本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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定年を過ぎました~
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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いちおう本業の方の中世城館跡関連のHPを編集中のこと
昨年11月に訪れた郡山市の「瓜坪館」について色々と調べているうち、ただひたすらに疑問が増幅する一方なので、まず参考になりそうなものは見つからないだろうと思いつつもいちおう「瓜坪館」でググってみた

案の定検索結果はお馴染みの広告宣伝などの項目が嫌というほどずらりと出現
ところが検索結果の少し下の方に行くと多少は参考になりそうなサイトがヒット
おっ物好きな人もいるものだと嬉々としてサイトを開いてみるとなんと自分のサイトであった(^^ゞ

もっとも郡山市富田町にも富田8館のひとつとして「瓜坪館」が存在したという「伝承」のあったことを確認できただけでも有意義なのかも知れない
しかし更新後2年も経過していないのにほぼ完全に忘れているという自分に呆れる始末に
その一方でたまに自分のサイトを覗くのも悪くは無いなどとも思うのであった

拍手[4回]

近県で、平城で、遺構が目視可能で・・・と思い立ち、今回は群馬県太田市へ
自宅を5時40分過ぎに出発
一般道を使用し東松山―熊谷経由で太田市内へ
途中「新上武大橋」手前辺りから2kmほどの自然渋滞発生
それでもどうにか約2時間ほどで現地到着となった



武蔵島館(群馬県太田市、旧尾島町)
7時40分から7時50分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)

トイレ休憩の都合で立寄る
城館跡は上武道路の尾島パーキングとなっているので表面遺構は確認できない
1988年の発掘調査によりその存在が確認されている
おもに上り線のパーキング部分にかかっているようである

   下り線パーキング


大舘館(群馬県太田市、旧尾島町)
8時00分から8時20分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

道路地図に記載されているので寄ってみた
小さな神社境内に標柱、説明版、石碑の3点セットが所在する
むろん地表の遺構は確認できない
帽子を忘れたので一度戻った
結果的に明応院からはほど近いことが体感できた

    大舘館遠景


  中央部の神社と標柱など


  津軽藩代官陣屋について


安養寺明応院館(群馬県太田市、旧尾島町)
8時50分から9時15分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

いわゆる環濠屋敷のようなものであったと思われる
むろん地表の遺構は確認できない

      明応院

 
安養寺東居立遺跡(群馬県太田市、旧尾島町)
9時20分から9時30分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

いわゆる環濠屋敷のようなものであったと思われる
むろん地表の遺構は確認できない

     西側付近の様子


安養寺森南遺跡(群馬県太田市、旧尾島町)
9時45分から9時55分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

明応院と南北に隣接する遺跡であることからその関連の深さが想定される
農地、宅地と上武道路の道路敷でありむろん表面遺構は確認できない
 
 低い木立の部分が気にはなるが


安養寺西居立遺跡(群馬県太田市、旧尾島町)
10時00分から10時30分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

現状は大半は農地で一部が宅地であるが耕地整理と耕作などにより地表部の遺構確認は困難

    北東付近の様子


宝積寺跡(群馬県太田市、旧尾島町)
10時55分から11時15分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

現在は世良田公園(野球場、テニスコート、駐車場など)となっている
ただし城館跡との関連は不明だが、公園北側に沿って細長い低地部を確認できる

  細長い低地ではあるが


船田館(群馬県太田市、旧尾島町)
11時15分から11時30分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

旧家の入口脇に標柱などが所在している
かつての堀跡(推定)は細い用水路に変貌している



岩松陣屋(群馬県太田市、旧尾島町)
11時30分から11時45分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」

現在も屋敷の周囲に堀跡状の低地を確認できる
ようやくこの日最初の「目に見える遺構」と対面できた

   北東付近から


普門寺(群馬県太田市、旧尾島町)
11時40分から12時00分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)

境内西側の一部に土塁状の盛り土があることはあるが、どうも古いものではない印象もある
城館跡との関連性は不明というよりも無さそうというべきかも知れない
ただしその外側に用水路(コンクリート蓋付)となった堀跡は現存している
ショートカットすべくその蓋の上を歩いていたら10センチほどの段差に足を摂られ軽く捻挫
ここで常に携行している「ゲル状」の消炎鎮痛薬が役立った

   新しそうな盛り土


   岩松氏寄進の梵鐘


この日は9月半ばとは思えないような日差しと暑さがのため次第に気力が減衰
とくに両腕からは異常発汗
思えば「太田市は館林に近い」ということに気づく (^^ゞ
冷蔵バッグに収納した経口補水用の500mmペットボトル3本はこの時点で全て消耗
このためもう少しまともな遺構を拝んで早めの撤収へと方針転換


江田城(群馬県太田市、旧新田町)
12時30分から13時25分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」、「関東の名城を歩く―北関東編」(2011)

紛れもない「土の城」でしかも平城という有難さ
草刈りなどの整備も行き届きこの時期には有難いことこの上なし
西側の低地からの遠望も素晴らしい
しかし日差しが強いので、土塁、空堀の画像が斑模様となってしまう
西日になれば別の効果も期待できるが、この場であと4時間以上待機する気力は欠如
小一時間ほど滞在していたが他に来訪者はゼロであった

   主郭西側の折れ


   主郭東側の折れ


    主郭北西部角


     主郭の北側


  西側からの主郭遠望


    二の郭北部


反町館(群馬県太田市、旧新田町)
13時35分から14時10分
※基礎情報は「群馬県の中世所館跡」(1988)、「マッピングぐんま―遺跡・文化財」、
関東の名城を歩く―北関東編」(2011)

水濠があるのでいくらか涼しくなるかと思ったりしたが風もなく涼しさとは無縁であった
有名な寺院なので平日でも参詣者は少なくは無い
縁日などと重なるとさらに人出は多いのかも知れない

     主郭土塁


    西側の水濠


    北側の水濠


    標柱と説明版

いつもならば周辺の外郭部を歩き回るところなのだが、そろそろ足回りが怪しくなり始めていたことから土塁に登り水濠をぐるっと一周してあっさりと撤退
途中立ち寄った水濠北側にあった自販機の100円均一「メロンソーダ」が美味かった


平地で整備されてある程度遺構のある場所を訪れるという心算が、結果的に前半は殆ど表面遺構のないところばかりとなってしまった
群馬県を訪れるのはたぶん2014年5月以来と思われる
埼玉県に近い西上州方面の藤岡、旧吉井町、富岡市、邑楽町、甘楽町多辺りは少廻っていた
しかし国道17号線沿線は全くの手つかずのまま時ばかりが過ぎ去って行ってしまっている
せつかく馴染んできたようなので、みなかみ方面を含めて年内にあと少なくとも2日ほどは出かけてみよう

ところで上武道路は相変わらず分かりにくいという印象がある
ある程度速度がでることもあり、往路、復路それぞれ1度ずつ間違えている
どうも往路の「西別府」と復路の「代」の辺りを理解していないように思える

拍手[4回]

昨年もそうだったのだが、秋風の立つ頃になるとやたらと眠くなる
どうやら今年もそうした傾向を感じている
このまま下手をすると遠征計画が計画倒れになり、下手をすると冬眠してしまいそうな

それでも昨年は11月に郡山、12月に甲賀と何とか2回は出かけている
今年は少なくとも2泊3日コースで4回ほど計画を立ててはいるが、この9月から10月の活動如何に懸かっていると思われる

拍手[3回]

◎在日米軍により終戦後間もない時期に撮影された航空写真について(メモ)

この国土地理院の画像情報利用して中世城館跡の形跡を辿る際の留意点について纏めてみた

(1)戦前からの既成市街地に関しては、概して地表部の特徴が判別し辛いことから不向きである
(2)一般に山城の検出は困難な場合もあるが、戦時中の資源枯渇に伴う乱伐により、結果的に鮮明に撮影されている場合も少なくない
※ただし、戦中戦後における食糧難の時代や近代以降の桑畑の開墾など判別困難な事例がある
(3)撮影高度は約2000m(主に市街地とその周辺部)から約8000m(主に人口密度の低い山間部)と幅があり、高高度の場合には精度低下の欠点を画像編集ソフトなどにより拡大処理などを行えばある程度解消できる場合もある
(4)「堀跡」に関しては、当時の現況が畑よりも水田である方が克明に撮影されている
(5)「方位軸」が最大90度くらいずれている事例も散見される(とくに利根川上流域など)
(6)該当すると思われる航空写真を選び、さらに当該所在地を特定するには次の諸点に留意するとほぼ特定できるものと思われる
A.河川(むろん河川改修工事の可能性に留意)
B.道路形状(道路建設改修が為されたとしても、以前の道路形状を把握できる場合もある)
C.古くからの字単位の集落の配置とその集落の形状
D.丘陵(土取り、ゴルフ場開発などによる区画形質変更に留意)

凸有名な群馬県の白井城では各郭と堀跡などの配置が鮮明に撮影されていた
 

かつてはその南東部に所在していた仁居田城の遺構の一部と思われる地形が認められる

拍手[5回]

先月28日に訪れた小諸市南東部の十石城付近の航空写真を編集加工してみた
この手法が有用なのは比較的平坦な丘陵地帯と平野部であり、山岳地帯と戦前からの既成市街地方面については余り役立つことは無いようだ

元データは国都地理院で
USA撮影番号M165-A-6、
撮影高度2,143m、1946年6月14日撮影のもの

 

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