その関係資料は8年ほど前から手元にありました。
これまでに出かけようという気になったのも幾度あったことか。
けれどもその都度体調が思わしくないなどして順延に。
遠方でもあることから、近年ではもはや諦観の域。
計画の決定は先月末のこと。
近年の体調に鑑みて、「いま行かなければ、たぶん一生行けない」などという妙な確信も。
今回の足は当初のプランでは新幹線利用+現地レンタサイクルを検討。
しかし、その後は道路の高低差や利用時間などを考慮し、現地での移動手段は徒歩へと変更。
こうすれば行動範囲の制約と疲労リスクはあっても自己責任の範囲内。
さて、目的地の天気予報はこの一週間の間に目まぐるしく変遷。
「3日間降雨なし」から「3日間雨続き」まで実にさまざま。
最新の当日の天気予報では、降水確率40%(場合により小雨覚悟)という微妙な状況となりました。
ところで今回は自家用車利用ではなく、手荷物の分量には自ずから限度があることから、甲賀市水口町と甲賀町油日および草津市草津駅前周辺にターゲットを限定。
むろん行動の制約となるであろう重たいスーツケース(その大半は約60件ほどの現地城館資料などで、総重量は約15Kg)は、連泊予定の草津の駅前ホテルに預託(甲賀地方には新幹線とセットになった適当な宿泊先が見当たらず)
当日分の資料と県別マップルなどはザックに収納済みで、これにデジカメ、飲み物、雨具、折りたたみ傘など加えると軽く5Kg超えにとなり、これを携行しての電車の乗り換えがきついことこの上なし(笑)
凸北虫生野城(きたむしょうのじょう、滋賀県甲賀市水口町虫生野字加久戸)
午前10時20分から10時55分 厚曇り
比高約30m
堀切、郭など、標柱・説明版なし
推定探訪可能時期 11月下旬から4月上旬ころまで
堀切見学のためトレッキングシューズとストックがあればなお便利
滋賀県の最初がこの無名に近い城跡です。
その理由は簡単で貴生川の駅から徒歩で廻れる範囲内で、そこそこ有名な水口城と水口岡山城をまわる途中に所在しているというだけのことでした。
しかも下調べ段階で分かっているのは、30年ほど前の中世城館調査報告書の一部情報だけというありさまです。
つまりは所在地も不確かで、果たしてあるかないかもよく分からないという、きわめて曖昧な探訪なのであります。
そのような次第なので、空振り覚悟での数稼ぎなのかともいえます。
この城跡へはJR草津線貴生川駅にて下車し、浄福寺東側の丘陵へと向かいます。
と、いくらも進まぬうちに前方に丁字路が...しかも目の前には川が...??
ここで、「はて」と首をかしげて、ここで地図読みを。
すると、なんと北口に降りるべきところを、南口に降りるという失態。
太陽が出ていればまず間違えるはずもないことなのですが、この日は生憎の曇天で太陽の姿は拝めず方角を取り違えたのでありました。
これも歳のせいかもしれずと自らを納得させて再び跨線橋わたり北口へと向かいました ^_^;
浄福寺までは北東に約300mなので、今度は間違いなく正面に丘陵も見えてまもなく到着。
城跡がありそうに見えるのは、まずは浄福寺境内東側の丘陵とこれに続く南側の小ピークであろうと推定。
浄福寺境内から南にある小さな付属墓地に向かう小道を挟んだ南北両側丘陵が、いかにもそれらしい地形をしていることが窺えます。
とりあえずは、東へと向かう小道から分かれてその墓地へと入り、そのまま草むらの中を南へと進みんでいきます。
そうすると稜線には明らかに人工的な削平地が3か所ほどの段に分かれて南側へと続いていることが分かります。
また、その東西方向にも帯郭ないし腰郭のような細長い中腹の削平地も散見されます。
稜線の先端部には堀切(北側約5m、南側約7m、幅約8m)が確認できます。
その先の地形を確認しようとは思ったのですが、ストックもなく掴まるような枝もなく登攀を断念しました。
なお、城館遺構は東へと向かう小道の北側(浄福寺境内東側)にも残されていることを後から知りましたが、この時期にもかかわらず藪が酷くこのあとの予定を勘案し断念しました。
元々は一体の尾根続きであったものが小道の築造などによる地形改変により、南北に分かれてしまったものなのかも知れません。
遺構が確認できれば勿怪の幸いと考えていたところで、みごとな堀切遺構を目の当たりにして小さくガッツポーズを。
城跡としての規模は小さいのですけれども、コンパクトに纏っているという印象があります。
付属墓地(この道から入る) 南西からの遠景
稜線に3か所ほどの郭が続く 浄福寺
堀切の手前から 堀切(西側から)
郭間の段差 南側遺構の北端部付近
凸内貴殿屋敷(滋賀県甲賀市北内貴字東村)
午前11時00分から11時10分 小雨
比高なし(平地)
堀、土塁、標柱・説明版なし
推定探訪可能時期 年中
北虫生野城からは北西に徒歩3分ほどの福照寺西麓に展開する集落の一角に所在しています。
旧家の北側に土塁(高さ約3m、長さ約25m)とこれに伴う堀跡状の地形が部分的に残されています。
「城郭大系」には「内貴城」という城館が一覧表に掲載されていますが、相互の関係はよく分かりません。
南側から 東側から
東側からの遠景 東側の堀跡状の地形
凸内貴川田山城(ないきかわだやまじょう、滋賀県甲賀市北内貴字川田山)
午前11時20分から11時45分
比高15mから25m
郭、土塁、堀跡、標柱・説明版なし
内貴殿屋敷から北へ約300mの丘陵先端付近で北麓には川田神社が所在しています。
丘陵南側の細道を東へと入り、畳工場の前あたりから見当をつけて藪をかき分け北側の丘陵に入りました。
比較的見通しの良い尾根筋には人工的な削平地のようなものが散見されるものの、城館との関係を想起させるような印象がありませんでした。
寧ろ北西の稲荷神社の小祠とその背後の削平地の方が、それらしい印象があります。
なお遅きに失した感もありますが、この尾根筋へは下記の川田神社参道脇から南へ分かれる稲荷神社参道を利用すると藪漕ぎをせずに済むことが分かりました。
南西からの遠景 稲荷神社南東の地形
前の画像から見下ろした地形 稲荷神社境内
稲荷神社への参道
・近江鉄道の車両(貴生川~水口城南間で撮影)
運行本数が少ないので、結局乗車する機会のなかった近江鉄道本線でした。
凸水口城(みなくちじょう、滋賀県甲賀市水口町本丸)
12時20分から13時30分 小雨
近世平城(御茶屋御殿)
水濠、石垣、土塁、復興櫓など
櫓を模した水口資料館の休館日は毎週の木曜日、金曜日と年末年始
外部から水濠や石垣などを眺める分には何時でも探訪可能
寛永10年(1633、築城時期については諸説あり)将軍家御茶屋として築城された際に、関ヶ原合戦後に廃城となった水口岡山城(水口古城とも)から石垣が移設転用されたと伝わります。
出丸(枡形)の2層櫓風の資料館は平成3年(1991)に隅櫓を模して建築されたそうです。
小雨なので少し寂しげ 碧水城ともいうようです
番所の辺りにある資料館 パンフレットのような構図
水口資料館と復元御成橋 薬医門形式
西側水濠 北側水濠と乾櫓台、岡山城遠望
南東水濠 南東水濠と資料館
凸柏木神社遺跡(かしわぎじんじゃいせき、滋賀県甲賀市水口町北脇字藤木)
14時00分から14時20分 時々小雨
土塁、堀
夏季、神社繁忙期を除く日中
日没までの残り時間を推定して、水口城のあと岡山城へ向かうか、こちらに寄るか迷いましたが、そうそう来訪できるということもないことから立ち寄りました。
神社境内北東側の鬱蒼とした林の中に堀と土塁が残されているようなのですが、日没までの残り時間がなくなり始め結局確認できませんでした。
柏木神社参道 柏木神社南側
柏木神社北側 国道1号線側からの社叢
凸里脇北遺跡(さとわききたいせき、滋賀県甲賀市水口町北脇字藤木)
14時15分から14時25分 時々小雨
民家の北側に土塁と堀跡が残る。
通年探訪可能だが、民家脇の屋敷林なのでマナーに留意する。
北脇交差点から国道1号線(現在の東海道)側の農道を南へと目をやれば、こんもりとした屋敷林が目に入ります。
この時には未舗装の農道を北側からアプローチしました。
南の姥塚の方からも入れますが、いずれにしても農道なので作業のお邪魔にならないよう注意が必要です。
土塁、堀とも長さは約25mほどで、屋敷林を兼ねた役割を担っているような印象がありました。
北側からの遠景 同 左
堀跡 平行する土塁
凸水口岡山城(みなくちおかやまじょう、滋賀県甲賀市水口町水口)
15時05分から16時10分 曇りのち晴れ
郭、堀切、土塁、石垣、小口など、説明版・標柱・縄張図あり
公園化されていることから概ね通年の探訪が可能ですが、麓からの比高差は約100mあるので登るのには徒歩で正味20分はかかります。
中村一氏が築城し関ヶ原合戦時には長束正家が城主でしたが、大阪方の敗北により落城し、そののち廃城になったようです。
日没時刻も迫り、この後の予定もあることから、三の丸方面などへは行けず、当時の城下町の痕跡を訪ねるという時間も無くなり、慌ただしい駆け足の見学となりましたが、足元の痛みは増すばかりで言葉の表現とは裏腹に足を引きずりながらの彷徨となりました ^_^;
公園整備などにともなう地形の改変などが感じられますが、本丸北側の石垣も見学しやすく整備されており、晴れた日には眺望も優れていることもあり、水口を訪れた際には立ち寄っておきたい城跡です。
また城山から下山する最終段階でようやく日没前の西日が差してきましたが、以上の画像からも分かるように全体として発色が薄暗い感じのものになりました。
西ノ丸と本丸の間の堀切 本丸北側の石垣
同 前 同 前
同 前 同 前
同 前 崩落した石垣の一部
本丸西側 解説版
竪堀 現地の縄張図
本丸 本丸東側
本丸北側の小口跡 同 前
上記小口跡から西側の石垣 二の丸
推定大手道
こののち予定が少し遅れましたが水口図書館と資料館に立寄り資料収集。
資料館の方は既に閉館時刻を過ぎてしまいましたが、職員さんのご厚意により市史を購入できました。
お陰様でともに閉館時刻を過ぎるなかでも、ご親切に対応いただき目的を果たせました。
心より感謝を申し上げます。
こうして1日目の歩行距離は約26kmと概ね当初の予想通りでしたが持病の内反小指が悪化し翌日以降の行動に支障が出てまいりました。
滋賀県の初日は夕刻を除いて余り天候には恵まれない一日でしたが、この時には2日以降に別の事情も発生するなどとは思いもよりませんでした。
なお、このブログは12月24日に記述しています。
この日は家内に付き合い群馬県の富岡製糸場へ。
途中で新町のガトーフェスタハラダに立寄り工事用見学と買い物。
自分の方は国道17号線沿いの反対側にある神流川古戦場の石碑見学へ。
ガトーフェスタハラダ
■神流川古戦場の石碑(群馬県高崎市新町) 午前10時00分から10時10分
天正10年(1582年)に滝川一益の上州勢と後北条氏が戦ったとされる古戦場に由来する石碑です。
この場所は車の通行量が多く、かつ朝方は逆光気味となることから、この時期に写真を撮るなら午後以降がベターであることが判明しました。
向かい側の古戦場碑
凸富岡陣屋(群馬県富岡市富岡1-1) 12時10分から12時40分
次に早めの昼食の後に一応富岡製糸場へ出向き、世界遺産でもある近代工業遺産の工場見学。
ちなみにこの工場敷地はいちおう、「日本城郭全集」によると、中野七蔵が慶長年間(1604頃とも)に築造した(ただし未完とも)富岡陣屋でもありますが、現地は世界遺産関係のガイドはあちこちに見受けられるのですが、富岡陣屋に関する解説は見つかりませんでした。
東側の正門から製糸場に入ると正面に有名な木造レンガ造りの工場だけに目が行きがちですが、目を転じると向かって右側(北側)には東西方向に長さ約30m、高さ約1.5mほどの石塁を下部に付した「土塁」状の人工地形が見えます。
むろん近世初期の陣屋との関係は分かりませんが、火薬工場ではなく防爆壁としてはやや規模の小さい土塁で、仮に爆風を防ぐことが目的ならば石材である河原丸石を使用するというのは理に適わないものも感じます。
その一方で石材としての新しさも垣間見えます ^_^;
そこから家内とは別行動で徒歩にて西側の七日藩陣屋跡へ。
凸七日市藩陣屋(群馬県富岡市七日市1425-1) 13時05分から13時40分
陣屋の創立は元和2年(1616)に前田利家の五男である前田利孝1万石で入封したことに始まり、藩は幕末まで継承されたという。
陣屋跡といっても現在は県立富岡高校の敷地です。
当時の陣屋門、御殿の表玄関と書院を確認し、陣屋北東部にあたる庭園の築山なのか陣屋の土塁跡なのか分かりにくい盛り土の地形を拝見した後は、南西隅の古墳兼前田家宝篋印塔を見学しに行きました。
そこから南側を流れる鏑川を俯瞰して南東の蛇宮神社へ。
陣屋の桝形のような路地を辿りつつ、日没までの残り時間を考え高瀬陣屋へと移動は断念し、隣接した東郭とも推定されている住宅地を抜けて再び富岡製糸場へ向かい家内と合流。
旧陣屋門 土塁か築山か
旧陣屋御殿 玄関(車寄せ)
土塁か築山か 見落とすことのない表示
国道254線と陣屋 陣屋西側の小道
前田家の宝篋印塔 解説版
古墳の上から俯瞰 古墳
鏑川沿いの崖
その後は甘楽町のこんにゃくパークと藤岡の道の駅ららんに立寄るという、あたかも日帰り観光バスツアーのような経路を辿り藤岡インター経由で午後6時半前に帰宅。
この週には息子の結婚などの慶事も重なり慌ただしかった。
ららん藤岡のイルミネーション
1日目から発症してしまった内反小指による痛みどめ対策を可能な限り講じたことにより、ようやく3日目にして片平城周辺へ赴くことができました。
凸上極楽の遺構(福島県郡山市片平町上極楽付近) 午前8時15分頃
後日、関係資料を整理している際に国土地理院航空写真を眺めていたところ、中村館が所在していたとされる字菱池の東約100m地点に複郭から構成されるとみられる平地の城館跡の痕跡を見つけ出しました。
あくまでも戦後間もない航空写真から比較的古いと思われる道や集落などを目安に現在の景観に当てはめ推測してみたものです。
地理的には中村館にほぼ接していることから深い関わりが推定されるのですが、今のところその歴史的な背景は全く不明です。
従って撮影画像そのものについても、当該地そのものを撮影したという意図はなく東権官館周辺の景観を撮影したもののなかに、大体の方角が合致していた画像があったに過ぎません。
しかし、中村館が所在しているはずの当該航空写真の堀跡西側一帯には、そうした存在を示唆するような水田地割の形跡は確認できないことから、仮に下記の中村館の所在地を示す「まほろん」および「埋蔵文化財包蔵地マップ」の位置がずれていたとすれば、この仮称「上極楽の遺跡」が中村館を指しているということも十分に考えられます。
いずれにしても郡山市内に限らず、戦後間もない時期に撮影された当時の在日米軍による航空写真には、このようにして相当数の平地の城館跡が写りこんで入る可能性があるのではないかと考えるに至りました。
東側からの遠景 1948年3月の航空写真
凸東権官館(福島県郡山市片平町字清水西) 午前8時15分から8時35分
どうも「権官館」が2か所に分かれて存在している様子なので、あくまでも便宜上それぞれに東西の名称を冠したものです。
この東権官館の所在地については、「まほろん」と「埋蔵文化財包蔵地マップ」の記載情報が異なっており、「まほろん」では県道142号線の北側を示していますが、一方「マップ」の方は県道南側を示していました。
このことから一応両方の地点をそれぞれ確認してみると、まず県道の南側は耕地化された水田であり、その現状からは堀跡などの形跡を窺うことはできません。
しかし前記の航空写真をよくよく眺めると、歴史的な経緯は分かりませんが、何処となく古い屋敷跡などのようにも見える区画が見え、県道を挟んだ北側からの部分と繋がっている形跡(土塁か)も窺えました。
また、「まほろん」の示す北側の部分には南北方向に延長50m前後の「土塁」(年代観不明)と思われるような人工的な盛土の画像を確認することができます。またその北端から更に鍵の手に東西方向にも伸びているようにも見えなくもありませんが、この部分については屋敷林などに隠されて明確ではありません。もちろん、現状では自動車整備工場の敷地の一部となっていることから土塁の痕跡を確認することはできませんでした。
周辺には、馬場下、馬場前、舘堀、的場などの城館関連地名が多く所在しています。
1948年3月の航空写真 低丘陵
北東側からの全景 不動堂と水害復興の石碑
凸西権官館(福島県郡山市片平町字石切場) 午前8時40分から9時05分
位置的には東権官館の西側に隣接した低丘陵に所在しています。
「文化財包蔵地マップ」が示す範囲内にある県道142号線南側の片平幼稚園西隣に所在している丘陵部(居宅介護事業所の南側、逢瀬川の河岸段丘先端部か)には、土塁状のようにも見えなくもない盛土地形が現在でも確認できますが、この地形が戦後間もない在日米軍撮影の航空写真からも、それらしい地表の痕跡を見出すことはできませんでした。
城館跡を南北に分かつ県道142号線北側には屋敷跡のような地割も見受けられますが、これに伴う堀跡のような地形は見当たりませんが歴史を感じさせる屋敷林の存在が目を引きます。
片平幼稚園西側の林 その林の中の地形
屋敷林 文化財包蔵地の全景
屋敷林 1948年3月の航空写真
凸中村館(福島県郡山市片平町字菱池) 午前9時20分から9時30分
近くのセブンイレブンに駐車させていただき、のど飴と飲み物その他を購入してから南側の水田へ。
所在地については「まほろん」および「埋蔵文化財包蔵地マップ」が指し示す情報をもとに赴いたものですが、ことによると上記に示したような所在地に関する錯語が含まれている可能性も否定はできないものと考えるに至りました。
以前発掘調査などが実施された模様で、石臼、陶器、漆器などの遺物が出土し、郭と堀跡も存在していたようですが、現状は資材置き場と水田耕作地となっており、地表から確認できるような遺構は見当たりませんでした。
「まほろん」などが示す辺り
凸片平鹿島館(福島県郡山市片平町字鹿島) 午前9時45分から10時10分
「まほろん」(福島県文化財データベース)「郡山市文化財包蔵地マップ」「福島の中世城館跡」(福島県教育委員会/編著)には何れも鹿島館とのみ表記されていますが、郡山市内には同様の名称をもつ中世城館跡は多く存在していることから、あくまでも便宜上の表記として「片平鹿島館」と表記することといたしました。また鹿島の地名は「かつて鹿島神社(片平の上館築城の際に鬼門除けとして奉祀したと伝う)が所在していたことによるもの」とされ、明治42年の台風で倒壊し、段子森に移築され片平神社と改称されたとのことです。」(「郡山の地名」2005年/郡山市より)また同書に掲載されている明治期に作成されたと思われる鹿島の地籍図にはこの丘陵部分がそっくり抜け落ちていることから、少なくとも明治期にはある程度の遺構が現存していたことも推定されます。
この地を中世城館跡とするのは「相生集」(幕末に編纂された地誌のひとつ)に記されていることによるもののようなのですが、その歴史的経緯の詳細については不明の模様です。
周辺は広大でなだらかな低丘陵丘陵とその谷津を利用した水田地帯が広がる地形で、片平城からみ東北東約1.5kmほどの地点に所在する独立丘陵に相当するようです。
水田面からの比高差は最も高い部分で8メートル近くを有していることから、郡山西部広域農道側からみると平坦ではありますがとても存在感のある地形が目に入ります。
現状は揚水ポンプにより水を引き込み水田として利用されていることからある程度の地形改変が含まれていると考えられますが、東西方向約200m、南北方向約150mに及ぶ谷津の入り組んだ不正形地を呈していましたが、件の米軍航空写真によれば、こうした谷津田は終戦後に開発されたもののようで、1948年の撮影当時では矩形を集めたような丘陵の形状であったことが窺えます。
この画像からは、かつての郭跡やその北側にある堀跡の痕跡などを見て取ることもできますが、現在ではそうした地形の痕跡は水田耕作などにより確認することは難しくなっていました。
なお、南側からブローチして最高地点まで到達した直後に遮るものがない台地上にて風速20m/秒近い突風が吹き荒れ、20秒以上にわたり体が強風にもって行かれそうになりましたが、この時ばかりは自分の体重に感謝するという体験を味わいました。
1948年3月の航空写真 2014年7月の航空写真
丘陵南端部
丘陵東端部 丘陵の上部
丘陵の最高地点 西側からの全景
凸柴木戸(福島県郡山市片平町字芝木戸) 午前10時15分から10時20分
「瓜坪館」方面に赴く際に目についた地形で、「まほろん」「郡山市文化財包蔵地マップ」など何れの資料にも掲載されてはいません。
東西方向に細長い丘陵尾根筋の西端付近に所在し、かつ「木戸」の地名も伝わり、古い家屋敷の構えであることが窺えますが、もちろん年代観は全く不明です。
北側からの遠景 1948年3月の航空写真
凸妙見館(福島県郡山市片平町字妙見館) 午前10時20分から10時25分
「まほろん」「郡山市文化財包蔵地マップ」などの所在地情報によれば、星総合病院の西側に隣接した現在は采女の里関連の高齢者福祉施設が所在している丘陵地帯辺りを指しているようです。
吹きすさぶ風は相変わらず冷たく頬にあたり続けておりましたが、すでに宅地化が進行している現状の地形のみならず、1948年3月撮影の航空写真からも遺構らしき特徴的な地形を窺い知ることはできませんでした。
南側からの遠景 1948年3月の航空写真
凸瓜坪館(福島県郡山市片平町字瓜坪館) 午前10時30分から10時45分
「積達古館弁」によれば「館名」のみが記されているものの、「里老伝に城主不知」とのみ記され築城者、館主の何れも不明とされています。
尾根続きの西側を除いた三方が小河川などにより囲まれた丘陵東端部に占地していますが、1948年3月撮影の航空写真においても平坦な耕作地が確認できるのみで遺構に連なるような地形を窺い知ることはできません。
現在は概ね水田として耕作されており、本当にこの地点が正しいのか疑問にさえ思われる場所ではありました。
むしろ西方の見物檀に所在するひな壇状地形の見事さに目を奪われましたが、豊かな安積疎水の影響も加わって、こうしたひな壇状の耕作地は郡山市内には数多く見ることができます。
ほぼ水田です 戦前からあったと思われる雛壇
1948年撮影航空写真
凸舘山(福島県郡山市片平町字舘山) 午前10時50分頃
一昨日と本日に何度もカーナビに「舘山」の地名が表示されることから、念のため当該地付近を撮影したもので、あとで調べてみましたがその字名以外には城館との関わりを辿ることができませんでした。
また国土地理院のウェブ地図を見てみると、本来は河岸段丘先端部の台地であったことが窺えます。
1948年3月当時の在日米軍の撮影した国土地理院航空写真によると台地北側部分にそれらしい地形が写ってはいますが、この当時からすでに耕地の開拓が進んでおりある程度の確証得られるような形跡を見つけることはできませんでした。
1948年撮影航空写真 東側丘陵からの遠景
凸広修寺館(福島県郡山市片平町字南萬階、南萬会) 午前11時05分から11時20分
片平鹿島館の西方約600mほどの低丘陵の一角に所在しています。
「積達古館弁」に片平の城館のひとつとして記されてはいますが、お馴染みの「里老伝に城主不知と云々」と記載されているのみで歴史的な経緯は不明です。
「まほろん」「日本城郭大系」「福島の中世城館跡」などでは、城館跡として扱われていますが、もっとも新しい「郡山市埋蔵文化財包蔵地マップ」の記述によれば、城館跡ではなく「社寺跡」(中世)と記され、五輪塔や板碑が確認されているようです。
いずれにしても、この辺りの城館跡となりますと多分に伝承性が強い傾向にあるらしく、その詳細については分からない事例が多くあります。
件の在日米軍撮影の航空写真には堀跡のように見えなくもない地形が存在していますが、あまり明確ではありません。
南側水田地帯から 住所確認
1948年撮影航空写真
凸狐館(福島県郡山市片平町字狐館、字女久保) 午前11時30分から11時50分
市立片平小学校北側の丘陵が狐館になります。片平小学校東側のグランド北側から西へと進む農道があるので、そのまま道なりに250mばかり進んでいくと腰郭のようにも見えなくもない耕作地へと到着しますので、その畑の北側の削り残された細い尾根筋を西へとすすめば狐館へと到着します。
山頂部の藪はそれほどでもありませんが、藪漕ぎをしても視界は不良で遺構も無さそうですのであまりお勧めはできません。
また周囲との比高差は約20mほどですが、細い尾根筋を通るときには北側の斜面に落ちないように気を付ける必要があります。
なお、西側からの登攀は傾斜もきつそうでかなり難しそうでした。
1948年撮影航空写真 東側の農道から
畑の人工的な斜面 畑と細い尾根筋
細い尾根筋 腰郭のようにも見える畑
片平小学校越しの狐館 西側からの遠景
凸西狐館(福島県郡山市片平町字西狐館)
狐館西側の南北に長い丘陵に所在しているとされていますが、片平小学校の校門前からアプローチするルートは途中で行き止まりになります。
つまり土砂の採掘等により丘陵東側では元来の景観が大きく変貌し、丘陵が比高5m以上の崖地を呈しすすむことができません。
南側の鞍部か、北側からアプローチすれば丘陵の上に行けそうに思いましたが、明確な踏み跡も確認できず、眺望も芳しくはないと判断されたことからあっさりと断念をいたしました。
登れない東側
凸片平下館(福島県郡山市片平町) 12時50分から13時20分
総領家か諸子家なのかは見解が分かれているようですが、何れにしましても安積伊東氏一族の平地の館跡とされています。
北部には郭跡と見られる方形の微高地区画も残され、その北側には外堀の字名が残り、1948年撮影の航空写真にはそれを取り巻く堀跡やL字型を呈した堀跡の地割も確認できます。
片平下館周辺の城館館跡 郭跡か
字外堀の水田 字外堀の堀跡か
この辺りにも堀跡が 困った時の住所表示
片平下館の航空写真
凸片平中館(福島県郡山市片平町) 13時25分頃
「まほろん」「福島の中世城館跡」には掲載されていますが、上館の範囲と重なっています。
その字名などから推察しますと、おそらくは上館北側付近の一帯を指すものと思われましたが、土砂の採掘などにより大きく丘陵自体が消滅していましたので元々の地形が分からなくなっていました。
手前が字中館の辺り
凸片平城(福島県郡山市片平町) 13時30分から14時30分
平地の下館に対して片平上館ともいうようです。
鎌倉時代の初期に安積伊東氏の一族が東側の下館に暮らしはじめ、その後戦国時代にはより防御性の高い西側の丘陵に城をかまえたものと考えられているようです。
しかし、この城は天正4年(1576)に三春田村氏により攻略を受けて城主である伊東大和守は会津へと逃れて、田村氏配下の大内親綱が片平姓に改めて城主となりましたが、その後蘆名、伊達と盟主を変えていきます。
東側の愛宕神社の境内にもコの字型の土塁が現存していますが、西側約150mほど離れた丘陵部にも、城跡の一部ではありますが、2か所の郭をはじめとして小口、土橋、土塁、切岸などの一連の遺構がしっかりと残されておりました。
この遺構へのルートは丘陵地帯(字中館辺りか)の削平により、現在では愛宕神社から直接向かうことはできません。
いささか迂回路にはなりますが、愛宕神社の参道の分岐を南側に回り込みそのまま新町と呼ばれる集落を通過し、突き当りの丁字路を右折(「嬉しい案内標識」の画像参照)すると、正面に「片平城の遠景」と題した画像の個所が見えますので、介護施設の脇を過ぎてそのまま真直ぐ北へと向かい民家東側の小道を道なりにすすめば小口へと続いています。(愛宕神社の分岐からは約500mほど)
なお、愛宕神社に参詣したところ賽銭箱の付近に都合80円分の硬貨(現流通通貨)を発見したので、手持ちの小銭と合わせてお参りさせていただきました。
下館集落の洋品店の店先 愛宕神社の鳥居
愛宕神社境内 境内の土塁
愛宕神社境内への入口 奥が郭と土塁の残る丘陵
愛宕神社遠景 船の舳先のような
土砂の採掘による丘陵の消滅 シュールな光景
嬉しい案内標識 お馴染みのクマ注意も
南側にある西郭 土橋か
東の愛宕神社方面 これも嬉しい城跡の標柱
北郭の土塁 左の画像を広角撮影
上の画像の土塁と土橋 土橋
西郭西側の土塁 西郭の切岸
西郭の小口付近 片平城の遠景
片平城(上館) 片平城の周辺
このようにして郡山市3日目は、確実なところで11城館、その他4か所という結果に終わりました。
その翌日には少なくとも帰りがけに篠川館くらいは訪れる予定でおりましたが、生憎と突然の降雨に見舞われてしまったことなどにより、そのまま帰宅の途につくこととなりました。
年々歳々体力の低下が顕著となってきましたが、気力の方もこれに比例して減衰してきたようです。
なお、このブログの記述は、長引いている風邪と航空写真との照合など諸般の事情によって遅れに遅れて、どうにかこうにか翌月の12月14日になり纏めたものです。