本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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気が付いてみれば、すでに健康寿命といわれている年代まで残り5年を切ってしまっている。
城館探訪について、1日当たり4か所を目途として、夏季も含めて1か月に平均で4日間稼働と仮定。
すると「4か所×4日×12か月×5年=960か所ということに。

昨年は比較的よく出かけた方だが、合計にすると25日程度で120か所ほどに過ぎない。
しかも暑さが苦手であることからして、現実には7月から8月の夏季の探訪はなかなか難しい。
しかも年々体力、気力は確実に減衰の一途。
すなわち今後どう足掻いても1000か所には遠く及ばず。

さて今年も早7月に突入。
暑さが堪える時期になってきたが、とりあえず今年の夏は概ね都内23区を中心にコツコツと廻って体力の低下速度を弱めておこう。
ところで越中、能登、若狭、播磨方面はそれなりの資料はあるがどうしたものか。

拍手[4回]

先月は6度出かけたこともあり合計歩数が20万歩を超えていた。
外出の少ない月の約4倍で、記録が残されているここ4年間では最も多い数値。
今までは昨年4月の岩手遠征が19万7千歩で、痛みに耐えつつそれなりに随分と歩いたような記憶がある。
地方の城跡は車を利用するので案外歩行距離は短い。
特に山城などの場合にはその疲労の割には距離そのものは少ないことが多い。
足回りの衰えが目立ってきた昨今、今後は年齢的な要素を考慮すれば、おそらく月間ではこの数値を超えることは無いものと思う。

拍手[4回]

朝から既に駅に着く前から汗がにじみ出るような蒸し暑さのなか、午前9時3分発の上り電車で出発。
途中武蔵野線に乗換え、武蔵浦和からは埼京線に乗車。
乗降客の少ない北赤羽で下車。
比較的新しい駅でもあり、たぶん記憶ではこの駅での乗降は初めてのはず。

本日は5か所を予定しているものの、その行先は相変わらず「伝承地」が多い。
これは都内23区の宿命のようなものと理解。

天候(気温、降雨、湿度)と足の具合次第で3か所くらいで切り上げる心積もり。
むろん途中での電車、バスを利用しての移動は織り込み済み。
この辺りも昨年までの状況とは明らかな変化を感じている。
途中でのわずか3kmほどの徒歩移動さえも敬遠するようになってきてしまった。




袋の殿山(東京都北区)
午前10時40分から10時35分

初めて下車した駅でもあることから、方角を定め進むべき道を把握するまで数分を要した。
先ずは道順に諏訪神社境内へ北側住宅地に設置されている石段からアプローチ。
境内北側の比高差は約10mの急崖を形成するも台地続きの西側には目立った地形上の特徴は確認できず。
境内南側の道は「鎌倉街道」とも伝わる。

      諏訪神社

ちなみに「袋」は往時の「袋村」(近世の村名)からきているらしい。
次に東側の赤羽台団地とその東隣の病院へ歩を進めようと思ったが、なぜか南側の桐ヶ丘団地の方角に足が向きそこからの遠景観察で代用することとなってしまった。

    医療センター

この日は曇りの予報が外れ次第に薄日が差し始め、湿度は高く汗はかけども全く乾かないという事態に次第に心身が疲弊していった。



稲付城(東京都北区)
午前11時15分から12時頃まで

この日に限っては最初で最後となる最もそれらしい中世城館跡。
23区内ということもあり、太田道灌との関わりがあるとも伝わる。
とはいえ明確な地表の遺構に対面できるという訳ではなく、あくまでも崖線や急坂などから当時の面影を辿るという按配。
途中で幾度か既視感のある風景に遭遇。
元北区民なので当たり前かもしれないが、何と言っても半世紀以上前のこと。
いまだ高度成長による宅地開発の波が押し寄せる以前。
既成市街地を除き周辺には未だに耕作地が広がるという田園風景も点在していた時代。

   稲付城西側の台地

まずは手始めに同城の堀跡ともいわれる東西の台地に挟まれ、かつての低湿地に所在している「亀ヶ池」の弁天社の参詣から。

  堀跡とも伝わる弁天社

その名に違わず十数匹の亀が甲羅干しの真っ最中。

   親ガメと子ガメ


つぎにそのまま東の清勝寺へと向かい帯郭状の台地中腹の路地を散策し、同寺東側参道から境内へ。

   台地西側麓付近

 
帯郭状の地形を呈する周回路地

境内と麓との最大比高差は約15mほど。

      城址碑

因みに説明版は城址碑が所在する東側山門の内側と南側山門の外側にもあります。


     南側の山門

現在でも台地を東西に横断する公道により南北に分断された地形を確認できるが、発掘調査により戦国期のものと思われる堀切跡などもこの道路の北側付近で確認されている。
 
南側台地との間の切通(画像左側)

このあと徒歩約1.2km先の地下鉄南北線赤羽岩淵駅へと向かい王子神谷駅へ。
途中価格の安い恰好の昼食場所が目に入るものの時間がないのでパス。
思えば今回を含めて都内では一度も昼食していないことにはなる。
「時間の節約か体力の温存か」の二者択一には何時も悩まされる。



豊島清光館(東京都北区)
13時00分から13時20分

王子神谷駅からは徒歩僅か約800m足らず。
この時点で「蒸し暑さ」と「足の痛み」を現況を勘案し、既に脳裏にはジワジワと「撤退」の2文字が浮び始めた。
それでもどうにか未だ気力だけは残存。
豊島氏を開基とする寺院で豊島氏発祥の地とも。
現状の地形からその特徴を捉えることは困難。
ここでも東屋の日陰をお借りして休憩と水分補給を行いホッと一息。


このあと、「続行」と「撤退」の2文字を反芻しつつ最寄りのバス停まで約900mほど徒歩移動。
これは途中隅田川を渡り眺望は良好だが、かなり辛い行程のひとつだった。
「庚申通商店街」の現況を目にしたあとの「新田橋」の様子は、まさに「都市インフラの劣化」という現実を目の当たりにするものであった。


  隅田川に架かる新田橋

どうにかバス停を視認できるあたりまで近づき、梅雨明け以降の酷暑に慣れるべく「修行」のつもりで「続行」を決断した。

この間も意識的にこまめに休憩と水分補給を繰り返す。
環七新田(かんななしんでん)の都バス停留所でも束の間の休憩。
環七新田ではなく、寧ろ「艱難辛苦」の様相に。
ここでデクレッシェンドで満たされて萎む一方の気力と体力の回復に精励。
ここから先のバス停3か所分となるバス移動(約1.5km)は実に有難く身に染みた。
バスの待ち時間も都内ということもあり10分足らず ^^



宮城堀の内(東京都足立区)
14時00分から14時20分

その経緯はおろか、当該所在地自体も明確とはいえない城館跡。
隅田川の改修、荒川放水路(現荒川)の開削などにより周辺の地形は大きく変貌。
探訪に際して丸1日ほどを要して、戦後間もない米軍撮影の航空写真(東西約250m×南北約100mほどの屋敷林に囲まれた区画が気になる)と迅速図などの情報からあくまでも素人なりに所在地を推定。
 
※かつては屋敷林に囲まれた一角で、現在堀之内2丁目交差点付近にはコンビニが所在しているが、現在のような道路整備が行われたのは1970年代前半のこと。

河川の氾濫などを除き、この辺りの隅田川流路等に変化の生じたのは江戸時代初期の川越藩主松平信綱による当時の荒川からの導水工事による水量増加。
これに明治末期から大正期にかけての荒川放水路工事がある。

狙いを定めていた「堀之内2丁目交差点」付近は完璧に市街地ががすすみ、戦後間もない時期に撮影された航空写真から推定されるような田園地帯の面影は皆無。
辛うじて周辺の堀之内北公園、堀之内公園などに地名が継承されているのみ。

    堀之内北公園

このあとの徒歩移動では、いよいよ明瞭に「熱中症」の一歩手前の容態を自覚し始め、さらに意識的にこまめに休憩と水分補給を繰り返す。
途中から荒川沿いに高速川口線の高架下を南に下るのだが、何故か日陰である東側を通らずにわざわざ日差しのある西側を通ってしまった。
さらにこの途中から久しぶりに「内反小指」に伴う痛みが発症。
港北橋を渡る際に目に入った可愛らしい4両編成の「舎人ライナー」がトコトコと荒川に架かる扇大橋わたっている様子を眺めた際には半分意識が朦朧としていたのかも知れず。

 


伝・宮城氏館(東京都足立区)
15時00分から15時10分
 
伝承では都市公園と隣接した氷川神社境内付近が同館跡ともいわれている。
境内拝殿脇に設置された石碑に刻まれた文言をあらためて拝読。

     館跡の碑


その歴史的な真偽は別として、疲労の極致に達した心身にとっては正に一服の清涼剤。
この場所も荒川放水路築造と隅田川河川改修の影響を受けており、約450年前の旧情を想像することの困難性を痛感。
この日は最寄駅となる2km足らずの道程となる王子駅へのルートも予定通り都バス利用。
この選択からも昨年の同時期に比して気力と体力の低下は否めず (^^ゞ


 
という次第で、本日は5か所分の探訪を「無事?」に終えることができた。
もっとも冒頭からの「過剰発汗」と途中での「右足小指の内反小指の叛乱」は全くの予想外。
これに両膝サポーター装着失念が加わり、最寄駅からの帰途では幼児連れの母子に追い越されるような足取りになるような始末。
梅雨時から秋口までは外出を避けるのが例年妥当な判断といえよう。
しかし、ここ数年は確実に体力の減衰を感じている。
いわゆる「健康寿命」も長くともあと数年前後となってきたことを痛感している。
「今年動かねば、もう来年はない」との決意で、とりあえずは行けるところまで来月も歩いてみよう。
 

拍手[3回]

今月22日頃から右肩に痛み有。
始めは肘を上げたときの違和感。

その後痛みは次第に激化の一途。
どうにか肘から先が動く程度に。

一時は右手が使えない状況下に。
右手不使用では立上り動作不可。

所謂50肩は既に卒業済みかと。
原因不明のまま不自由な事態に。

「肩甲骨剥がし」運動も効果無。
このため連日湿布で様子見状態。

本日に至りようやく8割方回復。

拍手[3回]

港区、新宿区、中野区、渋谷区に続く都内23区シリーズ第5回。
本日は、またしても渋谷方面。
しかも僅か丸1日間をおいての再訪。

けっして渋谷方面に中世城館跡が数多所在しているというような背景には非ず。
また渋谷方面にとりわけ関心がある訳でもなし。

再訪の理由は至って単純明快。
実を申せば、渋谷区郷土館での忘れ物受領が主目的(笑)

こういう忘れ物をするなどということは少なくとも昨年まではなかったようにも。
もっとも、忘れ物をしたことを気づいていないだけということもありうるのが恐ろしくもある。

流石にそれだけでは余りに徒労に尽きることから、「北青山遺跡」(淀藩稲葉家下屋敷)と「佐倉藩堀田家」(現、聖心女子大キャンパスなど)を中心に探訪することを決意。
 
   
やはり気になる途中の氷川神社




◎佐倉藩堀田家下屋敷(渋谷区)
午前11時00分から12時10分

「堀田坂」の地名と「当時のものと推定される石垣」などの存在から、この日2番目以降に訪れた個所に比べればまだまだ探訪のし甲斐のある方。
事実、現地での史跡等に関する標柱、説明版などの掲示物がしっかりと所在しているのはこの場所のみ。

そのような次第で、推定屋敷跡の周囲を時計の針の方向に徒歩3kmほどの道をぐるりと一周。
「堀田坂」の由来を記した上下2本の標柱のほか、同坂上の広尾ガーデンヒルズの一角に所在する根回り、目通りがそれぞれ5m前後の銀杏の大木(渋谷区指定天然記念物)とその解説版、聖心女学院南門付近の石垣を見学。
   
  北辺の大銀杏

 
     同解説版

 手元にあるいくつかの「江戸切絵図」の様子からは、切絵図の境に所在していることもあり、当該屋敷跡の正確な位置・形状に関する情報は一定せずやや曖昧な傾向が窺える。
しかしこの踏査(正しくは徘徊)により、朧ろげながらもおよその全体像が見えてきたようにも。
まず屋敷西側では「旧いもり川」(おそらく渋谷川、古川の支流のひとつか)の流路と想定される曲がりくねった細道の存在を確認しこの旧流路付近が同屋敷の西限であることを理解。
 
    「いもり川跡」

またその西側の一部が出枡状に突出している個所は、強いて言えば概ねチェコ大使館が所在する辺りに相当するのかも知れず。
屋敷の北限はについては、おそらく「堀田坂」から続く現在の港区と渋谷区の境界にあたる公道付近と推察。

 「堀田坂」の標柱(港区設置)

東限もおそらくはオマーン・スルタン大使館沿いの細い路地(外苑西通の西側)付近まで、南限は祥雲寺境内の辺りでその道路形状からは枡形を形成していた可能性も浮上。
 
    南門付近の石垣

 
   祥雲寺付近の様子


屋敷が所在する場所は比高差こそ少ないものの、その尾根伝いに相当する北西部を除きおおむね独立した丘陵(あるいは舌状台地先端とも)を形成している様子を確認。
 
 途中の街路植込のランタナ

 
 日赤医療センター前の植込
タニウツギまたはその園芸種か



◎西条藩松平家上屋敷(渋谷区)
12時25分から12時40分

佐倉藩下屋敷から旧常陸宮邸方面に戻り青山学院関係の塀などを横目で眺めつつ六本木通を渡り青山通を目指し、「アイビー通」に合流し南青山5丁目交差点に到着。
この間の移動距離は徒歩で約1.2km。

 
生垣のブーゲンビリア(園芸種)


  青山学院キャンパス東側

紀州藩の分家で「御一門」とされる大名家上屋敷跡で、現在は青山学院大学関係のキャンパスとなっている。
むろんそうした経緯を物語るような史跡等に関する説明を付した掲示物は不在。
青山通沿いの正門の撮影を試みたものの学生を始めとする通行者数多。
このため写り込んでしまう方々ができるだけ識別できないようなシャッターチャンスはなかなか訪れず。
 
 何とか撮影できた正門付近



北青山遺跡(淀藩稲葉家下屋敷)(渋谷区)
12時45分から13時15分

青山学院大学の向かい側の青山通沿いにある「国連大学」、「旧こどもの国」などが所在している。
80年代の中頃から90年代にかけて子どもたちがお世話になっていた「こともの城」の建物自体はそのオブジェと共に現存している。
 
「旧こどもの国」 前のオブジェ

 
継続の声も虚しく「落城」の跡


     国連大学

東京都職員共済組合の旧青山病院も同遺跡の範囲と考えられ、現在当地は「TBSハウジング」が主催する住宅展示場となっている。

いまも池跡の一部が確認できる

中世城館と近世大名屋敷の複合遺跡で遺構は検出されてはいるが、地表に確認できる遺構は皆無に等しく、住宅展示場の北東側の低地にフェンスを挟んで稲葉家庭園の一部と推定される池跡の窪みが認められる。



◎善光寺(港区)

13時30分から13時40分

青山通と表参道が交差する表参道交差点北側に所在する名刹で、江戸時代には信濃善光寺の尼上人が江戸滞在の際に宿泊した寺院とされている。

    善光寺山門



◎百人町屋敷(港区)
13時40分から13時40分

たぶん幕府直属鉄砲同心の屋敷跡と思われる。
「江戸切絵図」には間口の狭い短冊形をした屋敷の区画が記されている。
たまたま善光寺の青山通を挟んだ向かい側に間口の狭い区画が散見されるが、むろんその直接の関連については不明。

   「百人町」付近


◎松平近江守上屋敷(港区)
13時45分から13時50分

現時点では、この「松平近江守」が何藩の如何なる大名であるのかは不明なので、このあとゆっくりと調べる予定(笑)
おそらく下記の画像付近が屋敷跡の一部にかかっているものと推定される。

建替えに伴う移転予定の保育所


◎広島藩浅野家下屋敷(渋谷区)
14時00分から14時10分

著名な表参道ヒルズの辺りが当該屋敷跡の中心部らしいのだが、屋敷跡の詳しい範囲については余りの人混みのためによく分からなかった。
下記の歩道橋上からでは樹木に隠れて直接人混みは見えないが、その下の画像の位置からは緩やかな参道を往来する夥しい人々の行列の姿が隠されている。

  表参道(歩道橋上から)


   表参道ヒルズ東端



◎伝・長者ヶ丸(港区)
14時15分から14時40分

港区の「白金長者」の伝承と対を成すものらしい。
幕末期に人気のあった「江戸切絵図」に「此辺長者ヶ丸」との記載があったことから訪ねてみた。
 
 通りの名称は遺されている


  水田跡と考えられる細道

今でも「長者丸通」は丹羽左京太夫下屋敷跡付近に現存しているが、「切絵図」に記載された「長者丸」の位置はもう少し南側の当時は畑と記されている辺りで、その北側に細長い水田が描かれていることを考えると、おそらく緩い下り坂の細道となっている南側付近が想定されそうに思われる。



本日の歩行はおよそ2万5800歩ほどで、ちょうど「長者丸」の分だけ余分に歩いたことになる。
間1日ということもあり、予想通り所要の痛み対策などを講じてもやはり両踵の痛みは発生した。
尤も昨年のように激痛のため全く身動きが取れないというほどのものではなく、単に鈍痛で歩行速度が鈍化するという程度。

しかし就寝前になりボルタレンの効果も薄く次第にズキズキと痛みが増幅。
堪らず新たにテーピングを処置。
これが一時凌ぎの対処療法とはいえ思いのほかの効き目で熟睡に成功。
なおかつ翌日、初孫の検診送迎も支障なく遂行。
ということは予防テーピングも試行してみる価値ありということに。

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