本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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港区、新宿区、中野区に続く都内23区シリーズ。
今回は渋谷区編。
23区内でも態々遺構に恵まれない場所ばかり訪れているような気も。

通勤ラッシュを避け午前9時17分発の副都心線直通元町行に乗車。
昨年の今頃は暑さとラッシュを避け主に始発を利用。
今年は遅く出かけて現地を午後3時前には撤収するスタイルに変更を。
つまり現地に滞在する時間は5時間足らずに。
こうでもしないとモチベーションの維持が困難。

上りの副都心線車内で目に入った首都圏各線の列車運行情報。
西武池袋線が乗客トラブル、西武拝島線は人身事故、京王井の頭線も人身事故、乗車している副都心線は車両点検といずれもダイヤが乱れているか、あるいは運転休止という按配に。
前回の帰宅時の人身事故による約2時間の運転休止が脳裏を過る。
その後乗車した副都心線通勤急行に関しては概ね定刻にて渋谷駅に無事到着。


 
◎道玄坂
午前10時20分から10時40分

渋谷駅西口の有名な道玄坂。
渋谷駅2番出口そのままから道玄坂を上り約250mほど先。
道玄坂交番前の交差点手前の少し手前、歩の道左側に設置されている道玄坂の由来碑などを見学。

   道玄坂の由来碑など

史跡めぐりをされている複数名の年配者に遭遇。
そのまま渋谷駅方向に戻り、宮益坂方面へと移動。
たぶん渋谷での下車は4年ぶりくらい。

  渋谷駅西口スクランブル

この近辺はいつ来ても人が多いので、人酔い状態となる。
 
 
 
伝河崎氏館
午前10時55分から11時05分

第一生命ビル、渋谷警察署の辺りが推定地とされている。
台地先端部というよりも寧ろ台地下に近い印象。

    渋谷警察署付近

源義家郎党河崎庄司郎の館とも。(「東京都の中世城館」より)
 元々伝承地としての色合いが強くその信憑性も不明。
第一生命ビルの脇から坂を上り渋谷八幡方面へ移動。
この坂自体の比高差は約8mほど。

    現在の渋谷川


渋谷城
午前 11時10分から11時25分

渋谷八幡宮境内。
麓を走る明治通からの比高差は境内地自体もそれなりに高いことから10mを超えている。
ただし六本木通の方がやや高いので北側かにのびた台地先端という地形。
渋谷氏一族の城館跡ともいわれ、金王丸の伝承も遺されているが、あくまでもその詳細は不明。

    渋谷八幡宮社殿

神社境内北側には天台宗東福寺が所在。 
16世紀の初めに後北条氏により攻略されたとも。
展示されている「城跡の石垣」はあくまでも近世以降のものであるように思われる。

     「石垣」

 
 
◎豊栄稲荷神社
午前11時30分から11時40分

境内に庚申塔群が所在し、建立者名に渋谷伝左衛門という名が刻まれていたという。
現在は碑文剥落により判読不可。
ほかに道標の役割を兼ねていたものもあり、こちらは今でも「めぐろ こんわう(金王)
道」の文字が判読。

   「こんわう」の文字


◎東福寺
午前12時00分から12時10分

宝永元年(1704)銘の梵鐘に渋谷を「谷盛庄」と称されていた旨の記述が刻印されている。
 
    天台宗東福寺


 「谷盛庄」の文字がある梵鐘

なお境内の庭園に土塁と石垣が所在するが、その様子から考えるにおそらく造園工事によるものであろう。
このあとは国学院大学方向へと向かう学生に混じり氷川神社へ移動。



◎渋谷氷川神社
12時20分から12時35分

この社殿も台地辺縁部に所在している。
渋谷区最古の神社で江戸時代には下渋谷村、下豊沢村の総鎮守。

    氷川神社社殿

国学院大学寄りの東側参道脇にL字型をした土塁状地形が認められる。
表参道沿いの地形同様、むろん神社造立に付随する可能性大。
些か規模が大きいように思われるがその経緯は不明。

  土塁といえば土塁の様な



◎常盤の松
12時50分から13時00分

常盤松と呼ばれた常盤御前などとの伝承を記した幕末期嘉永年間に刻まれた石碑が所在。
当時の薩摩藩により設置され、天璋院(篤姫、13代将軍徳川家定正室)が一時滞在したという薩摩藩下屋敷との関連があるとの事らしい。
この辺の事情は「江戸切絵図」からは判然としない。

   「常盤の松」石碑



なお、周囲には常盤松小学校など関連する建物名には事欠かない。
このあとは休憩を兼ねて渋谷区郷土館に立寄り資料収集。



◎黒田藩下屋敷
14時00分から14時20分

現在の渋谷図書館付近が下屋敷跡と推定されている模様。

    渋谷図書館

 

「江戸切絵図」には松平美濃守の下屋敷として記載されている。
福岡黒田藩は2代目以降は松平姓が下賜され、第11代当主は美濃守名を拝領している。
終わりに渋谷図書館(地域館)にて「渋谷金王丸」関係の資料閲覧、収集。
このあとは撤退予定の午後2時半を回ったことから、残る「北青山遺跡」方面を先送りして帰路に就く。



本日の歩行歩数は1万7800歩ほど。
毎回懸案の足回りには所要の痛み対策に加えて今回はテーピングを追加。
ところが、すでに往路最寄駅階段から左膝に違和感発生。
先行きの懸念はあったが、痛みの増幅はなくどうにか持ち堪えられた。

拍手[3回]

今月に入り4日、3日と割合短い間隔で出かけている。
この年代になってくると、確実に去年よりは今年、今年よりは来年というように急速な体力の衰え(余りいいたくはないが老化)を感じている。
従って出かけようという意欲のあるうちに行動に移さないと、兵庫県方面などのように十中八九の確率でそれきりになってしまう恐れが濃厚なのである。
さて、いまのところ今月の4回目は20日か22日を予定しているが、気温を含めて全く天候が読めないでいる。

拍手[1回]

今回も都内へですが、前回と同様に遺構には余り縁のなさそうな中野区です。
都内の移動手段の常道として、当然地下鉄と徒歩での移動。
今回は乗り入れしている副都心線で新宿3丁目駅で乗り換え、地下鉄丸の内で中野坂上駅を目指しました。
当所は有楽町線から大江戸線に乗り換えるか、JR経由で大江戸線に乗り換えるか思案していましたが、むしろこのルートの方が移動時間も乗車から1時間足らずでしかも電車賃も格安であることが分かりました。
有楽町線、副都心線、丸の内線あたりは普段でもよく利用しますが、先月は三田線、今月は南北線に初めて乗車し、大分前にも大江戸線にも乗車したことから、満66歳にしてたぶん都内地下鉄13路線制覇(但し一区間乗車を含む)なのかも知れません。
 

 
 
中野長者屋敷(東京都中野区)
午前10時20分から午前10時45分

中野長者とも呼ばれたともいう鈴木九郎を開基とする成願寺境内付近がその屋敷跡と伝わります。
神田川北側の緩斜面に所在していますが、地表上からは城館遺構に繋がるような地形的特徴を確認することはできませんが、開基である中野長者に関する石柱、墓石などが所在しています。
 
      成願寺

南麓の神田川に架かる橋の名称は「長者橋」とされ、中野長者の言い伝えが継承されています。
 

また、付属墓地には蓮池藩鍋家(鍋島藩の分家、禄高5万石)の墓所もありました。
 

 
◎象小屋跡
「朝日が丘公園」の辺りが、江戸時代に輸入献上された「アジア象」(たぶん)の飼育場が所在していたとされている場所です。
たまたま案内板が設置されている場所に、公園管理の作業車が駐車していたため案内板の撮影はできませんでした。
 
   「朝日が丘公園」

このあとは、少なくとも明治初期頃までには遡及できると考えられる「下町」沿いの旧道に沿って宝仙寺方面まで移動。


◎中野町役場跡
真言宗豊山派明王山宝仙寺の境内にかつて中野町の役場が置かれていたようです。
通りがかりにたまたま立ち寄ってみました。

    旧中野町役場跡


◎たぶん宅地造成にともなう「築山」
「中野住宅」という集合住宅の敷地内です。
今回もまた目ぼしい遺構が見当たらないことから、このように人工的な地面の盛り上がりが目に入るとついつい条件反射のように撮影する習性が出てしまいます。



◎ヤマサ醤油倉庫跡
宝仙寺近くの沿道に古い煉瓦製の外壁が一部残されておりました。
これもたまたまです。



◎堀越高校
かの有名な「堀越高校」です。
これもたまたまです。
かつては河岸段丘であったと思われる地形の一部に小さな都市公園があったので地形確認のため立ち寄りました。

     河岸段丘

するとその帰りがけに学校の校庭があったので、何気なく俯瞰した画像を撮影しておりました。

    堀越学園方面


◎桃園川跡
次項の「城山」の南麓を東流しこの一帯を潤していた神田川支流である小河川跡(桃園川緑道)です。
 
     桃園川緑道


城山(東京都中野区)
午前11時40分から12時10分

象小屋からあちこち道草をしながら約1.2kmほどの道のりを約1時間ほど費やして「谷戸運動公園」に到着しました。

    城山の案内板

明治期に作成された迅速図などを参照しますと、戦後間もないころまではこの場所の南側を中心として土塁跡が確認できた模様です。
むろん、現在ではそうした痕跡は殆ど見出すことはできませんでした。
戦国時代末期に後北条氏の小代官を務めたとされる堀江氏一族の城館であったと考えられているようです。

  付近の城山通り標識など


◎城山公園(旧農事試験場跡)
12時15分から12時20分
現在の「もみじ山文化センター」(なかのZERO、中央図書館)が所在する丘陵麓に所在し、南側の「城山」からは直線距離で約100m前後という至近距離になります。

 もみじ山公園へ向かう坂道

旧農事試験場跡にもなります。



◎なかのZERO(中野区立中央図書館)
12時30分から13時30分

城山公園との比高差は数メートルを測る高台に所在しています。

 展示されているC11型SL


宅地開発が進む以前の戦後間もない時期までは現在の中野駅方面から東側に伸びた丘陵の先端部分に相当する見晴らしの良い地形であったことが偲ばれます。
現在でも南側に隣接した「もみじ山公園」付近に、公園化によるある程度の地形改変などは想定されるものの往時の様子を偲ぶ景観が残されているように感じられます。

    もみじ山公園

複合施設でもある中央図書館に立寄り関連資料の閲覧/複写をしつつ休憩を摂りましたが、このことが後に明暗を分けたことになります。

城山方面から徒歩にてそのまま東へ移動し大江戸線東中野駅を目指しました。
この道は「城山本通り」と名付けられた東中野駅までの最短ルートなのですが、その割には住宅内の路地に近く一方通行の個所もあり道路幅員も狭隘でした。
徒歩の場合には車での移動と異なり、たしかに移動の所要時間や足の疲労などに対する考慮から赴くことのできる件数は減少しますが、その一方では地表の凹凸や坂の有無などの微妙な地形の変化が肌で感じられることから市街地での城館跡探訪には相応しい移動手段です。
この時も城山の東約150m付近には元々は南側から北側にかけて谷津が入り込んでいた地形が存在していたことが理解できました。
現在の大久保通に沿った丘陵緩斜面の麓に所在している「城山」という存在も、西側の「もみじ山公園」付近に残されている崖線地形とあわせて、自然の湧水を占有できるという有利な立地条件であったことなどが少しだけですが分かったような気がします。



和田山(東京都中野区)
14時30分から15時05分

和田義盛の館跡とも伝わりますがあまりあてにはならないようです。
一般には「哲学堂公園」としての名称が有名です。

   哲学堂公園の石碑

井上円了氏は母校の創始者ですが、この地を訪れたのは今回が初めてでした。
南麓を流れる神田川支流の妙正寺川北側の丘陵で麓との比高差は約10mほどを測ります。

    南側崖線地形

むろん哲学堂の設置にともなう地形改変も加わっていることが予想され、南側の崖線地形以外にはこれといったものは見当たりません。

     南麓の公園




今回訪れた中野区はほぼ新宿区に近い東部であり、いつの間にか知らないうちに新宿区内に入っていたことを後から気が付いたような有様でした。
帰路は再び落合南長崎駅に戻り、元々は地下鉄大江戸線で練馬春日町まで行き、そこから環八通りをあるいて有楽町線平和台へと向かうというような予定でした。

しかし、大江戸線の車内で路線図をしげしげと眺めていたところ、「練馬駅」から乗換で「小竹向原」経由で有楽町線に接続していることに気が付きました。
元をただせばいちおうは都民でしたが、何分にもそれは半世紀以上前のことなので、都電には大層お世話になっていたものの、当時は地下鉄といえば「丸の内線」ぐらいしか知らないという埼玉県民の悲しさでもあります。
こうすれば、約2kmの道を歩かずに済むので、右手の拳をそっと握り軽くガッツボースを。

記憶ではたぶん初めての練馬駅のでの慣れない乗換えに、案内表示を確認しつつキョロキョロしながら先を急いでいると、やにわに目に飛び込んできた「電光案内板」(今でもこう云うのだろうか?)の「東上線人身事故発生による地下鉄有楽町線直通運転中止のお知らせ」の文字。

この時点では、事故と東上線運転状況や運転回復見込みなどの詳細は全く不明。
したがって代替案としては、とりあえず「池袋へ戻り本川越駅あるいは所沢駅まで行く」、「武蔵野線に乗れれば川越駅まで行く」ことがなど考えられました。
しかし、いずれにしても事故と運転状況の詳細が分からないことには致し方がないことから、小竹向原から和光市止まりの有楽町線に乗車し和光市駅へ移動し、ようやく事故の詳細と運転状況が判明(あ、年寄なのでスマホ無いです)

今回は、たぶん今月3度目くらいの人身事故により、結果的に東上線が2時間以上運行停止。
志木駅で満員の乗客を乗せたまま運転待機していた下り線の運行が再開されたのは、再開予定時刻を40分ほど経過した午後5時10分過ぎでした。
この間、地下鉄有楽町線と接続している和光市駅やその先の折返し運転をしている志木駅では午後3時から4時という時刻であるにも拘らず、ホームには乗客が溢れかえるという混雑ぶりで皆さん先行きの見えないことからくる焦りと疲労が蔓延していました。
なお、事故の発生した踏切は昔からよく知っている踏切で、「魔の踏切」ともいうべき人身事故の多発地点なのでありました。
なお、この日歩いた歩数は約2万1600歩ほどに過ぎませんでしたが、疲労感は確実に倍加されておりました。

拍手[4回]

この日もまた、前回に引き続き都内23区の城館めぐりとなりました
今回は飯田橋を起点に新宿牛込界隈を時計の針と反対方向に回る計画を立案。
本来は13日(火)を予定していましたが、雨模様の予報に変わったことから急遽2日ほど予定を繰り上げました。
むろん都内23区内ですので、中世城館跡はほぼ遺構には恵まれず、きわめて伝承性が濃いものが多いことも承知のうえです。
地下鉄有楽町線の飯田橋駅で下車して本日の探訪開始となりましたが、飲み物を求めたコンビニのトイレが故障中でした。
今にして思えばこの時点で何某かの先行きの不安を感じるべきであったのかも知れません。




筑土城(東京都新宿区筑土八幡町)
午前9時40分から9時55分

舌状台地先端に所在する筑土神社の境内が城跡と考えられているようですが、無論のこと残存遺構はありません。
周辺との比高差は約10mほどになりますが、近代以降に大幅に区画形質が加えられていると考えられるとともに、その規模はどれほど広くてもせいぜい50m×70mほどの楕円形をした地形であったことが窺えました。
 
 大久保通方面からの景観


     表参道


     神社の縁起


  裏参道付近の地形改変跡


   御殿坂とその標柱



御殿山城(東京都新宿区筑土八幡町、白銀町)
午前10時05分から10時20分

おなじく遺構はありませんが、筑土城との間には南北方向に「御殿坂」が台地を横断しその標柱も所在しています。
所在地についてもあまり明確ではなく、筑土八幡町とする説(「城郭大系」)と西側の白銀町にまたがる(「東京都の中世城館」)という説もあるようです。

   御殿山西側の段差



◎常陸松岡藩邸(東京都新宿区白銀町)
午前10時25分から10時35分

御殿山城と一部重なっているようにも思われます。
現在ではその一角が新宿区立白銀公園となっていて、この日が日曜日ということもあり大勢の家族連れで賑わっておりました。
北側での比高差は約5mほどを確認できますが、南側の神楽坂方面へは緩斜面となります。
また、幕末の切絵図などから推定されている屋敷の規模はほぼ一町四方(約100m四方)であり、上級の旗本屋敷の規模に近くその敷地についてはけっして広大ではありません。
むろん大名屋敷の遺構に関連するようなものは殆ど感じられませんでした。
なお松岡藩は水戸家家老である中山氏が幕末になり漸く立藩したものであり、その先祖は後北条氏の家臣として山中城の戦いで名を挙げたとされる山中勘解由家範とされています。

屋敷の南東部にあたる白銀公園


    北側の相生坂



◎赤城神社(東京都新宿区赤城元町)
午前10時40分から10時50分

常陸松岡藩邸跡の丘陵につづく高所に所在し最大比高差は約15mを測り、現在でも特に北側の眺望が優れていることが判明しました。
今回訪れた場所では、最も比高差を有していることから、むしろこの地点の方が中世城館跡に相応しいという印象がありました。

  赤城神社へと向かう細道


  比高差は15m以上か



◎越後黒川藩邸(東京都新宿区矢来町)
午前11時00分から11時15分

出版物としては「古地図で歩く江戸城・大名屋敷」(2011/平凡社)が、手元にある唯一の手がかりです (笑)
資料によっては若狭小浜藩邸と重なるようなところもあります。
自分自身の問題として、未だに「江戸切絵図」などの基礎的な関係資料の読込作業が不十分であることもあり、この場所が実際に越後黒川藩の大名屋敷であったのかどうかいまひとつ確信が持てませんでした。

   現在は住宅地です



◎若狭小浜藩邸(東京都新宿区矢来町)
午前11時20分から11時40分

屋敷の一部であったとされる矢来公園、秋葉神社を訪れた後、東側の牛込中央通沿いに所在する石碑をフェンス越しに拝見(矢来町ハイツ内は関係者以外立ち入り不可)しましたが、漢文表記でしかも一部碑面が剥落しているため、「天保年間に3人の人物により建立された?」ということくらいしか読み取りませんでした。
碑文の画像がしっかりと撮影できていれば、もう少し読み取れるとは思うのですけれども。
なお、屋敷跡南側の石垣の石垣の一部には少し古そうな印象もあり、もしかすると大名屋敷に関連するものである可能性も感じられました。
 
   矢来公園の石柱


      同石碑


  若狭藩邸内社の秋葉神社


 古そうに見えなくもない石垣



 
◎曹洞宗宗参寺(東京都新宿区喜久井町)
12時15分から12時35分

先ほどの「矢来公園」からは、北へ坂を下り、早稲田通を西に向かい、弁天町の交差点を渡り、早稲田通から逸れてコンビニの脇の参道からアプローチします。
徒歩にして約800mほどで所要時間は10分前後のはずなのですが、歳のせいか次第に足が疲れてまいりました。

牛込氏の菩提寺とされています。墓石はいちおう供養塔の形態をとってはいますが、あくまでも1979年に再建されたコンクリート製でした。
また、これとは別にその一角には、後世の牛込家の墓石も所在していました。
探すのに5分ほどを要しましたが、そのお蔭で旗本と思われる墓所もいくつか見かけました。

    牛込氏の墓所

このほかに有名な山鹿素行の墓所もあります。

    山鹿素行の墓石

なお、本来の墓所の位置がすぐには分からないことから、「あまり事情をご存じないような場合には、ひょつとすると境内入口脇の石柱そのものを当該墓石であると誤認する方がおいでになるかも知れない」などとついつい余計な心配をしてしまいました。

   境内入口脇の石柱




◎天台宗大聖院(東京都新宿区新宿6-21-11)
13時25分から13時35分

この辺りまで歩きましたのでもののついでに、太田道灌の有名な故事に登場する有名な?少女「紅皿」の墓所と伝わる墓石を見学してきました(笑)
むろん、江戸時代になって伝承がデフォルメされていったもののようです。

ところがここでの後半5分ほどの間に、大型のハシブトガラスが何度も頭上に飛来。
合計にして5度も背後から頭上への波状攻撃の実力行使をしてきたのには閉口しました。
かなり執拗な攻撃でしたので、滅多に感じることのない危険を感じ即刻撤退を決意しました。
おそらくカラスとしても、子育ての時期でもあり、たぶん同じような恰好をした人間に虐められた等よっぽど深い事情があったのかも知れないと思うことにしました。

    山吹坂の標柱


    「紅皿」の墓所

こうした予期せぬカラスからの攻撃に遭い、元々低いモチベーションはどん底に。
往路は何とか徒歩で向かったものの、この後の牛込方面への復路は都営地下鉄大江戸線を利用して移動することになりました。
というよりも、むしろカラスの6度目の攻撃を回避するという方が正しい表現なのかも知れません。
事実そのカラスは境内から直線にして400m以上も離れた抜弁天通沿いまでずっと追尾してきました。

追記
この翌日新宿区役所の担当課に確認したところでは、昨年も同じ場所で被害があったことが分かりましたので、お年寄りや、小さなお子さん、女性などが被害に遭わないとも限らないことから、少なくとも現地を確認し必要な安全対策などについて検討、考慮を行う様に要請をいたしました。
カラスは毎年5月から6月にかけて営巣期を迎えることから子育ての時期にはある程度の注意が必要なようです。





牛込城(東京都新宿区袋町15)
14時05分から14時30分

北西の大久保通、北東の神楽坂との比高差は10mほどに過ぎません。
以前は日本出版クラブ入口脇に所在していたという説明版は現在では見当たりませんでした。
実はこのクラブには20年以上前に仕事で来訪しており、以前には見当たらなかったレストランが併設されていましたが、昨今の出版業界不況の影響なのか、この4月にはランチタイムがなくなり事実上の閉店になっている模様でした。
一方、道路の反対側に所在する光照寺境内の説明版の方は境内入口近くの場所から、本堂に向かって左手前の位置に移設されていました。

   光照寺本堂と説明版



  移設された城址説明版


無論、城館遺構は確認できませんが、墓苑を拝見させていただくと大名である酒井氏の墓所もありました。

   出羽酒井氏の墓所

20年以上前に比べ神楽坂の通の様子も日曜日ということもあったのか、人出も多く随分と観光地化がすすんだようで大きく変貌したように感じました。

     神楽坂界隈



このあと幾分時間に余裕があったので、じっくりと飯田橋から市ヶ谷にかけての外堀を見学しようとも考えたのですけれど、飯田橋周辺の人出も少なくはなく、そろそろ足に限界を感じ始め、また確実に小雨が降りそうな天候に変わり始めていた事情もあり、そのまま素直に地下鉄有楽町線で帰宅の途につきました。
本日も前回とほぼ同じで2万2千700歩でした。
おおむねこの程度までですと足踵へのダメージも少なく、だいたい2日くらいで回復できそうです。

拍手[3回]

昨年6月以来の一年ぶりとなる電車、地下鉄利用による城館探訪です。
当所は川崎方面から始める予定が、どうしても「自然教育園」が気になり都内港区へ。
平日なので通勤ラッシュを避けるべく、あるいは最近話題の痴漢事件に巻き込まれることを避けるべく、かつ現地では移動時間も含め5時間前後を確保するなどとの目安を勘案し、自宅を出たのは午前8時20分頃。
曇りがちで予報でも気温は25度以下とこの時期にしては願ってもない天候。



白金長者屋敷(港区白金台5丁目)
午前10時15分から11時50分

JR山手線中野駅到着は午前10時。
東口から目的の「国立科学博物館付属自然教育園」までは徒歩で450mほど。
訪問の目的は城館探訪というよりは、どちらかといえば「植物観察」にちかいものがありました。
たしかに園内各所には土塁状の人工的な造成工事が散見されます。
しかし、この「自然教育園」が辿ってきたとされる高松藩松平家下屋敷、陸海軍弾薬庫、皇室御料地などの経緯に照らすと、果たしてそれらのものが何時ごろのものであるのかどうかについてはよく分かりません。まして、これらに先立つ中世の「白金長者」の伝承ということになると、さらに雲をつかむような按配となります。

「館跡」とも伝わる土塁地形

園内の植物観察については梅雨入り前の時期ということなので開花している植物の数は限られていたので、結果的に撮影/観察できたものはムラサキシキブ、ホタルブクロ、ノハナショウブ、アサザ、クガイソウ、エゾアジサイ、トラノオ類など10種前後にとどまりました。

     クガイソウ

散策路脇に設置されている説明プレートの密度にもバラつきもあり、少なくとも一度の見学では、全体の特徴を把握するには至りませんでした。
また水草園での透明度を含めた水質なども気にかかります。


太田道灌塁(港区虎ノ門5丁目付近)
12時30分から12時50分

番神山城、太田道灌城ともいわれるようで、かつては土塁が現存していたようですが、これは城館に伴うものではないことが判明したそうです。

 仙石山町会の名を刻んだ石碑


近世には仙石氏の藩邸が置かれていたようですが、その後は地形改変がすすみ現在では高層ビル群や大使館などが所在し、森ビルのひとつに仙石タワーと命名された高層ビルがあります。

   森ビル仙石タワー


西久保城山(港区虎ノ門5丁目付近)
12時50分から13時10分

推定地の周辺には「城山」の地名を冠した「城山トラストタワー」など複数のビル群が所在していますが、こちらも地形の改変が著しいものがあり、往時を偲ぶものがあるとすれば、スウェーデン大使館東側の台地に所在する銀杏の大木と外堀通りに向かう比高差20mほどの急坂(江戸見坂)あたりでしょうか。

    大イチョウ


その正確な所在地については分かりかねますが、災害用井戸のあるあたりが気になります。またホテルオークラ東京の東側に所在する菊池寛実記念智美術館(土岐氏大名屋敷跡)付近からの急坂と眺望の良さは格別です。

「城山」の名称を伝えるビル名

巷説には熊谷直実の名も登場しますがその本領からも遠く、麻布殿の出丸とも、江戸氏庶流説などもあるようですが、その詳細は不明のようです。



今井城(港区赤坂5丁目、6丁目付近)
13時50分から14時30分

西久保城山方面からTBS放送センター方面は、そのまま目の前の江戸見坂を下り虎ノ門病院の角を曲がり外堀通から溜池交差点へ移動して日枝神社近くの山王下まで移動する予定でした。しかしここで、歩道上のあまりの通行人の多さにうんざりし始めたので、六本木通を南に曲がり手前の氷川神社経由で訪れることにしました。
「城郭大系」によれば、南側の台地に所在する氷川神社境内付近(赤坂6丁目)という説もあれば、「東京都の中世城館」では北側の台地であるTBS放送センターと一ツ木公園付近をがこれにあたるという説もあるようです。両者ともに台地状の地形で、現在の地下鉄千代田線に沿って谷津地形により概ね南北に分かれていますが、おそらくは西側の方で一つの丘陵に繋がっていたものと考えられます。
氷川神社が所在する丘陵は六本木通の北西側で南東側にはサントリーホールなどが所在する一角が目に入りかけますが、その手前のNTT赤坂の先の路地から登っていしました。このあたりは松平美濃守(柳沢吉保を藩祖とする家系)の大名屋敷跡で、その真ん中を横断して道なりに進み進行方向左の南部坂を見据えつつ進んだ丘陵頂上部あたりが真田信濃守(真田信幸を藩祖とする家系)の屋敷跡ですが、現在はアメリカ大使館官舎(それ以前は三井一族系の屋敷か)が所在しているためなのでしようか厳重な警備が行われていました。
大使館官舎は真田家大名屋敷の南西に隣接している相馬氏の大名屋敷跡にもかかっているように思われます。これに対し氷川神社境内はほぼ丘陵中腹に所在していることから、今井城の推定地としてはやや違和感があります。
なお、氷川神社の北麓には幕末の著名人でもある勝海舟の屋敷跡も所在し、そこで執筆されたともいわれる有名な「氷川清話」はこの地名に由来するもののようです。


    氷川神社東参道


またともに江戸時代には浅野家分家の中屋敷が置かれたとされ、明治以降には近衛第三連隊の駐屯地に含まれていたようです。
なお、赤坂通の北側に所在するTBS放送センターのあたりは松平安芸守の大名屋敷です。

 TBS放送センターと公園



帰路はそのまま徒歩にて日枝神社の麓を経由して有楽町線の永田町駅へ。この近辺は2013年頃から道路の警備が厳しくなり、国会方面を避けて議員会館と都立日比谷高校(岡部氏大名屋敷跡)の間の路地を北上。なお、現在の首相官邸付近は内藤氏、京極氏、丹羽氏などの大名屋敷跡のようです。
その後は川越市までの直通で自宅には午後4時半に帰宅しました。
この日は自宅から最寄り駅までの徒歩を含めて2万2千歩あまり。
帰りのラッシュ時を避けて早めの撤退を行ったことにより、両足の踵への多少の負荷はあったものの、昨年のような歩行困難となるような痛みは発生せず。
しかし、昨年にも増して息が上がりやすくなってきたことは最早否定できなくなっていました。


追記 
帰りの有楽町線飯田橋での出来事。

2歳くらいの女児を乗せたベビーカーを押して下車しようとした親子づれ。
後のバーを抑え前輪を上げ下車するはずが、その前輪がたぶん横向きに。
着地した前輪がブレーキとなり、そのまま重心をかけて押そうとしためベービーカーは女児ごと前転。
その結果、女児は顔面からホームへとダイビングしてしまった模様。
母親の方も、重心を前に移動していたため2秒差くらいでホームにダイビング。
慌ただしい乗降の際の出来事とはいえ、流石に見かねたホームにいた複数の乗客が手を差し伸べていました。
さらにそのなかで、1名の親切そうな女性がしっかりと付き添って親子の面倒を見ている様子が乗客越しに窺えました。
転倒した母子は無傷という訳にはいきそうもなく、ある程度の打撲を負っていることが想定されました。
おそらくは飯田橋の駅で多少の応急手当をしたか、あるいは救急車を呼んだかどうかについては不明。
電車などの乗降の際には、ベビーカーや車いすについては押す(介助する)人間が先に乗降車して、要介助者を背後に引くのが安全とされているのですが。       

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