12 | 2025/01 | 02 |
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まったく天候の先行きが不明。
最新の天気予報では風雨を伴う荒れ模様との由。
しかし宿泊しているホテルの8階から空を眺める限りでは急変の予兆は感じられず。
再び油日方面へ向かい和田をまわるのか、それとも鉄道事情を考慮し確実に15時26分発の上り新幹線に乗車すべく早めに京都へと戻るべきなのかについて逡巡。
南からの強風の場合には、草津線、東海道本線、新幹線などのダイヤに乱れがでることは必定かと予測。
最終的に甲賀山中での天候急変だけは避けるべきと判断。
朝食後に素早く荷物を整理し、資料収集により増えた中味をどうにか収納(たぶん20Kg超)。
重たいスーツケースは宿泊していた駅前のホテルに預託。
午後2時過ぎには京都駅に戻ることを前提に、土産の購入もかねた草津本陣方面散策を決行。
凸大路井城(滋賀県草津市大路1丁目)
午前9時10分から9時20分 薄曇り
小汐井神社の境内地を中心とした近辺らしい。
典拠は「草津市遺跡目録および遺跡地図」より。
すぐに雨が降り出す気配なし 今回の宿泊先
草津駅東口 観光用のモニュメント
道標 城館跡の南西部付近
小汐井神社 神社の由緒
盛土はあります 東側の路地
・草津本陣(滋賀県草津市草津1丁目)
午前9時40分から9時50分 薄曇り
旧草津川(天井川)の南、旧東海道西側。
本陣の建物以外にも、本陣北側に土塁(50mと30mのL型)とこれに伴う堀跡も残されています。
近世東海道 道標の説明
道標(明治期建立) 道標の解説
草津本陣の入口 草津本陣
北西土塁と堀 北の角付近
北東の土塁 北西土塁と堀
凸草津城(滋賀県草津市草津3丁目)
午前10時00分から10時05分 薄曇り
近世東海道の西側でJR琵琶湖線沿線の一角らしい。
街中の路地にそれらしい佇まいもあるようなないような。
典拠は「草津市遺跡目録および遺跡地図」より。
北西角付近 南西角付近
南東角付近 堂宇
凸矢倉城(やぐらじょう、滋賀県草津市矢倉2丁目)
午前10時45分から10時50分 薄曇り
このあたりから目立って雲の流れが速くなりましたが、本格的降雨の兆しはありませんでした。
現在の東海道国道1号線矢倉交差点北側の稲荷神社境内地のようです。
典拠は「草津市遺跡目録および遺跡地図」より。
矢倉橋 矢倉の道標
矢倉立場の解説 稲荷神社
神社の土塁
・旧家の土塁跡(滋賀県草津市追分4丁目)
途中みかけた旧家の土塁跡ですが、全体として規模も小さい印象があり、かつその時代背景などは不明です。
南西側の様子 南東側からの様子
凸追分城(滋賀県草津市追分5丁目)
午前11時20分から11時40分 曇り
だいぶ曇ってきましたが、それでも本格的な雨になりそうな気配はありませんでした。
追分緑地公園北側の八幡神社とその周辺の模様です。
むろん城館遺構らしい形跡は感じられません。
典拠は「草津市遺跡目録および遺跡地図」より。
八幡神社 八幡神社の参道
八幡神社境内 付近の旧家の土塁
旧草津川(天井川)
帰路、琵琶湖線で14時過ぎに京都駅に到着。
この時点でJR宝塚線は強風のため運休。
15時26分発の「のぞみ234号」に乗車
16時45分頃、新幹線車内のお知らせに赤色の文字が表示。
小田原から新横浜館での沿線火災(平塚市内の倉庫火災)により運行一時休止が示唆。
16時55分頃、「のぞみ234号」減速開始。
その後富士駅にて臨時停車、待機すること2時間近く。
このため車内販売は絶好調の由。
そのまま約2時間遅延で、19時40分頃に東京駅到着。
案の定新幹線ホームは人波で混雑し乗客の疲労感が蔓延。
このダイヤの大きな乱れは深夜まで継続との報道。
自宅への帰還も2時間遅延の午後9時過ぎに。
帰宅時間帯と重複し東武東上線はラッシュ時の混雑状態。
1日目の雨、2日目の濃霧とダイヤの遅延、3日目の沿線火災による車内缶詰。
うーむ、疲れた...
前日の予報では、この日が最も天候に恵まれるはず。
午前6時前の早朝、ホテル8階のカーテンを開けて外の様子を観察。
すると、ん、何にも見えない...
早朝で日の出前とはいえ、何か様子がおかしい。
歳のせいと眠い目のせいなのかと、目をこすりよくよく観察。
何と草津駅前では物凄い濃霧が発生中。
ためしに午前6時45分からの朝食前にホテルの玄関から外へ。
やはり50m先の駅舎が視認できない状態。
このため、急いで朝食を摂って外出したものの、午前7時24分発の柘植行の電車は乗り継調整で出発遅延。
ようやく発車の後も、単線待合わせ、徐行運転などにより、約70分遅延し油日駅到着。
しかも、IC乗車券不可の改札なので、現金払いに(帰路に草津駅で清算還付)
目的地は己の体力と足の具合を考慮し本格的な山城は皆無。
比高差は高くても40m以内に限定。
目的地間の移動距離も可能な限り短縮した訪城計画に。
凸上野城(滋賀県甲賀市甲賀町上野)
午前9時05分から10時10分 濃霧のため見通し悪し
比高差約40m
土塁、郭、小口、空堀 標柱・説明版なし、案内標識あり
推定探訪可能時期 遺構が見やすいのは11月下旬から4月上旬ころまで
油日駅の改札口から草津線の踏切を渡り南東へ約600m。
その途中油日橋を渡るところから左前方に見える丘陵が目指す上野城です。
この日は生憎の濃霧で上野城付近にいる間はほとんど見通しが効きませんでした。
時折霧が流れるかと思えば小雨がぱらついたりでしたので、また平日ということもあり訪れていたのは小生のみでした。
帰りのルートは北西側から戻りましたが、少し霧が晴れてよくよく周囲を眺めれば登ったところからは僅か100m前後しか離れていない地点でありました。
城跡周辺では最初から最後まで濃霧でしたが、このあと竜泉寺城と木内城に立ち寄った後は少しずつ霧が晴れ30分後にはようやくその遠景を眺めることができました。
視界約50m弱、正面が上野城 登り口
主郭の小口 主郭の土塁
主郭の小口 主郭の土塁
主郭の小口 東側の郭の土塁
西側の郭を南北に分かつ土塁 西側の郭
主郭西側の横堀 同 左
下山口 振り返っても霧が
忍者横断中 上の画像から30分後
凸竜泉寺城(滋賀県甲賀市甲賀町上野)
午前10時45分から10時50分 濃霧
平城
土塁 標柱などは無し
年間を通じて探訪可能
上野城から木内城へ赴くにあたり寄り道をしてみました。
竜泉寺境内の西側に長さ20mほどの土塁の一部が残存し、土塁の北端部は東へとのびていた痕跡を示しています。
こういう状態の平城ばかりが至近距離に点在していれば楽なのですが、そう贅沢もいえず。
この時点で濃霧の方は少しずつ晴れ始める気配を見せ始めてきました。
西側の土塁 竜泉寺城の全景
西側の土塁 土塁の北端部
凸木内城(滋賀県甲賀市甲賀町上野)
10時55分から11時10分 濃霧から薄曇りに
平城
土塁、堀、郭 石柱あり
探訪時期 平地なので何時でも行けそうですが、やはり見通しの良い11月下旬から4月上旬ころまでが相応しそうです
堀跡部分を含めても一辺が40mほどのごく小規模な方形館で、道路拡張により消失した南側を除き土塁と堀跡が残されています。
始めは霧にかすむ遠景から 次第に霧が薄れ
南側に回り込んだら晴れ始め 城址碑
堀跡 郭の内部
凸前山城(滋賀県甲賀市甲賀町)
午前11時20分頃
登り口などの情報不足で遠景のみで終了
下記画像の左側が前山城と岡崎城で、右側が中山城方面だと思います。
凸中山城(滋賀県甲賀市甲賀町)
午前11時20分頃
登り口などの情報不足で遠景のみで終了
凸岡崎城(滋賀県甲賀市甲賀町)
午前11時20分頃
登り口などの情報不足で遠景のみで終了
凸油日城(滋賀県甲賀市甲賀町)
午前11時40分から12時10分
比高約30m
土塁、郭、小口 標柱などは無し
探訪時期 11月下旬から4月上旬
ルートは山麓の西側からと北側からがあるようです。
主郭土塁は小口部分をのぞいてほぼ全周しており、内部での高さも南西側では最大5mを有する個所もありました。
典型的な削り残し土塁であるように見受けられました。
西方からの遠景 懐かしく心落ち着く光景
主郭の土塁 主郭の小口(たぶん)
西側山腹から見上げた主郭
・白鬚神社
歴史の古さを伝える石垣が見事な佇まいを見せておりました。
ここは油日 白髭神社参道
社殿正面の石垣 社殿左側の石垣
社殿右側の石垣 社殿背後の石垣
社殿背後の石垣 社殿内から
凸油日館(滋賀県甲賀市甲賀町)
12時30分から13時05分 晴れ
平城
堀、土塁の一部が竹林の中に残る 石碑等あり
探訪時期 竹林なのでほぼ一年中
油日神社の西側、善應寺境内西側の竹林の中に堀と土塁が残されていることは確認できたのですが、近くで見学することはできませんでした。
県道131号線から 石碑脇のプレート
石碑 たぶんこれです
・油日神社北の遺構
油日館の北、県道131号線の東側山林に県道に沿うような形で長さ約100mで東側に土塁状の盛り上がりを伴った幅3mほどの溝状の地形がありました。
古道などの可能性も含め、今のところその正体は分かりません。
延々と続いていましたが..
凸滝川城(滋賀県甲賀市甲賀町)
13時40分から14時00分 薄曇り
比高約10m
土塁、郭、水の手 現地説明版あり
探訪時期 11月下旬から4月上旬ころまで
有名な滝川一益の故地とされている滝川氏の本拠です。
思ったよりも規模は小さく、それでいて水の手の確保(削り残し土塁などからの湧水か) が明確であるという特徴が感じられます。
県道131号線からの遠景 同 左
ここは櫟野(いちの) しつこいけど遠景
登り口 現地説明版
耕作地か郭か 小口か
民間信仰の石碑 削り残しの土塁(たぶん)
土塁
水の手か 水の手と土塁
凸滝川支城(滋賀県甲賀市甲賀町)
14時15分から14時25分 薄曇り
比高差約15m
土塁、小口、郭、堀 標柱などは無し
探訪時期 11月下旬から4月上旬ころまで
滝川氏の支城と考えられているようです。
草木の繁茂のため、全体として遺構の配置がやや分かりづらい印象がありました。
南側からの遠景 城跡へのルート
同 前 土塁か(削り残し)
堀跡か 耕作地か郭跡か
凸滝川西城(滋賀県甲賀市甲賀町)
14時30分から14時45分 曇り
比高差約15m
土塁、郭、横堀、水の手、腰郭 標柱などは無し
探訪時期 11月下旬から4月上旬ころまで
12月半ば過ぎでしたが、内反小指の具合も芳しくなく、藪がひどいことなどから北側の半分くらいしか見学できませんでした。
全体の配置が掴みにくい印象があります。
この場所はどうも斜面を這い上がるしか方法が無いようですのでストックがあると便利です。
北側からの遠景 同 前
近くの神社跡の石碑 この辺りからなら入れます
たぶん小口かも 水の手
郭内から小口 北側の集落
奥の土塁の向こう側にも遺構が 北側に張り出した腰郭
小口部分の土塁 滝川城と滝川西城(右側)
と、いちおうは城館11か所(+その他2か所)を並べてみましたが、実際に行ってみましたのはこのうちの8カ所だけで、あとは登る個所が分からず、正確な位置も不明でしたので遠景を撮影しただけにとどまりました。
天候次第で南の和田方面を選択するという方法もありましたが、資料収集を兼ねていることから今回は上野城、滝川城方面が中心となりました。
しかし濃霧と電車の遅延などにより誤算が生じ櫟野方面と北野方面へは向かえず仕舞いに。
このあとは当初の予定通りに甲賀図書情報館に立寄り資料収集作業に向かいました。
ところが櫟野の集落から甲賀図書情報館までの道道程約2.5kmが予想外に長く、内反小指の痛みも強まり、さらに途中の道路が工事中のため迂回したことなどから高台にある図書情報館に到着したのは午後3時半を大きく過ぎてしまいました。
資料収集を終えて油日駅に向かうものの左折すべき個所を誤り1kmほど大きく迂回する羽目になり、この道が街路照明がほとんどなく漆黒の闇に。
どうにかして駅には到着しましたが、生憎と草津方面の電車は先ほど出発したので、次の電車の発車時刻までは約40分間の空白。
午後5時を過ぎると無人駅となるらしく、駅舎に明かりは灯れども、ひとりポツンとベンチに腰掛けていても、ホームには乗降客などの人影はなし。
発車時刻の5分ほど前になり、ようやく一人二人と乗客が参集し、自分を含めて4名の乗客に。
よく見れば行きに乗車していた客もいたりして、人そのものの少なさを痛感しました。
さて帰路も濃霧が発生して貴生川駅から草津駅へと向かう電車はまたもや約30分間遅延。
本日も3万歩近い距離を歩行し、足底腱膜炎の方は抑止でき入ましたが、内反小指の方は悪化の一途に。
こうして甲賀の2日目は霧にまかれた一日となりました。
その関係資料は8年ほど前から手元にありました。
これまでに出かけようという気になったのも幾度あったことか。
けれどもその都度体調が思わしくないなどして順延に。
遠方でもあることから、近年ではもはや諦観の域。
計画の決定は先月末のこと。
近年の体調に鑑みて、「いま行かなければ、たぶん一生行けない」などという妙な確信も。
今回の足は当初のプランでは新幹線利用+現地レンタサイクルを検討。
しかし、その後は道路の高低差や利用時間などを考慮し、現地での移動手段は徒歩へと変更。
こうすれば行動範囲の制約と疲労リスクはあっても自己責任の範囲内。
さて、目的地の天気予報はこの一週間の間に目まぐるしく変遷。
「3日間降雨なし」から「3日間雨続き」まで実にさまざま。
最新の当日の天気予報では、降水確率40%(場合により小雨覚悟)という微妙な状況となりました。
ところで今回は自家用車利用ではなく、手荷物の分量には自ずから限度があることから、甲賀市水口町と甲賀町油日および草津市草津駅前周辺にターゲットを限定。
むろん行動の制約となるであろう重たいスーツケース(その大半は約60件ほどの現地城館資料などで、総重量は約15Kg)は、連泊予定の草津の駅前ホテルに預託(甲賀地方には新幹線とセットになった適当な宿泊先が見当たらず)
当日分の資料と県別マップルなどはザックに収納済みで、これにデジカメ、飲み物、雨具、折りたたみ傘など加えると軽く5Kg超えにとなり、これを携行しての電車の乗り換えがきついことこの上なし(笑)
凸北虫生野城(きたむしょうのじょう、滋賀県甲賀市水口町虫生野字加久戸)
午前10時20分から10時55分 厚曇り
比高約30m
堀切、郭など、標柱・説明版なし
推定探訪可能時期 11月下旬から4月上旬ころまで
堀切見学のためトレッキングシューズとストックがあればなお便利
滋賀県の最初がこの無名に近い城跡です。
その理由は簡単で貴生川の駅から徒歩で廻れる範囲内で、そこそこ有名な水口城と水口岡山城をまわる途中に所在しているというだけのことでした。
しかも下調べ段階で分かっているのは、30年ほど前の中世城館調査報告書の一部情報だけというありさまです。
つまりは所在地も不確かで、果たしてあるかないかもよく分からないという、きわめて曖昧な探訪なのであります。
そのような次第なので、空振り覚悟での数稼ぎなのかともいえます。
この城跡へはJR草津線貴生川駅にて下車し、浄福寺東側の丘陵へと向かいます。
と、いくらも進まぬうちに前方に丁字路が...しかも目の前には川が...??
ここで、「はて」と首をかしげて、ここで地図読みを。
すると、なんと北口に降りるべきところを、南口に降りるという失態。
太陽が出ていればまず間違えるはずもないことなのですが、この日は生憎の曇天で太陽の姿は拝めず方角を取り違えたのでありました。
これも歳のせいかもしれずと自らを納得させて再び跨線橋わたり北口へと向かいました ^_^;
浄福寺までは北東に約300mなので、今度は間違いなく正面に丘陵も見えてまもなく到着。
城跡がありそうに見えるのは、まずは浄福寺境内東側の丘陵とこれに続く南側の小ピークであろうと推定。
浄福寺境内から南にある小さな付属墓地に向かう小道を挟んだ南北両側丘陵が、いかにもそれらしい地形をしていることが窺えます。
とりあえずは、東へと向かう小道から分かれてその墓地へと入り、そのまま草むらの中を南へと進みんでいきます。
そうすると稜線には明らかに人工的な削平地が3か所ほどの段に分かれて南側へと続いていることが分かります。
また、その東西方向にも帯郭ないし腰郭のような細長い中腹の削平地も散見されます。
稜線の先端部には堀切(北側約5m、南側約7m、幅約8m)が確認できます。
その先の地形を確認しようとは思ったのですが、ストックもなく掴まるような枝もなく登攀を断念しました。
なお、城館遺構は東へと向かう小道の北側(浄福寺境内東側)にも残されていることを後から知りましたが、この時期にもかかわらず藪が酷くこのあとの予定を勘案し断念しました。
元々は一体の尾根続きであったものが小道の築造などによる地形改変により、南北に分かれてしまったものなのかも知れません。
遺構が確認できれば勿怪の幸いと考えていたところで、みごとな堀切遺構を目の当たりにして小さくガッツポーズを。
城跡としての規模は小さいのですけれども、コンパクトに纏っているという印象があります。
付属墓地(この道から入る) 南西からの遠景
稜線に3か所ほどの郭が続く 浄福寺
堀切の手前から 堀切(西側から)
郭間の段差 南側遺構の北端部付近
凸内貴殿屋敷(滋賀県甲賀市北内貴字東村)
午前11時00分から11時10分 小雨
比高なし(平地)
堀、土塁、標柱・説明版なし
推定探訪可能時期 年中
北虫生野城からは北西に徒歩3分ほどの福照寺西麓に展開する集落の一角に所在しています。
旧家の北側に土塁(高さ約3m、長さ約25m)とこれに伴う堀跡状の地形が部分的に残されています。
「城郭大系」には「内貴城」という城館が一覧表に掲載されていますが、相互の関係はよく分かりません。
南側から 東側から
東側からの遠景 東側の堀跡状の地形
凸内貴川田山城(ないきかわだやまじょう、滋賀県甲賀市北内貴字川田山)
午前11時20分から11時45分
比高15mから25m
郭、土塁、堀跡、標柱・説明版なし
内貴殿屋敷から北へ約300mの丘陵先端付近で北麓には川田神社が所在しています。
丘陵南側の細道を東へと入り、畳工場の前あたりから見当をつけて藪をかき分け北側の丘陵に入りました。
比較的見通しの良い尾根筋には人工的な削平地のようなものが散見されるものの、城館との関係を想起させるような印象がありませんでした。
寧ろ北西の稲荷神社の小祠とその背後の削平地の方が、それらしい印象があります。
なお遅きに失した感もありますが、この尾根筋へは下記の川田神社参道脇から南へ分かれる稲荷神社参道を利用すると藪漕ぎをせずに済むことが分かりました。
南西からの遠景 稲荷神社南東の地形
前の画像から見下ろした地形 稲荷神社境内
稲荷神社への参道
・近江鉄道の車両(貴生川~水口城南間で撮影)
運行本数が少ないので、結局乗車する機会のなかった近江鉄道本線でした。
凸水口城(みなくちじょう、滋賀県甲賀市水口町本丸)
12時20分から13時30分 小雨
近世平城(御茶屋御殿)
水濠、石垣、土塁、復興櫓など
櫓を模した水口資料館の休館日は毎週の木曜日、金曜日と年末年始
外部から水濠や石垣などを眺める分には何時でも探訪可能
寛永10年(1633、築城時期については諸説あり)将軍家御茶屋として築城された際に、関ヶ原合戦後に廃城となった水口岡山城(水口古城とも)から石垣が移設転用されたと伝わります。
出丸(枡形)の2層櫓風の資料館は平成3年(1991)に隅櫓を模して建築されたそうです。
小雨なので少し寂しげ 碧水城ともいうようです
番所の辺りにある資料館 パンフレットのような構図
水口資料館と復元御成橋 薬医門形式
西側水濠 北側水濠と乾櫓台、岡山城遠望
南東水濠 南東水濠と資料館
凸柏木神社遺跡(かしわぎじんじゃいせき、滋賀県甲賀市水口町北脇字藤木)
14時00分から14時20分 時々小雨
土塁、堀
夏季、神社繁忙期を除く日中
日没までの残り時間を推定して、水口城のあと岡山城へ向かうか、こちらに寄るか迷いましたが、そうそう来訪できるということもないことから立ち寄りました。
神社境内北東側の鬱蒼とした林の中に堀と土塁が残されているようなのですが、日没までの残り時間がなくなり始め結局確認できませんでした。
柏木神社参道 柏木神社南側
柏木神社北側 国道1号線側からの社叢
凸里脇北遺跡(さとわききたいせき、滋賀県甲賀市水口町北脇字藤木)
14時15分から14時25分 時々小雨
民家の北側に土塁と堀跡が残る。
通年探訪可能だが、民家脇の屋敷林なのでマナーに留意する。
北脇交差点から国道1号線(現在の東海道)側の農道を南へと目をやれば、こんもりとした屋敷林が目に入ります。
この時には未舗装の農道を北側からアプローチしました。
南の姥塚の方からも入れますが、いずれにしても農道なので作業のお邪魔にならないよう注意が必要です。
土塁、堀とも長さは約25mほどで、屋敷林を兼ねた役割を担っているような印象がありました。
北側からの遠景 同 左
堀跡 平行する土塁
凸水口岡山城(みなくちおかやまじょう、滋賀県甲賀市水口町水口)
15時05分から16時10分 曇りのち晴れ
郭、堀切、土塁、石垣、小口など、説明版・標柱・縄張図あり
公園化されていることから概ね通年の探訪が可能ですが、麓からの比高差は約100mあるので登るのには徒歩で正味20分はかかります。
中村一氏が築城し関ヶ原合戦時には長束正家が城主でしたが、大阪方の敗北により落城し、そののち廃城になったようです。
日没時刻も迫り、この後の予定もあることから、三の丸方面などへは行けず、当時の城下町の痕跡を訪ねるという時間も無くなり、慌ただしい駆け足の見学となりましたが、足元の痛みは増すばかりで言葉の表現とは裏腹に足を引きずりながらの彷徨となりました ^_^;
公園整備などにともなう地形の改変などが感じられますが、本丸北側の石垣も見学しやすく整備されており、晴れた日には眺望も優れていることもあり、水口を訪れた際には立ち寄っておきたい城跡です。
また城山から下山する最終段階でようやく日没前の西日が差してきましたが、以上の画像からも分かるように全体として発色が薄暗い感じのものになりました。
西ノ丸と本丸の間の堀切 本丸北側の石垣
同 前 同 前
同 前 同 前
同 前 崩落した石垣の一部
本丸西側 解説版
竪堀 現地の縄張図
本丸 本丸東側
本丸北側の小口跡 同 前
上記小口跡から西側の石垣 二の丸
推定大手道
こののち予定が少し遅れましたが水口図書館と資料館に立寄り資料収集。
資料館の方は既に閉館時刻を過ぎてしまいましたが、職員さんのご厚意により市史を購入できました。
お陰様でともに閉館時刻を過ぎるなかでも、ご親切に対応いただき目的を果たせました。
心より感謝を申し上げます。
こうして1日目の歩行距離は約26kmと概ね当初の予想通りでしたが持病の内反小指が悪化し翌日以降の行動に支障が出てまいりました。
滋賀県の初日は夕刻を除いて余り天候には恵まれない一日でしたが、この時には2日以降に別の事情も発生するなどとは思いもよりませんでした。
なお、このブログは12月24日に記述しています。