2か月前の元々の予定では、今回は猪苗代湖南岸の低い山城を幾つか探訪することがメインであったのだが、寒波襲来による降雪と道路事情等を考慮し急遽計画を変更した。
旧田村町方面を除くと目ぼしい個所がそれほど残されている訳ではないような気もしなくはない。
本日の天気予報は「曇りのち晴れ」または「曇り時々小雨か小雪」と情報元によりかなりの幅がある。
昨日は予報が当たらずに本格的な雨または雪に見舞われることは無かったのだが、2日続いて天候に恵まれるかどうかは不透明である。
安全面を考慮すると降雪の影響を受けやすい西部地区は避けるべきであるので、やはりここは市街地近郊から阿武隈川東岸地域を回るのが無難であろうと考えた。
なおこの日は天候状態の判断と朝の通勤時間帯の道路混雑を見越していたために些か遅めのスタートになった。
凸桜内館(福島県郡山市)
9時10分から9時25分
2015年の秋に阿武隈川沿いに所在する城館跡を訪れているが、今回はその際に時間の都合などにより訪れることのできなかった、ほんの少し山の深い東側地域を中心に回ってみることとした。
横内集会所の西、県道を挟んだ向かい側比高15mほどの丘陵がその所在地とされている。
標高300m前後の低山の山間に小集落が点在している。
「まほろん」などの情報では「平場」が所在するのみの城館遺構であるらしい。
なお住所表記ではこの辺りは「西田三丁目」と記されてはいるが、住居表示である「西田3丁目」ではなく、あくまでも「三丁目」という大字名であるらしい。
さて西側の低丘陵が目的地であることは間違いが無いのだが、目標とする辺りに直接繋がるような道が見つからない。
止むを得ず南側から市道を迂回して丘陵の上の五差路となっている辺りへと向かってみた。
北東方向の手前に比較的新しい民家が2軒所在している一帯が目指すべき場所なのだが、唯一の道がどう見てもその民家への玄関口へと続いているのみであった。
西側の休耕地らしい地点から迂回を試みたものの叢生する民家裏の竹林に行く手を阻まれてしまった。
竹林を踏みしだく音は結構大きなものがあり、足元の状態も不明確であることから転倒しても困るので途中撤退することとなった。
凸西田山王館(福島県郡山市)
9時30分から10時40分
桜内館の東方約400mの地点に所在する。
名称のとおり館跡には山王神社の社殿が鎮座しているが、このように進むべき道が明確であるというのは有難い。
また神社麓でも軽ならば1台くらいは止められそうなスペースもある。
鳥居の先に北西方向に長く伸びた緩やかな参道の石段を上がっていくが、石段が北へと方向を変える個所はやや急な勾配となっている。
西側の桜内館に比べるとほんの少し山が深くはなるのだが、すぐ近くに民家も所在しているので
けっして人里離れたという環境ではない。
神社社殿とその東側を中心にして少なくとも4か所ほどの平場(削平地)を確認できる。
しかしこれらが中世城館跡に関わるものか、後の神社建立などの造成工事などによるものかその判断がつきにくい。
社殿は地山に所在している岸壁を削りそこに食い込むように建立されている。
なお北側からは車が通行できる道が上がってきている。
削平地の一部はその駐車場となっているようにも思われた。
なお、社殿西側から社殿の上へと続く山道(踏み跡)があり約150mほど先には奥社のような木造の小祠が存在していたが、この時点では倒木や風害などによりほぼ崩壊状態となっていた。
凸小矢館(福島県郡山市)
10時45分から11時15分
こちらも神社が所在していることから、少なくとも当該社殿までは道がありそうなので嬉しい。
県道115号線から高柴集落へと向かう市道を左折し約300mほど北上。
すると進行方向右斜めを登る狭い道がありこれを道なりに高柴二組集会所の方向に進む。
そこから約200mほど道なりに北上すると丁字路となりこれを左折すると進行方向右手に未舗装の林道を分ける。
その先は全く不明なので、1日当たりの通行量も数台程度と思われることから、ここで車を道路脇の空き地のような個所に駐車した。
北の方角に徒歩にて神社へと向かった。
比高差約20mほどの急な石段があるのでこれを登ると三渡神社の社殿が目に入った。
この辺りまで来ると流石に人家も少なくなり、一番近い人家でも南へ直線で300mとなってしまう。
あとから分かったことだが、その未舗装の道を車でそのまま登り途中で神社の方角へ戻れば境内へと出るらしい。
なお、東側約150mには小さいながらも「高柴ダム」の人造湖が所在しているように、この辺りの地形は谷筋が入り組んだ比較的水利の便の良い地形であるらしい。
この神社から南方へは谷津田地形がのびているのが見え、神社南から西へと向かう道路はそのまま谷筋を下ってゆく。
また、神社東側はほどなく三春町の行政区域へと続いている。
神社の背後にはお決まりの土塁状の地形が所在しており、この辺りの標高は360mを越えている。
しかしその現在のものはごく最近に修復されているものであることが素人目にも判別できるものである。
またたしかに一見土塁の様にも見えるのだが、実際には社殿の建立に当たりその背後の地山を削り取った地形であることも分かる。
尤も、「まほろん」などが指し示している地点は、この社殿から西へ約100mほど下った西側に張りだした尾根筋の辺りをいうようである。
むろんその先に明確な踏み跡などは確認できず、身動きがままならないような結構な藪でもある。
平場が存在するというだけの情報でもあり、かくしてまたしても撤退する羽目となってしまった。
凸板橋館(福島県郡山市)
11時35分から12時15分
前項の小矢館からは北北西約1kmの距離に位置するが、その来歴などは不詳であるらしい。。
「まほろん」などの情報によれば、西田町板橋集会所北側に所在する東側から張出した丘陵の先端部に所在しており、その南端部には熊野神社が鎮座している。
ここも神社が所在することから少なくともアプローチに苦労するようなことだけは無い。
麓からの比高差は15mから20mほどなので、それほど目立つような丘陵ではないが、いちおう西方の眺望には優れた地形であった。
熊野神社境内の方は特に目立つ地形は確認できなかったが、強いて挙げれば境内背後には腰郭のようにも見えなくもない削平地が所在していた。
尤も郡山地方にはありがちな圃場整備にともなう耕作地などであった可能性もあり何とも言えないところである。
丘陵は切通し状の市道により概ね南北に分断されているが、北西部には見事な屋敷構えの旧家が所在し宅地部分の法面が切岸跡のようにも見える。
またごく一部ではあるが西辺部には遠目にも低い土塁状の地形が目に入るがその経緯は不明である。
なお、丘陵の北端部に基壇上の地面の盛り上がりが所在しているが、小祠などが祀られていた跡のようにも見えた。
凸黒鹿毛城(福島県郡山市)
12時30分から12時50分
この辺りまで来ると、北側は本宮市との行政境まで約600mほどであり、驚くほど安達太良山方面の見通しが良くなる。
標高は僅か約350mほどなのだが、このように北方の眺望に優れた場所である。
また県道などの幹線道路からは少し離れているため、この字「舘」の集落は山村のような趣さえも感じられる。
「田村郷土史」などによれば、田村月斎の次男新田土佐守顕成の居城といわれているらしいが、
「同史」での名称は「黒鹿毛山館」として記されている。
また廃城は天正18年(1590)秀吉の奥羽仕置による田村氏改易の時期であるともいわれている。
現在容易に確認できる遺構は北側の東西に分断された一条の土塁のみであり、西側の比高差20mほどの本郭方面は藪が多く民家の裏山になっていることを確認するのみにとどめることとなった。
また東側にもそれらしいピークが所在しているが、同様の事情から確認できてはいない。
なお、南西約600mにはペグマタイトの岩脈で有名な鹿島神社がある。
凸八山田鹿島館(福島県郡山市)再訪
13時30分から14時00分
鹿島神社社殿裏の土塁地形周辺の再確認も含め、隣接する八山田館方面に赴く関係もあり再訪してみた。
当該土塁の北西側および北側の様子並びに北東部の谷津田などの位置関係もあらためて確認ができた。
凸八山田館(福島県郡山市)
14時15分から14時25分
前項の鹿島館からは西に僅か100mほどしか離れていない城館跡である。
両者は幅約100mほどの谷津田を境に近接しており、当該伝承の類を含めてやはり前項の鹿島館との関係がますます分からなくなってきた。
集落内の市道沿いに土塁状の地形が散見されるが城館跡との関連は不明である。
凸山崎館(福島県郡山市)
14時30分から14時35分
「福島県の中世城館跡」に掲載されているだけで、「まほろん」などには掲載されてはいない。
また、その所在地についても凡その位置が示されているものの、現状では丘陵北側の緩斜面というだけでこれといった地形上の特徴が見いだせない場所であった。
この日はまたしても天候に恵まれ、大方は曇りであったものの時々薄日の差し込むような天候であり、1日目に比べれば遥かに風も弱く小雪の舞うような場面もなく、相変わらず気温は低いものの城跡探訪には絶好の陽気であった。
けっして目ぼしい遺構に対面したという訳ではないが、成果のひとつとしてはひととおり旧西田町方面を3年がかりで廻り終えることができたことが挙げられる。
この季節には午後2時半を過ぎると太陽の傾きが早くなり、西側に厚い雲があればほぼ日没前のような日差しとなる。
けっして足のいくような成果を伴ってはいないのだが、また少しだけ郡山市の未訪問の城館跡が減少したことだけは確実である。
午前2時30分、当初の予定よりも少し早めに自宅を出発。
近所の三芳PAから高速に乗り圏央道経由で東北道を北上。
羽生PAにて山菜うどんで早めの朝食。
前回遠征の二戸、八戸方面に比べれば郡山市は三分の一ほどの距離ではある。
5度目の訪問でもあることから、もはや遠方に赴いたというような感覚は全く無くなっている。
東北道は宇都宮を過ぎると車線が減少し道路照明も殆ど無くなる。
時速80km走行の安全運転のため単独走行となり結果的に前方が見づらい。
以前から薄々感じてはいたが、年齢的に長時間の夜間高速走行はそろそろ限界のようだ。
途中那須高原手前辺りから西寄りの横風と共に小雪が舞い始める。
「横風注意、制限速度80km」の情報が流れているが、幸いにして未だ積雪や路面凍結に至るような降雪ではない。
横風と小雪に些か悩まされつつも、ほぼ予定通りに午前5時半過ぎに福島県の安積PAへと到着した。
予定通りに今回はここで暫時仮眠して、今朝からの行動に備えることとした。
自宅からこのために持参してきた毛布が予想以上に温かく2時間ほど熟睡。
連続や厳冬期でなければ、車中泊も可能な体質らしいことに気づく。
仮眠後に郡山南ICで東北道を降り市内の一般道を東へ向かった。
なお数日前までは本来猪苗代湖南岸方面の山城を中心に数か所を巡る計画であったが、当該方面の降雪と道路事情等を考慮して直前になって郡山市内での行先を変更することとなった。
凸篠川城(福島県郡山市)
午前8時20分から9時30分
そもそも昨年の2016年11月に訪れた折の最終日に訪れる予定が、局地的な降雨に見舞われて国道4号線を南下している途中で断念したという経緯がある。
この日は天候の先行きが思わしくなく、かつ宿泊先のビジネスホテルから道程にして3km以上はあることから、徒歩での探訪は余りに効率が悪く今回のアプローチの選択肢からは除外した。
然しのっけから駐車場所探しに苦労して、結局合わせて県道を2kmほど往復する羽目に陥ってしまった。
奥州街道でもあるこの県道355線は城館跡を南北方向に貫通しており、交通量は決して少なくは無い。
この日は日曜日ではあったが、土地柄であるのかどうかは不明だが、その幅員の狭さに比して交通量は多く車のスピードも出ている。
また最も城館遺構らしい稲荷神社へは、道幅も極めて狭く自転車や徒歩によりアプローチする以外にはなく車での進入は禁止されている。
周辺にはいくつか神社なども所在するのだが、暫時駐車できるような個所がほとんど無さそうな様子である。
このため当初は500mほど離れた休業日の郵便局駐車場に停めさせていただいたのだが、東館稲荷神社の遺構を拝見した後は城館跡の中に所在する地元集会所脇へと移動しあとはできるだけ急ぎ足で駆け回った。
というのもこちらも3台分と些か手狭で、当方は明らかに部外者でもあることから常識的には遠慮すべきなのであろう。
やはりこうした現状では、約400mほど離れている国道4号線沿いのコンビニ辺りで買い物をするのがベストなのかも知れない。
話が前後するが東館稲荷神社へはその社叢を目安にして阿武隈川の左岸堤防の歩道から徒歩でアプローチした。
県道沿いから探したのでは路地も狭く初めての人間にはやや分かりにくいように感ずる。
比高差のある堤防上から南方を見渡すと、ひときわ木立の目立つ林が目に入り、まさにその場所が稲荷神社なのであった。
阿武隈川と篠川城の遠景
東館稲荷神社付近 同 左
遺構としての一番の見どころはやはり神社社殿の所在する土塁であろう。
そのすべてが人工的に造成されたものではなく、あくまでも阿武隈川に沿った河岸段丘の地山地形を巧みに利用したもののように思われる壮大な規模である。
東館の南隣の地形 同 左
東館稲荷神社 篠川城址石碑
周辺部との比高差は約5m 社殿が所在する土塁の張出部
石祠の北側に続く土塁 南側から
東側から 北西側から
篠川御所付近(推定)
この周辺が最も城館跡らしい雰囲気が感じられる環境であることから、こちらの見学だけでも事足りるようにも思えたが、この際なので県道西側の方の現状も確認することとした。
字高石坊付近 同 左
県道西側の土塁跡 同 左
高石坊供養塔群解説 同 前
同 前 同 前
凸御代田館(福島県郡山市)
9時40分から10時10分
御代田城の所在する丘陵訪れたのはもう10年近く前のことになる。
館の主郭付近と思しき耕作地を目の前にしてふとひとしきり感慨に浸る。
直ぐ側を北流する阿武隈川 御代田城方面
たぶん御代田館の中心部付近
大正天皇即位記念碑
側面には「星ヶ城の旧址(きゅうし)天正年間在城 稲荷神社旧跡 大正2年4月10日郷社合祀」と刻まれておりますが、光線の関係で画像が暗く読みにくくなっております <(_ _)>
柿
ところが未だに直ぐ南方の丘陵地帯にに所在している「星ヶ城」あるいは「御代田城」との関連がよく分からないままでいる。
いずれにしても三春田村氏と葦名・佐竹勢との安積地方の領有争いに関連した城館であることには違いが無いらしいのだが。
凸正直館(福島県郡山市)
10時40分から11時20分
午後からの天候の推移が危ぶまれていたので、どうにか午前中に最低限の目安であった3か所の探訪を終えて一安心。
この城館も田村氏と葦名・佐竹勢との抗争をめぐり陣城として利用されていた可能性があるといわれている。
確かに西方約1kmに所在する御代田館、御代田城方面の動向を見定めるには恰好の小丘陵である。
画像中央の林が館跡
現在は切通しの市道により南北に分断されてはいるが、南側を中心に横堀、虎口などを伴う郭区画が確認できる。
また北側の菅舩大明神の東側にも土塁を伴う横堀が残存している。
神社東側の遺構
郡山市の郊外とはいえ、この辺りは遺構に接してその周囲に宅地が点在しており、この遺存状態は奇跡的でもありある種の感動を覚えた。
西側虎口状の地形 たぶん元は横堀
西側の横堀 西側土塁
なお寺院跡の石碑が建立されている正直公民館を含めた南北約200m、東西約150mがこの城館の領域なのであろうと思われた。
比高差は北側の水田面からでも約10m強に過ぎない小丘陵ではあるが、北方と西方の眺望は頗る良好であった。
凸大善寺西館(福島県郡山市)
午前11時40分から12時00分
大安場古墳公園の駐車場に車を止めて、徒歩にて南東にある目の前の丘陵へと赴く。
正式名称は「西館」なのだが、市内には同名の城館跡も所在することから便宜上大字名を付した。
阿武隈川支流の谷田川とその支流である前川が合流する地点に南東からのびた丘陵の先端部に所在している。
次第に雲行きが怪しく いざという時の保険
然しここに赴く際に前日からの天気予報で懸念されていたとおり次第に小雪が舞い始めた。
雪雲そのものは山間部での降り残しの断片なので本格的な降雪にはならないことは予想できたが、何分にもタイヤがノーマルであることもあり、いちおうは今後の展開如何では宿泊先のホテルまで撤退することも念頭に入れた。
青空は見えるが小雪の舞う天候 こういう地形が多い
またこの日のルートは天候を視野に入れて郡山の中心部から3kmに満たない範囲を移動するという計画であり、撤退を決断すれば遅くも10分程度で宿泊先のホテルに到着できるように算段をしていたので一向に慌てるような事態では無かった。
南側の神明宮 天候は相変わらず不安定
北方の大善寺付近が「館」、その南側に「中新屋敷」などの関連地名が遺されている。
概ね比高差15mほどの丘陵であるが、自然地形に近い切岸を除き丘陵上は宅地化、耕作地化が進んでおり城館遺構の形跡はあまり明確ではなかった。
凸大善寺東館(福島県郡山市)
12時00分から12時20分
前項の西館からは直線で南南東約200mの地点に半ば接するように所在しており、宅地化が進んでいることから両者の境界はあまり明確ではない。
同時代に存在していたのかは不明ではあるが、地理的には至近距離にあることから何らかの関連性が想定される。
字名は「上野」「上野代」のほか「上石切場」などの字名も所在している一帯で、集落内の路地を挟んでその南側には大善寺集会所の建物が所在している。
西側の外れの市道沿の民家宅地に土塁状の地形が散見されるが、後世の風除けなどである可能性も考えらなくはない。
民家境の土塁 同 左
また市道を挟んだその南側には、小さな石祠が祀られている眺望のよい小高い削平地が所在しており、物見のようにも見えなくもない。
石祠が祀られている個所 眺望はよい
◎大安場古墳(福島県郡山市)
12時20分から12時45分
かつては「東館」との地名の遺存から、中世城館跡との関連が想定された時期もあったようだ。
しかし現在では同古墳の学術的な調査により、あくまでも前方後方墳であるとされているとのことである。
公園のキャラクター 前方後方墳
10日ほど前には八戸方面に居たのだが、毎年この時期になると郡山市内に出かけている。
今年は冬型の気象が例年に比べて早く到来したらしい。
時々日差しが戻るものの、この日の午後1時頃過ぎ最高気温は摂氏6度だったのだが、それはあくまでも市内の観測点での数値である。
ここは郊外の丘陵地帯なので恐らくは摂氏3度前後、然も墳丘上は8m前後の強い西風が間断なく吹き続け耐寒気温は冷凍庫のような按配であった。
さすがに積雪までには至るような羽目には陥らなかったが、度々奥羽山脈を越えた雪雲の断片が飛来し時折小雪の舞う天候が続いていた。
次々と雪雲の断片が飛来
日曜日の昼間ではあったが耐寒気温も低いことから墳丘上に赴く見学者はほぼ皆無なようで、寒風の中で眺望のよい360度のパノラマ風景を約10分ほど独占することができたが、その結果漸く治りかけてきた気管支炎が復活し鼻水も止まらずに困惑することとなった。
凸田村小川館(福島県郡山市)
13時00分から13時30分
北と西に谷田川の支流である河川(前川か)が大きく蛇行し、南には谷津田が深く入り込み周囲から隔絶した地形を呈しているが、東側は地続きの丘陵であるため防備上の弱点を抱えた地形でもあるといえる。
圓龍寺付近 同 前
同 前 南側の谷津田
推定地域には「舘」および「戸ノ内」という城館関連の字名遺されている。
比高差は南側で約10m、北側の前川沿いで約15mと決して高くはないが、圓龍寺境内の所在する一帯とその北側の石材店に関連すると思われる旧家北西部は天然の要害地形の残滓を感じさせるものがある。
また当該旧家敷地内には一部土塁状の地形も散見されるが、当該城館遺構との関連性は不明である。
前川に面した北側 同 前
凸舘遺跡(福島県郡山市)
13時40分から14時00分
「まほろん」や「郡山市埋蔵文化財包蔵地マップ」の情報によれば、以前に一部発掘調査の行われた個所であり堀、郭、土坑、溝などが確認されているという。
なおこの点については当該発掘調査報告書を確認していないことから、現時点においてその詳細は把握できていない。
また「郡山の伝説」(1981年刊行/郡山市教委)によれば、「手代木城」に関する伝承も伝わっているとのことである。
保険 宅地北側部分
宅地東側部分 宅地南側部分
なお翌々日には市立図書館に立寄り関連資料を調べたが、時間不足などのためこの城館跡に関してはその詳細を確認することができなかった。
この一帯は圃場整備により地形の改変が行われており、切岸状の地形も確認できるが、その旧態の詳細を把握することが難しい。
ただし該当地の宅地一帯が周囲の耕作地よりも高位に所在していることだけは確認できる。
また該当地には「舘」の字名が残されていることも館跡としての傍証になるものなのだろう。
新しい盛り土
凸城山館(福島県郡山市)
14時15分から14時35分
舘遺跡から見ると直線にして西方約500mの東西方向にのびた丘陵の西端に位置しており、南側には谷津田が東西に伸びており、大安場古墳からはその谷津田を挟んだ北側約400mの地点でもある。
東側の尾根続きを除いた三方は急傾斜地となっており、自然地形としてもその要害性は高いものを感じる。
南方からの遠望 愛宕神社の西麓
当地には愛宕神社が所在しており、比高差10mほどの西側麓の石段からアプローチした。
この石段が敷設されているので難なく登れるのだが、その傾斜角度は45度前後の急傾斜である。
神社ではあるのだが、現在その境内地には社殿は無く小さな石祠が祀られているのみである。
境内東側の謎の地形
樹木の抜根跡にしては大きすぎる池跡のような窪地と微高地が所在していた。
神社などではよく見かける中段の削平地なので腰郭であるのかは不明(^^ゞ
東側丘陵続き部分を除き眺望に優れており、特に西側の阿武隈川支流谷田川方面の眺望が良好である。
:境内の石祠 南側の谷津田
凸館屋敷(福島県郡山市)
14時40分から14時50分
西田町支所前に駐車して徒歩にて目の前の丘を徘徊したが、宅地の間に耕作地が残る平坦な丘陵の緩斜面というだけで、見事なまでにそれらしい景観が遺されていないことが確認できた。
北側の眺望は良好
この時点で日没まで多少の時間的余裕は存在したが、低温と寒風により次第に気力と体力の低下を感じ始めていた。
この日の幕引きに相応しいエンディングでもあることから、翌日以降の予定も考慮して幾分早めの撤収を決断した。
これが、たまたま目ぼしい遺構などを目にしてしまうと、無理をして日没後まで活動してしまうような羽目に陥ることも想定されることから恰好の契機でもあった。
この日は以前は城館跡とも伝わっていた古墳公園を含めて都合10か所である。
予定では最大12か所を想定していたが、前日の天気予報では雨と雪であったことから、最悪は0か所、どうにか3か所くらいは行ければ、と踏んでいたことから考えれば上出来の部類であった。
そういえば最近は目的地探しで迷うようなことは余り無くなってきたようだ。
事前の書籍などの基礎資料などの読込に加え、近年では城巡り人気を背景に電子国土、他のウェブ地図、各種航空写真、城館関係のネット情報などがある意味過剰なまでに潤沢な時代となってきている。
管理人が本格的に城跡巡りを始めた2000年代の中頃に比すとまさに様変わりした感がある。
あれこれと試行錯誤しつつ彷徨うのも楽しみのひとつなのではあるのだが、年齢的にそうした時間の余裕は残されてはいないように感じ始めている。
季節が進み日の傾きがさらに早くなったようだ。
温暖な快晴であれば午後4時頃まで行動することも可能である。
しかし生憎と西の空には分厚い降り残しの雪雲がかかり、早くも午後3時前には黄昏時を迎えていた。
みちのくの4日目になった。
計画では帰宅の予定日である。
来訪以前には2日程度の滞在延長も考慮していたが、どうにも気管支炎が改善しないため当初の予定通り素直に帰宅するのが大人の常識というものである。
そうはいっても帰宅に伴う高速走行は元々夜間を予定しているので、午後3時過ぎくらいまでは滞在することが可能なはずである。
「ホテル内で待機中」
開館時間は午前9時なので、8時20分頃まで宿泊しているホテルの室内で待機することとした。
ベッドに横になるとそのまま二度寝しそうになることから、椅子に座り所在なくボーッとして朝ドラを見ていた。
◎八戸中央図書館
午前9時00分から10時30分
さて本日の予定だが、図書館は今のところ1日目の二戸市だけしか立ち寄っていない。
南部町にはいわゆる公民館図書室のようなものしか無いらしく、著作権法に照らせば法的に資料複写ができないという制約がある。
一方八戸市の中央図書館はそれなりに自治体史関係も充実しているので、まずはこちらの方にて閲覧・複写を行うこととした。
現在の南部町は旧南部町、福地村、名川村が合併しているので3か所分の閲覧・複写を行った。
なお八戸市史関係は刊行年次も新しくボリュームが大きいことからこの際なので購入することとした。
「紅葉」
朝方の交通渋滞を考慮して早めに向かったところ早く来すぎてしまい、止む無く同じ敷地内の公園を散策していた。
「図書館・公民館の庭園」
折から鍵の手状の築山の紅葉がなかなか良い具合であった。
「佳景」
全体として資料が豊富であり、あれやこれやとついつい目移りしてしまった。
このため30分程度で退出する積りが、1時間半も費やしてしまった (^^ゞ
凸古館(青森県南部町、再訪)
11時00分から11時30分
「福地村史」に記載されている古館の領域を確認すべく再訪した。
たしかに虎口とも想定できるルートだが・・・耕作のための農道にも見えるのだが
この部分は確かに館の一部として考えても良さそうな地形ではあるが、厳島神社が所在する郭までの距離がいくぶん大きすぎるようにも感じる。
この画像左側部分を郭跡と見るのは、後世の開墾などにより地表の改変があるとしても如何なものだろうか。
馬渕川の船着場の拠点として、向側の平坦地までを含めるのはどうなのだろうか。
執筆者も地籍図を基にいろいろと試行錯誤を重ねて熟慮したものであると思われるが、やはりこの地域の領主層の館跡としては過分な規模であるように思われた。
凸森ノ越館(同上)
11時25分から11時50分
館跡の東側は道路であり、堀跡の名残のようなものは見受けられない。
集落北側には堀跡の形跡は感じられない。
「民家裏側の段丘」
「稲荷神社」脇の崖下へと続く里道
「稲荷神社」
「崖下へと降りる里道」
「北側の崖線部」
年月の経過がに起因しているものなのかも知れないが、やはり「青森県の中世城館」に掲載されている略図のイメージとはかなり乖離しているという印象があった。
凸三戸城(青森県三戸町)
12時30分から15時00分
「中腹の城址碑」
永禄年間頃、南部晴政の代に聖寿寺館よりこの地に転じたと考えられているらしい。
その後南部氏の盛岡城への転出後においても、古城として維持され江戸時代の貞享年間頃に廃されたとも考えられている戦国期から近世の初めにかけて使用されていた城郭である。
「解説版」
「本丸跡石碑」
「発掘調査中」
故馬場のぼる氏ゆかりの地
「江戸時代初期の三戸城」
現在の状況に合わせた遺構、史跡などの説明があると嬉しいのだがパンフレットもこれと同様のものであり見当たらなかった。
「模擬櫓の資料館」
「淡路丸」付近
「鍛冶屋御門」の石垣
秀吉の奥羽仕置き以降、延べ3度にわたり積み直されているらしい。
「糠部神社境内」
「鹿園」
おりしも雄鹿が角を突き合わせている最中で、時折発するその乾いた衝突音が人気のまばらな城山公園内に響き渡っていた。
「綱御門」
平成元年にふるさと創生事業により建てられたバブル期の観光施設に近い櫓門ではあるが、こうしてある程度年月が経過してくるとそれなりに風景になじんでくるらしい。
石垣の処理が何とも言い難い粗雑さを醸し出していたように思えた。
この城跡は「県立城山公園」として整備され、春には1600本の桜が咲き誇るそうである。
「三戸城遠景」
三戸高校の付近から撮影したものである。
このあと町内の三戸図書館に立寄り三戸町誌を閲覧の上複写申請をした。
こじんまりとした小さな図書館であるが、金はかけずに手間をかけた資料展示の工夫にひとしきり感心。
これで二戸、八戸、南部、三戸関係の基礎的な資料はいちおう揃うこととなった。
しかしあまりに往復に要する時間がかかることから、次の遠征があるのかは自分でも分からないでいる。
日没前の午後4時頃に図書館を退出。
もと来た国道4号線へと戻りそのまま南下し、最初の日に訪れた二戸市を通過したあたりから次第に空模様が怪しくなり始めた。
一戸町に入ったあたりからは完全な降雨となり日没前にもかかわらずライトを照射し走行した。
岩手町の辺りでは日没となり国道4号線は完全に真っ暗闇に包まれた。
国道340、395号線に比べればアップダウンとカーブが少ないものの、道路照明はほぼ皆無に近く、雨も本降りとなってきた。
やはりこの辺りの走行に不慣れなものにとっては気疲れの伴う運転となった。
それでもどうにか予定通り滝沢ICから東北道に乗り、本降りの闇の中をひたすら南下。
雨は紫波SA付近でようやく小止みになり、同SAにて「かつ丼」で夕食。
途中安達太良にて給油し、その後は安定走行を続ける大型車をマークしつつ時速80kmから90kmで休憩なしの夜間走行。
このような事態を想定し前日の睡眠時間は約9時間を確保していた。
その後深夜午前1時前に無事自宅到着。
かくして帰路も夕食、給油などを含めると約9時間を要した。
みちのく遠征3日目にしてようやく南部氏宗家の拠点方面へと向かうこととなった。
今までに訪れたことのない見知らぬ地域ではあるが、2日間ではあるが二戸市、八戸市を探訪したこともあり、ある程度の方向感覚を含む地域の地理的特性を把握し始めてきたように感ずる。
いくら気管支炎発症中とはいえ、みちのく滞在2日間で僅かに探訪7城館ではあまりに情けない。
幸いにして馬渕川沿いには大小の館跡が点在していることから、これを三戸街道に沿い遡上していけば、ある程度の数はこなせるかも知れない。
凸法師岡館(青森県南部町、旧福地村)
午前8時05分から9時10分
「月山神社」
館跡付近には駐車場所が無いので、短時間ならばこの神社の参道手前やこれに隣接した農村公園の辺りに駐車させていただくのが良さそうに思える。
「古戦場標柱」
月山神社隣の農村公園北の一角で県道134号線沿いに所在している。
天正19年3月(1591)浅水城の南盛義兄弟が九戸方の櫛引城攻略の途上に当館を攻略すべく包囲したが、櫛引氏の後詰により月山神社周辺で討死を遂げたともいわれている。
これについては現地の標柱、および「南部諸城の研究」からの引用に過ぎないものであり、全く史料読込ができていないことから、今のところその典拠となる史料の存在、史実としての正否については把握できていない。
ただし一般論で言えばその合戦の規模は両勢力を合わせ多くとも数百人程度の規模であろうと推定される。
なおこの際に一時的にデジカメのレンズフード(約5千円)が行方不明であると思い込んだ。
そうした些細なことなどでいささか焦り気味となり神社での参詣を失念してしまった (^^ゞ
ただし、画像右側の案内標識の指し示している方角には「解説版」が所在する場所とは逆方向を示しているように思われ些か問題がある。
「鈴なりの柿」
「南西方向からの遠景」
この方向からウェブ地図では農道が堀跡付近まで続いているように記載されているが、館跡南東部付近で行き止まりとなり、かつ堀跡などの地表上の凹凸は確認できなかった。
「案内標識」
八戸市から国道104号線経由で高岩の信号を左折(手前が新道で、400m先が旧道だが馬渕川を渡過する橋の手前で2つの道は合流する)し馬渕川を渡るとこの案内標識が設置された分岐に出る。ここを標識の指示に従い左折すれば下記の「解説版」が設置されている個所に到達する。
「北西部付近」
この場所での路駐は幅員も狭く急カーブもあり、迷惑かつ危険であることから厳禁である。
「解説版」
九戸政実の乱に際して九戸方に与した当城は三戸南部方である八戸氏、中野氏の攻撃を受け落城したともいわれている。
この城を支配していた櫛引氏一族小笠原兵部(櫛引清長の弟清政とも)は、その当時は主力を率い九戸城に籠城しており、城側の守兵(おそらく数十名前後か)はその防御線の長大さに比して極めて手薄であったことが窺える。
「主郭北西部」
画像右端が主郭部に相当するのだが、果樹園として使用されているので「立入禁止」の木札が掲示されていた。
このためその内部の仔細は不明であるが、電子国土などの地形図を参照すると南東に向けて次第に標高が高くなっていることが記されている。
「内側の堀跡」
残存遺構としての三重堀が期待されたのだが、残念ながら現地を見た限りでは三重が確認できる個所は北西部から南東にのびる道路に入って約100mの地点付近の一部分のみであるように思われた。
また全体として藪に覆われ、耕作地化に伴う埋立てなどの影響もあり、見栄えのする堀跡地形はこの小祠が所在する上記画像付近に限られていた。
なおこの旧福地村は「福地ホワイト」(ニンニクのブランド)の原産地として全国的にも有名であるという事実に気が付いたのは帰宅後に見たテレビの通販CMによるものであった (^^ゞ
凸苫米地館(青森県南部町、旧福地村)
午前9時40分から10時10分
「馬渕川の早瀬」
馬渕川の流路が当時のままということは考えられないので、この早瀬が以前からのものであるのかは不明であるが、九戸政実の乱当時にこの馬渕川を浅瀬を探索しつつ渡過してくるというのは相当に骨の折れる城攻めであったような気がする。
また仮にこの早瀬を渡るとすればかなりの確率で溺れることは必定であろう。
「主郭より馬渕川を望む」
現在は「ふれあい公園」の一角に所在する展望台のような按配となっていた。
「主郭南側」
「虎口位置は不明」
事前の想定通りきっちりと公園化が図られており、虎口などの形跡は微塵も感じ取ることはできなかった。
「主郭北側」
比高差10m未満の独立丘陵であるため、地形図には表記されてはいないのだが、周囲の見通しは極めで良好であり、とくに馬渕川と三戸街道方面の見通しに優れた地形であった。
「現地説明版」
同様の解説版が公園の管理等外壁にも設置されていたが、そちらの方はかなりの経年劣化が見られた。
この比較的新しい解説版は材質の特性なのか、設置後既に20年以上風雪に曝されているにも関わらず良好であった。
「三戸館持支配帳」によると「苫米地館300石苫米地因幡」と記され、また「九戸戦史」によれば南部氏に与したこの館は、天正19年3月13日(1591)三戸城攻略の橋頭保とすべく九戸方の櫛引清長、一戸図書ら兵500の攻撃を受けたが、寡兵を以て高橋駿河とともに守り切ったとされているが、あくまでもその史実としての正否は不明である。
「主郭北側」(北東隅から)
南側、北側ともに比高差は5mから6mではあるが、馬渕川の旧流路ないしは分流である北東側の水濠などにより、往時においてはそれなりに要害性のある地形であったことが偲ばれる。
「水濠跡とも」
馬渕川の旧流路ともあるいはその分流とも考えられる水濠跡である。
北側から撮影。
「観光案内版」(役場前)
このあと南部町役場に立寄り休憩と情報収集。
庁舎内の自販機にて「梅よろし」ホットを3本購入して今日明日の喉の渇きに備えた。
また合併後既に10年を経過しているものの、所管課相互における文化財情報を含む観光資源の情報共有促進が依然として課題であるようにも感じられた。
凸福田館(青森県南部町、旧福地村)
10時45分から11時00分
「館跡」(南東隅)
「青森県の中世城館」の記述によれば館跡は東西に分かれていたとされており、この瑞泉寺境内が西の郭の南側に相当するはずである。
「曹洞宗瑞泉寺」
寺院参詣者用の駐車場はこちらの場所ではなく、寺院角の十字路を北へと向かうと路地の西側に入口がある。ただし、このことを知ったのはこの探訪を終えて次の目的地へと向かう直前であった (^^ゞ
「解説版」
この解説版に記述によれば、東西170m、南北230mでかつては二重または三順の堀がめぐらされていたとのことであるが、現在は北側と西側の一部に残存しているだけらしい。
代々福田氏の居館とされ、天正年間には福田掃部が南部利直より1千石を給され、元和4年(1618)には福田治部が南部利直から500石を給されているという。
その後三戸南部氏の盛岡への移転により福田氏もこの地を去り、寛文5年(1665)八戸藩成立に伴いその支配下に置かれたという。
こうしたことから「居館」としての歴史は、遅くとも福田氏の転居によりほぼ消滅したものと考えられる。
「たぶん堀跡」
西側の堀跡の一部ではないかと思われる地形が境内墓地裏で見かけられた。
本来であれば北辺部の堀跡も踏査し確認せねばならないのだが、この時には適当な駐車場所が見つからず断念した。
「里道」
境内墓地のすぐ北側にも窪んだ地形が所在しているが、これは境内墓地と山林部分を区画する里道のようなものではないかと思う。
「堀跡だったかもしれない墓地」
前掲の画像に繋がる位置にあることから堀跡であった可能性が想定された。
凸古館(青森県南部町、旧福地村)
11時10分から11時30分
※「福地村史」(2005年刊行)では福田古館と呼称し、その領域を大きく拡大した説が掲載されているが、現地解説版では従来の「青森県の中世城館」に記されている内容に従っている。
前者は地籍図に基づく踏査が中心であるものと推定されるが、傾聴に値するものと思われる反面において、余りに城館としての範囲を拡大する向きがあり、当時における当該支配層の資力、軍事力などから想定すると徒に過大となるようにも思われるので今後における精査の必要を感じる。
「厳島神社境内」
「厳島神社社殿」
近年の造立だが、閑静な境内地に比してその著しく豪壮な佇まいに圧倒される。
「現地説明版」
こちらの解説版の記述では従来の単郭説をとっている。
また、この解説版では福田館の古館説を示唆している。
しかし、上記「福地村史」では同時代存在説も提示し、福田館の隠居所としての機能を想定しているが、この説によれば殊更に過大な城館規模であるように思われる。
「二重堀の内堀」
多少埋没気味ではあるが、往時を髣髴とさせるほぼ完全な二重濠が残存していることに瞠目してしまう。
「二重堀の外堀」
「郭南東部」
降りてみるまでもなく、現在でも這い上がるのには至難の業となるだけの傾斜がある。
「郭の西側」
県道134号線沿いは県道の拡幅工事などにより一部その景観が変貌している可能性も想定されるが、神社境内入口付近を除き数メートルの比高差を有しているが、主郭部としては些か防備の弱さを感じる。
現在二重濠は県道手前で消失しているが、本来はこの切岸部分の下を巻くようにして巡っていたのだろうか。
「郭南西隅」
画像手前部分からの谷川の水が画像左側の水路へと勢いよく流れている。
近年の水路部分の開削もあり、郭南西隅の部分は10mを超える見上げるような比高差になっていた。
凸森ノ越館(青森県南部町、旧名川村)
11時50分から12時00分
馬渕川右岸の崖線上に所在する館であり、その北西部は30m前後の断崖を形成している。
剣吉館北一族である北十左衛門直連(500石)の首塚ならびにそのかつての居所でもある森ノ越館の標柱である。
また新堀作兵衛(300石)の館とも伝わる。
県道134号線の走行中、たまたま目に解説版の姿が入ってしまったので停車してみたまでである。
本来は立ち寄る予定が無く、この時には資料は持ち合わせてはいなかったことからそのままスルーしてしまうことも考えた。
しかし青森県自体を今後において再訪できるかどうか全く不透明であることから立ち寄ってしまった。
「森ノ越館」
「青森県の中世城館」によれば、北側に長さ100mの堀跡が残ると記されているのだが、残念ながらそれらしい地形を確認することはできなかった。
あまり時間が無かったせいもあり、些か城館としての縄張が想定しづらい印象があった。
「標柱と説明版」
そろそろ標柱としての耐久性が限界に近づいているようであった。
「説明版」
画像中央部の黒い模様は穴である。
「首塚の石碑」
大阪の陣をめぐる外様大名の置かれた苦衷が偲ばれる悲話である。
同 上
凸上名久井館(青森県南部町、旧名川村)
12時20分から12時45分
約300mほど離れた中央公民館駐車場に車を停めさせていただき徒歩にて探訪した。
「東郭」
三戸南部氏の重臣である東氏、東彦左衛門3000石の居館であったとも伝わるが別に下名久井
館も存在していることもあり、むしろ詳細は不明な部分が多いものと考えられる。
なお「日本城郭大系」では元々は工藤氏の居城(※むしろ屋敷と解すべき)であったとしている。
なお画像中央部のボケは保護フィルターの汚れである。
「丘陵先端部」
目測で比高差10m前後を有する丘陵先端部を利用した館である。
「水路」
往時には自然の堀としての役割を担ったかも知れない丘陵南西側の水流である。
「西郭」
東西の郭の周囲には画像左側のように一段低い細長い地形が確認できる。
これを帯郭ないしは堀跡と見るか、その後の開墾に伴う地形と見るのか悩ましい。
「東郭の果樹園のリンゴ」
そろそろ収穫の時期は過ぎたらしいのだが、秋の日差しをたっぷりと浴びたその色鮮やかなリンゴの色彩が目に焼き付いている。
南部町内ではたまに道路が渋滞していることがあったが、その先頭には必ず収穫済みのリンゴを満載した軽トラが安全走行しているのであった。
リンゴ園の収穫の最盛期にはリンゴ泥棒と誤認されぬようくれぐれも自制と配慮が求められると思われた。
「標柱」
2014年12月22日に設置された比較的新しい標柱が、東郭の西辺道路沿いに設置されている。それ以前に設置されていた木製標柱とほぼ同様の位置であった。
仮にこの標柱の存在がなければ、この場所が上名久井館であることは気づかれにくいものと思われた。
標柱1本とはいえ、設置にはそれなりの費用も掛かることから誠に有難い配慮である。
「西郭」の上部
西郭の大半は宅地で一部が畑地だが無論土塁などの表面的な遺構を観察することはできない。
「東郭」の上部
東郭はこちらの標柱が設置されている近くの民家宅地のほかにはリンゴの果樹園が広がっている。
「搦め手」方面とも
沼館氏の著書である「南部諸城の研究」によれば、画像奥の辺りが城館の搦め手であったと推定しているが、その面影は微塵も感じ取ることができなかった。
「侍屋敷と西郭」
画像左側が侍屋敷で、右側が西郭に相当するらしい。
「侍屋敷」方面
直属の家臣団に関連する屋敷群が置かれていたことによるものだろうか。
丘陵西側の防御は丘陵と地続きであるため他の三方に比べると明らかに手薄である。
帰路は大手方面とされる北側から戻ったが道路がクランクしている以外には往時を想起させるような地形上の特徴を見出すことはできなかった。
凸平良ケ崎城(青森県南部町)
13時35分から13時45分
字名は南館で道路北側の北館を含む南に突出した丘陵先端部が館跡ということになるものと考えられている。
現在は北東に移転した南部中学校の校地であったために台地地形以外には遺構は存在していないという。
「推定堀跡」
かつては画像左側の北館方面との間を隔した東西方向の堀跡が存在していたと考えられる市道である。
「日本城郭大系」と「青森県の中世城館」に掲載されている情報を総合するとこの辺りに幅5mの堀跡が残存していたということになるようである (^^ゞ
なおこの直後に聖寿寺館おいて入手したパンフレットの案内図にもやはり堀跡として記載されていたことからたぶん間違いは無さそうである。
「旧南部中学校入口」
この車両進入防止の柵の前にも駐車できなくはなかったのかも知れないのだが、情報の収集などもあることからあくまでも良識を重んじて南部分庁舎(旧南部町役場)の駐車場に停めさせていただいた。
「枯草に覆われた校庭」
不審者ではないことから、まさか街中で鉈を携行するわけにもいかず、せめて解説版の周辺だけでも草刈りができなかったことが心残りではあった。
「説明板」
数本の枯草を引き抜き、抜けない枯草を両足と左手で押さえつけて撮影した説明板である。
三戸五城とはこの平良ヶ崎城(※「館」とも)を含む「聖(※「正」とも)寿寺館」「大向館」「馬場館」「三戸城」をいうとのことである。
諸説があり、建久3年(1192)この地における初代である南部三郎光行の築城と伝わるが、無論最終的には戦国期の改修を経ているものと考えられる。
「聖寿寺館」がその居館としての役割を担ったのに対して政庁としての機能を有したとも伝わるようである。
五戸方面と八戸方面に通じる街道の分岐点にもあたる枢要の地でもあった。
「北館」方面
この山の北方が五戸方面へとつながっている。
「名峰名久井山」
南部のシンボルのような特徴のある山容で標高615mを測る。
その向こうが三戸町になり、さらに岩手県二戸市へと続いている。
凸佐藤館(青森県南部町)
13時45分から13時55分
平良ヶ崎の西側に隣接していることもありついでに立ち寄った。
この際なので、そのまま歩きながらぐるっと周囲を回ってみた。
「佐藤館」遠景
東の平良ヶ崎城から五戸へと向かう県道233号線を挟み隣接している。
平良ヶ崎城側より撮影している。
佐藤兵衛の居館と伝わるようなのだが、どのような一族なのであろうか今のところ皆目不明である。
「佐藤館」近景
東側の県道233号線沿いから撮影した。
東西100m、南北150mの範囲とされているが、平良ヶ崎城の四分の一ほどの規模に過ぎない。
「青森県の中世城館」によれば、かつては西側に幅10m、深さ5mの堀跡が南北方向に続いていた旨が記されている。
現在はおおむね果樹園(一部宅地)となり東側の段丘部を除き地表の形跡はほぼ失われている印象があった。
「堀跡付近」
この辺りの道路沿いにかつては堀跡が存在していたらしい。
「果樹園のリンゴ」
収穫されるのか、しないのか、その行く末が気がかりなほどに赤みを帯びたリンゴであった。
「旧南部町役場」
少し歩くことにはなるのだが、こちらに駐車させていただくのが一番間違いがなさそうに感じた。
「名峰名久井山」
凸聖寿寺館(青森県南部町)
14時25分から15時15分
南部氏宗家ともいわれる三戸南部氏の故地で国指定史跡でもある。
今年の4月1日にオープンした「史跡聖寿寺館跡案内所」も所在し、配布用のパンフレット類が常備され発掘の成果を説明する展示パネルも設置された職員常駐のミニ資料館となっており休憩も可能である。
「史跡案内板」
嗜好性の関係上から、あまりこういった立派な史跡案内板とは縁が無く、正直なところ露いくぶん気恥ずかしい。
「史跡標柱」
撮影には些か不向きに感じられた設置場所とその向き。
正面から撮影しようとすると堀跡に足を踏み外す恐れあり。
斜め方向から撮影しようとすると肝心の文字が見えなくなるという按配なのであった (^^ゞ
「大型倉庫の復元柱穴」
「人慣れしているネコさん」
ついつい本来の目的を離れ20分ほど遊んでしまった。
「黒の方は警戒中」
「発掘調査中」(以下撮影了承済)
「西辺付近」
辺縁部に土塁状の盛り上がりがあるような無いような.. (^^ゞ
「名久井山」
「南辺付近の発掘」
この辺りに虎口跡といわれる場所があったような気がするのだが..
「堀跡だろうか」
「東側の辺縁部」
今月14日開催予定の発掘調査説明会を前にした報道向け発表が行われていたが、結果的にその参加者に混じり館内を見学することができた。
現役時代の仕事との関わりもあり、公有地化の問題も含め、あらためて文化財として見せ方の工夫と文化財保護とのバランスの難しさを痛感した次第である。
日没までの時刻には今少し余裕があったのだが、半ば病人のような容態でもあり、翌日の帰還行動をより安全で確実なものとするため少し早めに撤収することとした。
この日はほどよく城館跡が分散された馬渕川沿いの探訪であり、このようにして何とか9か所を回り終えることができた。
遅まきながらようやくこの辺りの地理に慣れ始めたところなのだが、早くも明日の夕刻以降には復路600kmを高速走行して帰宅するという予定なので、今晩の睡眠時間は念には念を入れ十二分に確保する必要がある。
明日は道すがらいくつかは立ち寄ることも可能なのだが、朝方の図書館での資料収集予定もあり1か所も廻れない可能性もある。
気管支炎の具合も一進一退であり、何れにせよすべては明日の成り行き次第なのである。
気管支炎発症と一昨日からの長時間夜間高速走行の影響だろうか、昨晩から左目に鈍痛があり、このため翌日の資料読みが全くできなかった。
とはいうものの青森県遠征の記念すべき第一日目でもあることから、性格上そのままホテルで安静に養生をしているという訳にもいかない。
昨晩はなるべく目を酷使せずに移動する方法はあるのか、といろいろと考えつつ就寝している。
元来八戸市内での最低限の目標は「根城」と「八戸城」の探訪である。
タクシーや路線バスを利用する方法もあるが、それでは「高齢者の観光旅行」と大差なくなる。
幸いにして昨日2万歩弱の歩行ということもあり足回りは至って快調で、この夏からの足回りの「ダメコン」も安定稼働している。
訪問個所は著しく限られることになるが、自分の足で歩き回ることで初めて分かる地域事情などもあるので最低限の荷物と共にこの際全て徒歩にて巡ることを決意した。
午前9時10分から9時30分
予定どおり午前8時過ぎに駅前のホテルを出発。
まずは駅北側の跨線橋を越えて駅の西側へと下り立った。
ところが現在駅西口は整備事業の真っ最中で工事中、通行止めなどが頻出し、あくまでも経過的なものであろうが著しく道路事情が複雑化していた。
このため目的地へ向かう道筋が掴めず、取敢えずは八戸西高校を目安にしてだいたいの方角を定めて試行錯誤しつつ向かうこととなった。
また馬渕川支流浅水川の蛇行があることからその渡河地点を見出すのにある程度の時間を要してしまった。
こうして直線距離にすれば1kmほどの目的地へと辿り着くのに、結果的には1時間以上を要してしまうこととなってしまったのである。
南北に八戸自動車道が貫通し、これに加え北西から南東にかけて浅川放水路の流路が築造されその景観は大きく変貌している。
景観の変貌した丘陵を遠望しその姿を撮影するにとどめても良いのだが、次の目標に向かうとしても、橋の架かっている個所まで進まねば方向転換できない。
こうして結果的には丘陵の麓までアプローチすることとなった。
この日も午前中は風が強く、秒速数メートルの西風が吹き突けていた。
被っていた帽子を飛ばされぬように深めに被り直す。
鳥除けと思われる釣竿の先に据えられた洋凧が折からの強風に勢いよく舞い上がっていた。
遠めに見ても、近くで見てもかなりの藪である。
南西側の藪は更にその濃度を増しているように見受けられた。
麓まで近寄ればその比高差は目測10m前後。
民家への入口を兼ねたようにも思えるお誂えの通路が目に入ったので、いちおう北東部の尾根筋を確認してみたが、やはり予想通りお決まりの藪であった。
しかも民家のすぐ裏手なので余り藪をウロツクわけにもいきそうにない。
丘陵中腹に刻まれた農道で帯郭の名残であるのかはなどは全く不明(笑)
元来たこの農道をそのまま退却することとなった。
城館名の読みについては、「おさらぎたて」ではなく「だいぶつたて」であり、この名称はおそらくは南西部の字名に由来するものと考えられる。
なお事前の基本資料は「岩手県の中世城館跡」のみである。
これによれば城館跡といわれている場所は、県立八戸西高等学校の西約300mから南西にかけての比高10mから20mほどの独立丘陵であることなどが把握できる。
また、八戸南部氏(八戸氏)と櫛引氏との間においてその領有に関する係争地となっていたともいわれているようである。
丘陵周辺には、字大仏以外に柳館、館ノ後、館ノ前などの城館関連地名と思われる字名が存在している。
しかし現在当地には南北に八戸自動車道が貫通し、これに加え北西から南東にかけて浅川放水路の流路が築造され丘陵としてのその景観自体も大きく変貌している。
このため30年以上前に行われた中世城館調査においても、「確実に館跡と思われる遺構はない」と記されている。
予め予見されたことではあるのだが、こうした事情により所要時間の大半は主に残存する丘陵地形をボーっと眺めるという探訪に終始することとなってしまったのである。
凸小館(青森県八戸市 ※別名を高館とも)
午前11時30分から12時00分
大仏館から小館までの直線距離は5km弱なのだが、道程にすると直進道路が無いことから7kmほどになる。
この辺りからは次の目的地である小館方面は全く視界に入らない。
ふたたび浅水側を渡りただひたすらに北東方向に進んでいく。
五戸町へと向かう国道454線を横断し、さらに県道20号線の陸橋下を潜りぬけると突然視野が開けて漸く前方に小館らしい地形が現れた。
しかしこの時点で未だ直線距離にして4kmは離れている。
ただひたすらに北東方向に進めどもなかなか彼我の距離は縮まらず。
時々雲に日差しが遮られるものの、空の広さがとても心地よい水田地帯なのである。
こころなしか気管支炎の方も小康状態になってきたような気もする。
この辺りで残り直線にして約3kmくらい。
だいぶ近づいてきたようにも思えるのだが未だ2km以上はありそうだ。
西側の「南部山公園」のスポーツ施設も見えてきたので、残り1kmほどになったようだ。
そのまま真直ぐ行くと東北新幹線の高架橋のネットフェンスに遮られるので一度北西方向に進路を変えて舗装のある旧道へと道を変えた。
この辺りの地形にも「白色火山灰」らしい崖地が散見される。
目の前をあっというまに通過していった。
昨年の7月に北上駅近くのホテルで通過する始発と思われる超特急の風圧で目覚めたことを思い出す。
幾つかのスポーツ施設なども併設されているらしい。
小館とは「青い森鉄道」や国道45号線を挟んでその西側に隣接している。
かつては馬渕川が大きく蛇行しこの南部山公園や小館の所在する丘陵の南側を流れていたともいわれているらしい。
そうしたこともあるのか、公園の南側付近にはこうした池沼や低湿地が現在でも見受けられる。
大仏館から歩きはじめて約2時間近くが経過し、ようやく指呼の間となってきたらしい。
この小館(別名を高館とも)は比高差にして50m弱なのではあるが、4km以上離れていてもよく目立つ山容であるのでまず間違えようがない。
北側から回り込むか、南側から回り込むか少し迷ったが、確実に道の在りそうな南側から迂回することにした。
ちなみに南側からの直登は藪と急斜面のため困難を極めると思われた。
10年前ならば直登する気力が残っていたが、やはり月日の移ろいは正直で容赦がない。
当該丘陵は地形図を参照すると恰も三角形を逆様にしたような形状をしており、またその周辺には高館、館合堤下、高館根前などの城館関連の字名も遺されている。
現在館跡は山林であり東側の一部に共同墓地が所在している。
この近くの集会所付近に短い時間ならば駐車可能なスペースもあるようだ。
この東側の共同墓地へと向かう道があることから途中まで尾根筋を辿ることができるものの、墓地裏からは藪が叢生し足を踏み入れることが躊躇われる状況であった。
なお南側麓近くに帯郭にも見える横堀状の地形が散見されるのだが、そのルートを辿る限りではこれは共同墓地へと向かう旧道であると思われる。
「岩手県の中世城館跡」では館の起源等は不明であると記載している。
凸根城(青森県八戸市)
13時20分から14時50分
正午を遥かに経過しているが、徒歩であるとはいえ未だに僅か藪城が2か所という惨憺たる成果 (^^ゞ
ふと、昨年4月の一関市探訪を思い出した。
あの時は突然の降雪と暴風があったので、今回は少なくとも天候だけは恵まれているのだろう。
そそれでもろそろ真っ当な遺構を目にしないと流石にモチベーションを維持できそうもなくなることから、予定通りに有名な国指定史跡の「根城」へと向かった。
このサル、ウサギ、カエル、キリン、ゾウなどはしばしば目にすることがあるが、さすがに「タコ」は初めてである。
この時点での彼我の距離は直線で約4kmであるが道のりでは約6kmであった。
歩道が無いのでここを歩くしかないがこのシチュエーションが約4kmほど続いた。
自分の足のみで移動していることから市内の中央卸売市場、総合卸センター、はちのへゆーゆーらんどなどの日帰り温浴施設などの新開地の盛況を目の当たりにしそうした地域事情を肌で感じながら目的地へと向かう。
これは地方都市の現況を把握するうえで車移動では分かりにくい収穫のひとつでもある。
撮影時に曇っていたことから朝方のような按配となった根城大橋から眺めた馬渕川の景観である。画像の右側の部分に根城が所在する河岸段丘がある。
延長700mほどの大きな橋ではあるが、大型車通過の度に体重80Kg超(これでも最盛期より15Kg以上ダイエット)の管理人の体が上下に激しくバウンドし撮影画像がブレるには参った。
記憶では秩父の諏訪城の遠景を撮影した和同大橋以来の体験である。
この時点で既に連続して18kmほどを歩き続けていた。
少し疲れてきた足が元気になる「案内標識」なのであった。
こうして真っ当な遺構群を目にすると、目の前にボチボチ古稀が近づいているような年寄でさえも、それなりに新たな力が湧いてくるのであった。
史跡公園西側の外れに所在しているこの西の沢の遺構群を体感するだけでも充分に楽しめる。
地山を削り残した遺構で、樹木の伐採以外には余り手のくわえられてはいないという感触がある。
撮影には順光よりも寧ろ逆光の方が土塁や切岸の質感が滲みだす感じがある場合も少なくない。
完璧な逆光で文字が見えない (^^ゞ
この日は生憎と月曜日なので当然休館であると思っていたが、第一月曜日は開館しているとのことであった。
入館料は250円であった。
また八戸市立博物館も開館していたが、このあと八戸城にも立ち寄らねばならず止むを得ずスルーすることとなった。
また、国道104号線南側の岡前館、沢里館方面は時間の都合上から立ち寄ることはできなかった。
たまたま公孫樹(銀杏)の紅葉が見ごろであった。
初代の城主とも伝わるが鎌倉期には北条氏被官である工藤氏が支配していたことから、それらの拠点を吸収しつつその後次第に拡大していったものであろう。
南部氏一族の有力な家系ではあったが、それにしても過分なほどに広大な郭群であった。
凸八戸城(青森県八戸市)
15時30分から16時00分
寛文4年(1664)南部直房が2万石で藩主となったことに始まる近世城郭(当初は陣屋格)であるが、元々は南北朝期の城館である中館が所在していたものと考えられている。
またこれに先立ち寛永4年(1627)に盛岡藩主南部利直は一族である根城南部氏を遠野へと領地替えを行い八戸地域の直轄支配を行いこの際に八戸城の基盤を築いたともいわれているらしい。
到着したのは未だ午後3時半すぎであったが、西の空に雲がかかり次第に暮れなずんできた。
この日はもう少し時間があれば新井田川周辺の城館跡も探訪する予定であったが、思いのほか日の傾きが早くやはり徒歩では以上の4か所程度が限度のようであった。
午後4時を回ると早くも黄昏時を迎えて、さすがにこれ以上の城館探訪は困難である。
宿泊しているホテル近くは決して飲食場所が多くは無く閉店時間も早いところが多い。
八戸市役所近くのチェーン店らしい蕎麦屋で大盛とろろ蕎麦+天ぷらで夕食を摂る。
図書館での資料収集も考えたが、経験上あれはあれでそこそこ目や肩が疲れることからこの日は回避した。
帰路、最寄駅が本八戸となる八戸城から八戸駅までの道程は約7km弱である。
本八戸駅から八戸駅行の路線バスはあることはあるのだが、この時間帯になると1時間に1本と本数は少ない。
既に日は沈み街灯のまばらなどちらかといえば暗闇に近い国道340号、104号、454号などを経由。
途中暗闇の中で国道沿いに設置されていた根城の一角を構成する「岡前館」と刻まれた標柱の存在を確認。
ようやく八戸駅前のホテルに辿り着いたのは18時半を少し回っていた。
この日の歩行数は久しぶりに4万7千歩を大きく超えていたが、近年課題であった足回りの痛みについては概ね問題なく推移させることに成功した7。
また目の方は安静を保持したことにより問題の痛みの自覚症状は消えていた。
これならば明日は車での移動に問題は無さそうに感じた。
しかし気管支炎の方はこの夜も一進一退で、寝不足感が否めないまま翌朝を迎えることとなった。