本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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  思えば昨年春の岩手遠征の国道4号線北上作戦は天候と気力の欠乏などにより金ケ崎町で終わってしまった。
同年夏の遠征でも行先が秋田県横手市のため北上市止まりに。
このため夏頃から少しずつ準備を重ね満を持しての遠征となるべきところ、生憎10月の終わり頃から風邪気味状態になるという間の悪さ。
しばらくは市販薬で様子を見ていたものの、先月25日の深夜には気管支炎状態となり呼吸が圧迫。
翌日かかりつけの内科クリニックを受診するも回復には至らず。
処方薬はそれなりの効果もあるがセットで副作用の睡魔も襲来する。

かくして止まることのない「咳と鼻水」症状の最中、龍角散と保湿マスクでお茶を濁すという最悪コンディションでの遠征開始となってしまったのであった。

そうしたなかで唯一幸いなことには、近年の歩行に伴う「足の痛み」に関して、いわゆる「ダメコン」(自己の足回りの健康状態に関し、幾度も試行錯誤を重ねることにより、いかにして痛みを生じさせないか、あるいは痛みを抑止軽減できるかが明確となった)が有効となってきていることである。
このため、一定の足回りのサポートを講ずれば1日当たり4万歩程度(約30km)は動き回れることが可能となっている。 

むろん前々日までの予定キャンセルも視野に入れつつあれこれと逡巡。
若い時分はいざ知らず、もう年齢的に考えれば来年とか再来年というものでもなくなってきている。
平均寿命は別としても、古稀の年代へと近づいていることは否めず、医学的な「健康寿命」の方は一般的には残り3年から長くとも5年程度であるようだ。
何しろ譬えて言うならば「昨日できたことが今日できない」「昨日までは覚えていたが今日は忘れた」という昨今なのである。
なお、このブログは帰宅後の11月9日に記述しているが、それ以上悪化することがないものの未だ回復傾向には至ってはいないが無論後悔などはしてはいない・・・などと強がりを言っている。


大清水館(岩手県二戸市、旧浄法寺町)
午前10時05分から11時15分

前日である11月4日午後10時半過ぎに自宅を出発、国道16号、県道3号経由にて約1時間後に予定通り久喜白岡ICから東北道に入った。
理論上では時速100kmでノンストップであれば岩手県の安代ICの到着は約6時間後となる。
そうはいっても事前の計画では夜間走行のリスクを考慮した時速80km走行、途中給油2回を含む5か所程度のの休憩を予定していた。
しかし咳き込みが酷く1時間以上の走行は困難と判断し、結局は走行距離約50km毎に休憩を挟むような次第となってしまった。
加えて度重なる咳き込みにより前日の睡眠が不十分であることは明白で、午前5時前後には途中福島市内の吾妻PAにて90分ほど仮眠し明け方を迎え、午前6時30分から再び走行を開始した。

東北道は朝方に仙台市を通過する辺りから次第に雨模様となり、途中では雨雲の中を走行するような状況となった。
その後小止みになり虹が出たかと思えばまた降りだすなどを繰り返し、岩手県八幡平市の安代JCを通過した時点では、この際は城館探訪を諦め図書館での資料収集に変更しようとも考え始めていた。
しかし、安代ICを出て県道6号線を北東に進んでいくと心なしか雨雲が薄くなり始め、次第に小雨も弱まり、幸いなことに二戸市に入ってからは僅かに薄日が差し込み始めてきた。
ゼンリンのウェブ地図情報を参考にして旧大嶺小中学校敷地跡に駐車させていただき、まずは天候の状況を再確認した。
このようにして自宅を出てから既に11時間以上を経過、漸く1か所目の目的地へと向かうこととなった。

上空を睨むと雨雲が切れ始めかなりの確率で天候の回復が見込まれたことから、多少足元には問題があるものの予定通り徒歩で城跡へ赴くことに決定した。
最近では城館跡を訪れる際には極力駐車場所が確実(公共施設またはこれに準ずる施設の有無)であることを優先している。
車で近くまでアプローチすることはほぼ困難であったので正しい選択でもあった。

城跡は低丘陵とはいっても、その比高差は約40mほどはあるので、ここ数日間の寝不足と気管支炎発症中の身には結構堪える。
県道6号線からは目印となる出光のガソリンスタンド脇の市道にはいり、これを西に進みそのまま安比川に架かる橋を渡る。
八幡平を源流とする安比川は降雨の直後でもあり水量は多くかつその流れも速い。
安比川はやがて、一戸町との境付近で馬渕川に合流し八戸市方面へと向かい太平洋に注いでいる。
「安比川」、画像奥のやや左手が「大清水館」のはず

丁字路となり突き当りの道を進行方向右(北)に折れる。
そのまま150mほどすすむと、下谷地集落北外れの1軒の民家手前で細い農道が分れているので、城跡へはこれを左に折れて丘陵の登りに入る。
なおそのまま直進していくと安比川に崖が迫るので最終的には行き止まりらしい。
農道は小さな谷川を渡ると、間もなく北から西へと大きく曲がり、次第に谷底道のような按配の道となるがこれを登りあがれば台地上へと到達する。
生憎この日は降雨の直後であったためよく滑り足元は泥だらけとなった。
少しくどい説明だが、ここまでは先ほどの分岐からは道なりで僅か約350mほどの距離に過ぎない。
この間の所要時間は健康で若い方ならば僅か5分前後であるが、ボチボチ年寄なので途中息切れが生じ8分ほどを要してしまった。
途中で農道には草木が繁茂し先に進めなくなるのだが、進行方向左手のある幼木の植林の端を進めばまず問題なく進むことが可能である。
「谷底道状の農道」、この先の上の方がかなりの泥濘

台地上には下谷地集落の南側から大きく迂回して台地西側の農道方面からアプローチするという方法もあるが、元来が農作業を目的とした狭い道でもあることから部外者が矢鱈に車で通行することは遠慮すべきであろう。
最初に目に入るのが下記の耕作地であるが、「郭」に昇格しても良い良いな切岸と削平(開墾)が為されている。
実際に城館跡の空堀と接した地形でもあることからその判別は難しいようにも思えるのであった。
「耕作地」だが、城館跡との関連性が窺える地形であった

念のため南側の台地続きの画像も撮影してきたが画像の左右両端が下がった尾根筋であることが分かるのだが、残念ながら堀切地形は開墾などにより埋め戻されたのだろうか確認はきない。
「南側の台地続き」

台地西側も意外に深い谷津地形が形成されており、その比高差は10m以上はありそうなのではあるのたが、このように何分にも傾斜の少ない緩斜面であることから、尾根続きの南側と同様に防御性を欠く地形であるように思われる。

「北側の地形と農道」

館跡へはこの農道を北へとすすむのだが、約60mほどすすむと西側の谷へと降りる道を分岐している。
またこの画像左側の谷地形は城館跡の北側に沿って東へと流れる安比川支流の袖野川に繋がっている。従って城館跡は東を安比川の断崖に北側を袖野川の谷川に囲まれた要害地形であるということが判明する。
むろん地形上の弱点である西側と台地続きの南側の防備が重要であることは否めない。
このため城館の普請も南西方向を意識した防御性が感じられる構造となっているように思われた。

さて上記の農道をそのまま道なりに進むとやがて正面に見える林の中へと誘われるが、農道は行き止まりとなり前方には藪が広がり視界も遮られる。
この辺りが既に外郭部分とその堀跡(たぶん埋まっている)なのだが、藪に紛れて如何とも観察がし辛い。
「農道の行止り」

ここで、少し目先を変えて15mほど農道をそのまま引き返し東側に緩やかに下っている谷津地形へと進んでみることにした。
この谷津地形自体が実は外郭部分の横堀を兼ねているらしく、意識して観察をすれば堀跡のようにも見えなくもないのだが、この時点では遺構全体の把握については未だ確信が持てないでいた。
「谷筋へと向かう踏み跡」、よく見れば堀跡でもあるようだ

谷へと向かう余り踏み跡も明確ではない上記画像の道を100mも進まないうちに、進行方向左側に「藪の少ない斜面」が目に入ってきた。
先ほどの行止り時様対に比べると遥かに観察しやすい環境であり、何のためらいもなく笹の生えた緩斜面を20mも進まないうちに人工的な地表の起伏を目にしすることができた。

「藪の少ない斜面」

緩斜面に施された普請ではあるがこれは郭の整備に伴う低い切岸地形に相違ないと判断された。
「外郭の上下を分かつ段差」

外郭の東端部の北辺付近では、その西側の藪に覆われた部分とは異なり、東側に突出したいくぶん細長い地形となっていることが明確に分かり、主郭と目される北側の郭との間にはやや幅の広い平坦な横堀状の地形が広がっていた。
「外郭の東端部の北辺付近」

「外郭の北側切岸とその上部の段差」
この辺りの切岸の高さは3m以上はあるが、自然地形の関係上西側ではさらに高くなっている。
この時点での体調は絶不調でもあり、雨に濡れたシダや笹類の生い茂った藪を隈なく踏査するような時間もなく外郭部は東側の一部の観察に止まってしまった。

「主郭の切岸」
だいぶ堀跡が埋まっているらしく、現状での主郭部切岸の高さは約2mほどを測るに過ぎない。

 「主郭切岸の東端部」

主郭部はほかの2か所の郭と比較すれば、全体として比較的綺麗に削平されていることが明確なのであるが、これが後世の開墾、耕作と全く無関係のものであるかどうかは分からない。
「主郭東端部」
堀跡ないし幅の広い帯郭地形が東側に回り込んでいるように見えた。

「主郭と北東郭の間の空堀」
堀幅は6mから8mはありそうなのですが、その深さは1.5mから2mほどと大分埋まってしまっている様子が窺えました。
遺構全体は東側の安比川に近い部分は比較的観察しやすいのだが西側にはシダ植物を始め笹や樹木が叢生して行動とその視界を阻み遺構全体の把握までには至りませんでした。

「堀切ないし空堀」
画像右側が主郭で左側が北東の小郭に相当する。

「安比川」
北東の小郭は安比川の西崖そのものであり、主郭部分などとは大きく異なり面積もかなり狭く大勢の人数が動くことのできる環境ではなかった。
特にその東側は比高差40m弱とはいえ、そのまま安比川へと垂直に落ち込んでいるため必要以上の接近は憚れる危険性を感じた。
事実凹凸の激しい地形で足元の枯葉は滑りやすく、枯れ枝にも足を取られ転びそうになった。
このように郭としての削平状態は極めて不十分な印象を感じたが、この狭さでは利用価値も少ないことからこのように自然地形に近いものになったのであろうとも思う。

大清水館は浄法寺城の南西約4kmの鹿角街道沿いに所在しており、そうした立地条件から恐らくは戦国期には浄法寺氏の支城のひとつとしてその一族または有力家臣による支配が為されていたものと推定されるが詳細は不明である。
東北遠征の最初がこの余り有名とは思えない大清水館であったという理由は正直なところ余りない。
強いて言えば、単に浄法寺城の南西に位置することから通りがかりでもあり、多少なりとも遺構の存在が明らかで、東北道からのアプローチに便利であったなどに過ぎないものであった。
むろん案内板、説明版、標柱などは皆無であり些か残念でもあるが、この地域の城館跡の立地条件とその形態を概観するには恰好の踏査活動であったことだけは確かであった。

なお、この後に訪れる予定の小泉館、大森館については、事前に所在地と遺構に関する明確な情報源を得ることができず日没までの残り時間を考慮して割愛した。
探訪時点で参考とした基礎資料は「岩手県中世城館跡1986」「日本城郭大系」の2点のみであるが、今回の遠征中に市町村史などの複写を行いこれを補填した。

 
浄法寺城(岩手県二戸市、旧浄法寺町)
12時00分から13時20分

日曜日ではあるが、確実な駐車場所を確保すべく先ず旧浄法寺町旧役場(現二戸市役所支所)を訪れたところ支所前の駐車が可能であるように思われた。
また1階の窓ガラスに大きく「瀬戸内寂聴記念館」の文字が見えたこともあり、情報集めがてらに入館(無料)することとなった。
瀬戸内氏が1980年代の後半頃に天台宗の得度を受け、東北の方の寺の住職となったことは当時の新聞記事などの記憶に新しかったのだが、それにしてもまさかそれがこの旧浄法寺町であるとは全く知らなかった。
この日は日曜日ということもあり旧町役場の2階部分の一角に開設されている展示スペースでは熱心なボランティアの方がこの日の運営を任されていた。
浄法寺城に関連する歴史的な配布物などの情報を得ることはできなかったが、こうした地道な文化的活動に敬意を表しつつ30分ほど見学をさせていただいた。
 支所の一角に開設されている記念館

記念館見学の後浄法寺城の一部を構成する大館へと向かったが、鹿角街道を歩いている途中の神社の石段で日向ぼっこ中のネコさんと遭遇。
「日向ぼっこ中」
カメラを向けると怪訝な表情を浮かべて遠くに移動するかと思ったが、結局はそのまま座り直して時々こちらの様子を観察していた。
去り際に何気なくふと後を振り向くと何と石段の真下まで降りてきてくれていた。
見送ってくれるようなそうではないような微妙な態度なのだが、少なくともあからさまに警戒をしているといった素振りはみせてはいなかった。


浄法寺氏の本拠である浄法寺城は、現在では八幡館、大館、西舘、新城館、北館の5か所の館から構成されていると考えられているが、「岩手の中世城館1986」当時では北館の存在は明確には認識されておらず、さらに刊行の古い「日本城郭大系」では西館が独立したパーツとして考えられてはいなかったようだ。

大館には先ほどのネコさんがいた神社の石段を登るか北側の新城館との間の道から登るか概ね2つのルートがあるようだが、この時は神社の石段から南西に50mほどすすんだ緩やかな坂道から斜めに斜面を上り神社境内へと向かってみた。
 「鹿角街道の古道」、画像右側が大館で左側が八幡館
大館自体は大きく分けて西側の一段高い郭部分と東側の神社の所在する南北に細長い規模の大きな副郭部分とに分かれている。
5か所の館の中では最も小規模なものなのだが、それでも副郭部を含めると東西約180m、南北約120mほどの広さを有している。
八幡館との間を通過するという「旧鹿角街道」を扼する役割もあったものと思われるが、それぞれの館同士を繋ぐ動線が仮に木橋によるものとすると恐らくは延長40mから50mの規模となり余り現実的ではなくなりそうにも思える。
 
 「大館の小祠」

旧浄法寺町の市街地方面が一望にできる

「大館」は比高差約5mほどの切岸で東西に分かれている

「大館」から八幡館を望む

「大館の中心部」
概ね畑となっていたが、この中心部の方もさらに低い切岸により東西に分かれていた。
少なくとも5か所のなかば独立した館から構成される浄法寺城は東側に所在する八幡館を中心とする浄法寺氏一族を軸に屋敷などの建物群が所在していたことになるのだろうか。
 
南側の「西館」との間に所在する小郭
この小郭は画像のように東西に分かれ南北それぞれに堀が廻るため、大館と西館の間には二重の堀が介在していることになるようである。

  この「大館の南辺の堀跡」は西側からの通路を兼ねている

「大館西側入口付近」で画像左側は新城館

次に北西の新城館へと向かったが、こちらの方も郭内は一面の畑であり、南西部には1軒の民家も所在しており、表面観察の限りでは城館跡としての痕跡は希薄であった。
「新城館」

浄法寺城に関する説明版は新城館と大館、西館が接する市道脇に所在していた。
環境省当時のものは同庁が設置された1971年1月8日以降、環境省となった2001年1月6日前のものということになるのだが、経年劣化の程度から80年代の終わり頃から90年代の初め頃に設置されたものと思われる。
その後新たに設置された説明版も汚れが目立ち文字がよく見えず。
少し拭けば汚れが取れるかと思い試してみましたものの、なかなかに頑固な汚れのために殆ど落ちず (^^ゞ


「環境庁当時の説明版」
「その後設置された説明版」


北西端に所在する北館は如何にも自然地形の雰囲気が漂い、そろそろ残り時間も気になり始め近くの市道を通過しながら観察するにとどまった。
「北館」
画像中央の里道を真直ぐに進めば、恐らくは北館の中へとすすめるらしい。

 「白色火山灰」
二戸方面にはこうした白色火山灰の切り立った急崖が多く城館跡でもよく見かけることができるが、地層としてはかなり脆弱で脆い性質があり、コンクリートなどにより崩落防止を目的とした法面工事が施工されている事例も少なくない。

「北館方面の遠景」

西館の方は直ぐに行けるので立ち寄ってみたが郭面は畑地となっており、あくまでも地表面の印象からは城館跡としての印象は薄いように感じられた。
「虎口か農道か」
「西館の郭」

最後に最も城館跡らしい遺構が遺されていそうな「八幡館」を訪れてみた。
「八幡館方面」
北館方面から南側の市道を大きく迂回している際に撮影できた遠景で画像左側が西館で右側が八幡館に相当するはず。
全体としてあまり特徴があるという地形ではないため、全景は遠すぎても近すぎてもよく分からなくなる。

「北西部の神明神社鳥居前」
最後に気が付いたのだが、この辺りに1台くらいなら駐車できそうにも思えたりした。

「神明社境内」で
土塁状の地形も一応は遺されていた。
手前の建造物は神事用の相撲場だろうか。

「同社殿」
「白色火山灰の崖」

社殿後ろ側にも土塁状の地形が確認できる。


何処までが開墾に伴う地形で、どれが城館跡としての地形で、果たして元来の地山部分は・・・(^^ゞ

現支所となった旧役場前に設置されている巨大な石碑
以上がかなり駆け足で回った浄法寺城の全容なのだが、5か所の館のうち中心部となるとされる八幡館には余りその求心性を感じ取ることがてきなかった。
浄法寺氏の支配が元々が求心性を必要としない類の権力構造であったのかは不明である。
  
探訪時点で参考とした基礎資料は「岩手県中世城館跡1986」「日本城郭大系」と最新刊である「東北の名城を歩く北東北編」の3点だけであるが、今回の遠征中に市町村史などの複写を行いこれを補填している。

 
九戸城(岩手県二戸市)
14時10分から14時50分

九戸政実の乱で有名な国指定史跡の九戸城である。
西を馬渕川、北を支流の白鳥川、東を猫渕川に囲まれた要害の地ではあるが、どうしても台地続きとなる南側からの攻撃には明らかな弱点を有している。
昨年4月以来念願の九戸城なのだが、画像撮影に適した時刻が迫っていることもあり足早の探訪となってしまった。

周知のように蒲生氏などによる近世城郭としての改修が加わり、中世城郭と近世城郭が混在している城跡である。
この混沌とした状態をその特徴として把握してみるものの、石垣を用いた直線性の強い防御構造と自然地形を生かした曲線を描く中世の防御構造とが上手く絡み合っているのであろうかと暫し黙考した。
しかし造形部分だけに限ればどうしても何処か居心地の悪さを感じてしまう。

なお九戸氏時代の城は現在の本丸、二の丸、若狭館、石沢館とされているが、この郭部分の面積の合計は実測図などから試算してみたところ約10万平方メートル前後である。
この面積に籠城可能な人員は建蔽率2割の硬式に当て嵌めれば約1万人前後となり、通説となっている約5千の兵力による籠城は物理的には収容可能と考えられる広さとなっている。

現在も一部で発掘調査が行われていた。
また駐車場は北西の三の丸に完備されている。

 二の丸大手の城址碑
 本丸南東門跡
本丸南東門跡
二の丸北西部
本丸外部に設置されている標柱
本丸南西虎口
  本丸南西の土塁と堀
 本丸南西の土塁と堀
本丸北西部
本丸北隅
本丸
本丸の門跡付近
本丸空堀
二の丸から石沢館
 二の丸と石沢館の間の北側堀跡
二の丸と石沢館の間の堀跡
石沢館
二の丸と若狭館の間の堀跡
若狭館南西部
二の丸大手脇の水濠
二の丸南西部の切岸
 
 
このあとはせっかくなので一戸町方面へ移動しようとも考えたものの、咳の状態は相変わらずであり、加えて昨日から90分の仮眠以外には睡眠を摂れていないことを考慮し、二戸市の図書館に移動し休憩を兼ねて資料収集を開始した。
複写申請後の待機時間(5冊、計約500枚の図書館職員による複写作業)の間に暫く沈思黙考
(あまり記憶が無いことからたぶん居眠り)は予想通り約80分を要した。
陸奥の秋の日暮れは早く、午後4時過ぎには黄昏となり、複写物を受領した段階では漆黒の闇が訪れていた。
この時期は市街地内の晴天時でも夕刻の行動時刻は遅くとも午後4時前までであろう。

さてこの日予約している宿泊先は隣県の青森県八戸市内の八戸駅前。
通称九戸街道と呼ばれている国道395線、340線を利用したのだが、間にはそれなりの峠が約4か所、ガードレール余りなし、その反面急カーブ多数、道路照明殆どなし、反射板なども殆どなしの約50kmの夜間走行は大変貴重な経験となった。
登り切った坂の先にとてつもない急カーブがあったり、夜間には初めて訪れる人間が運転などを行ってはならぬ国道なのであった。
さりとてもうひとつのルートでもある国道4号線奥州街道、104号線経由がベターかといえばさに非ず。
7日と8日の日中に走行した限りでも、比較的急カーブが少ないだけで慣れない地での夜間走行には不向きに感じられた。

拍手[3回]

先月25日くらいから喉に違和感有り
発熱は無いので、暫く市販薬で様子見
月末になり咳と痰の症状が徐々に悪化
今日の深更には連続する咳で目覚めた
以前発症した痛烈な痛みの発生を想起
其再来を避けるべく漸く本日内科受診
来週から出かける予定が愈々不透明に

五七五ではないが、文字数だけ五七五

拍手[3回]

5回連続で群馬県の太田市訪問を継続するなか、今回は儀一殿のお誘いにより栃木県芳賀郡市貝町へ。
午前6時の途中集合で現地到着は8時20分頃


山根城(栃木県芳賀郡市貝町)
8時25分から9時00分
比高差約30m

西麓にトイレ付の40台ほどが駐車できる舗装済駐車場があり、車の場合にはたいへんアプローチしやすい立地条件となっています。
なおこの駐車場へのルートはここ数日間の降雨により、最短ルートである砂利道に巨大な水溜りが発生しておりました。(推定水深20cm)
このため少し分かりにいのですけど、真岡鉄道市塙駅北東側の踏切から迂回を余儀なくされました。
駐車場から少しだけ坂道を上り、公園化に伴い設置された石段経由にて主郭を廻る横堀の個所へと到達します。

石段の左右には西から南にかけて腰郭状の段築地形が散見されますが、少なくとも公園化による当該石段の設置に伴う一部地形改変も含まれているようです。
注目すべき遺構は矢張り全周する主郭をとりまく横堀(堀幅は上面で約7m前後で、北東部に小規模な出枡(折歪)があり虎口を防御しているように見受けられる)と主郭側の切岸(高さ5mから6mほど)ではないかと思いました。
なお東側の二重乃至は三重堀については東隣りに接した芦原城とどの部分で区分すべきなのか悩ましいところです。
築城勢力、時代背景は不明のようですが千本氏との関わりが示唆されています。
(関係資料)「栃木県の中世城館跡」(1983年刊行)ほか


  主郭の横堀(南西隅)


   虎口の辺り(推定)
   
  
芦原城(栃木県芳賀郡市貝町)
9時10分から9時40分
比高差約50m弱

西隣の山根城からそのまま探訪していますので、移動に伴う実質的な比高差は10m強となります。
西に接している山根城との間には二重ないし三重の横堀がありますが、南端の方から回り込むとあまり横堀を横断せずに1度のみのアップダウンで進むことができます。
主郭とも考えられる平坦地は全体として西側に緩い傾斜があり、土塁のような盛り上がりも見えるのですけれども、何分にも藪が視界を遮りよく見えませんでした。
いちばん東側の横堀から見て約35mほどまではどうにか進めたのですが、それ以上先の東側にはアズマザザが密集しておりゴーグル不携行のため断念いたしました。
益子氏に対する千本城の支城を想定する見解もあるようです。
(関係資料)「栃木県の中世城館跡」(1983年刊行)ほか


左(西)山根城、右(東)芦原城
  
 
村上城(栃木県芳賀郡市貝町)
10時00分から11時00分

要領が不明で山麓の第2駐車場から徒歩にて探訪しました。
水田面からの比高差は約70m前後
峠近くの第1駐車場からの探訪ですと、比高差で約30mを登らずに済み往復で30分ほど時間短縮できます。
城跡の中心部へは観音堂の西側に所在する鳥居を潜り堀底を進むと進行方向左手に主郭へと続く石段が見えます。
主郭東側は3重の横堀が確認できます。
主郭南小口の防御構造が印象的で、益子一族村上氏の居城とされています。
(関係資料)「栃木県の中世城館跡」(1983年刊行)ほか


    南麓の水田から


   境内前の城址碑


     主郭と土塁


    主郭の南側横堀


文谷城(栃木県芳賀郡市貝町)
11時30分から11時50分
丘陵麓付近での路駐を避けて、約300mほど東側の旧文谷小学校跡地に駐車させていただきました。
麓の市道からの比高差はせいぜい25m前後か

自分の思い込みで始めの方で20分ほどのロスタイム発生 <(_ _)>
何と城跡は低丘陵の尾根筋南端部なのでありました。
戻る途中で、藪に覆われた斜面には踏み跡ともいえないような草木を避けたような気配を発見。
つまりは尾根筋に続いている明瞭な道筋は本来が高圧線鉄塔等の保守整備用のものらしく、尾根筋に登る直前を左側に藪漕ぎしつつ這い上がれば良いだけのことでありました。
約200mばかりただ只管に藪漕ぎを続け、藪の間から見える遺構は、南北に細長い形状の郭を横堀が取り巻くという比較的簡易な構造であることを確認いたしました。
ただし南側の一部は林道工事などにより改変を受けているように見受けられました。
帰りがけに県道沿いに設置されている「城跡への案内標識」を発見 ^^
基本的に南側の民家方面からのルートは無く、あくまでも東側からの藪漕ぎが正攻法であるようです。
あ、管理人は藪漕ぎの際、足元の枝にバランスを崩し一度だけ尻もちを (^^ゞ
(関係資料)「栃木県の中世城館跡」(1983年刊行)ほか

    東方からの遠景


     突入前の藪


  主郭北側を周る横堀


小貝川方面からは目立たない


杉山城(栃木県芳賀郡市貝町)
12時50分から13時35分
麓の市道からの比高差は約30m

登り口は明確では無さそうに思えたことから、八幡宮左脇の踏み跡から登りました。
最初は藪に閉口しますが、横堀が目に入る辺りから藪が途切れ横堀とこれを取り巻く
この城跡も長方形の主郭を中心にしてその周囲を横堀が取り巻くという構造です。
主郭側の切岸の高さは最大8mの個所も見受けられました。

復路は明確な踏み跡を辿りながら、南麓の民家が見下ろせる腰郭状地形沿いに南下し、途中で西に方向を変えて八幡宮境内の東麓へと降りました。
確認はしていませんが、この方面からの踏み跡がしっかりしていることから、もしかすると東麓側からの探訪ルートがあったのかも知れません。

  主郭虎口より外郭土塁


   主郭虎口と外郭土塁


  主郭東側付近の横堀

千本城の支城として薄根家継が築城したともいわれているようです。
(関係資料)「栃木県の中世城館跡」(1983年刊行)ほか



大谷津城(栃木県芳賀郡市貝町)
14時00分から14時50分
西麓の集落から比高差は約30m強

前掲の5か所とは異なり、耕作に伴う埋立てなどの影響もあるのか、とにかく郭部分の面積が広大で城跡全体の規模が大きく感じます。
城跡として西側台地との境界部分がよく分かりませんでした。
また主郭内は藪だらけなので見上げるだけで、進めず見えず仕舞いでありました。
鏡池と呼ばれている辺りの主郭切岸は高さ10mを超えるような個所も確認できました。

    有難い案内標識


    主郭付近の切岸


     主郭の藪

大谷津伊勢守の築城と伝わるようですが詳細は分かりません (^^ゞ
この付近には他に2か所ほどの出城遺構も所在するらしく、そのうち折をみて再訪しようと思います。
(関係資料)「栃木県の中世城館跡」(1983年刊行)ほか


今回は比較的比高差の少ない城跡ばかりではありましたが、元々風のひきはじめでもあり5度のアップダウンの繰り返しなどにより次第に足元が覚束なくなって参りましたのでこれを持ちまして本日の打ち止めに (^^ゞ

単独行では3か所も回れば忽ち帰路に就くところを、こうしてお陰様でどうにか山城と丘城の間くらいの城館跡6か所を回り終えることができました。
ご同行いただいた儀一殿に深謝申し上げます <(_ _)>

だいぶ以前、たぶん2009年頃に収集したと思われる関係資料が行方知れずになっていることもあり、帰りがけに市貝町の図書館に立寄り関係資料を収集し現地を午後4時前後に出立。
この日の自宅到着は幾分渋滞が重なったことなども影響して自宅到着時刻は午後7時半過ぎに。

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久しぶりの好天
午前5時前に自宅を出発
 連続5度目となる太田市の探訪にでかけた
ようやく数日ぶりに太陽が顔を出した
しかし朝から既にうろこ雲が東の空にででいる
雲が広がるのも時間の問題なのかも知れない

 
◎渋沢栄一生家(埼玉県深谷市血洗島)
午前6時20分から6時55分

6月に都内飛鳥山の渋沢氏の別邸跡に出かけていた経緯がある
加えて横瀬氏故地に赴く途中に所在していることもあり立ち寄ってみた
開館時間は午前9時からなので無論閉館時間中
その外観からだけでも豪農層の屋敷の規模の壮大さに圧倒される
とりわけ水田耕作地帯に関しては一般的な自作農との乖離は明白である


そういえば深谷周辺も10年以上前に出かけたきりで、完全には廻りきれていなかった
幅員が狭いなどという道路事情の関係もあったような記憶もあるが、現在でもそう広くは無いという個所が少なくなさそうにも思えた


◎横瀬氏の故地(埼玉県深谷市)
午前7時05分から7時25分

後に由良氏(横瀬氏)の故地となった横瀬神社と華蔵寺へ赴く
新田義兼の五輪塔と伝わる墓石が所在していた


それ以外の五輪塔、宝篋印塔など古い墓石が目立つ
かなり改修されてはいてもやはり道路事情はいまひとつの感もある
水田の中の自然堤防上に集落があたかも島のように点在する関東平野の原風景が残っていた

この時間だと未だ日差しが弱い
そういう季節になった
こうした季節の画像撮影に相応しい活動時間は午前8時過ぎから午後4時頃まで
西の空に厚い雲がかかると午後3時頃までか
さらに朝雲がかかると正味6時間も亡くなってしまう
気温の低下と相俟って季節の移ろいを肌で感じる
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)ほか

 
◎大舘八幡宮(群馬県太田市)
午前7時55分から8時05分

先月から通算5度目となるお馴染みとなった旧尾島地区
この1か月間に限ればその滞在時間は25時間を超えている
さすがにもはや道に迷うようなことは無くなってきたように思えた

近くを流れる早川の流路変遷の影響が大きい立地であるらしい
堤防の高地から俯瞰すると以前の流路もそのまま耕作地の低地として残存していることが分かる
現地解説版によれば、近世の社殿建立に関しては「津軽氏分家による再興説」を示唆していた
このことが史実であるとすれば、やはりその勧請に際しては新田氏あるいはその一族である大舘氏が関わっている可能性を想定しても差し支えないようだ


なお神社境内南西に高さ約3mの塚(築造年代不詳)が所在
塚上には近世から明治期にかけて流行った山岳信仰関係の複数の石碑が設置されていた
※情報源「新田一族の盛衰」(2003/あかぎ出版)ほか


◎二体地蔵塚(群馬県太田市)
8時25分から8時35分

なるべく路駐を避けるべく世良田公園の駐車場を利用
下記の2か所を含めてのんびりと歩いてみた
というよりも以前のように早足では歩けなくなってきたらしい (^^ゞ
とはいうもののこの辺りは徒歩でも充分にまわれるほどに史跡が点在していることにあらためて実感している

元弘3年(1333)幕命により戦費調達の任務を帯びた出雲助親連、黒沼彦四郎の二人が新田方に捕われて黒沼は斬首された
「太平記」などでは、この事件を契機に討幕軍が蜂起したという
中世以降の刑場跡ともいわれ、一辺が約20m、高さ3mほどの方墳状の塚上に2体の地蔵が所在する
ごく最近黒沼氏後裔の方が五輪塔とその由来が刻まれた石碑を寄贈され市道際に建立されている
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)ほか


実はこの前の市道は車で少なくとも3度ほどは通過している
真新しい存在は視界に入っていても脳裏には刻まれない精神構造なのか
いやそれが当たり前のそうした年齢となってきたらしい

 
◎伝源義平墓所(群馬県太田市)
8時55分から9時05分

義平の許婚者であった新田義重の娘がその菩提を弔ったと伝わる真言律宗清泉寺にその墓はあった
天然石を刻んだ墓標の文字は今もはっきりと分かる
風化や汚れなどの具合から見るとそれほど古そうには見えない
おそらくは12世紀当時のものではなさそうに思われる
※「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)ほか


辺りは閑静な集落の外れ
寺も無住となって久しいように思われた
ようやく雲が散り日が昇り始めてきた時間だが無性に侘しさがつのる光景が広がっていた

 
◎八坂神社(群馬県太田市)
9時10分から9時20分

峰岸氏によると足利義詮を名代とした討幕軍第2陣旗揚げの地点と推定されている
しかし現在の社殿の領域から見る限りでは狭隘な印象は避けられない
少なくとも軍馬を含めた数百以上の軍勢が集合するには明らかに容量が不足している
この点、誇大な表現が伴う「太平記」において、後述の新田義貞が旗揚げした「生品神社」での150騎(隋兵、非戦闘員を含めて500人前後)という記述に関しては概ね妥当のように思わたりする
建物そのものが昭和初期頃の建築なのでこれ自体が充分に文化財級ともいえるのだが
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)

なお社殿北側は山岳信仰系統の石碑類などがあり比高差2m前後の微高地となっていた


また参道入口近くには旧尾島村役場の建物が現存し、尾島の文化財センターになっている

ふと「遺物」の整理とその保管場所には何処も労苦が絶えなかったという現役時代を思い出す
そういえば最後に行った仕事が「文化財保管施設設置」であった
5年間ほど公設恒久施設計画を立て継続して予算要求
結果的には歪曲化が避けられず、ようやく退職の前年に経費も年間数百万円程度での空き倉庫賃貸物件契約となったが、「無いよりまし」くらいの効果はあったようだ

 
東田遺跡(群馬県太田市)
9時55分から10時00分

工場施設の増設による発掘調査に伴い確認された42m×38mという小規模な環濠遺構である
報告書には「14世紀から15世紀前半の有力農民の屋敷跡」と推定したらしい
この場合の「有力農民」層は「半農半士」である可能性が高い
「城館跡か環濠屋敷か判断せよ」などといわれると悩ましい規模であったようだ
工場施設と周辺の農地を眺めて目視による土地の起伏をメモ


この方式は遺構にはあまり縁の無い都内の探訪以来継続しているが、あとから思い出す時のヒントとなる場合も少なくなく意外に役立つことに気が付いた
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)

 
◎生品神社(群馬県太田市)
10時15分から10時40分

言わずと知れた新田義貞の討幕軍旗揚げの地である
平日でもあり境内南端に移設された「太刀を捧げ持つ義貞像」の傍に2人ほどの見学者が見られたのみで大木の多い薄暗い境内は森閑としていた
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)

 

◎小金井史跡公園
(群馬県太田市)
10時50分から11時00分

古代の集落跡(豪族屋敷跡)が復元保存されている
草刈りの整備は継続されている
「魅せる」屋外展示の難しさを体感
※太田市役所HP掲載の「中町・深溝遺跡」PDFファイル参照


 
脇屋館(群馬県太田市)
11時15分から11時35分

義貞の弟、脇屋義介の館跡と伝わるが委細不明
以前は畑の中にポツンと所在していたという館跡の石柱
現在は「住宅角のゴミ集積所脇」というロケーションに変貌していた
「脇」という部分ではたしかに語呂だけは合致しているのだが

「畑の中の標柱」というイメージで探していたのですぐには見つからず、いったん赤城神社の駐車場へ移動しあらためて徒歩で念入りに探してみると、何と始めに車を停めた場所から30mほどしか離れていない道路沿いの場所であった
見事なまでに電柱とゴミ集積所に紛れてしまっていたようにも感じる悲しさもあった (^^ゞ
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)


 
大島城(群馬県太田市)
11時55分から12時00分

西端が太田記念病院で南北方向に東武桐生線が縦断、東側が住宅地、南側に太田女子高が隣接という市街地
太田金山城が住宅の頭越しに見え隠れはしている
やむなく付近の水田などを眺めて2両連結が走行する桐生線の踏切を渡り大島館へ
※情報源「太田市史通史編」ほか


 
大島館(群馬県太田市)
12時05分から12時15分

群馬、埼玉ではお馴染みの「コメリ」西側辺り
道路の曲折に微かな面影を探す
地元旧家の一角に複数の土塁状の盛土あり
1か所は屋敷神の祭壇のもよう
もう1か所はやや細長い形状でこちらにも稲荷社のような小祠が見えるが関連性は不明
※情報源「太田市史通史編」ほか


 
北田環濠西(群馬県太田市)
12時55分から13時00分

太田の市街地で太田駅やスバルの工場も近く、そのほとんどが関連の駐車場となっていた
このため地表や土地区画からはかつての形状さえも浮かび上がらず
 


北田環濠東(群馬県太田市)
13時05分から13時15分

現状は県道沿いの市街地内で100ショップと激安スーパーの駐車場敷地である
その北寄りに幾つかの水路(跡)が所在し関連性はありそうだが、現在ではU字溝となり趣には乏しい
 


◎八幡山古墳(群馬県太田市)
13時20分から13時30分

国指定史跡でもあり、環濠集落の近くで駐車スペースが所在していることから必然的に立ち寄る
墳丘法面の一部に河原の丸石を敷きつめた個所がある
頂部に向かっていることから被葬者などの祭祀に関連した通路のようなものなのだろうか
関東の古墳に関する一般書を何冊か所蔵しているが通読未了のまま年月が経過している
雨続きであったため古墳の麓(水田)は水気が多い

 

大倉城(群馬県太田市)
14時00分から14時20分

この日最終の目的地だが、ようやく明瞭な水濠と土塁とに対面できた ^^
埋立てなどによりその景観は大きく変貌しているが、それでも民家北側と東側、西側の一部に遺構が現存していることが窺えた
※情報源「太田市史通史編」ほか


この時点で時刻は午後2時半を回っていた
天候は午後からは次第に曇りがちとなり、今は完全な曇天に変わった
このあと図書館に立寄る予定が、午前4時過ぎの起床のため次第に疲労感が蔓延
一日当たりの記憶容量も縮小する一方でもあり直帰することとした


帰りがけに深谷市の大寄で「ネギ味噌まんじゅう」を購入するつもりだったが、なんと毎週水曜日は定休日なのであった
このため2度目となる熊谷市内の梅林堂へ立ち寄った

物事を知るには多面的なアプローチも必要なので今回は城館以外の要素を加味してみたのだが、まるで「高齢者の史跡めぐり散歩」のような按配となってしまったようだ
今日も結局朝昼抜きで行動しはていたが、正味にして僅か4時間、約2万3千歩しか歩いていないにもかかわらず、何故か疲れたのでこの次は何か食べようと思った

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更新に伴う整理作業のためにいろいろと調べていったところ、次々と懸案事項が累積しました。

◎「大舘八幡宮」について
 南方約400mに所在する大舘八幡宮の縁起(※「新田一族の盛衰」(2003/久保田順一著/あかぎ出版)では大舘氏初代とされる家氏が勧請したとしているが、仮にこれが「現地説明板」に記されているように近世の建立(勧請あるいは再興か※この点について「角川日本地名大辞典」では「旗本(黒石藩立藩以前の津軽藩分家)津軽信敏の再建」としている)だとすれば大舘氏との関連性はどうなるのか)とその存在意義について

◎「近世津軽藩代官陣屋時代の実相」―陣屋支配の領域と代官陣屋の所在地

◎「その後氏明以降の大舘氏一族の事跡の記録―氏明の子であるとされている義冬(基本資料「大舘持房行状」)と氏清(基本資料「軍記関岡家始末」)ならびにその子孫の事跡とその記述内容に関する信憑性

等々次々と気にかかる懸案事項がいろいろと累積し始めてしまい収集がつかなくなっています。

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