本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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  最寄駅から始発の東上線に乗り池袋へ。
 山手線経由で東京駅へ向かい、午前6時29分発のぞみ号に乗車。
この時点で東上線の始発からは既に1時間半も経過している。
乗換待ちのタイムロスは池袋での約15分が一番大きい。
このためダイヤ上では寧ろ地下鉄丸ノ内線を使用する方が早い。
しかし東京駅構内でのキャリーケース移動がやたらに長くなることから、今年は山手線を利用してみた。

昨年同様に一度京都まで向かい、4分間の乗り継ぎで琵琶湖線で草津市内へ戻り駅前のホテルに荷物を預託し、午前9時40分台の草津線にて油日へと向かった。
1年ぶりに訪れた油日駅では日曜日ということもあり、甲賀忍者に扮した駅業務を委任されている年配の方の歓迎を受けた。
とはいえ降りた乗客は自分を含めて数人で、しかも「観光客」らしい姿は自分ひとりと相変わらず閑散とした景観であった。
JR草津線も近江鉄道などと接続している貴生川から先では正規の駅員は不在で、地元の高齢者の方による運営がなされているが、早朝と夜間は無人となりむろんICカードは使えない。
草津市始発の同線は一つ先の「手原駅」で概ねその4割位が下車、その先の貴生川までで更に5割位が下車、残念ながらこうして見ると終点の柘植まで行く乗客は全体の1割にも満たないらしい。

 
 
殿山(滋賀県甲賀市油日)
10時45分から11時05分

従来は明確な城館遺構が存在していないという見方も有力であったらしいが、現在殿山の遺構と領域に関してはおよそ次の論点があるように思われる。

1.忠魂碑とその周辺の削平地をめぐる評価
2.そのすぐ北西部に見られる小規模な堀切地形の評価
3.近年新たにその存在が確認された北西尾根筋の城館遺構の評価
4.南に隣接している公方屋敷との城域に関する区分

 
殿山北西尾根筋の遺構(殿山城)  北西部の堀切状地形

近年あらたに確認された「殿山城の遺構」は丘陵の北麓からも成形された郭跡の形状を読み取ることができるほど明確である。
また殿山自体にも一応複数の削平地が所在し、上記画像のように小規模ながら尾根筋を分断する堀切状地形も確認できる。
ただしこの堀切状地形が北西尾根筋の小規模な城館遺構に伴うものか、本来の殿山に属するものなのかは不明なようだ。


 和田集落手前の「天空の城」      殿山の全景


  郭状の削平地のひとつ         展望台

こうした殿山はさらに南方の公方屋敷遺構とも近接しており、その範囲を明確に区別することが難しいようにも思われた。
なお、上記画像の高さ5m前後の展望台は、体重80Kg超(デジカメ装備一式を加算すると約90Kg)の管理人が登ると梯子段がミシミシと音を立てるので、特に大柄な方はご注意されたい。


殿山城(滋賀県甲賀市油日)
11時05分から11時30分

近年において「甲賀市史」編纂などに伴う実地調査により、殿山の北西尾根筋先端部に小規模ながらより明確な城館遺構が確認されている。

 殿山忠魂碑へ向かう参道から     堀切と土塁


 深さ左6m/右4mの堀切   削平されたラインが目立つ郭跡


  南からの遠景(丘陵先端)

前項の「忠魂碑」が設置されている従来の殿山とは別の性格の城館跡のような印象もあるが、その距離の近さから、いまのところは取敢えず名称の上では一連の城館遺構として捉えられているようであるが今後変わるような感じもする。
堀切から土塁へは直接登ることは難しいので、堀切の南側を迂回するように対岸に這い上がり、そのまま土塁上を西へとすすみ比高差の少なくなった頃合いを見計らい郭内へと降りた。
ただしこの郭から下方に降りる踏み跡はそのまま民家の裏手へと出てしまうので、もと来た堀切まで戻る必要があるようだ。
当該名称は現地に設置されている案内標識の表記に拠った。


公方屋敷支城(滋賀県甲賀市油日)
11時40分から12時25分

主郭付近を除きほぼ藪城に近いという印象である。 
あまり登り口が明確とは言えず、かつ民家近くの斜面を這い上がることから 気が引けることこの上ない。
また途中かなりの藪と棘が群生する個所を通過するので注意が必要である。
ことによると南側の民家方面からより安全にアプローチするようなルートが存在しているのかも知れない。


   東麓からの遠景       この辺りから藪を入る


    東側の削平地          主郭付近


   櫓台のような地形        南からの遠景


公方屋敷(滋賀県甲賀市油日)
12時40分から13時15分

後の足利義昭となる覚慶が逃れて和田惟政により匿われたとも伝わる著名な旧蹟である。
西側に向けて開口した浅い谷津地形であり現在は耕作地となっている。
西側を除く三方が丘陵を利用した土塁状の地形に囲繞されており、そのうちの南部の遺構は近年まで「公方屋敷城」とも呼称されていた時期がある。
 
    公方屋敷入口          公方屋敷


    五輪塔の一部          説明版


  殿山方面へと続く尾根道   かつては「公方屋敷城」とも


和田城(滋賀県甲賀市油日)
13時40分から14時20分

上記の3か所を探訪し終えた時点で、事実上の日没時刻まで2時間余りとなったことから、取敢えず和田支城3と2を後回しにして、市史跡指定の和田城へと向かった。
和田氏の本城とも考えられる城館である。
こちらも登り口は不明であったが南麓の民家脇からのルートを使用することとした。
史跡指定されているだけのことはあり、公方屋敷支城とは異なり最低限の草刈りなどの管理が行われているという形跡が見られ、全体としておおむね遺構の観察は行いやすい環境であった。

   西側からの全景      ここからも入れるらしいが


    土塁状の地形        主郭背後の堀切


   主郭南西部の虎口         郭内から


   少し前の解説版

なお、本来は北東の畦道からアプローチするのが正規のルートであることを帰り際に知ることとなった。
しかし、現地にて頒布されているパンフレットには各城館の登り口に関する情報は掲載されてはいないのであった。
また上記の少し前の和田城館群に関する解説版との異同があることから、事情を知らない者にとっては混乱してしまう可能性もあるように思われた。


◎棚田山城(滋賀県甲賀市油日)
14時25分

以前には城館跡として把握されていたが、近年において城館跡ではないとされている。
このため西側の市道から遠景のみを撮影するだけにとどめた。
※出典「甲賀市史第7巻甲賀の城」333ページより



和田支城1(滋賀県甲賀市油日)
14時40分から15時05分

残り時間などを勘案して確実に登り口のありそうな城館を本日最後の目的地に定めた。
稲荷神社への参道が所在し、主郭部に同社が所在している。
しかしそのほかは藪が多く遺構の確認が難しい状態であった。

   北東からの遠景                東郭の先端付近


   東麓の文化財説明版        稲荷神社


     主郭と土塁          同解説版

日没時刻を考えれば未だあと1か所くらいは回れる時間帯ではあった。
けれども何時ものように食事なしは未だしも、これに給水なし、日没までの時間が惜しく休憩なし、明確な探訪ルートが不詳であることなどを県名に判断しいくぶん早めの撤収となった。
還暦前であった10年前に比べて、気力、体力の減退のみならず記憶力(容量、記憶の精度)の著しい低下を思い知る現在では、もはや1日当たり数か所程度の回遊が限界であることを痛感してた。
現地到着が午前10時半を過ぎてからの探訪ゆえに、南部の高嶺方面はおろか正味5時間では和田集落内でさえもその全て回りきることは叶わなかった。


この日は前記のようについ飲み物を買い忘れて日中は飲まず食わず。
ちなみに油日駅を除くと和田集落内には稼働中の自販機の姿を見かけないことから、今後再訪する場合にはくれぐれも注意が必要なようだ。
日没前に辿り着いた駅前で購入した「ホットゆずレモン」の温かさが身に染みた。
油日の駅務室にて見かけた「和田一族」(自費出版頒布価格1千円)の本を購入した。

昨年油日の図書館で気になっていた本なので本日の収穫のひとつでもある
宿泊先のホテルにてパラパラとページを捲り明日の行動予定を反芻しつつ心地よく深い眠りについた。 

拍手[3回]

来週は昨年末に引き続き2回目となる滋賀県遠征。
主に甲賀市方面の土豪屋敷跡を回遊する予定である。

矢張りこの時期問題となるのは空模様。
昨年は1日目は曇り時々小雨。
2日目は濃霧で草津線一時運休と遅延。
3日目は強風注意報と新幹線遠沿線火災による2時間遅延。

昨年同様格安の企画型ビジネスパックなので事実上キャンセル不能。
さて、果たして今年はどうなるのだろうか。
最悪の時には近江牛を食し「ひこにゃん」と握手でもしてこようかとも思う。

拍手[1回]

次の寒波が襲来しないうちに、
小春日和の天候なので、
せっかくこの方面に馴染んできたので、
関越道を使えばゆっくり走っても片道2時間足らずなので、
この歳になると来年、再来年があるかどうか分からないので・・・

などと、いろいろ理由をこじつけて本日も3日前と同じ群馬へと向かうことになった。
ただし今回は赤城山西方の昭和村であるのだが
とはいえ前回からの間が2日しか空いていないこともあり、いくぶん遅めの午前6時30分自宅発となった。


長井坂城(群馬県利根郡昭和村)
8時25分から9時55分

天正年間に真田氏と後北条氏の間でその領有が争われた城跡であり、大分以前から訪れたかった本日唯一の目玉でもある。

   西方の子持山方面

午前8時前に関越道を赤城ICで降りた。
赤城西麓広域農道伝いに8kmほど北上し、途中から細い農道に入り城跡を目指した。
要所要所に分かり易く丁寧な案内標識が設置されていることから、よほどのことが無い限り道を誤ることは無いように思われた。

  城跡直下に関越道が貫通

城の立地は利根川とその支流である永井川の深い谷に挟まれたいわゆる崖端城で、城跡南東端の標高は480mを越え、また「縄張図」などでは分かりにくいのだが、城跡の地形は北西方向に突出して先端部に向けて緩い傾斜がかかっている。
このため南方の高地から観望しても城跡の位置がすぐには把握できない。

  3の郭から2の郭を見る

本郭の遺構状況は良好で横堀、土塁の配置状況が分かるようにほどよく整備され、利根川方面に面した断崖の景観も息をのむほどの迫力が伝わってくる。


これに対して2の郭、3の郭方面は耕作地として利用されていることもあり、事実上見学できる範囲が限られている点がやや残念に思われた。
とくに二の郭南側の大土塁(地山の削り残しを利用か?)へ向かうルートは耕作地を通過することもあり、果たして立ち入っても良いかどうか迷いを感じる部分もあった。

    主郭北側の土塁       主郭南側の横堀


     同   前         主郭東側の土塁




また二の郭北側の横堀が埋戻しなどにより事実上は消失していることもあり、その分3の郭との境が分かりにくくなっているようにも見受けられた。

 二の郭土塁の切れ目から主郭     二の郭東側


 南東部の大土塁から南側横堀     三の郭南東部



こうしたことから、立入の可否を含めた現況に即した縄張図を含む解説版などが設置されると今後の見学上も有難いとも感じるとともに、何分にも耕作地も少なくないことから、今後の文化財としての保護と活用の観点からもその辺りの対処が求められるように思われた。
専用の駐車スペースは無いが農閑期で短時間ならば農道脇などを利用できるかもしれない。
 
 
阿岨城(群馬県利根郡昭和村)
10時35分から10時50分

直線距離にすれば長井坂城からは6km足らずなのだが、真直ぐにアプローチできるようなルートがなく赤城山西側の浸食谷を大きく迂回することとなった。
何のかんのと谷、山、谷、山、谷、山 と3度のアップダウンと九十九折の反復があったことにより、結局のところ移動に要した時間は30分以上を経過してしまった。
まさに「長い坂」でもあった。
それでも武尊方面の雪景色が手に取るように観望できたのでこれはこれで大きな収穫でもある。
途中リンゴ農園とその農家、ゴルフ場、工業団地、廃車置場、別荘地とこれに関連した観光施設など土地利用の形態は実に様々であるが、戦中戦後の開拓の時代、高度成長期の時代、ゴルフ場乱立の時代、別荘ブームの時代など、それぞれの時代を反映しているようでもあり興味深いものがある。

    武尊山方面

城跡は圃場整備された耕地内の崖線端に立地している。
地形上から樹木が叢生した分かりにくい場所のような印象を抱いていたのだが、昭和村のHPにも掲載されているように、その周囲は開けた環境であり付近の道路からも解説版などが目に入ることから全く迷うようなことはなかった。
車での来訪者を想定し3台くらいは駐車可能な舗装済みのスペースもあり、近くの昭和ICに接して道の駅も所在している。

   主郭跡であろうか?


    城跡の石碑

肝心の遺構の方は二重の堀跡の一部と郭跡?が現存してはいるが、長井坂城に比べると城域も遥かに小規模であり遺構も多くは無いことから見学には余り多くの時間はかからないように思えた。

  たぶん二重堀跡らしい


たぶん外側の堀跡の一部のように思えた

 
  ◎加藤丹波守腹切石(群馬県利根郡昭和村)
11時00分から11時05分

天正10年10月、森下城主加藤丹波守(真田方)が後北条氏の軍勢に敗れて切腹を遂げたとされる史跡であるり道すがらに立寄ってみた。

何分にも後年の軍記である「加沢記」の記述に基づくものでもあることから、その真偽のほどははっきりとは分からないのかも知れないが、この地をめぐる真田氏と後北条氏による領有争いを象徴するエピソードのひとつなのであろう。


森下城(群馬県利根郡昭和村)
11時10分から11時25分

別名を鎌田城、あるいは鎌田の要害とも。
長年にわたる片品川の急流に浸食され城地の大半が崩落してしまったとのことである。


崖線端に標柱と解説版が設置されているが、堀跡の一部ともいえなくもない段丘の斜面などが見受けられるもののその周辺は宅地化なしい耕地化がすすみさらにその旧情は把握しがたいものとなっていた。


なお、側を通る県道からは民家などの陰に隠れたやや探しにくい場所に所在し、しかも付近には駐車スペースがほぼ存在していない。
このため予め駐車場所を考慮する必要がある。

   路傍の双体道祖神


糸井の打出(群馬県利根郡昭和村)
12時20分から12時30分

あまり道路事情がよくは無さそうに思えたことから村役場に立寄り資料収集を行い、距離にして1km足らずと近いこともありそのまま徒歩にて向かうこととした。

そういえば「石仏」関係もそのうちに纏めておかなくては・・・

しかし始めにアプローチしたルートがたまたまこの日は水道管の埋設工事により全面通行止めとなっていたことにより、約800mほど迂回することとなってしまった。
これが平地の迂回であれば何ほどのこともないのだが、河岸段丘へのアプローチを迂回したので2度急坂を登り結構疲れた。
しかも工事が昼休み中であったため、工事関係者と間違われて車両通行の可否を聞かれてしまったりもした。
尤も自分の出で立ちがごく自然に工事の現場に溶け込みやすいこともあるので致し方ないことでもある。

   上糸井集落センター

概して城館跡としての痕跡に乏しく、低位河岸段丘の崖線地形が唯一それらしいということになるのだが、その崖線地形を視認するに相応しい個所がなかなか見つからないのであった (^^ゞ
近くの長慶寺境内には元寇の時期に関連するとされている鎌倉期の板碑が文化財に指定され大切に保存されている。
 
長慶寺に所在する鎌倉期の板碑

たしかに「打出」という城館関連地名は残されているのだが・・・

    奥の手のひとつ


貝野瀬屋敷(群馬県利根郡昭和村)
13時10分から13時25分

この場所も低位の河岸段丘上に所在し、直接車で向かうには支障がありそうに思えそのまま徒歩にて向かった。
とはいえ、前項の「糸井の打出」からは更に約2.5kmほどにはなるのだが、歩きながら周囲の地形などもじっくりと観察ができることから決して無駄足にはならないと徒労を合理化するという我ながら疲れる性格なのである。
途中関越道の真下を通過したので、その真下から高架橋の構造を暫くの間観察してみた。


屋敷跡とされている場所は、赤木山川龍寺ならびに武尊神社などが所在する一帯であり、現在でも河岸段丘の斜面が目立つ。


武尊神社の裏参道付近に高さ1mほどの人工的な盛土跡が見受けられるが屋敷跡との関連は不明である。



いちおう「堀の内」の地名もあり、このほかにも「大門」の地名も残されているらしい。


村役場までの帰路は4kmに満たないものであったが、そこそこ足回りに疲れがでていた。
またこの日の気温は摂氏15度以上に上昇したようで、温かいのを通り越して暑ささえ感じるような按配となった。
関越道は平日でもあり渋滞もなく休憩抜きで日没前午後4時20分頃に自宅に帰着した。
近年になく今月11月は延べ9日間(二戸、八戸、南部と郡山市での7日間を含む)も出かけることができた。
近年は少し寒くなると手足の冷えを感じるとともにやたらに眠くなるという日が続いていたが、果たして今年はどうなるのであろうか。

拍手[1回]

今年は冬の到来が早く、ときおり襲来する寒波が過ぎ去るのを待っての探訪である。
遠征というにはやや距離が近い。
月初めの青森遠征などに比べれば、高速道路での走行距離は片道117kmほどと約2割ほどに過ぎない。
このため信じられないほどに運転の時間も短いので途中の休憩もいたって少なくて済む。
とはいえ、今月は2度の遠征で郡山から戻ってから4日間しか空いていないことから、さすがに気力の方は払底気味でもあったようにも思えた。


名胡桃城(群馬県みなかみ町)
午前8時00分から9時00分

天正18年(1590)豊臣秀吉による関東侵攻の口実を与えることとなった有名な城跡である。
外郭部といわれている部分や般若郭を除く、利根川および赤谷川の崖線沿いの防御に適した郭面積の広さは4千平方メートル前後の比較的小規模な中世城郭である。
復元土塁やいくぶん過剰気味に空堀への転落防止などの措置が為されていなくもないが、空堀と郭の配置を眺めているだけでも楽しげな城址公園風の城跡である。
南東に聳える富士浅間砦の岩峰は「のろし台」あるいは「物見」ともいわれている。


笹郭のさらに先端にある物見郭へ赴こうと思ったが、気温の上昇により斜面の霜が融け始め滑りやいくなってきたために途中で引き返した (^^ゞ

駐車場は般若郭に40台ほどは収容できそうで、国道17号線沿い北側にはトイレも使用できる案内所も併設されているなど至れり尽くせりであった。
いかにも観光地にありそうな幟旗がそこかしこに林立していたが、管理費用の面を考慮すると果たしてどれほどの投資効果があるのだろうかと気になった。

 
実は中心部に足を踏み入れたのはおそらく今回が初めてなのだが、たぶん国道を通過した回数は人生で延べにして100回は超えているはずである。
最初にこの前を通り過ぎたのは半世紀ほど前で、その時も既に城跡の標柱を目にした記憶は残っている。
たぶん、昭和40年代前半頃の古いカラー写真を調べれば1枚くらいはあるような気がするのだが、現在では生憎手元には所持していない。
その当時はもう少し木々に覆われていたようなイメージもあるのだが、何分にも昔のことなので記憶が薄れている。
その後1990年の初め頃までは、何気なしによくこの国道17号線を通過していたが、高速道路が完備したお蔭であまり近くに来るようなことは無くなってしまった。

  二の郭北の復元土塁       二の郭南の復元土塁


  小川城と三峰山方面


中山城(群馬県高山村)
9時40分から10時55分

名胡桃城から県道36号線を南へ赤根トンネルを潜り吾妻郡高山村へと向かう。
後北条氏が真田氏との間でその領有を争った時期に後北条氏側により築城された城跡とされている。
途中急カーブもあるが道幅も広く快適な山道を行くと約20分ほどで到着した。
パーキングは国道145号線沿いの北側に所在し、約10台くらいは駐車できそうである。
本郭へ向かう道案内の標識も完備し、城東川沿いに歩けば10分足らずの所要時間。
水田面からの比高差は15mほどしかなく、息の上がるような間もなくあっという間に城址碑が所在する本郭へと誘われる。

   東側からの遠景


     主郭切岸

 
      主郭

この本郭のみの見学であれば所要時間はパーキングからの往復時間を含めても30分以内に終わってしまう。
むろん折角の機会でもあり土塁上から本郭の堀跡、本郭の防御との関係の深そうな南北の小郭の様子なども観察したが、堀跡は寒波の影響だろうか降雪の融水と思われる水分が多く堀底の踏査は回避することとした。
また、本郭から直接南北の郭へと移動するルートは確認できず、この後夫々別の方向からアプローチを試みるも笹薮などに疎外され直接地表の様子を観察することはできなかった。

この後、「道の駅中山盆地」にて昼食。
小高い丘陵上にある道の駅からは南東方向から城跡の遠景を一望することができる。


 また、城跡付近に設置されている解説版とは別のものが、この道の駅の売店近くに設置されていた。



白井城(群馬県渋川市)
12時35分から14時00分

山内上杉家家宰であった白井長尾氏の本拠地であり、その後改築され近世初期まで使用された。
晩秋の日没はかなり早いので、午後1時までにこちらに到着する予定であったが、探訪が順調に進んだことにより早めの到着となった。
本丸の付近に駐車することも可能なのだが、徒歩により北側の外郭から順に回遊して白井宿方面へと向かうルートを想定していたので、時間にも多少の余裕が出てきたこともあり、城跡外郭北側の体育館に駐車し徒歩にて本丸方面へと向かうこととした。

宅地化が進んでいる北半分くらいは余り城跡としての名残りを感じ取ることができない。
然し北郭の東端に所在している城山不動尊(櫓台)の辺りから「三の丸」の堀跡を始めとして徐々に城跡らしい景観が目に入ってくる。
三の丸、二の丸の一帯は堀跡部分を除いて畑地が広がっている。
さらに二の丸の堀跡を過ぎ本丸の手前辺りまで近づくと、本丸桝形と共に整備された規模の大きい堀跡が目に入りテンションも上がり自然と笑みが零れてくる。

   本丸土塁状から枡形

本丸の土塁上の歩いたのち三日月堀へと下りて堀底を東へと向かう。


この辺りの堀跡が交差する景観は見ごたえがある。


「帯郭」と呼ばれている比高差10mほどの塁線上を北東方向に進み「神明宮」から白井宿へと下りた。


仁居谷城(群馬県渋川市)
14時10分から14時30分

天候は晴れてはいるが、西の空に雲がかかり日差しが弱くなってきた。
日没までにはまだまだ時間の余裕があるが、この日差しでは黄昏モードの画像となってしまうので余り撮影には向かないのだが、そのまま徒歩でも行ける仁居谷城方面へと足を延ばした。

何も痕跡が残されてはいないらしいのだが、戦後間もない時期に在日米軍により撮影された航空写真に残されている城跡の形跡を元に、山崎一氏の略測図などを参考にして現在の地図にメモ書きした資料を持参してピンポイントで該当箇所に赴いた。
するとかつては東西方向にのびた土塁状の地形が所在していたとされる畑の一角に東西方向の段差のある地形が確認できた。

     北側から           西側から

この一帯は畑地中に大きな石が混じる土質(たぶん吾妻川あるいは利根川の氾濫などに起因した川原石)なのだが、石塁であるかどうかは別として延長にして約25mほどの長さにわたり1m未満ではあるが明確な段差が残されている。
「北毛地区運転者研修センター」の南側という位置情報からも、土塁跡(ないしは堀跡)との関連性が想定されてもよさそうな地形のように思えたのであった。


今までは敢えて敬遠していたが、そろそろ先行きが見えてきたこともあり今回は有名どころを軸に探訪してみたが、こうしてどうにか日没前には当初の予定通り無事に4か所の探訪を終えることができた。
ご同行とナビゲーションいただいた、みかづきぼりさんに深謝申し上げます <(_ _)>。

拍手[3回]

郡山市の3日目である。
今日の天候は曇りなのだが、午後からの予報は情報のソースにより幅があり全く先が読めずにいた。
先日の二戸、八戸遠征の疲労が完全に回復している訳ではないことから、なるべく夜間高速走行は避けたいところなので、日没前に確実に自宅に到着することができるように逆算してみた。
まず運転中の休憩を仮に1回とすると、いつものごとく昼食抜きであれば正午過ぎ頃には高速に乗る必要があるということになる。
そうすると午前8時から行動を開始するとした場合では、行先にも左右されるが当初予定していた3か所の探訪はやや厳しいことになる。
それならば探訪は最低1か所を目標にして、その後の天候などを考慮してそのまま市立図書館に立寄り資料を漁るというプランも悪くはないのかも知れないなどと考えたりもした。
いろいろ行動プランが頭を過るなか宿泊先を出た


荒井猫田遺跡
午前8時10分から午前8時30分

近年発掘調査によりその存在が明らかとなった鎌倉期と戦国期の館跡ならびに集落跡等の遺跡である。
以前からその存在とだいたいの位置は把握していたが、現状では遺跡の埋戻しにより説明プレートが設置されているのみであることから探訪の行先には含めていなかった経緯がある。
しかし、昨年秋訪れた折に「荒井猫田遺跡」(郡山市遺跡ガイドブック/2009)を入手したことから、その概要についてある程度把握ができたことから今回の見学となった。

しかしこの日の気温は氷点下に近く、西寄りの強風が吹きすさぶという嬉しくは無い天候であった。
それでも、宿泊先から徒歩で10分足らずという至近距離であるのは気が楽である。
先に北側の「館B」(戦国期を中心とした館跡、概ね現在のスズキアリーナ郡山南の辺り)が検出された辺り道路を撮影し、次に「館B」(鎌倉期の館跡、概ねビッグパレットふくしまの東側部分)をあらためてぐるりと眺めてみた。


この時、ビッグパレットの北側を強風が吹き抜けたのだが、ビル風効果も加わり体重80Kg超の管理人の体が浮き上がるくらいの強烈な強風となった。

一連の説明版はビッグパレットの北東側のグリーンベルト上に所在していた。
仮にこの強風と寒さが無くともあまり見学者が訪れるとは思えない些か地味な存在であり、そもそもこのような天候の中をトボトボと歩いている人間は自分のほかには全く見かけることは無かった。
 


なお、このあと図書館に立寄り200枚ほど関係資料を複写しおわると時刻は既に11時半を指していた。
この期に及んであと1か所などと探訪を続ける気力はすっかり消失していた。
このためそのまま郡山南ICから東北道に乗り一路自宅を目指した。
白河を過ぎ栃木県内に入ると突然天候がガラッと変わり、強風が治まり雪雲の姿は消え秋のポカポカ陽気の日差しを感じながらのドライブとなった。

 このようにして今回の郡山遠征は終了したが、来年以降もそこそこ元気であればの話だが、今後は今回訪れることのできなかった猪苗代湖南岸の10か所ほどの山城と旧田村町方面が中心となっていくことになるのであろうと思った。
 

拍手[1回]