本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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微かな記憶によれば、乗車したのは約60年前。
父親に連れられて荒川遊園地に何度かは行っている。
その当時住んでいた西ヶ原からは都電を乗り継いで出かけていたはず。
そうだとすればこの荒川線以外には考えられず。
当時の車両は「飛鳥山公園」に展示されているようなタイプ。

 飛鳥山公園の懐かしい都電

飛鳥山までは1km足らずと、子どもの足でも僅かな道程なので余り都電を利用することはなかった。
一方荒川遊園地までは西ヶ原2丁目から都電19番系統で王子へ向かい三ノ輪車庫行の荒川線に乗り継ぐルート。
大人の足ならば徒歩でも40分足らずとはいえ、その当時はいかにも遠方までお出かけするような期待感で幸せいっぱいであったような気がする。

埼玉へ転居後には19番系統には通学時に2年ほどお世話になったが、もう荒川線に乗るような機会はなくなった。
その後コンサートや父親の相続手続き、母親の遺品寄贈などで王子駅の近くは何度か訪れているが、荒川線に乗車するような用向きには恵まれなかった。
昔とは異なり 随分とファッショナブルな車両に変貌していたが、都電独特のカーブの多い軌道に懐かしさを感じた。

     早稲田行


    三ノ輪車庫行

拍手[2回]

昨夜から明らかに風邪気味となり就寝したものの咳が止まらず。
このため翌日の探訪実施確率は五分五分とみて眠りについた。

そろそろ蒸し暑さが堪える季節。
従来の方針を変更し目覚ましは午前4時にセット。
身支度を整え午前5時前の始発に乗車すべく最寄駅へ。
本日の行動は熱中症へのリスクを考慮し午前中重視の方針。

 
 
 
滝野川城(東京都北区)
午前6時40分から7時25分

豊島氏一族滝野川氏の城跡とも、あるいは頼朝の布陣跡ともされているが詳細不明。
城跡とされている金剛寺境内の東西に石神井川の旧流路が現存しており、その流れが大きく変化していないとすれば城跡の東西の領域を推定する目安は存在していることになる。
むろん城館遺構は確認できない。

     西側流路跡

「城郭大系」が指摘している「境内西側の堀跡」の存在はこの旧流路を指すのか、あるいは別途現在の公園との間に「空堀」のような窪みが存在していたのかについては不明。


飛鳥山城(東京都北区)
午前7時50分から8時40分

こちらは更によく分からない城跡のひとつ。
自分の生まれ育った場所から近く、断片的ながら60年以上前の様子が記憶に残っている。
地形的には南東の「平塚城」から続く台地の北西端所在しているが、当時は現在のような公園整備はされておらず、昭和30年頃には平塚神社の裏側から台地辺縁部に沿って延々と歩いてゆくことができたという微かな記憶がある。

     台地北西端

台地の北西端部には石神井川が東流し比高15mの舌状台地は、たしかに城跡に相応しい地形を呈してはいるが、近世以降の形質変更が激しく城跡の名残を追い求めることの難しさを痛感する。


梶原堀之内(東京都北区)
午前9時25分から10時00分

梶原景時とは直接の関係はなさそうで、太田資正(三楽斎)の子である梶原政景が継いだ梶原氏に関わる城館跡と考えられているらしい。
むろん城館遺構は確認できず、また「梶原塚」の存在も不明。
城跡と推定されている福性寺には近世の堀江氏一族に関わる墓所が目立つ。

かじわら商店街の都電のアーチ

都電荒川線梶原駅前にて「都電最中」等を購入。


〇山吹の塚(東京都荒川区)
午前10時45分から10時50分

「山吹の里伝説に関わる塚」が所在しているが、現地での「具体的な説明」を表記したようなものは見当たらず。

   「山吹の里」塚


〇平河源内墓(東京都台東区)
午前11時40分から11時45分

荒川区との境界近くに所在している有名人の墓所。

    平河源内墓所

以前には事前に断りを入れるなどして入口の開閉が行われていたらしいが、現在では自分で門扉を開けて参詣ができるように変わっていた。


石浜城(東京都荒川区)
午前11時50分から12時05分

従来から伝承に近い城跡で詳細な所在地は不明だが、石浜神社を含む範囲が城跡と見做されているらしい。
周辺の市街地化の時期は早く、明治期末から大正期にかけて進行しており、現在周辺には「東京ガス」や「リサイクルセンター」の大型建造物が並び立ちっていることから、もはや周囲の地形などにそうした面影を見出すことは難しい。
なお2017年4月より神社南側の一角に石浜城址公園が供用開始されたようで、公園の名称に「石浜城」の文字が見えるが当該解説版は未設置であったが、「渡船場」に関する説明版は所在していた。

    石浜城址公園

この石浜城探訪を終了後、この日7番目となる目的地への移動を始めた時点で懸念された俄雨に遭遇。
むろん本格的な降雨ではなく、「天気雨」「狐の嫁入り」ともいうような局所的で短時間の降雨。
早朝からの行動により次第に既に集中力、モチベーションともに限界まで低下。
「都電荒川線」と「都バス」による移動を多用するも、足回りを軸とした体力もそろそろ限界。
元々この日は城館跡は4か所止まりと考えていたことから、良い口実ができたと迷うことなく即座に撤収開始。
荒川区に所在する「道灌山」関連については、下調べを含めてある程度時間を要することとなりそうなので後日再挑戦予定(あくまでも希望)



本日の歩行数は2万4800歩。
今回の内反小指対策(テープ4重巻)については概ね成功。
しかし左足に外反母趾状の痛みが発症。
「痛み」は最も痛い部位で感ずるようで、あちらが無事ならこちらが痛いとなり、こうなると「もぐら叩き」の様相に酷似。
今回は「トラムセット」+「ロキソニン」で対処。
「足底腱膜炎」(そくていけんまくえん、あるいは足底筋膜炎)ないし「踵骨棘」(しょうこっきょく、しょうこつきょく、手術困難)の方はガーゼ4枚重ねと中敷き使用で対処成功・・・・
と、メモしておかないと同じ誤りをしでかす昨今である。

なおこの足回りの整備に要する時間はこのところ拡大の一途。
少なくとも30分近くを要していることに気づき茫然。

拍手[3回]

気が付いてみれば、すでに健康寿命といわれている年代まで残り5年を切ってしまっている。
城館探訪について、1日当たり4か所を目途として、夏季も含めて1か月に平均で4日間稼働と仮定。
すると「4か所×4日×12か月×5年=960か所ということに。

昨年は比較的よく出かけた方だが、合計にすると25日程度で120か所ほどに過ぎない。
しかも暑さが苦手であることからして、現実には7月から8月の夏季の探訪はなかなか難しい。
しかも年々体力、気力は確実に減衰の一途。
すなわち今後どう足掻いても1000か所には遠く及ばず。

さて今年も早7月に突入。
暑さが堪える時期になってきたが、とりあえず今年の夏は概ね都内23区を中心にコツコツと廻って体力の低下速度を弱めておこう。
ところで越中、能登、若狭、播磨方面はそれなりの資料はあるがどうしたものか。

拍手[4回]

先月は6度出かけたこともあり合計歩数が20万歩を超えていた。
外出の少ない月の約4倍で、記録が残されているここ4年間では最も多い数値。
今までは昨年4月の岩手遠征が19万7千歩で、痛みに耐えつつそれなりに随分と歩いたような記憶がある。
地方の城跡は車を利用するので案外歩行距離は短い。
特に山城などの場合にはその疲労の割には距離そのものは少ないことが多い。
足回りの衰えが目立ってきた昨今、今後は年齢的な要素を考慮すれば、おそらく月間ではこの数値を超えることは無いものと思う。

拍手[4回]

朝から既に駅に着く前から汗がにじみ出るような蒸し暑さのなか、午前9時3分発の上り電車で出発。
途中武蔵野線に乗換え、武蔵浦和からは埼京線に乗車。
乗降客の少ない北赤羽で下車。
比較的新しい駅でもあり、たぶん記憶ではこの駅での乗降は初めてのはず。

本日は5か所を予定しているものの、その行先は相変わらず「伝承地」が多い。
これは都内23区の宿命のようなものと理解。

天候(気温、降雨、湿度)と足の具合次第で3か所くらいで切り上げる心積もり。
むろん途中での電車、バスを利用しての移動は織り込み済み。
この辺りも昨年までの状況とは明らかな変化を感じている。
途中でのわずか3kmほどの徒歩移動さえも敬遠するようになってきてしまった。




袋の殿山(東京都北区)
午前10時40分から10時35分

初めて下車した駅でもあることから、方角を定め進むべき道を把握するまで数分を要した。
先ずは道順に諏訪神社境内へ北側住宅地に設置されている石段からアプローチ。
境内北側の比高差は約10mの急崖を形成するも台地続きの西側には目立った地形上の特徴は確認できず。
境内南側の道は「鎌倉街道」とも伝わる。

      諏訪神社

ちなみに「袋」は往時の「袋村」(近世の村名)からきているらしい。
次に東側の赤羽台団地とその東隣の病院へ歩を進めようと思ったが、なぜか南側の桐ヶ丘団地の方角に足が向きそこからの遠景観察で代用することとなってしまった。

    医療センター

この日は曇りの予報が外れ次第に薄日が差し始め、湿度は高く汗はかけども全く乾かないという事態に次第に心身が疲弊していった。



稲付城(東京都北区)
午前11時15分から12時頃まで

この日に限っては最初で最後となる最もそれらしい中世城館跡。
23区内ということもあり、太田道灌との関わりがあるとも伝わる。
とはいえ明確な地表の遺構に対面できるという訳ではなく、あくまでも崖線や急坂などから当時の面影を辿るという按配。
途中で幾度か既視感のある風景に遭遇。
元北区民なので当たり前かもしれないが、何と言っても半世紀以上前のこと。
いまだ高度成長による宅地開発の波が押し寄せる以前。
既成市街地を除き周辺には未だに耕作地が広がるという田園風景も点在していた時代。

   稲付城西側の台地

まずは手始めに同城の堀跡ともいわれる東西の台地に挟まれ、かつての低湿地に所在している「亀ヶ池」の弁天社の参詣から。

  堀跡とも伝わる弁天社

その名に違わず十数匹の亀が甲羅干しの真っ最中。

   親ガメと子ガメ


つぎにそのまま東の清勝寺へと向かい帯郭状の台地中腹の路地を散策し、同寺東側参道から境内へ。

   台地西側麓付近

 
帯郭状の地形を呈する周回路地

境内と麓との最大比高差は約15mほど。

      城址碑

因みに説明版は城址碑が所在する東側山門の内側と南側山門の外側にもあります。


     南側の山門

現在でも台地を東西に横断する公道により南北に分断された地形を確認できるが、発掘調査により戦国期のものと思われる堀切跡などもこの道路の北側付近で確認されている。
 
南側台地との間の切通(画像左側)

このあと徒歩約1.2km先の地下鉄南北線赤羽岩淵駅へと向かい王子神谷駅へ。
途中価格の安い恰好の昼食場所が目に入るものの時間がないのでパス。
思えば今回を含めて都内では一度も昼食していないことにはなる。
「時間の節約か体力の温存か」の二者択一には何時も悩まされる。



豊島清光館(東京都北区)
13時00分から13時20分

王子神谷駅からは徒歩僅か約800m足らず。
この時点で「蒸し暑さ」と「足の痛み」を現況を勘案し、既に脳裏にはジワジワと「撤退」の2文字が浮び始めた。
それでもどうにか未だ気力だけは残存。
豊島氏を開基とする寺院で豊島氏発祥の地とも。
現状の地形からその特徴を捉えることは困難。
ここでも東屋の日陰をお借りして休憩と水分補給を行いホッと一息。


このあと、「続行」と「撤退」の2文字を反芻しつつ最寄りのバス停まで約900mほど徒歩移動。
これは途中隅田川を渡り眺望は良好だが、かなり辛い行程のひとつだった。
「庚申通商店街」の現況を目にしたあとの「新田橋」の様子は、まさに「都市インフラの劣化」という現実を目の当たりにするものであった。


  隅田川に架かる新田橋

どうにかバス停を視認できるあたりまで近づき、梅雨明け以降の酷暑に慣れるべく「修行」のつもりで「続行」を決断した。

この間も意識的にこまめに休憩と水分補給を繰り返す。
環七新田(かんななしんでん)の都バス停留所でも束の間の休憩。
環七新田ではなく、寧ろ「艱難辛苦」の様相に。
ここでデクレッシェンドで満たされて萎む一方の気力と体力の回復に精励。
ここから先のバス停3か所分となるバス移動(約1.5km)は実に有難く身に染みた。
バスの待ち時間も都内ということもあり10分足らず ^^



宮城堀の内(東京都足立区)
14時00分から14時20分

その経緯はおろか、当該所在地自体も明確とはいえない城館跡。
隅田川の改修、荒川放水路(現荒川)の開削などにより周辺の地形は大きく変貌。
探訪に際して丸1日ほどを要して、戦後間もない米軍撮影の航空写真(東西約250m×南北約100mほどの屋敷林に囲まれた区画が気になる)と迅速図などの情報からあくまでも素人なりに所在地を推定。
 
※かつては屋敷林に囲まれた一角で、現在堀之内2丁目交差点付近にはコンビニが所在しているが、現在のような道路整備が行われたのは1970年代前半のこと。

河川の氾濫などを除き、この辺りの隅田川流路等に変化の生じたのは江戸時代初期の川越藩主松平信綱による当時の荒川からの導水工事による水量増加。
これに明治末期から大正期にかけての荒川放水路工事がある。

狙いを定めていた「堀之内2丁目交差点」付近は完璧に市街地ががすすみ、戦後間もない時期に撮影された航空写真から推定されるような田園地帯の面影は皆無。
辛うじて周辺の堀之内北公園、堀之内公園などに地名が継承されているのみ。

    堀之内北公園

このあとの徒歩移動では、いよいよ明瞭に「熱中症」の一歩手前の容態を自覚し始め、さらに意識的にこまめに休憩と水分補給を繰り返す。
途中から荒川沿いに高速川口線の高架下を南に下るのだが、何故か日陰である東側を通らずにわざわざ日差しのある西側を通ってしまった。
さらにこの途中から久しぶりに「内反小指」に伴う痛みが発症。
港北橋を渡る際に目に入った可愛らしい4両編成の「舎人ライナー」がトコトコと荒川に架かる扇大橋わたっている様子を眺めた際には半分意識が朦朧としていたのかも知れず。

 


伝・宮城氏館(東京都足立区)
15時00分から15時10分
 
伝承では都市公園と隣接した氷川神社境内付近が同館跡ともいわれている。
境内拝殿脇に設置された石碑に刻まれた文言をあらためて拝読。

     館跡の碑


その歴史的な真偽は別として、疲労の極致に達した心身にとっては正に一服の清涼剤。
この場所も荒川放水路築造と隅田川河川改修の影響を受けており、約450年前の旧情を想像することの困難性を痛感。
この日は最寄駅となる2km足らずの道程となる王子駅へのルートも予定通り都バス利用。
この選択からも昨年の同時期に比して気力と体力の低下は否めず (^^ゞ


 
という次第で、本日は5か所分の探訪を「無事?」に終えることができた。
もっとも冒頭からの「過剰発汗」と途中での「右足小指の内反小指の叛乱」は全くの予想外。
これに両膝サポーター装着失念が加わり、最寄駅からの帰途では幼児連れの母子に追い越されるような足取りになるような始末。
梅雨時から秋口までは外出を避けるのが例年妥当な判断といえよう。
しかし、ここ数年は確実に体力の減衰を感じている。
いわゆる「健康寿命」も長くともあと数年前後となってきたことを痛感している。
「今年動かねば、もう来年はない」との決意で、とりあえずは行けるところまで来月も歩いてみよう。
 

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