今回は飯田橋を起点に新宿牛込界隈を時計の針と反対方向に回る計画を立案。
本来は13日(火)を予定していましたが、雨模様の予報に変わったことから急遽2日ほど予定を繰り上げました。
むろん都内23区内ですので、中世城館跡はほぼ遺構には恵まれず、きわめて伝承性が濃いものが多いことも承知のうえです。
地下鉄有楽町線の飯田橋駅で下車して本日の探訪開始となりましたが、飲み物を求めたコンビニのトイレが故障中でした。
今にして思えばこの時点で何某かの先行きの不安を感じるべきであったのかも知れません。
凸筑土城(東京都新宿区筑土八幡町)
午前9時40分から9時55分
舌状台地先端に所在する筑土神社の境内が城跡と考えられているようですが、無論のこと残存遺構はありません。
周辺との比高差は約10mほどになりますが、近代以降に大幅に区画形質が加えられていると考えられるとともに、その規模はどれほど広くてもせいぜい50m×70mほどの楕円形をした地形であったことが窺えました。
大久保通方面からの景観
表参道
神社の縁起
裏参道付近の地形改変跡
御殿坂とその標柱
凸御殿山城(東京都新宿区筑土八幡町、白銀町)
午前10時05分から10時20分
おなじく遺構はありませんが、筑土城との間には南北方向に「御殿坂」が台地を横断しその標柱も所在しています。
所在地についてもあまり明確ではなく、筑土八幡町とする説(「城郭大系」)と西側の白銀町にまたがる(「東京都の中世城館」)という説もあるようです。
御殿山西側の段差
◎常陸松岡藩邸(東京都新宿区白銀町)
午前10時25分から10時35分
御殿山城と一部重なっているようにも思われます。
現在ではその一角が新宿区立白銀公園となっていて、この日が日曜日ということもあり大勢の家族連れで賑わっておりました。
北側での比高差は約5mほどを確認できますが、南側の神楽坂方面へは緩斜面となります。
また、幕末の切絵図などから推定されている屋敷の規模はほぼ一町四方(約100m四方)であり、上級の旗本屋敷の規模に近くその敷地についてはけっして広大ではありません。
むろん大名屋敷の遺構に関連するようなものは殆ど感じられませんでした。
なお松岡藩は水戸家家老である中山氏が幕末になり漸く立藩したものであり、その先祖は後北条氏の家臣として山中城の戦いで名を挙げたとされる山中勘解由家範とされています。
屋敷の南東部にあたる白銀公園
北側の相生坂
◎赤城神社(東京都新宿区赤城元町)
午前10時40分から10時50分
常陸松岡藩邸跡の丘陵につづく高所に所在し最大比高差は約15mを測り、現在でも特に北側の眺望が優れていることが判明しました。
今回訪れた場所では、最も比高差を有していることから、むしろこの地点の方が中世城館跡に相応しいという印象がありました。
赤城神社へと向かう細道
比高差は15m以上か
◎越後黒川藩邸(東京都新宿区矢来町)
午前11時00分から11時15分
出版物としては「古地図で歩く江戸城・大名屋敷」(2011/平凡社)が、手元にある唯一の手がかりです (笑)
資料によっては若狭小浜藩邸と重なるようなところもあります。
自分自身の問題として、未だに「江戸切絵図」などの基礎的な関係資料の読込作業が不十分であることもあり、この場所が実際に越後黒川藩の大名屋敷であったのかどうかいまひとつ確信が持てませんでした。
現在は住宅地です
◎若狭小浜藩邸(東京都新宿区矢来町)
午前11時20分から11時40分
屋敷の一部であったとされる矢来公園、秋葉神社を訪れた後、東側の牛込中央通沿いに所在する石碑をフェンス越しに拝見(矢来町ハイツ内は関係者以外立ち入り不可)しましたが、漢文表記でしかも一部碑面が剥落しているため、「天保年間に3人の人物により建立された?」ということくらいしか読み取りませんでした。
碑文の画像がしっかりと撮影できていれば、もう少し読み取れるとは思うのですけれども。
なお、屋敷跡南側の石垣の石垣の一部には少し古そうな印象もあり、もしかすると大名屋敷に関連するものである可能性も感じられました。
矢来公園の石柱
同石碑
若狭藩邸内社の秋葉神社
古そうに見えなくもない石垣
◎曹洞宗宗参寺(東京都新宿区喜久井町)
12時15分から12時35分
先ほどの「矢来公園」からは、北へ坂を下り、早稲田通を西に向かい、弁天町の交差点を渡り、早稲田通から逸れてコンビニの脇の参道からアプローチします。
徒歩にして約800mほどで所要時間は10分前後のはずなのですが、歳のせいか次第に足が疲れてまいりました。
牛込氏の菩提寺とされています。墓石はいちおう供養塔の形態をとってはいますが、あくまでも1979年に再建されたコンクリート製でした。
また、これとは別にその一角には、後世の牛込家の墓石も所在していました。
探すのに5分ほどを要しましたが、そのお蔭で旗本と思われる墓所もいくつか見かけました。
牛込氏の墓所
このほかに有名な山鹿素行の墓所もあります。
山鹿素行の墓石
なお、本来の墓所の位置がすぐには分からないことから、「あまり事情をご存じないような場合には、ひょつとすると境内入口脇の石柱そのものを当該墓石であると誤認する方がおいでになるかも知れない」などとついつい余計な心配をしてしまいました。
境内入口脇の石柱
◎天台宗大聖院(東京都新宿区新宿6-21-11)
13時25分から13時35分
この辺りまで歩きましたのでもののついでに、太田道灌の有名な故事に登場する有名な?少女「紅皿」の墓所と伝わる墓石を見学してきました(笑)
むろん、江戸時代になって伝承がデフォルメされていったもののようです。
ところがここでの後半5分ほどの間に、大型のハシブトガラスが何度も頭上に飛来。
合計にして5度も背後から頭上への波状攻撃の実力行使をしてきたのには閉口しました。
かなり執拗な攻撃でしたので、滅多に感じることのない危険を感じ即刻撤退を決意しました。
おそらくカラスとしても、子育ての時期でもあり、たぶん同じような恰好をした人間に虐められた等よっぽど深い事情があったのかも知れないと思うことにしました。
山吹坂の標柱
「紅皿」の墓所
こうした予期せぬカラスからの攻撃に遭い、元々低いモチベーションはどん底に。
往路は何とか徒歩で向かったものの、この後の牛込方面への復路は都営地下鉄大江戸線を利用して移動することになりました。
というよりも、むしろカラスの6度目の攻撃を回避するという方が正しい表現なのかも知れません。
事実そのカラスは境内から直線にして400m以上も離れた抜弁天通沿いまでずっと追尾してきました。
追記
この翌日新宿区役所の担当課に確認したところでは、昨年も同じ場所で被害があったことが分かりましたので、お年寄りや、小さなお子さん、女性などが被害に遭わないとも限らないことから、少なくとも現地を確認し必要な安全対策などについて検討、考慮を行う様に要請をいたしました。
カラスは毎年5月から6月にかけて営巣期を迎えることから子育ての時期にはある程度の注意が必要なようです。
凸牛込城(東京都新宿区袋町15)
14時05分から14時30分
北西の大久保通、北東の神楽坂との比高差は10mほどに過ぎません。
以前は日本出版クラブ入口脇に所在していたという説明版は現在では見当たりませんでした。
実はこのクラブには20年以上前に仕事で来訪しており、以前には見当たらなかったレストランが併設されていましたが、昨今の出版業界不況の影響なのか、この4月にはランチタイムがなくなり事実上の閉店になっている模様でした。
一方、道路の反対側に所在する光照寺境内の説明版の方は境内入口近くの場所から、本堂に向かって左手前の位置に移設されていました。
光照寺本堂と説明版
移設された城址説明版
無論、城館遺構は確認できませんが、墓苑を拝見させていただくと大名である酒井氏の墓所もありました。
出羽酒井氏の墓所
20年以上前に比べ神楽坂の通の様子も日曜日ということもあったのか、人出も多く随分と観光地化がすすんだようで大きく変貌したように感じました。
神楽坂界隈
このあと幾分時間に余裕があったので、じっくりと飯田橋から市ヶ谷にかけての外堀を見学しようとも考えたのですけれど、飯田橋周辺の人出も少なくはなく、そろそろ足に限界を感じ始め、また確実に小雨が降りそうな天候に変わり始めていた事情もあり、そのまま素直に地下鉄有楽町線で帰宅の途につきました。
本日も前回とほぼ同じで2万2千700歩でした。
おおむねこの程度までですと足踵へのダメージも少なく、だいたい2日くらいで回復できそうです。
昨年6月以来の一年ぶりとなる電車、地下鉄利用による城館探訪です。
当所は川崎方面から始める予定が、どうしても「自然教育園」が気になり都内港区へ。
平日なので通勤ラッシュを避けるべく、あるいは最近話題の痴漢事件に巻き込まれることを避けるべく、かつ現地では移動時間も含め5時間前後を確保するなどとの目安を勘案し、自宅を出たのは午前8時20分頃。
曇りがちで予報でも気温は25度以下とこの時期にしては願ってもない天候。
凸白金長者屋敷(港区白金台5丁目)
午前10時15分から11時50分
JR山手線中野駅到着は午前10時。
東口から目的の「国立科学博物館付属自然教育園」までは徒歩で450mほど。
訪問の目的は城館探訪というよりは、どちらかといえば「植物観察」にちかいものがありました。
たしかに園内各所には土塁状の人工的な造成工事が散見されます。
しかし、この「自然教育園」が辿ってきたとされる高松藩松平家下屋敷、陸海軍弾薬庫、皇室御料地などの経緯に照らすと、果たしてそれらのものが何時ごろのものであるのかどうかについてはよく分かりません。まして、これらに先立つ中世の「白金長者」の伝承ということになると、さらに雲をつかむような按配となります。
「館跡」とも伝わる土塁地形
園内の植物観察については梅雨入り前の時期ということなので開花している植物の数は限られていたので、結果的に撮影/観察できたものはムラサキシキブ、ホタルブクロ、ノハナショウブ、アサザ、クガイソウ、エゾアジサイ、トラノオ類など10種前後にとどまりました。
クガイソウ
散策路脇に設置されている説明プレートの密度にもバラつきもあり、少なくとも一度の見学では、全体の特徴を把握するには至りませんでした。
また水草園での透明度を含めた水質なども気にかかります。
凸太田道灌塁(港区虎ノ門5丁目付近)
12時30分から12時50分
番神山城、太田道灌城ともいわれるようで、かつては土塁が現存していたようですが、これは城館に伴うものではないことが判明したそうです。
仙石山町会の名を刻んだ石碑
近世には仙石氏の藩邸が置かれていたようですが、その後は地形改変がすすみ現在では高層ビル群や大使館などが所在し、森ビルのひとつに仙石タワーと命名された高層ビルがあります。
森ビル仙石タワー
凸西久保城山(港区虎ノ門5丁目付近)
12時50分から13時10分
推定地の周辺には「城山」の地名を冠した「城山トラストタワー」など複数のビル群が所在していますが、こちらも地形の改変が著しいものがあり、往時を偲ぶものがあるとすれば、スウェーデン大使館東側の台地に所在する銀杏の大木と外堀通りに向かう比高差20mほどの急坂(江戸見坂)あたりでしょうか。
大イチョウ
その正確な所在地については分かりかねますが、災害用井戸のあるあたりが気になります。またホテルオークラ東京の東側に所在する菊池寛実記念智美術館(土岐氏大名屋敷跡)付近からの急坂と眺望の良さは格別です。
「城山」の名称を伝えるビル名
巷説には熊谷直実の名も登場しますがその本領からも遠く、麻布殿の出丸とも、江戸氏庶流説などもあるようですが、その詳細は不明のようです。
凸今井城(港区赤坂5丁目、6丁目付近)
13時50分から14時30分
西久保城山方面からTBS放送センター方面は、そのまま目の前の江戸見坂を下り虎ノ門病院の角を曲がり外堀通から溜池交差点へ移動して日枝神社近くの山王下まで移動する予定でした。しかしここで、歩道上のあまりの通行人の多さにうんざりし始めたので、六本木通を南に曲がり手前の氷川神社経由で訪れることにしました。
「城郭大系」によれば、南側の台地に所在する氷川神社境内付近(赤坂6丁目)という説もあれば、「東京都の中世城館」では北側の台地であるTBS放送センターと一ツ木公園付近をがこれにあたるという説もあるようです。両者ともに台地状の地形で、現在の地下鉄千代田線に沿って谷津地形により概ね南北に分かれていますが、おそらくは西側の方で一つの丘陵に繋がっていたものと考えられます。
氷川神社が所在する丘陵は六本木通の北西側で南東側にはサントリーホールなどが所在する一角が目に入りかけますが、その手前のNTT赤坂の先の路地から登っていしました。このあたりは松平美濃守(柳沢吉保を藩祖とする家系)の大名屋敷跡で、その真ん中を横断して道なりに進み進行方向左の南部坂を見据えつつ進んだ丘陵頂上部あたりが真田信濃守(真田信幸を藩祖とする家系)の屋敷跡ですが、現在はアメリカ大使館官舎(それ以前は三井一族系の屋敷か)が所在しているためなのでしようか厳重な警備が行われていました。
大使館官舎は真田家大名屋敷の南西に隣接している相馬氏の大名屋敷跡にもかかっているように思われます。これに対し氷川神社境内はほぼ丘陵中腹に所在していることから、今井城の推定地としてはやや違和感があります。
なお、氷川神社の北麓には幕末の著名人でもある勝海舟の屋敷跡も所在し、そこで執筆されたともいわれる有名な「氷川清話」はこの地名に由来するもののようです。
氷川神社東参道
またともに江戸時代には浅野家分家の中屋敷が置かれたとされ、明治以降には近衛第三連隊の駐屯地に含まれていたようです。
なお、赤坂通の北側に所在するTBS放送センターのあたりは松平安芸守の大名屋敷です。
TBS放送センターと公園
帰路はそのまま徒歩にて日枝神社の麓を経由して有楽町線の永田町駅へ。この近辺は2013年頃から道路の警備が厳しくなり、国会方面を避けて議員会館と都立日比谷高校(岡部氏大名屋敷跡)の間の路地を北上。なお、現在の首相官邸付近は内藤氏、京極氏、丹羽氏などの大名屋敷跡のようです。
その後は川越市までの直通で自宅には午後4時半に帰宅しました。
この日は自宅から最寄り駅までの徒歩を含めて2万2千歩あまり。
帰りのラッシュ時を避けて早めの撤退を行ったことにより、両足の踵への多少の負荷はあったものの、昨年のような歩行困難となるような痛みは発生せず。
しかし、昨年にも増して息が上がりやすくなってきたことは最早否定できなくなっていました。
追記
帰りの有楽町線飯田橋での出来事。
2歳くらいの女児を乗せたベビーカーを押して下車しようとした親子づれ。
後のバーを抑え前輪を上げ下車するはずが、その前輪がたぶん横向きに。
着地した前輪がブレーキとなり、そのまま重心をかけて押そうとしためベービーカーは女児ごと前転。
その結果、女児は顔面からホームへとダイビングしてしまった模様。
母親の方も、重心を前に移動していたため2秒差くらいでホームにダイビング。
慌ただしい乗降の際の出来事とはいえ、流石に見かねたホームにいた複数の乗客が手を差し伸べていました。
さらにそのなかで、1名の親切そうな女性がしっかりと付き添って親子の面倒を見ている様子が乗客越しに窺えました。
転倒した母子は無傷という訳にはいきそうもなく、ある程度の打撲を負っていることが想定されました。
おそらくは飯田橋の駅で多少の応急手当をしたか、あるいは救急車を呼んだかどうかについては不明。
電車などの乗降の際には、ベビーカーや車いすについては押す(介助する)人間が先に乗降車して、要介助者を背後に引くのが安全とされているのですが。