの丘 20 同 左
21中腹からでも見通しは良好 22麓の印象よりも比高差がある
23 鶴見川と堤防 24鶴見川沿いの舟運の河岸跡碑
大倉山駅周辺の僅か2か所を探訪し終えたこの時点で時刻はすでに午前11時近くに。
当所の滞在予定を大幅に超えた時間消費となり、朝方涼しかった北風も、やがて南へと変わり体力・気力の方も相当に消耗していきました。
その一方で、もともと課題であった踵の違和感も徐々に拡大増加の一途。
凸小幡泰久館(横浜市港北区大豆戸町) 午前11時50分から12時05分
ここでの比高差は緩い坂道と寺院と神社の石段くらいのものなので、合計してもせいぜい15メートルほどなので、この際はのんびり休みがてらの歴史散歩のような訪問。
1 これくらいの比高差 2 本乗寺山門
3 八杉神社鳥居 4 石段は割合少ない
5 八杉神社社殿 6 雰囲気の良さそうな法面
「城郭大系」と現在の地形を見比べると、こじんまりとしたこの八杉神社境内辺りから南東の本乗寺のあたりの丘も伝わりますが詳細は不明のようです。
凸篠原城(横浜市港北区篠原町)13時00分から13時10分 先月に続く再訪
先月訪れた後でネットを調べたところでは城跡北側に説明版が設置されている由が掲載されておりましたので、完全に見落としていました。
こうした一連の画像撮影のため再訪しましたが、結果的には些か間の悪い再訪でもありました。
現地解説版などによりますと、金子出雲に関係する城跡であうとのことで、これは恐らく「城郭大系」が示すところの「金子出雲守の塁」に相当する模様です。
「城郭大系」が「横浜線菊名駅北の丘上」と誤った所在地を示したことから誤解が生じてきたというような経緯があるものと思われました。
また仮に「城郭大系」が示してる「菊名駅北の丘上」ですと、所在地の上では前記の「小幡泰久館」がこれに該当するものと思われます。
ここでも緩やかな市街地の坂を4度ほど上り下りしたので、一応比高差合計は30メートルほど。
1 新横浜南口駅前から 2 この細い道を道なりに進む
3 100mほどでここに出る 4 篠原城の解説版
5 篠原城の解説 6 詳細な縄張図も
7縄張図の腰郭と符合するあたり
解説版脇の掲示板には訪れた翌日の6月4日に現地見学会が行われる旨の告知が掲載されておりましたが、さすがに連日横浜まで往復5時間を要して赴くだけの気力は無く...(苦笑)
◎篠原八幡神社(横浜市港北区篠原町)13時30分から13時40分
単に立地条件が気にかかったので、先月篠原城の途中で立ち寄る計画でしたが、「乗車したバスが菊名駅行でしたのでパスした個所でした」って、ダジャレを言ってみても詮ないこと。
丘陵の頂上部に所在し北方の眺望が良好なのですが、独立した尾根筋という地形ではありませんでした。
横浜市内にはこうした低丘陵が多く存在するのですが、宅地造成の進行により地図上からは当該地形が判別できるようにはなっていないことをあらためて痛感。
遺構とはほぼ無縁の丘陵地帯でしたが、傾斜だけはきつく比高差約25メートルほど。
このため比高差は延べ約245メートルに。
1 八幡神社境内 2 同 左
3 関係は不明です 4 厄さえも無縁の年代
凸三会寺の土塁(横浜市港北区篠原町) 14時40分から14時55分
ここだけは、とても足に優しいほぼ市街地の平坦地でしたので一安心。
境内北側部分の本堂奥に土塁が現存しておりました。
高さは背丈ほどで、総延長は少なくとも30メートルほどでしょうか。
土塁地形の経緯は不詳ですが、近刊された「神奈川中世城郭図鑑」に僅か一行半ほど記載されていたことから訪れてみただけのことです。
篠原城を訪れた際にでも、時間に余裕があれば立ち寄ってみてもいいかもという印象でした。
1 真言宗三会寺の山門 2 三会寺本堂
3 よく見れば土塁が 4 歴代住職の墓石群
5 六地蔵 6 墓石の説明版
凸鳥山館(横浜市港北区鳥山町) 15時05分から15時10分
三会寺からは緩い上り坂となり、神社境内の鳥居から社殿までの比高差が約10メートルほどありました。
「城郭大系」によりますと、佐々木高綱の居城とも伝わりますが、なにぶんにも12世紀末のことなのでいささか違和感を生じる伝承でもあります。
社殿は丘陵中腹に鎮座していますが、無論、地表上の遺構は確認できません。
この時点では最早裏側の住宅地へと続くであろう40段ほどの石段を登る気力と体力は皆無でした (^_^;)
1 八幡神社参道 2 八幡神社社殿
凸土井谷砦(横浜市港北区小机町) 15時45分から16時00分
丘陵中腹に所在する寺院でしたので、比高差は約15メートルほどに。
小机城を任されていた笠原氏の墓石が所在する雲松院の裏山(おそらくは南側か)が城跡と考えられているようですが、立入禁止のため詳しい様子を窺い知ることはできませんでした。
解説プレートや解説版などによりますと、同寺には旗本となったその後の笠原氏の墓石も存在しているということです。
1 曹洞宗雲松院 2 山門
3 本堂 4 城跡を含む解説プレート
5山門、本堂、笠原氏墓石の解説
凸小机城(横浜市港北区小机町) 16時15分から16時50分
本日最大の目的地ですが、ようやく訪れたものの時刻はすでに午後4時過ぎに。
それでもこの季節なので未だ日没までは2時間以上の余裕がありました。
第3京浜により、一部城跡が分断されてはいますが、日頃の下草刈りが行き届き程よく公園化され散策コースも整備が行き届き本当に有難い限りです。
歴史上で小机城が登場するのは戦国時代初期の長尾景春の乱で、文明10年(1478)景春に同調した在地領主たちが、この城を拠点として扇谷上杉氏に反乱を起こしましたが、太田道灌により鎮圧されたとされています。
無論現在遺されている遺構は後北条氏時代晩年のものですが、秀吉の関東侵攻時まで機能していたことが推定されています。
後北条氏一族の属城で笠原氏が城代を務めたことが通説とされています。
通称本丸、二の丸ともに、従前に思い描いていたほどの広さは無く、最大でも数百人程度が籠れるかどうかという印象の規模でした。
郭と空堀関係は実に良く遺されていますが、その反面土塁の残存状態は想像していたよりも耕作などによる削平が行われた模様です。
1 JR横浜線小机駅構内にて 2 小机城遠望
3 住宅街から城跡へ 4 お、切岸が
5 こころ和む城址標柱 6 とりあえず本丸から
7 本丸南側の空堀 8 本丸へ続く土橋
9 本丸南小口土塁 10 本丸北東部の堀底道
11 本丸北側の空堀 12 二の丸西側の堀底道
13 同 前 14 同 前
15 同 前 16 二の丸西側切岸
17 二の丸北西堀底道 18 北方の眺望
19 二の丸北側堀底道 20 二の丸北部
21 二の丸南西の櫓台 22 本丸方面
23 本丸東側小口付近 24 二の丸南側腰郭
25 城跡南部の馬出へ 26 本丸南側空堀
27 同 前 28 城跡南端の腰郭群
29 馬出東側城道 30 同 前
31 馬出方面の遠景
丘陵麓から本丸へ向かい堀底道に降りて二の丸へ向かうルートをとりましたが、それでも比高差は約30メートルほどになりましたので、この日の累計比高差が約300メートルほどとなり、ちょっとした山城並みの比高差となってしまいました。
それても総じて丘陵越えのルートは適度に道が管理整備されお陰様で快適に探訪できました。
★以上の8カ所の歴史的背景などについては、後日改めて記述を追加・改定したいと思います(⇒ただし時期は未定)ので、このブログはあくまでも当面の備忘録となります。
この日の歩行数は予定を遥かに超過して、延べ歩行時間7時間50分、歩行歩数4万6000歩近くになったので、もう少しでフルマラソン寸前に。
梅雨の走りにも遭わず、懸念していたやぶ蚊の襲来もなく、この足の状態で9か所を訪れることができたのは殆ど奇跡のようなものかとも思う次第にて。
そうはいっても、帰路、もはやエスカレータを駆け下りるような気力と体力は完全に消失。
東急菊名駅で直通急行川越市行に僅か10秒ほどの時間差で乗車できず、おまけに疲労と痛みで地団駄さえも踏めず、東上線直通は何と40分後という無情の時刻表を茫然としながら眺めておりました。
帰り際にのんびりと飲んでいた自販機のトマトジュースに八つ当たりしてみたものの、そのあとで幸いにして渋谷行始発各駅停車で座れたので小さな幸せを噛みしめる卑小な自分がおりました。
座席に腰かけていると踵の方もさることから、両膝と両足首がパンパンに腫れ上がっていたので、通勤逆コースの空いている車内にて片方ずつ足首を軽く左右に回転させ機能回復に邁進。
さて本日久しぶりに発症した強烈な肝心の踵の痛み。
原因は恐らく足裏の浮腫みであろうと推察。
装着していたソルボ製踵サポータの位置が、体重を含む荷重と長時間歩行が複合し足裏の浮腫みに繋がり、これにより1センチ近くもずれていたことが主な原因であると判明。
両足踵にはサポーターのエッジ付近が段差となって食い込んだことにより発症したものであることは間違いが無さそう。
このため予め貼っておいたバンドエイド大型傷パーワーパッドも殆ど役立ちませんでした。
装着していた踵サポーターは、現在のところ一昨年秋頃から何種類が試した中では機能もサイズも最も効果的であることは実証済み。
従っていわゆる足底腱膜炎の症状は抑止できたものの、足裏全体の浮腫みに伴うサポーターのずれが引き起こした痛みだとすれば、あらかじめ浮腫みを想定した装着位置を考えれば良いだけのことなのかと。
一方、日常履いている足底の柔らかなサンダルでは殆ど足裏への負担は無いことも事実。
斜面を上がり降りすることを考慮しなければ、限りなくこれに近い履物を選べば済むことなのかとも。
渋谷駅から乗車した副都心線東上線直通通勤急行川越市行きでの両踵に連続発生する激痛は、まさに想像を絶するものがありました。
これが急行なので渋谷、新宿、池袋、小竹向原と停車駅だけは少なく有難いものの、座席に座れるチャンスは東上線に入っても最後までめぐっては来ませんでした。
見かけはギリギリ優先席に座れるかどうかの瀬戸際の外見なので、あまり文句などをいうこともできません。
加えてこの折に吊り革を握っていた左手の指全体が強直し感覚を喪失。
たぶん過労と脱水症状による腱の痙攣と推察。
動く方の右手で揉み解してどうにか危機を脱出。
この時期には経口補水液2本を常時携行し、それ以外に必要に応じてコンビニや自販機などでさらに数本ほどを補給していても、状況によりこうなることは大分以前に体験済み。
なお、翌日出かけた「終活準備の斎場めぐり」では、愛用のサンダルで5000歩以上歩けているので、それなりの回復力が強まってきたことは微かな明るい材料なのかも知れません。
以前ならば、ほぼ一週間くらいは身動きがままならなかったことを思えば進歩なのかとも。
というような次第で、今回はようやくどうにか小机城までは廻ることができました。
とはいえ茅ヶ崎城と榎下城方面は梅雨入りも近いこともあり、その訪問が何時になるかは皆目不明です。
あと数年もたてば年齢的にさらに運動機能が低下していくのは必定なので、動けるうちに動いておこうと心に誓った一日なのでありました。
本日の金言。
「足は浮腫は恐るべし。これに優るは日頃の節制、正しい履物」
そうそう、忘れないうちにこれも記録しておこう。
「指の痙攣、脱水症状」
ここ数年はパソコンの不具合などが続いたため、幾度となく更新を中断してきました。
そのうちに、いよいよ更新の仕方を忘れたりするような年へとに突入してしまい、いよいよボケが始まったかとも思いましたが、どうにかして作業しております。
とはいうものの、すでに300か所以上もため込んだ未更新の山が聳えているので、感覚的にやりやすい箇所から手を付けているため、残念ながら今後永久に日の目を見ない箇所もありそうです。
つまりは気の向いたところから手を付けているような次第であります。
そうした事情を考慮せずに、秋以降には性懲りもなく複数の遠征も計画しております。
どんなに更新作業を急いでも、能力的には年間100か所くらいが限界なので、こうした未更新在庫は今後も増え続けていくことになるものと思われます。
「老化に伴うPC操作不能が先か、足回りの劣化が先か」という何とも情けない状態ではありますが、何れにしましても、これに「文献、史料」などの読込作業などを含めると、恐らくはあと数年程度が限度なのかもしれません。