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とはいうものの「遺構無」「ほぼ伝承地」「ほぼ無名」の事例数多な地域
このため盛り上がりに欠けることこの上なし
この時期は体力と気力の維持が第一義で、結果として空白地の漸減というおまけもあるというような心積もりが大事
経路は東上線―副都心線―千代田線―浅草線(京成押上線乗入)と乗り継ぎ、京成四ツ木駅へと移動
実はこの間、新宿3丁目と馬喰横山での地下鉄乗換の際にすでに足に違和感発生
その都度痛みの部位が異なる事態に困惑することしきり
それでもテーピング、サポター装着、内反小指対策、骨棘対策、足底腱膜炎対策等々ひととおりの足回り対策を講じると約1時間を要する
今回は右膝+両足踵(たぶん骨棘と推定)
思えば昨年の今頃は横浜市内を中心に彷徨
バスには極力乗らずにひたすら歩きまわり1日で40km近く歩けた日々が今では懐かしい
いまでは1日20km程度が限界となってきている
しかも天候は前日から当日早朝まで「蒸し暑く不安定」という予報
まさしく東の空は「朝焼け」で降雨の予兆あり
天候は持っても午前中頃までと判断
もっともこの蒸し暑さの中を夕刻まで彷徨するだけの気力と体力は皆無なのだが
凸伝葛西清重館(東京都葛飾区)
午前7時00分から7時10分
午前7時25分から7時30分
天台宗西光寺を中心とした一帯とも伝わるという
近代以降の市街地化が早く戦後間もない時期に撮影された航空写真はともかくとしても、明治初期の迅速図にさえも城館跡に関連するような痕跡の確認は困難
山門未開錠のため開門後に再訪しあらためて参詣
山門脇の説明版
国道6号線歩道から見える約3km先のスカイツリーの姿
すでにこの時点ですでに薄靄がかかりはじめ正しく雲隠れ
東京スカイツリー
◎伝葛西清重墓所(東京都葛飾区)
午前7時10分から7時15分
四ツ木一丁目西町町会会館の建物南側に所在
ブロックとフェンスに囲まれた私有地の雰囲気の漂う一角に所在
墓石自体の由来経緯については伝承性が濃厚の模様
伝葛西清重墓所
◎若宮八幡神社(東京都葛飾区)
午前7時25分から7時30分
幕末期の「江戸切絵図」等にはひときわ大きな境内が記載
現状は住宅地の一角に目立たぬように鎮座
「切絵図のデフォルメ」の可能性もあるが、合祀などによる移転若しくは境内地転用などの背景があったのだろうか
凸渋江陣屋(東京都葛飾区)
午前8時20分から9時00分
西光寺境内から徒歩にて東へ約600m移動
住宅街の路地を抜け京成押上線の踏切を横断し「日本城郭大系」が城館跡として推定している「白髭神社」へ
戦国期里見氏の陣城説、後北条氏家臣山中氏との関連などが想定
境内地をとりまく曲折した道路形状に城館跡特有の要素を感じるものの、仮に陣城となると関連性不明に
白髭神社
なお、ここで地元の参詣者と暫くの間歓談
一方「東京都の中世城館」によれば、白鬚神社北方約200m地点に所在する「葛飾郵便局」付近を想定
葛西郵便局
凸立石堀の内(東京都葛飾区)
午前9時35分から10時00分
葛飾郵便局から本奥戸橋の手前(立石駅前通りバス停)まで京成バス移動し徒歩約400m
中川の流路が大きく蛇行する沿岸で往昔には流路の変遷に左右される一帯
所在地は「東京都の中世城館」所収の「城館分布図」を参照
本奥戸橋付近から
「堀之内」の地名からその存在が窺われるという比較的曖昧な推定地の模様
念のため付近の「葛飾税務署」「真言宗南蔵院」「熊野神社」などを訪問
熊野神社
むろん地表上からは遺構の存在を窺わせるような地形的特徴を見出すことは困難
凸葛西城(東京都葛飾区)
10時35分から11時40分
この城跡の資料を集めていたのはもう10年以上も前の出来事
今回ようやく真剣に目を通したような次第
大石氏、千葉氏、後北条氏と変遷
葛西城址説明版
主郭は南北に貫通する環状7号線により東西に分断され、主に西側部分に石碑、説明版が配置されている
また下記画像の中央部付近で斬首されたと推定される1体の頭蓋骨(推定女性、年齢35歳±10歳)も検出されているという
後北条時代の主郭堀跡北東部付近ということなので、現状に当て嵌めればおそらく大型トラックが写り込んでいる近辺らしい
葛西城主郭は環七で分断
わずかに堀跡の形跡を留めるとされる道路が残されてはいる
発掘による堀跡検出部分と堀跡想定部分とを概ね彷徨
葛西城主郭西側の堀跡付近
凸御殿山(東京都葛飾区)
10時35分から11時40分
徳川氏による近世の「御茶屋御殿」のひとつで中世の葛西城主郭付近に重なるらしい
御殿山公園案内板
※今回の基礎資料(メモ追加分)
「平成19年度特別展図録 関東戦乱」(2007/葛飾区郷土と天文の博物館)
「東京下町に眠る戦国の城 葛西城」(2009/新泉社)
本年6月以降は毎回全て蒸し暑さの中の探訪
そのなかでもこの日の暑さは格別
時刻は正午前とはいえ足回りはほぼ限界
このあと約1.2kmほど西へと徒歩移動し、博物館で発掘された遺物を見学するという選択肢も
しかしこの時点で気力、体力ともに急降下
正午を前に両踵の痛みにより行動不能となる以前に敢然と撤退
暑さのため痛みどめの服用さえも失念(笑)
下車したバス停から再び京成バスに乗車し環七を北上し亀有駅へと向かった
亀有駅南口でバスを下車
ふと既視感を感じたが、おそらくは半世紀以前に訪れている可能性あり
ここで「こち亀」でお馴染みのモニュメントに対面
そういえば当地は「こち亀の故地」でもあった
その後千代田線直通常磐線に乗車し山手線―東上線経由で帰宅
まもなくこの日訪れた各所でゲリラ豪雨発生
足への負担を減ずるべく中間での移動手段に京成バスを多用するもこの日の歩行数は2万3800歩を記録
毎回のこまめの水分補給と「塩飴」摂取の効果はそれなり
本来ならばもう少し間を空けておきたい所、生憎と今週の火曜日から金曜日までは雑用つづき。
このため中3日という足回りの回復も万全とは程遠い状態での探訪に。
前回に引き続いて武蔵野線経由、起点となるのは荒川区日暮里周辺。
先日の石浜城(荒川区)の折もかなりの酷暑。
然しこの日はさらに輪をかけた酷暑となりそうな蒸し暑さ。
早朝にもかかわらず既に最寄駅まで向かう際は汗が吹き出し続けていた。
◎道灌山遺跡(東京都荒川区)
午前6時15分から6時30分
道灌山通はあくまでも後世(明治初期以前、おそらく近世)の切通しで、本来は南側の道灌山公園と道灌山遺跡は連続した丘陵で南方の上野台方面から赤羽まで連続した崖地である。
開成学園前の「ひぐらし坂」「道灌山遺跡」などの説明版などを確認、あらためて北側崖線部地形をしげしげと観察。
この一連の崖線地形はすでに60年以上前から目にしていたお馴染みの地形、しかし数年前までは海蝕台地の一種としてとして理解していたことは無いというお粗末。
また、鉄道軌道の拡張により崖線部は約30mほどの幅で切土されているとも。
それもそのはずで山手線、京浜東北線、東北線、宇都宮線、東北・上越新幹線などの上下線が並行して走行している。
このため一度に走行する数本の列車を撮影することが可能でもある。
道灌山遺跡付近から
最近やっと絞り優先設定でのISO自動補正範囲の上限制御を使いこなせるようになってきているが、既に後継機種はもう2世代後まで流通している。
◎向陵稲荷神社(東京都荒川区)
午前6時30分から6時50分
秋田藩主佐竹氏の抱屋敷跡でもある(下屋敷との説も)
何度か移転している稲荷神社は元は同屋敷内の稲荷社。
向陵稲荷神社と坂
本日は足回りの準備に時間を要し朝食抜きのため、このまま探訪を続けるとかなりの確率でエネルギー切れとなることが予見された。
このため道灌山通沿いのファミマでハムサンドを購入。
しかし、道灌山通の南側に「サンドイッチ専門」の店を発見し落胆。
気を摂り直し、その後休憩の都度、水分補給と合わせ小出しに3度に分けて摂取 (笑)
凸道灌山城(東京都荒川区)
午前7時10分から7時20分
道灌山通に架かる歩道橋を渡り道灌山の公園へ移動。
「道灌山」に関する解説版は所在するものの、「道灌山城」に関する記述はない。
太田道灌、関道閑(江戸重長の舅とも)との関わりが指摘されているが経緯不詳。
西日暮里公園(道灌山公園)
凸諏訪神社(東京都荒川区)
午前7時20分から7時35分
「日本城郭全集」の記述に道灌山城に関連する「道灌山の付近の諏訪神社の地にも城があったという」記述が拠りどころ(笑)
おそらくは地元郷土史、伝承などからの引用なのであろうか。
道灌山公園に接した新堀、谷中の総鎮守で、鎌倉期に豊島左衛門尉経泰により創建と伝わる、江戸時代には眺望に優れた景勝地でぁったという。
諏訪神社社殿
そろそろ夏祭りの季節でその準備作業が始まりかけていた。
◎浄光寺(東京都荒川区)
午前7時40分から8時00分
真言宗豊山派元諏訪神社別当、別名雪見寺とも。
「将軍腰掛けの石」が所在するらしいが見当たらず(^^ゞ
西側の「富士見坂」(比高差約8m)を下り丘陵下へ移動。
◎青雲寺(東京都荒川区)
午前8時10分から8時15分
道灌山の公園からは崖線地形の関係上直接青雲寺方面にはアクセスできず、やや迂回して富士見坂を下り青雲寺へ。
別名花見寺、滝沢馬琴の筆塚などが所在。
滝沢馬琴の筆塚
◎経王寺(東京都荒川区)
午前8時25分から8時30分
有名な「谷中銀座商店街」(台東区)入口を素通りし、「夕焼けだんだん」を登り「上野戦争」当時の弾痕が残るという経王寺山門へ。
「夕焼けだんだん」
弾痕らしい形跡は少なくとも数か所は確認できる。
経王寺山門
◎本行寺(東京都荒川区)
午前8時35分から8時40分
別名「月見寺」とも、太田道灌丘碑とその標柱が所在。
太田道灌丘碑
◎太田道灌像(東京都荒川区)
せっかくなので日暮里駅北口のロータリーに所在しているというモニュメントも撮影。
太田道灌像と舎人ライナー
日暮里からは「舎人ライナー」に乗車、「扇大橋駅」へと移動。
5両編成のコンパクトな車両は乗員不在の自動運転方式。
幼児に戻り最前列に移動し車窓風景を愉しむ。
予想よりもカーブと坂が多い
凸荘司のかみ城(東京都足立区)
午前9時40分から10時00分頃まで
「東京都の中世城館」によれば、当該推定地は現荒川(旧荒川放水路)の堰堤と河川敷なので、遺構も面影も皆無な地点。
「本木排水場」が所在する南側付近が推定地らしい。
「平和橋通」からわざわざ往復600mほどを回り道して、15m前後の堰堤の階段を上り改めて巨大な堰堤と中央環状線の構造物を眺めてみたが日差しが強く気が遠くなってきた。
しかし、午前中とはいえこうした天候の下でも「ジョギング」をしている頑健な女性の方が複数おいでになることに驚かされた。
都内23区は遺構も寂しいが、やたらに伝承地も多く「石碑」「標柱」「説明版」などの類も見当たらない箇所が多く、探訪の意気があがらないことこの上なし。
たぶんこの辺り
「舎人ライナー扇大橋駅」からは一度扇大橋北詰交差点まで南下し、中央環状線と並行する荒川の堰堤北側の平和橋通を東へと向かい、この間の距離は約1.2km。
たかだか徒歩20分弱とはいえ、炎天下での体力の消耗を考慮すると最早苦行のようにも思えた。
現地に赴いて運行本数の少ない東武バス以外に初めて知ったのが、「足立区コミュニティバス」の存在。
運行本数は1時間あたり1本から2本程度だが、少なくとも「扇大橋駅」から「本木南町」間は「はるかぜ6号、11号」が連絡していたのであった。
凸中曽根城(東京都足立区)
午前10時10分から11時30分頃まで
歴史的経緯はあまり明確とはいえないものがあるように思われるが、中曽根神社境内とその周辺には「城址碑2基」を含む4基の石碑が所在しており、この日一番の収穫であった。
中曽根城主郭付近(推定)
往路の時点でも疲労が蓄積していたが、気力を振り絞って「地中レーダー探査により推定された堀跡」付近を反時計回りに概ね半周したこともあり、扇大橋駅までの復路ではさらにその足取りは重さを増幅させていた。
ついでなので西隣の「小屋の内出」との地名が残されている辺りに立寄り、城跡南西部の御嶽神社脇の道を南下しようやく帰途へとついた。
「小屋の内出」付近の路地
凸舎人屋敷(東京都足立区)
12時10分から12時20分頃まで
「東京都の中世城館」に示されていた推定地付近を念のためぐるっと一周する心づもりが、すでに中曽根城での往復にエネルギーが大方消耗していたらしい。
「舎人ライナー」の舎人駅で下車した時点から、その足取りはずしりと重たくまるで鉛の重りを装着したようになっていた。
むろん地表部の遺構はなく、所在地も曖昧で歴史的経緯も定かではない極めて伝承性の濃い城館跡である。
照りつける灼熱の下、赤山街道に出た辺りでとうとう僅かに残されていた気力が急速に萎えはじめてきた。
西側の路地をすすみ社名不詳の小祠が目に入った時点で、頭の中で何ブチッと何かが弾けたように感じたのは気のせいではないのかも知れない。
そろそろMRIの記念撮影もしておかねば(苦笑)
「赤山街道」
かくして推定地一周を断念、重い足を引きずり元来た道をよろよろと舎人駅へと戻ることとなった。
※東京23区内探訪の基礎資料(メモ)
「日本城郭全集第4巻」(1967/人物往来社)
「日本城郭大系第5巻」(1979/新人物往来社)
「東京都の中世城館」(2013/戎光祥出版)
「城巡礼東京48か所めぐり」(2008/東京地図出版)
「武蔵野城跡ウォーキング」(2007/東京新聞社)
「ぶらり東京近郊の名城・古城」(2008/PHP研究所)
「東京都の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「図説太田道灌」(2009/戎光祥出版)
「大江戸古地図大全」(2016/宝島社)
「江戸の大名屋敷を歩く」(2011-/祥伝社)
「江戸の川東京の川」(1989/井上書院)
「川の地図辞典」(2007/之潮)
「川跡からたどる江戸・東京案内」(2011/洋泉社)
「江戸の崖東京の崖」(2012/講談社)
「江戸東京地形の謎」(二見書房)
「古地図で歩く江戸東京」(2016/三栄書房)
「明治大正凸凹地図東京散歩」(2015/実業之日本社)
「近郊散策江戸名所図会を歩く」(1997/東京堂出版)
この日の歩数は2万8200歩。
とくに扇大橋駅から中曽根城までの往復がかなり堪え、あらためて体力が欠乏していることを思い知った。
暑さに体が順応するまで、いま暫くは外出を自重すべきかどうか逡巡するような陽気であった。
微かな記憶によれば、乗車したのは約60年前。
父親に連れられて荒川遊園地に何度かは行っている。
その当時住んでいた西ヶ原からは都電を乗り継いで出かけていたはず。
そうだとすればこの荒川線以外には考えられず。
当時の車両は「飛鳥山公園」に展示されているようなタイプ。
飛鳥山公園の懐かしい都電
飛鳥山までは1km足らずと、子どもの足でも僅かな道程なので余り都電を利用することはなかった。
一方荒川遊園地までは西ヶ原2丁目から都電19番系統で王子へ向かい三ノ輪車庫行の荒川線に乗り継ぐルート。
大人の足ならば徒歩でも40分足らずとはいえ、その当時はいかにも遠方までお出かけするような期待感で幸せいっぱいであったような気がする。
埼玉へ転居後には19番系統には通学時に2年ほどお世話になったが、もう荒川線に乗るような機会はなくなった。
その後コンサートや父親の相続手続き、母親の遺品寄贈などで王子駅の近くは何度か訪れているが、荒川線に乗車するような用向きには恵まれなかった。
昔とは異なり 随分とファッショナブルな車両に変貌していたが、都電独特のカーブの多い軌道に懐かしさを感じた。
早稲田行
三ノ輪車庫行
昨夜から明らかに風邪気味となり就寝したものの咳が止まらず。
このため翌日の探訪実施確率は五分五分とみて眠りについた。
そろそろ蒸し暑さが堪える季節。
従来の方針を変更し目覚ましは午前4時にセット。
身支度を整え午前5時前の始発に乗車すべく最寄駅へ。
本日の行動は熱中症へのリスクを考慮し午前中重視の方針。
凸滝野川城(東京都北区)
午前6時40分から7時25分
豊島氏一族滝野川氏の城跡とも、あるいは頼朝の布陣跡ともされているが詳細不明。
城跡とされている金剛寺境内の東西に石神井川の旧流路が現存しており、その流れが大きく変化していないとすれば城跡の東西の領域を推定する目安は存在していることになる。
むろん城館遺構は確認できない。
西側流路跡
「城郭大系」が指摘している「境内西側の堀跡」の存在はこの旧流路を指すのか、あるいは別途現在の公園との間に「空堀」のような窪みが存在していたのかについては不明。
凸飛鳥山城(東京都北区)
午前7時50分から8時40分
こちらは更によく分からない城跡のひとつ。
自分の生まれ育った場所から近く、断片的ながら60年以上前の様子が記憶に残っている。
地形的には南東の「平塚城」から続く台地の北西端所在しているが、当時は現在のような公園整備はされておらず、昭和30年頃には平塚神社の裏側から台地辺縁部に沿って延々と歩いてゆくことができたという微かな記憶がある。
台地北西端
台地の北西端部には石神井川が東流し比高15mの舌状台地は、たしかに城跡に相応しい地形を呈してはいるが、近世以降の形質変更が激しく城跡の名残を追い求めることの難しさを痛感する。
凸梶原堀之内(東京都北区)
午前9時25分から10時00分
梶原景時とは直接の関係はなさそうで、太田資正(三楽斎)の子である梶原政景が継いだ梶原氏に関わる城館跡と考えられているらしい。
むろん城館遺構は確認できず、また「梶原塚」の存在も不明。
城跡と推定されている福性寺には近世の堀江氏一族に関わる墓所が目立つ。
かじわら商店街の都電のアーチ
都電荒川線梶原駅前にて「都電最中」等を購入。
〇山吹の塚(東京都荒川区)
午前10時45分から10時50分
「山吹の里伝説に関わる塚」が所在しているが、現地での「具体的な説明」を表記したようなものは見当たらず。
「山吹の里」塚
〇平河源内墓(東京都台東区)
午前11時40分から11時45分
荒川区との境界近くに所在している有名人の墓所。
平河源内墓所
以前には事前に断りを入れるなどして入口の開閉が行われていたらしいが、現在では自分で門扉を開けて参詣ができるように変わっていた。
凸石浜城(東京都荒川区)
午前11時50分から12時05分
従来から伝承に近い城跡で詳細な所在地は不明だが、石浜神社を含む範囲が城跡と見做されているらしい。
周辺の市街地化の時期は早く、明治期末から大正期にかけて進行しており、現在周辺には「東京ガス」や「リサイクルセンター」の大型建造物が並び立ちっていることから、もはや周囲の地形などにそうした面影を見出すことは難しい。
なお2017年4月より神社南側の一角に石浜城址公園が供用開始されたようで、公園の名称に「石浜城」の文字が見えるが当該解説版は未設置であったが、「渡船場」に関する説明版は所在していた。
石浜城址公園
この石浜城探訪を終了後、この日7番目となる目的地への移動を始めた時点で懸念された俄雨に遭遇。
むろん本格的な降雨ではなく、「天気雨」「狐の嫁入り」ともいうような局所的で短時間の降雨。
早朝からの行動により次第に既に集中力、モチベーションともに限界まで低下。
「都電荒川線」と「都バス」による移動を多用するも、足回りを軸とした体力もそろそろ限界。
元々この日は城館跡は4か所止まりと考えていたことから、良い口実ができたと迷うことなく即座に撤収開始。
荒川区に所在する「道灌山」関連については、下調べを含めてある程度時間を要することとなりそうなので後日再挑戦予定(あくまでも希望)
本日の歩行数は2万4800歩。
今回の内反小指対策(テープ4重巻)については概ね成功。
しかし左足に外反母趾状の痛みが発症。
「痛み」は最も痛い部位で感ずるようで、あちらが無事ならこちらが痛いとなり、こうなると「もぐら叩き」の様相に酷似。
今回は「トラムセット」+「ロキソニン」で対処。
「足底腱膜炎」(そくていけんまくえん、あるいは足底筋膜炎)ないし「踵骨棘」(しょうこっきょく、しょうこつきょく、手術困難)の方はガーゼ4枚重ねと中敷き使用で対処成功・・・・
と、メモしておかないと同じ誤りをしでかす昨今である。
なおこの足回りの整備に要する時間はこのところ拡大の一途。
少なくとも30分近くを要していることに気づき茫然。