本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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10月下旬以来の風邪がようやく治ってきたと思っていた矢先、昼前にアレルギー性喘息気味の咳がでて30分ほど継続。
それにしても毎年この時期になると必ず風邪に罹患。
還暦を過ぎてから早5年が経過したが、風邪をひかなかった年末は皆無。
来週の遠征は雨に悩まされそうな予感。

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この日は家内に付き合い群馬県の富岡製糸場へ。
途中で新町のガトーフェスタハラダに立寄り工事用見学と買い物。
自分の方は国道17号線沿いの反対側にある神流川古戦場の石碑見学へ。


  ガトーフェスタハラダ


■神流川古戦場の石碑(群馬県高崎市新町) 午前10時00分から10時10分
天正10年(1582年)に滝川一益の上州勢と後北条氏が戦ったとされる古戦場に由来する石碑です。
この場所は車の通行量が多く、かつ朝方は逆光気味となることから、この時期に写真を撮るなら午後以降がベターであることが判明しました。


   向かい側の古戦場碑



富岡陣屋(群馬県富岡市富岡1-1) 12時10分から12時40分
次に早めの昼食の後に一応富岡製糸場へ出向き、世界遺産でもある近代工業遺産の工場見学。
ちなみにこの工場敷地はいちおう、「日本城郭全集」によると、中野七蔵が慶長年間(1604頃とも)に築造した(ただし未完とも)富岡陣屋でもありますが、現地は世界遺産関係のガイドはあちこちに見受けられるのですが、富岡陣屋に関する解説は見つかりませんでした。



東側の正門から製糸場に入ると正面に有名な木造レンガ造りの工場だけに目が行きがちですが、目を転じると向かって右側(北側)には東西方向に長さ約30m、高さ約1.5mほどの石塁を下部に付した「土塁」状の人工地形が見えます。
むろん近世初期の陣屋との関係は分かりませんが、火薬工場ではなく防爆壁としてはやや規模の小さい土塁で、仮に爆風を防ぐことが目的ならば石材である河原丸石を使用するというのは理に適わないものも感じます。
その一方で石材としての新しさも垣間見えます ^_^;



そこから家内とは別行動で徒歩にて西側の七日藩陣屋跡へ。




七日市藩陣屋(群馬県富岡市七日市1425-1) 13時05分から13時40分
陣屋の創立は元和2年(1616)に前田利家の五男である前田利孝1万石で入封したことに始まり、藩は幕末まで継承されたという。
陣屋跡といっても現在は県立富岡高校の敷地です。
当時の陣屋門、御殿の表玄関と書院を確認し、陣屋北東部にあたる庭園の築山なのか陣屋の土塁跡なのか分かりにくい盛り土の地形を拝見した後は、南西隅の古墳兼前田家宝篋印塔を見学しに行きました。
そこから南側を流れる鏑川を俯瞰して南東の蛇宮神社へ。
陣屋の桝形のような路地を辿りつつ、日没までの残り時間を考え高瀬陣屋へと移動は断念し、隣接した東郭とも推定されている住宅地を抜けて再び富岡製糸場へ向かい家内と合流。


     旧陣屋門          土塁か築山か


     旧陣屋御殿         玄関(車寄せ)


    土塁か築山か      見落とすことのない表示


  国道254線と陣屋       陣屋西側の小道


   前田家の宝篋印塔          解説版


   古墳の上から俯瞰          古墳


    鏑川沿いの崖



その後は甘楽町のこんにゃくパークと藤岡の道の駅ららんに立寄るという、あたかも日帰り観光バスツアーのような経路を辿り藤岡インター経由で午後6時半前に帰宅。
この週には息子の結婚などの慶事も重なり慌ただしかった。


ららん藤岡のイルミネーション

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1日目から発症してしまった内反小指による痛みどめ対策を可能な限り講じたことにより、ようやく3日目にして片平城周辺へ赴くことができました。

上極楽の遺(福島県郡山市片平町上極楽付近) 午前8時15分頃
後日、関係資料を整理している際に国土地理院航空写真を眺めていたところ、中村館が所在していたとされる字菱池の東約100m地点に複郭から構成されるとみられる平地の城館跡の痕跡を見つけ出しました。
あくまでも戦後間もない航空写真から比較的古いと思われる道や集落などを目安に現在の景観に当てはめ推測してみたものです。
地理的には中村館にほぼ接していることから深い関わりが推定されるのですが、今のところその歴史的な背景は全く不明です。
従って撮影画像そのものについても、当該地そのものを撮影したという意図はなく東権官館周辺の景観を撮影したもののなかに、大体の方角が合致していた画像があったに過ぎません。
しかし、中村館が所在しているはずの当該航空写真の堀跡西側一帯には、そうした存在を示唆するような水田地割の形跡は確認できないことから、仮に下記の中村館の所在地を示す「まほろん」および「埋蔵文化財包蔵地マップ」の位置がずれていたとすれば、この仮称「上極楽の遺跡」が中村館を指しているということも十分に考えられます。
いずれにしても郡山市内に限らず、戦後間もない時期に撮影された当時の在日米軍による航空写真には、このようにして相当数の平地の城館跡が写りこんで入る可能性があるのではないかと考えるに至りました。

 
   東側からの遠景      1948年3月の航空写真



東権官館(福島県郡山市片平町字清水西) 午前8時15分から8時35分
どうも「権官館」が2か所に分かれて存在している様子なので、あくまでも便宜上それぞれに東西の名称を冠したものです。
この東権官館の所在地については、「まほろん」と「埋蔵文化財包蔵地マップ」の記載情報が異なっており、「まほろん」では県道142号線の北側を示していますが、一方「マップ」の方は県道南側を示していました。
このことから一応両方の地点をそれぞれ確認してみると、まず県道の南側は耕地化された水田であり、その現状からは堀跡などの形跡を窺うことはできません。
しかし前記の航空写真をよくよく眺めると、歴史的な経緯は分かりませんが、何処となく古い屋敷跡などのようにも見える区画が見え、県道を挟んだ北側からの部分と繋がっている形跡(土塁か)も窺えました。
また、「まほろん」の示す北側の部分には南北方向に延長50m前後の「土塁」(年代観不明)と思われるような人工的な盛土の画像を確認することができます。またその北端から更に鍵の手に東西方向にも伸びているようにも見えなくもありませんが、この部分については屋敷林などに隠されて明確ではありません。もちろん、現状では自動車整備工場の敷地の一部となっていることから土塁の痕跡を確認することはできませんでした。
周辺には、馬場下、馬場前、舘堀、的場などの城館関連地名が多く所在しています。

 
 1948年3月の航空写真        低丘陵


   北東側からの全景      不動堂と水害復興の石碑


 
西権官館(福島県郡山市片平町字石切場) 午前8時40分から9時05分
位置的には東権官館の西側に隣接した低丘陵に所在しています。
「文化財包蔵地マップ」が示す範囲内にある県道142号線南側の片平幼稚園西隣に所在している丘陵部(居宅介護事業所の南側、逢瀬川の河岸段丘先端部か)には、土塁状のようにも見えなくもない盛土地形が現在でも確認できますが、この地形が戦後間もない在日米軍撮影の航空写真からも、それらしい地表の痕跡を見出すことはできませんでした。
城館跡を南北に分かつ県道142号線北側には屋敷跡のような地割も見受けられますが、これに伴う堀跡のような地形は見当たりませんが歴史を感じさせる屋敷林の存在が目を引きます。


  片平幼稚園西側の林       その林の中の地形


      屋敷林        文化財包蔵地の全景


      屋敷林       1948年3月の航空写真



中村館(福島県郡山市片平町字菱池) 午前9時20分から9時30分
近くのセブンイレブンに駐車させていただき、のど飴と飲み物その他を購入してから南側の水田へ。
所在地については「まほろん」および「埋蔵文化財包蔵地マップ」が指し示す情報をもとに赴いたものですが、ことによると上記に示したような所在地に関する錯語が含まれている可能性も否定はできないものと考えるに至りました。
以前発掘調査などが実施された模様で、石臼、陶器、漆器などの遺物が出土し、郭と堀跡も存在していたようですが、現状は資材置き場と水田耕作地となっており、地表から確認できるような遺構は見当たりませんでした。


「まほろん」などが示す辺り



片平鹿島館(福島県郡山市片平町字鹿島) 午前9時45分から10時10分
「まほろん」(福島県文化財データベース)「郡山市文化財包蔵地マップ」「福島の中世城館跡」(福島県教育委員会/編著)には何れも鹿島館とのみ表記されていますが、郡山市内には同様の名称をもつ中世城館跡は多く存在していることから、あくまでも便宜上の表記として「片平鹿島館」と表記することといたしました。また鹿島の地名は「かつて鹿島神社(片平の上館築城の際に鬼門除けとして奉祀したと伝う)が所在していたことによるもの」とされ、明治42年の台風で倒壊し、段子森に移築され片平神社と改称されたとのことです。」(「郡山の地名」2005年/郡山市より)また同書に掲載されている明治期に作成されたと思われる鹿島の地籍図にはこの丘陵部分がそっくり抜け落ちていることから、少なくとも明治期にはある程度の遺構が現存していたことも推定されます。
この地を中世城館跡とするのは「相生集」(幕末に編纂された地誌のひとつ)に記されていることによるもののようなのですが、その歴史的経緯の詳細については不明の模様です。
周辺は広大でなだらかな低丘陵丘陵とその谷津を利用した水田地帯が広がる地形で、片平城からみ東北東約1.5kmほどの地点に所在する独立丘陵に相当するようです。
水田面からの比高差は最も高い部分で8メートル近くを有していることから、郡山西部広域農道側からみると平坦ではありますがとても存在感のある地形が目に入ります。
現状は揚水ポンプにより水を引き込み水田として利用されていることからある程度の地形改変が含まれていると考えられますが、東西方向約200m、南北方向約150mに及ぶ谷津の入り組んだ不正形地を呈していましたが、件の米軍航空写真によれば、こうした谷津田は終戦後に開発されたもののようで、1948年の撮影当時では矩形を集めたような丘陵の形状であったことが窺えます。
この画像からは、かつての郭跡やその北側にある堀跡の痕跡などを見て取ることもできますが、現在ではそうした地形の痕跡は水田耕作などにより確認することは難しくなっていました。
なお、南側からブローチして最高地点まで到達した直後に遮るものがない台地上にて風速20m/秒近い突風が吹き荒れ、20秒以上にわたり体が強風にもって行かれそうになりましたが、この時ばかりは自分の体重に感謝するという体験を味わいました。
 
   

 1948年3月の航空写真   2014年7月の航空写真

 
    丘陵南端部


    丘陵東端部          丘陵の上部


   丘陵の最高地点        西側からの全景




柴木戸(福島県郡山市片平町字芝木戸) 午前10時15分から10時20分
「瓜坪館」方面に赴く際に目についた地形で、「まほろん」「郡山市文化財包蔵地マップ」など何れの資料にも掲載されてはいません。
東西方向に細長い丘陵尾根筋の西端付近に所在し、かつ「木戸」の地名も伝わり、古い家屋敷の構えであることが窺えますが、もちろん年代観は全く不明です。

 
    北側からの遠景      1948年3月の航空写真 


 
 
妙見館(福島県郡山市片平町字妙見館) 午前10時20分から10時25分
「まほろん」「郡山市文化財包蔵地マップ」などの所在地情報によれば、星総合病院の西側に隣接した現在は采女の里関連の高齢者福祉施設が所在している丘陵地帯辺りを指しているようです。
吹きすさぶ風は相変わらず冷たく頬にあたり続けておりましたが、すでに宅地化が進行している現状の地形のみならず、1948年3月撮影の航空写真からも遺構らしき特徴的な地形を窺い知ることはできませんでした。


    南側からの遠景     1948年3月の航空写真
 



瓜坪館(福島県郡山市片平町字瓜坪館) 午前10時30分から10時45分
  「積達古館弁」によれば「館名」のみが記されているものの、「里老伝に城主不知」とのみ記され築城者、館主の何れも不明とされています。
尾根続きの西側を除いた三方が小河川などにより囲まれた丘陵東端部に占地していますが、1948年3月撮影の航空写真においても平坦な耕作地が確認できるのみで遺構に連なるような地形を窺い知ることはできません。
現在は概ね水田として耕作されており、本当にこの地点が正しいのか疑問にさえ思われる場所ではありました。
むしろ西方の見物檀に所在するひな壇状地形の見事さに目を奪われましたが、豊かな安積疎水の影響も加わって、こうしたひな壇状の耕作地は郡山市内には数多く見ることができます。
 

    ほぼ水田です     戦前からあったと思われる雛壇


  1948年撮影航空写真 


 
舘山(福島県郡山市片平町字舘山) 午前10時50分頃
一昨日と本日に何度もカーナビに「舘山」の地名が表示されることから、念のため当該地付近を撮影したもので、あとで調べてみましたがその字名以外には城館との関わりを辿ることができませんでした。
また国土地理院のウェブ地図を見てみると、本来は河岸段丘先端部の台地であったことが窺えます。
1948年3月当時の在日米軍の撮影した国土地理院航空写真によると台地北側部分にそれらしい地形が写ってはいますが、この当時からすでに耕地の開拓が進んでおりある程度の確証得られるような形跡を見つけることはできませんでした。
 
   
   1948年撮影航空写真     東側丘陵からの遠景


 
広修寺館(福島県郡山市片平町字南萬階、南萬会) 午前11時05分から11時20分
片平鹿島館の西方約600mほどの低丘陵の一角に所在しています。
「積達古館弁」に片平の城館のひとつとして記されてはいますが、お馴染みの「里老伝に城主不知と云々」と記載されているのみで歴史的な経緯は不明です。
「まほろん」「日本城郭大系」「福島の中世城館跡」などでは、城館跡として扱われていますが、もっとも新しい「郡山市埋蔵文化財包蔵地マップ」の記述によれば、城館跡ではなく「社寺跡」(中世)と記され、五輪塔や板碑が確認されているようです。
いずれにしても、この辺りの城館跡となりますと多分に伝承性が強い傾向にあるらしく、その詳細については分からない事例が多くあります。
件の在日米軍撮影の航空写真には堀跡のように見えなくもない地形が存在していますが、あまり明確ではありません。


   南側水田地帯から         住所確認

 
  1948年撮影航空写真



狐館(福島県郡山市片平町字狐館、字女久保) 午前11時30分から11時50分
市立片平小学校北側の丘陵が狐館になります。片平小学校東側のグランド北側から西へと進む農道があるので、そのまま道なりに250mばかり進んでいくと腰郭のようにも見えなくもない耕作地へと到着しますので、その畑の北側の削り残された細い尾根筋を西へとすすめば狐館へと到着します。
山頂部の藪はそれほどでもありませんが、藪漕ぎをしても視界は不良で遺構も無さそうですのであまりお勧めはできません。
また周囲との比高差は約20mほどですが、細い尾根筋を通るときには北側の斜面に落ちないように気を付ける必要があります。
なお、西側からの登攀は傾斜もきつそうでかなり難しそうでした。


  1948年撮影航空写真     東側の農道から


   畑の人工的な斜面        畑と細い尾根筋


    細い尾根筋        腰郭のようにも見える畑


  片平小学校越しの狐館      西側からの遠景




西狐館(福島県郡山市片平町字西狐館)
狐館西側の南北に長い丘陵に所在しているとされていますが、片平小学校の校門前からアプローチするルートは途中で行き止まりになります。
つまり土砂の採掘等により丘陵東側では元来の景観が大きく変貌し、丘陵が比高5m以上の崖地を呈しすすむことができません。
南側の鞍部か、北側からアプローチすれば丘陵の上に行けそうに思いましたが、明確な踏み跡も確認できず、眺望も芳しくはないと判断されたことからあっさりと断念をいたしました。


    登れない東側




片平下館(福島県郡山市片平町) 12時50分から13時20分
総領家か諸子家なのかは見解が分かれているようですが、何れにしましても安積伊東氏一族の平地の館跡とされています。
北部には郭跡と見られる方形の微高地区画も残され、その北側には外堀の字名が残り、1948年撮影の航空写真にはそれを取り巻く堀跡やL字型を呈した堀跡の地割も確認できます。


  片平下館周辺の城館館跡       郭跡か


    字外堀の水田         字外堀の堀跡か


  この辺りにも堀跡が       困った時の住所表示


  片平下館の航空写真




片平中館(福島県郡山市片平町) 13時25分頃
「まほろん」「福島の中世城館跡」には掲載されていますが、上館の範囲と重なっています。
その字名などから推察しますと、おそらくは上館北側付近の一帯を指すものと思われましたが、土砂の採掘などにより大きく丘陵自体が消滅していましたので元々の地形が分からなくなっていました。


   手前が字中館の辺り      
  
 
片平城(福島県郡山市片平町) 13時30分から14時30分
平地の下館に対して片平上館ともいうようです。
鎌倉時代の初期に安積伊東氏の一族が東側の下館に暮らしはじめ、その後戦国時代にはより防御性の高い西側の丘陵に城をかまえたものと考えられているようです。
しかし、この城は天正4年(1576)に三春田村氏により攻略を受けて城主である伊東大和守は会津へと逃れて、田村氏配下の大内親綱が片平姓に改めて城主となりましたが、その後蘆名、伊達と盟主を変えていきます。
東側の愛宕神社の境内にもコの字型の土塁が現存していますが、西側約150mほど離れた丘陵部にも、城跡の一部ではありますが、2か所の郭をはじめとして小口、土橋、土塁、切岸などの一連の遺構がしっかりと残されておりました。
この遺構へのルートは丘陵地帯(字中館辺りか)の削平により、現在では愛宕神社から直接向かうことはできません。
いささか迂回路にはなりますが、愛宕神社の参道の分岐を南側に回り込みそのまま新町と呼ばれる集落を通過し、突き当りの丁字路を右折(「嬉しい案内標識」の画像参照)すると、正面に「片平城の遠景」と題した画像の個所が見えますので、介護施設の脇を過ぎてそのまま真直ぐ北へと向かい民家東側の小道を道なりにすすめば小口へと続いています。(愛宕神社の分岐からは約500mほど)
なお、愛宕神社に参詣したところ賽銭箱の付近に都合80円分の硬貨(現流通通貨)を発見したので、手持ちの小銭と合わせてお参りさせていただきました。



  下館集落の洋品店の店先     愛宕神社の鳥居


    愛宕神社境内         境内の土塁

 
  愛宕神社境内への入口     奥が郭と土塁の残る丘陵


    愛宕神社遠景        船の舳先のような


 土砂の採掘による丘陵の消滅    シュールな光景


    嬉しい案内標識      お馴染みのクマ注意も


   南側にある西郭          土橋か


   東の愛宕神社方面      これも嬉しい城跡の標柱


    北郭の土塁         左の画像を広角撮影


  上の画像の土塁と土橋         土橋


   西郭西側の土塁          西郭の切岸


   西郭の小口付近         片平城の遠景


    片平城(上館)        片平城の周辺

このようにして郡山市3日目は、確実なところで11城館、その他4か所という結果に終わりました。

その翌日には少なくとも帰りがけに篠川館くらいは訪れる予定でおりましたが、生憎と突然の降雨に見舞われてしまったことなどにより、そのまま帰宅の途につくこととなりました。
年々歳々体力の低下が顕著となってきましたが、気力の方もこれに比例して減衰してきたようです。
なお、このブログの記述は、長引いている風邪と航空写真との照合など諸般の事情によって遅れに遅れて、どうにかこうにか翌月の12月14日になり纏めたものです。

拍手[4回]

郡山市の2日目です。
天気予報どおり明け方まで雨が残り、藪のある個所は敬遠することにしました。
夜半過ぎころには、その音に目覚めてしまうような風速15mを超える強風が吹き荒れましたが朝になると天候は次第に落ち着いてきました。

このため駐車スペースの問題で車では行けそうもない市街地を、ふらふらと街路樹の紅葉を眺めつつ歩いてみることに決定しました。
このため殆ど地表部の遺構との対面は殆ど期待できそうにありません(笑)



稲荷館/郡山城比定地/陣屋(福島県郡山市一丁目)
 午前9時00分から10時10分

従来は西ノ内説が通説のように扱われている時期もありましたが、「郡山の城館」「2014年版 郡山の歴史」などにも記されているように、近年では郡山合戦の郡山城については「伊達治家記録」などの史料における佐竹・蘆名勢と伊達勢の位置関係から、この郡山駅西口の代官陣屋(稲荷館)を郡山城に比定する説が有力視されています。
現地にはシティタワー郡山(下層階は寿泉堂総合病院)を始めとして、チサンホテル、NTT郡山支店、大東銀行本店などのビル群が立ち並んで、近世陣屋はおろか中世城館の面影は全く感じられません。
それでも北西部の一角で陣屋通り西側には陣屋を冠したビルが所在し、北辺の代官小路に面したビルの間には二本松藩の近世代官陣屋などに関する解説版が設置されています。
さらにその古い解説版の左側に置かれた新しい方の解説版の周辺案内図には「郡山城」の文字も記されております。
しかし、それが指し示す場所には郡山城に関する標柱、説明版などの存在は見られないことから、この案内図の表記が、今のところでは現地における郡山城の存在を示す唯一の証となっているようです。


   郡山駅東口の紅葉    駅前西口から大東銀行へ向かう道


 前の画像の個所から駅前方向     大東銀行本店


    郡山城南部       NTTの社屋奥までが城域


    郡山城南西部       「おっ、陣屋の地名が」


    代官陣屋解説        年季の入った絵図


   近世陣屋当時の絵図       代官陣屋の解説

 
 代官小路、陣屋通りの解説   左案内図の拡大(郡山城表記


 陣屋通りに面した陣屋ビル      大東銀行本店



比丘蓮館/久保田城(福島県郡山市富久山町久保田字恩田、古町)
 午前10時45分から11時00分

「まほろん」「文化財包蔵地マップ」「郡山の城館」「福島の中世城館跡」には一応掲載されてはいますが、いざ現地に足を運んでみますと、無論標柱などの目印もないことからその所在地がはっきりとは分かりませんでした。
逢瀬川の北岸で、磐越東線が緩やかに東へとカーブする東側の住宅地内の一角であろうと推定され、おおむね古町団地の集合住宅のある辺りなのかも知れません。
それでも推定される辺りを南側から近づいていくと、およそ高さ1.5mほどの崖線が残され、館跡はその北西側に所在し、全体として微高地を形成していることが窺われました。
また、また、戦後間もない時期に当時の在日米軍により撮影された航空写真には、耕地化されているものの3か所ほどの郭とその周囲を囲む堀跡の区画が明瞭に写っています。
この航空写真からは、現在の古町団地西側の児童公園沿いの水路が当時の堀跡の位置にほぼ一致していることも分かります。


住宅地内に残る用水路(東堀)   南部を流れる逢瀬川


  久保田と古町の地名        小さな崖線部

 
   崖線上の古道       古町団地付近の児童公園


 国土地理院航空写真より作成
(1948年3月26日撮影、高度2438m、R1172-54)



早見館(福島県郡山市小原田二丁目)
 12時10分から12時20分

「まほろん」「文化財包蔵地マップ」と周辺の発掘調査報告書に中世城館跡として記述があり、「積達古館弁」によると「里老伝に那倉五郎左衛門尉居城のよし、一説に小原田の城主小原田内膳というもの須賀川籠城の記にあり..」と記され、一方、「2004年版 郡山の歴史」では早見玄蕃を城館主として記載しています。
現在は概ね宅地化がすすみ一帯は住宅地と化していますので、北辺部の曲折した道路以外には往時を偲ばせる景観は残されてはおりませんでした。
また、すでに戦前のかなり早い時期から圃場整備が行われていた模様で、戦後間もない米軍の航空写真にもその概要を確認することは難しくなっておりました。
なお、久保田館からここに至るまでの道のりが僅か4km足らずであるというのに、随分と遠くに感じられ、近年その能力低下の著しい足回りの劣化を嫌というほどに痛感いたしました。


  蛇行する公道(水路跡か)    住所表記の確認


この曲がりくねった道路が目安   たぶんこの辺りです



野毛館(福島県郡山市小原田二丁目)
 12時30分から12時40分

「文化財包蔵地マップ」と周辺の発掘調査報告書に、単に「野毛館遺跡(ただし古墳から平安時代までの土師器の散布地と記載されている)」という記述が見られたことから、あくまでも念のために訪れてみただけのことです。
阿武隈川西岸のあまり特徴の見られない堤防沿いの低地で、現状はほぼ宅地化されておりました。
速水館の南東約100mほどに所在していますが、あくまでも伝承地名のみによるものなのでしょうか。


いちおう所在地は小原田2丁目




鹿島館(福島県郡山市小原三丁目)
 12時50分から13時00分

こちらも阿武隈川西岸堤防沿いの低地ですが、「文化財包蔵地マップ」においても、野毛館と同様に中世城館跡としてではなく、縄文、奈良、平安期の遺跡とされています。
遺跡名に「館」という名称が付されていますが、あくまでも口伝などによる呼称に過ぎないものなのでしょうか。


   北隣の小原田中学校      阿武隈川の堤防から


  阿武隈川(画像奥が上流)    鹿島館包蔵地全景


    住所表記の確認


小原田館(福島県郡山市小原四丁目)
 13時35分から13時55分

中世城館跡としている資料に関しては、今のところ「郡山の城館」を確認したのみで、「まほろん」「文化財包蔵地マップ」の何れにも掲載はされてはいません。
小原田には前掲の速水館のほかに、西館も存在していたようなのですが、今のところ比定地を含めてその所在が分かりません。
また「郡山の城館」では、明治期の地籍図などから、小原田公民館から小原寺にかけての範囲に大小の郭の存在を想定されています。
同書によれば、舘主は小原田氏であり、天正16年(1588)の郡山合戦の際に、佐竹勢が布陣する予定であったとも考えられているようで、確かに香久山神社背後の西側に長さ50mほどの土塁状の高まりが認められますが、戦後間もない航空写真からは、すでにそれ以前から宅地化、耕地化が進行していたらしく神社の社叢以外には判別することは困難に思えました。


     西側土塁          小原田公民館


北側道路は西に向かい上り坂に     西側の小道


  銀杏紅葉が真っ盛り       香久山神社社殿


     正面から        西側土塁と欅の大木


     西側土塁        西側土塁北端角付近


 国土地理院航空写真より加工



ここまで歩いた距離自体は1日目と同じ約24kmと大したことはなかったので、今日も骨棘と足底腱膜炎対策の方は上手くいきました。
しかし車に乗らずにほぼ連続して歩き続けていたことから、予想通り内反小指の水疱はさらに悪化してしまいましたので、あと8km以上歩かねばならない荒井猫田館と篠川館方面については来年以降に順延することといたしました。
以前からの予定では、少なくとも一日は市内の図書館で資料閲覧と複写を行い過ごすつもりでしたが、肝心の中央図書館が耐震改修工事のために前月10月から1年間の休館であることを知ったのは今月に入ってからのことでした。
事前の情報からは地域館や資料館などではどうしても資料不足なので、このあとは2時間ほどをかけて車で市役所と市内の地元書店まわりに切り替えて資料集めを行いました。
いちばん新しい「2014年版 郡山の歴史」と「郡山市遺跡ガイドブックシリーズ」などは市役所にて購入し、滅多に入手できないと思われた品切れ絶版の「2004年版 郡山の歴史」と「1984年版 郡山の歴史」を市内地元書店にて入手に成功し当初の目的を達成し、それなりに充実した一日となりました。

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月日の経過は早いもので、あっという間にもう1年が過ぎてしまい、昨年10月の探訪以来となる通算4回目の郡山市です。
今年は岩手県南部や秋田県横手市方面などの遠隔地に出向いていたこともあるのか、福島県内の遠征は比較的中距離にさえ感じるようになってきました。
事実自宅の最寄りインターから目的地のインターまでの走行距離も僅かに230kmほどですので、たしかにさほどの距離感を感じないのも当然かもしれませんが。
とはいえ10月下旬からひきはじめている風邪の症状も思わしくはないことから、今回遠征の決行判断はギリギリの前々日まで保留していました。
けれども、ここでこのまま出向かないとなれば、例年の傾向に倣い今年の冬もそのまま微動だにしない可能性も濃厚になるものと考えられたことから決行に踏み切りました。
体調は元気な時の半分もないことから、途中で羽生、大谷、安積で長めの休憩をとり、高速では時速80kmで低速走行に徹することとして、普通3時間少しのところをなんと5時間以上を費やして郡山インターへと到着しました。



喜久田堀之内館(福島県郡山市喜久田町堀之内) 午前7時25分から7時35分

「室町期南奥の政治秩序と抗争」(垣内和孝氏/岩田書院)によれば、「相生集」による堀ノ内館の比定地のひとつともされていることから、大雑把に見当をつけて訪れてみましたが、たまたま周辺部ではいままさに圃場整備と思われる一大土木工事の真っ最中でした。
むろんこうした環境の変化については、時間の問題ではありましたが、幸いにして堀之内と推定されている辺りには工事の仮杭が施工されているだけで、いちおう従来からの耕地としての景観が保たれておりました。
当地は阿武隈川支流の一つである藤田川の北岸に所在しており、北側にもさらにその支流が東流し南北を河川に概ね挟まれた低台地(河岸段丘のひとつ)を形成しています。
中心部の字名は掘之目と考えられ、東側の宅地付近が秋殿前で、南部の5mほどの崖線下には欠下(がけしたの意からの転訛か)という字名も残されています。
「相生集」によれば、伊東信濃守邦信、弥左衛門邦政という安積伊東氏一族に繋がる人物の名が記されているということですが、その詳細は不明です。
朝方のやや厚めの雲から時々朝日が差し込む微妙な按配の天候でしたので、やや画像全体の色調バランスが崩れています。


画像左が欠下で、右側が堀ノ目   画像左側が秋殿前の台地


 
安子島城(福島県郡山市熱海町安子島字町、南町、桜畑) 午前8時00分から9時00分

なるべく周辺部を歩きながら、なおかつ安全な駐車スペースを確保するために磐越西線の踏切手前の通行の少ないと思われた個所に駐車して徒歩にてアプローチ。
そこから西側にあるはずの城跡を目指したつもりでしたが、少々離れすぎた場所に止めてしまい、結局のところ往復2km以上余計に歩いてしまいました。
全体として交通量もそう多くはなく、かつ耕地の間の道も狭くはないのですが、できるだけ路駐を避けるには、朝晩の通勤・通学時を除いた安子島駅前か、お参りをすることを前提として安子島集落内の大鏑神社駐車場、あるいは慈恩寺付近が相応しいようです。
安積伊東氏一族である安子島氏の居城とされ、天正17年(1589)蘆名氏に帰属していた安子島治部は会津攻略を目指した伊達政宗の軍勢を前に籠城したものの衆寡敵せず落城し会津に逃れたとされています。
翌年、豊臣秀吉奥州平定により蒲生氏郷が入封しその支城として蒲生郷成が入り、慶長3年(1598)からは上杉景勝が入封し「浅香城」とも呼称されたようです。
その後慶長5年(1600)関ヶ原合戦の際には、景勝の重臣である直江兼続が入城したともいわれているようです。
圃場整備により、往時の遺構の大半は消失していますが、それでも安子島小学校が所在する台地南部に切岸の名残を感じ、城址碑の東側には当時の堀跡の一部を確認することができます。



   磐越西線安子島駅         字舘の周辺


   空堀跡のようです         城址碑


   安子島城の説明文      城址碑が所在している畑


   空堀跡の切岸地形          空堀跡


   安子島小学校の西側         同 左


   安子島小学校南側         丘陵張出部




坤館(福島県郡山市熱海町安子島字滝ノ上、植松) 9時25分から9時50分

「まほろん」と「文化財包蔵地マップ」に掲載されているだけで歴史的経緯などの詳細は不明ですが、その所在地は清涼山慈恩寺境内と隣接している北西部低丘陵辺り(宅地、農地)を指しているようです。
安子島館と近いことから、これに関係する存在であったのかも知れませんが年代観も判然としていないようです。


   包蔵地の中心部付近         慈恩寺



横川城(福島県郡山市熱海町玉川字舘山、舘越) 10時00分から10時50分

有名な高玉城の出城ともいわれているようですが、詳しいことは不明です。
下記の画像のように横川集落の北側に構えられた山城ですが、比高差は少なく約30mほどで南側の帳附神社参道から入れます。
城跡一帯の大部分はブドウ園などの耕作地として開墾されているという事情もあることから、どうにか城跡らしさを止めているのは神社境内付近周辺だけになるようです。
神社背後をめぐる土塁が城館跡に由来するものか、神社固有のものか否かがよくは分からない規模のものなので悩みます。
また、その土塁北側の僅かな凹みについても、堀跡なのかゴミ穴なのか正直迷います。
確実なところは境内地から見下ろすと分かる腰郭状の削平地ぐらいなのかも知れません。
境内地から東方向に伸びる丘陵の削平具合も気になりましたが、耕作地との関係が濃厚であるようにも思われました。
丘陵の最高地点はブドウ園を経営されている民家の辺りなのですが、道路沿いからざっと拝見した限りでは、これといった地形上の特徴を見出すことができませんでした。
ことによると台地外縁部に何らかの形跡を見て取ることもできるのかも知れませんが、見通しが良好ではないことから断念をいたしました。



    横川館の標柱        帳附神社の境内


 右側に腰郭のような地形も    舘山の地名と城跡東側


   土塁だろうか         土塁のようにも


  堀跡ではなさそうな       削平地は続くが



片式館(福島県郡山市熱海町下伊豆島字屋敷) 11時20分から11時40分

阿武隈川支流藤田川北岸の微高地に所在し、喜久田町堀之内が東1.2kmに所在しています。
所在地について「まほろん」「文化財包蔵地マップ」などでは上伊豆島と記されていますが、実際には下伊豆島に相当します。
その辺の錯語については「日本城郭大系」での所在地が上伊豆島字屋敷と記されたことに由来しているのかも知れません。また、同書によれば天正年間伊藤但馬守の居館と記されています。
おおむね字屋敷の集落に一致するようですが、現在残されている集落内の道路形状からは推定する限りでは、その主要部分は下伊豆島集会所が所在する辺りを西端とし、消防団車庫の西までを東端とする範囲ではないかと思われました。
また北西部には字西戸城(城館関連地名か)の地名も残されています。
「福島の中世城館跡」によれば、別名を下伊豆館ともいうようです。
周囲の水田面からは1メートルほど集落全体が高くなり、堀跡の名残とも思われるような曲がりくねった細い道が集落を取り巻いていました。



    集落の西端          屈曲する道路


  集落の中心部(主郭か)      集落の北西部 



上伊豆島中館(福島県郡山市熱海町上伊豆島字町尻、上町) 11時55分から12時40分

「まほろん」「文化財包蔵地マップ」などによれば、本丸、二の丸の複数からなる郭と空堀、土塁、帯郭などが所在していることになっています。
丘陵東端部から西へと入る道が標柱により示されてはいますが、2か所目の腰郭の先辺りで城への道筋はアズマザザの藪などによりほぼ消滅しています。
時折ノイバラも混じる藪をかき分けて斜面を登ってゆくと人工的な切岸が現れ、それが土塁と堀切ないし空堀であることが分かります。
しかしそこから先がますます藪が酷くなりはじめ、郭とも思われる削平地東端部の辺りまで進んだところで、視界も遮られるようになるにいたり次第に気力が無くなりそれ以上の踏査を断念しました。
比高差も30mほどであったことから、帰路は斜面を体の赴くままに下ってみましたが、往路とは異なり少し北側にずれていたこともあり、実は2番目の腰郭と思っていた削平地が寧ろ帯郭でありそれが北側にすすむにつれて、完全な横堀に転じていることが分かりました。
「積達古館弁」などによれば安積伊東氏一族の伊藤弥平左衛門の館とも伝わりますが、その詳細は分かりませんが、南麓に中館、北麓には馬立の字名が所在しています。



   いちおう横堀です       見るからに藪です


 この東側の竹林から入れます  この辺りまでは視界良好です


 切岸、腰郭ともに良好です   反対側の腰郭(帯郭)の一部

 
  藪を登ると到達する土塁     南西からの全景



上伊豆島下館(福島県郡山市熱海町上伊豆島字馬立、堀向) 13時00分から13時10分

「積達古館弁」によると下館も中館と同様の記述となっており詳細は不明ですが、その所在地については「まほろん」や「文化財包蔵地マップ」などによれば上伊豆島の集落東側一帯の模様です。


     東側から         この辺りが中心部か


上伊豆島上館(福島県郡山市熱海町上伊豆島字西畑) 13時10分から13時40分

「積達古館弁」によれば伊藤弥平左衛門(安積伊東氏一族か)の館とも伝わりますが詳細不明で、また比高差約40mほどに過ぎないのですが、斜度40度以上はありそうな石段が160段ほど続きますので還暦過ぎには少々堪えます。
鹿島神社境内に神社造立とは明らかに異なるとみられる主郭、腰郭、土塁、堀切などの遺構一式が残存しています。
土塁上にはイノシシと思われる糞があり、経験上からいかにもクマが出そうでしたので、クマベルを携行してはいましたが、最低限の遺構確認後に即刻退去いたしました。


  中館方面からの遠望      麓の旧家(右側が館跡)


   鹿島神社参道          鹿島神社鳥居


 1カ所目の100段の石段    次に60段の石段も


   途中の腰郭地形         神社裏の堀切跡


   社殿西側奥の土塁      社殿削平地から続く地形

 

舘ノ越遺跡(福島県郡山市熱海町上伊豆島字舘ノ越) 14時10分から14時15分

待池台の工業団地内で現在の三菱樹脂郡山工場北側の遊水地付近に所在していたという館址で、複数の郭のほか土塁と空堀が存在していた模様ですが、台地そのものが削平され消失しています。
発掘調査などからは15世紀後半ごろの築城とされ築城主体は安積伊東氏一族と推定されているようです。
西側の工業団地を南北に縦断する道路から撮影すると巨大な風力発電装置(風車)が見えますので、その手前のこの遊水地辺りに画像右側から舌状台地が伸びていたようです。


 位置は概ねこの辺りかと(笑)


片平新館(福島県郡山市片平町字新館) 14時20分から14時25分

こちらも前項の工業団地造成により消滅した中世城館遺構のひとつで、所在地は福島ハイテクプラザの北側辺りの模様です。
「まほろん」「文化財包蔵地マップ」「日本城郭大系」にも掲載されてはいますが、今のところその歴史的経緯については全く分かりません。


 工場前の植込みが綺麗だった   この通路の先の方らしい



山神館(福島県郡山市片平町字北向、舘下) 14時40分から15時10分

「まほろん」「文化財包蔵地マップ」などによりますと、待池台工業団地の南部に隣接した深谷神社境内とその周辺部が包蔵地と推定されている模様ですが、「福島の中世城館跡」「日本城郭大系」にも館名と所在地のほかには詳細な記載がなく、今のところその歴史的経緯などについては委細不明です。
東側から南側の一部にかけて、別の日に訪れた片平城などと同様の土砂の採掘などによる人工的な地形変更を受けている可能性も窺われ、境内地を含め参道の一部にも切通し工事などの形跡を感じます。
境内に入る個所が小口跡のようにも見えなくもありませんが、後世の参道整備に伴うものである可能性も考えられます。
境内地そのものはそれほど広くはありませんが、その北側には磐座のようにも見える露岩が所在しています。

  
    山神館の遠景        神社参道入口付近


    たぶん切通し     小口跡のようにも見えなくもない


    深谷神社境内      境内側から見ると小口かも?


 郭のように見えなくもない     社殿背後の磐座


     磐座の上部        境内手前の参道


    悩む切通し地形


幸新館(福島県郡山市片平町字庚申作、幸新舘) 15時10分から15時40分

時刻は午後3時を過ぎて元々曇りがちであったことから日差しの陰りが早く帰途に就こうかどうか迷いつつ、通りすがりなので訪れてみた場所です。
所在地は「まほろん」「文化財包蔵地マップ」などによるもので、「城郭大系」「福島の中世城館跡」にも館名と所在地以外の情報は記載されてはいません。
周辺には所在地の字名以外にも、周辺には舘山、平、下平などの字名が残されています。このうち舘山については南側に隣接する建材会社の資材置場付近を指している模様なのですが、こちらの幸新館との関連については全く分かりません。
こちらについても、近年の土砂の採掘跡とみられる崖地地形が散見され旧来の景観は失われているような印象でした。


 包蔵地は正面の林と画像左側     小高い丘陵


  丘陵の近くから撮影



このようにして、今回もどうにか郡山の1日目が終わりました。

前日までの天気予報とは異なり、雲量が多めとなり暑くなかったことはたいへん幸いしましたが、今年の7月下旬以来あまり出歩いていなかったことが影響して、足がなまり初日から持病の内反小指が悪化して左右合わせて2か所の痛みを伴う水疱を発症。
対処グッズ(痛みどめ、テーピング、まめテープなどなど)だけは十分すぎるくらい用意しておいたものの、歩行に支障がないかといえば、初日から早々とサポートする杖の携行不可欠という状態に陥りました。
一方、足底腱膜炎と骨棘の炎症の方は事前の対策(靴下2枚重ね履き、バンドエイド、ガーゼ2枚重ね)が功を奏してほとんど痛みを感ずることはありませんでした。
また、10月下旬からひきはじめていた風邪の具合が大きく改善しないままであったこともあり、咳き込みなど風の諸症状とともに酷い息切れも併発していたことから、この時には処方薬を携行しているとはいえ果たして残り3日間を持ちこたえることができるのかどうか懸念される状態となっていました。
(追記)このブログを記述しているのは探訪から1週間後の11月22日です。この日は早朝から福島県沖の地震と津波が発生。ブログの記述そのものも躊躇しましたが、幸いにして今のところでは大きな被害には至らず胸をなでおろしております。
 思い起こせば2008年の福島遠征も宮城県内陸地震の直後で、そして今年の熊本地震の際には岩手県南部遠征というように、地震国とはいえ偶の遠征と地震とが何らかの形で重なり合うようなことも多く、複雑な心境なのであります。

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