本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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現地を訪れる前にざっと目を通しておけばよいものの近年の視力の減退は如何ともしがたいものがある
このため現在探訪中の太田市内に関してはその所在地などを除けば事前学習ゼロ

そろそろ纏めに入る準備もしなくてはと、蔵書を調べてみると新田氏関連の資料はなんのかんので10冊ほど出てきた
今回危うく2冊目を発注しそうになったので、このようにして備忘録にしておくこととした

加えてあちこちに分散していたので書架にコーナーを作り纏めてみた
ボリュームも書棚1段に収まっている程度なのでちょうど良い具合である
これで一日中本探しを行わなくて済むのかもしれない(苦笑)

・「新田一族の中世」(田中大喜/2015/吉川弘文館)現在通読中
・「新田岩松氏」(峰岸純夫/2011/戎光祥)時々見ていた
・「新田一族の戦国史」(戎光祥出版)現在通読中
・「新田義重」(戎光祥出版)
・「新田義貞」(吉川弘文館)大分以前に読了(しかしほとんど失念している)
・「新田三兄弟と南朝」(戎光祥出版)ざっと拾い読み
・「上野岩松氏」(戎光祥出版)パラパラと見ていた
・「太平記の里 新田・足利を歩く」(峰岸純夫/2011/吉川弘文館)
 読了、ただし一部に史跡等の所在地錯誤あり
・「新田町誌第4巻特集編 新田荘と新田氏」断続的に通読中
 以前古書入手済みを失念、当時の領収書もあり1600円と廉価

・「武蔵新田縁起―新田義興をめぐる時代背景」(2003/今日の話題社)
 
これ以外に「太平記」とこれに関連する書籍数冊、ほかに鎌倉期前後の東国の武士団などの動向、南北朝期の東国の情勢に関する資料が十数点所蔵していた
さらに新田図書館にて複写した「太田市史」「新田町誌」「尾島町誌」などもある
これなら資料群としてはそこそこ使えそうかも知れない
こうなってくるとやはりエクセルなどで所蔵目録を作成すべきなのか迷い始める (^^ゞ

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太田市関係の郷土資料のコピーを5日の木曜日に受領してきた
枚数は373枚
以前山形県の寒河江市での複写枚数が約700枚だったので、これに次ぐ分量ではある

昨日から少しずつ読み込みながら整理を開始した
しかし、申請から受領まで1週間空いたこともあるのか書名を失念してしまった
正確には5冊中3冊までは把握していたのだが、残りの2冊がどうにも思い出せない

このためやむを得ず市立図書館に電話をかけて確認させていただくこととなった
これだけの枚数なので相手先の方も記憶に残っていたようで、話はすぐに通じ残りの2冊の書誌情報も判明した(経験上から「複写申請書」を一定期間保存している様子は理解していたが)
多忙な土曜日にもかかわらず親切にご対応いただいた職員の方に感謝 <(_ _)>

その一方で、この程度の記憶力さえも危なくなってきた自分に茫然とした (^^ゞ

拍手[4回]

引き続き4度目となる太田市内探訪
今回もいつも通り午前5時過ぎに自宅発
現地到着(世良田の歴史資料館)は午前6時45分

やはり東松山―熊谷―深谷―世良田のルートが確実で早い
工事中の上武大橋が完成すればさらに早くなるかは分からない
むしろ通行量が増える可能性もあるのかも知れない
というのも現在の上武大橋は橋梁の幅が驚くほど狭く、大型車両はすれ違い時の徐行運転を余儀なくされている
このため勢い上武道路方面に大型車両が集中して恒常的な渋滞を引き起こしているらしい


岩松城、西田島遺跡(群馬県太田市)
7時00分から7時35分

北東のショッピングセンターに車をとめ徒歩にて向かい、校地の周辺を一周し石田川方面の低地も観察してみた
近世初期に岩松氏が陣屋を置く以前から城館(古城)として存在していたともいわれている
南を石田川、東を高寺川により囲まれた比高約3mほどの微高地を形成しているようだ

    東側の高寺川

日本城郭大系が編纂された当時は「県立尾島女子高等学校」の校地であった
現在は「県立太田フレックス高校」(定時制、通信制)と名称、機能が変遷

城跡とされている個所は昭和50年台の半ば頃から校舎などの建増しなどにより次第に縮小・消失を重ねた
戦後間もない時期に当時の在日米軍が撮影した航空写真をもとに2010年撮影のものと対比してみたところでは城跡南側の四分の一ほどが遺されているようにも見える。
ただし詳細は平地林に隠れていることから判然としなかった

   東側正門付近より

 
長福寺遺跡(群馬県太田市)
7時40分から7時45分

「とりせん」「しまむら」「マツモトキヨシ」「ダイソー」などが出店している郊外型ショッピングセンターである
この場所は先月にも訪れていることから2度めではある

開発に当たり発掘調査が行われた結果、城館跡や寺院跡等に関する知見を得られたようなのだが、いまのところ報告書を目にしていないので詳細は不明だが、岩松城とは高寺川を挟み対岸に位置していることから推定すると別個の遺構であるのだろうか
むろん小河川の流路変遷、圃場整備などの仔細を検討せねば不明であることには変わりがないのだが
また仮にかつての岩松城が外郭部分を伴う大規模な縄張であったと想定すれば、岩松城との距離は直線で200m余りに過ぎず、寺院を含めた外郭の一部であった可能性も否定できないのかも知れない

このようにして調べねばならない事項ばかりが滞留していくのである
気力と視力と知力の欠如が恨めしい


  近年開設された商業地


岩松八幡宮(群馬県太田市)
8時00分から8時15分

新田義重が勧請したとも伝わる神社
戦国期の岩松氏との関係も深い
9月末に約600mほど北側に所在している青蓮寺、義国神社などを訪れた際に、うっかり失念して行きそびれたことから訪れた
北側、西側からアプローチするとやや所在地が分かりにくいが、南側または東側からはとても分かり易い
境内地周辺は方約100mほどの規模があるようにも見える
なお、社殿北側には下記画像のような盛土が施され、その結果辺とは約1mほどの比高差を生じていた
神社社殿造立の際に為されたものかそれ以前のものか、その普請がいつ頃のものなのかもいまのところ不明

約1mほどの比高差のある境内

南側に小公園が付随し車も3台くらいは駐車可能であった

    南側表参道から


牛沢城(群馬県太田市)
8時30分から8時45分

南東角の牛沢神社付近に駐車し参拝
石田川とその支流である蛇川により西と南を囲まれた地形
城館跡と推定される中心部付近に東西約25m幅約4mほどの水濠が所在しているが、城館跡との関連は不明

また鬼門である北東に稲荷神社が所在しているが、比高4mほどの人工的な盛土でありよく目立つ
この地域には古墳も多く存在していることからそれらしくも見えるが、あるいは近世以降の塚であるのかは今のところ不明



富沢館(群馬県太田市)
8時50分から9時10分

かつては堀が存在していた由
南西部の細長い墓地の区画辺りと北東部の耕作地にそれらしさを感じる
現在は僅かに境内地が周囲よりも高いくらいで地形的な特徴は見いだせない

 境内は周辺よりも少し高いが


高林陣屋、高林環濠遺構(群馬県太田市)
9時30分から9時50分

近世の代官陣屋でそれ以前には城館でもあったらしい
近くのコンビニで飴を買い徒歩にて拝見
屋敷地の東側には今重厚な屋敷門、長屋門(やや櫓門に近い)が所在し、南側の長勝寺側には土塁状の地形もあったのだが

    土塁だろうか
 
高林城(群馬県太田市)
10時00分から10時40分

NECの工場敷地内だが現在は保守サポート拠点として継続しているらしい
98シリーズ、8800シリーズが懐かしい
関連企業との取引のあった80年代をふと思い出す
pcがマイコンと呼ばれた時代から40年近く付き合っている割にはスキルがない
昔日に思いをはせつつ敷地の周囲を一周した
むろん遺構などはあろうはずもなく、僅かに八瀬川と憩川に挟まれた特徴のある地形だけが昔日を物語っていた




矢島城(群馬県太田市)
11時00分から11時20分

国道354線と国道407号線が交差する北西部に所在し、赤城大神宮を挟み東西に城館跡が存在していた由
水路を挟んだ西側の方は概ね宅地化され一部畑が残り東には曲折した細道がある
東側の方は工場敷地の一部と化している
社殿に付された神社縁起によればこの境内も城館跡であるとのことだが果たして



東矢島城、宮西遺跡(群馬県太田市)
11時30分から11時50分

国道407号線東の長良神社境内の辺りらしいのだが、「マッピングぐんま」には城館跡としての扱いは無く、「宮西遺跡」(奈良、平安の集落遺構)に含まれた地域である
境内地のうち社殿の所在する北側は盛土されている
このため周辺の耕作地とは1m以上の比高差がある


東側には南北方向に水路が流れ境内の北東には古塚も所在している

 
新井館、御庵公園(群馬県太田市)
12時25分から12時30分

大型家電量販店から徒歩にて見学
新田義貞の愛妾とも伝わる勾当内侍の居所とも
御庵公園の入口を撮影した

 名称とはそぐわないようにも

城代氏との関係は不明だが城代性の商店が所在する


今井屋敷、今井公園(群馬県太田市)
12時50分から13時00分

そのまま西に1.2kmほど歩き今井公園方面へ
 
4階建の県営団地が所在するところが城館跡という
いくぶん蛇行する蛇川の水面に反射する日の光に僅かに秋を感じていた


遅くも午後2時頃には新田図書館へ赴く予定なので本日はこれにて打ち止め


元々がローラー作戦なので手当たり次第ではある
それにしても今日は遺構が乏しかった

大部分が太田市内の市街地という事情もあるので当たり前ではある
加えて午前7時から朝食、昼食抜きで連続して動いていたこともあり、午後1時過ぎにはほぼエネルギー切れとなった

彼岸を過ぎてめっきり日没が早まってきた
午後5時半には暗くなってしまう様になった
それと共に日の出の方は逆に遅くなってきた
とくに東側に雲がかかる天候の場合には午前7時行動開始がそろそろ厳しくなってきたようだ

「遺跡」を含めると現在の太田市内には100か所を超える城館跡が所在しているので、先月から延べにして4日間も出かけているが未だに半分も回れてはいない
このあとはこのまま太田市内を継続するか、そろそろ他方面へと転じるか思案中

拍手[6回]

(メモ)
今年は6月以降7月、8月、9月と例年よりも多めに出かけられた
尤もその殆どは遺構がほとんどないような都内区部ではある
それでも8月は上田と小諸にも行くことができた
上田、小諸方面はほぼ半世紀ぶりであった
先月9月も太田市西部の旧新田町、旧尾島町を3日に分けて訪れた

その勢いをかって今月も太田市内の残っている個所(たぶん50か所くらい)を3回ほどに分けてまわってみよう
月末近くには名胡桃方面を始めとした有名どころ、小諸市西部、御代田町辺りの何れかに赴ければと思う月初めである

拍手[4回]

一昨日に続いて最早勝手知ったる3度目の太田市
今回も主に旧新田町と旧尾島町方面
ざっと10か所ほど探訪した後に気力が残っていれば図書館にも寄ってみることに
今回も深谷バイパス経由にて
往路は前回時よりもさらに早く所要時間1時間40分前後での現地到着

堀口館(群馬県太田市、旧尾島町)
午前7時00分から7時15分

■浄蔵寺


■賀茂神社
 

利根川支流早川堤防上に建設された県道276号線北東側の堤防下にいくぶん夏草に隠れがちではあったが城館跡の標柱と解説版が所在していた
また集落内の賀茂神社沿いの市道脇には立派な堀口館の案内標識も所在

    標柱と説明版

近くには県道と早川を跨ぐ「水道橋」のような構築物が所在しているので、これも分り易い目標物のひとつ

 たぶん「水道橋」だろうか

しかし、その割には館跡としての地表上の痕跡は同堤防工事等により事実上消滅しているのが残念
今回は現地状況が不明のため北西約1kmばかり離れたコンビニに駐車
たまたま購入したグレープフルーツ味の塩飴がなかなかいける
そこからは徒歩にてアプローチ
結果的には新田氏一族とかかわりの深い浄蔵寺、賀茂神社も立ち寄ることができた


岩松館(群馬県太田市、旧尾島町)
7時50分から8時10分

こちらは境内の南東に史跡めぐりも意識した専用駐車場が所在
源義国の創建と伝わり、江戸時代初期に後裔である岩松尚純(ひさずみ)が隠遁
年代は不明なものの境内地北側に延長約100ほどの土塁と空堀が現存
現状の堀幅は上面で約4mほどだが並行する市道は堀跡の一部かも知れず
一方現状の土塁の高さは堀底から約2mはある
これも往時には少なくとも3mほどの深さがあったものだろうか

   北辺部の土塁と空堀


    東側からの遠景

ただしこの時期そこそこ藪蚊はいることから3か所ほど刺された
液状の蚊除けを忘れたのはこれで連続3回目に
ここのところ必ずといってよいほどに携行を失念している


岩松東館(群馬県太田市、旧尾島町)
午前8時20分から9時00分

金剛寺廃寺跡で現在は地域の集会所がありその南側に子安地蔵尊が所在する


  推定館跡の子安地蔵尊

■義国神社
その北側に小さな社叢を伴う小祠に夏草に隠れ源義国を祭神とする当社が所在
 
     義国神社

■岩松尚純夫妻墓所
やや夏草に覆われたという印象のある公園化された墓所に3体の五輪塔と石碑が所在
この南側に岩松館に移る前の岩松氏の屋敷があったらしい
この辺りの経緯は伝承が膨らみ曖昧な印象もあるのでもう少し時間をかけ確認してみよう



    岩松氏五輪塔


江原館(群馬県太田市、旧新田町)
午前9時35分から9時40

近くのコンビニに駐車し以下の3か所はすべて徒歩移動
現状は予想通り耕作地そのもので圃場整備のためその区画を含めて面影は皆無
「マッピングぐんま」の掲載情報もなし

     東側から


中江田城(群馬県太田市、旧新田町)
午前9時45分から10時10分

■井田池
はじめにこの池の存在がどうも気にかかり訪れてみた


現地の解説版によれば、南東側の中江田城との関わりを示唆
また同解説には地元会館近くに「五輪塔残欠」情報もあったので楽しみが増えた

■中江田城
実はこの場所を訪れたのは2度目
たまたますぐ脇の市道を南側から通過していたことに気づかず(^^ゞ
あらためて徒歩で辿ってみると西側の台地辺縁部に耕作地のものとは異なる小さな崖線が所在
隣接耕作地との比高差は僅かに1m内外だが、水田面からの比高差は3m前後はありそうだ
この地形の確認ができただけでも満足する自分が嬉しい


■五輪塔残欠
中江田本郷会館の斜向かい、住宅脇に天保期の稲荷社?の祠とともに下3段分の五輪塔が鎮座
会館の敷地内に見当たらず作業中の地元の方にお尋ねしたところ小屋をかけた姿に逢い見えるることが叶った


逆に五輪塔の意味とその背景を聞かれたので少なくとも400年以上前の墓石の一形態であり、新田氏或いはこれに繋がる有力者のものである可能性などについてお話しすることになってしまった(^^ゞ


原館(群馬県太田市、旧新田町)
午前10時15分から10時25分

あまり期待はしてはいなかったが、前記と同様に石田川へと続く水路沿いの低丘陵を活用した館跡であったことが明確に浮かび上がってきた

   館跡付近の崖線部


木崎屋敷(群馬県太田市、旧新田町)
午前11時00分から11時20分

木崎行政センター(兼公民館)に駐車しぐるっと徒歩にて確認
大きく分けると県道311号線南西の「元屋敷」と北東の「堀之内」に分かれているらしい
その現状は前者が畑で、後者がほぼ宅地
圃場整備のため土地の区画も変わり往時の面影は感じられず

    字元屋敷の近辺


上野井環濠遺跡群(群馬県太田市、旧新田町)
11時55分12時15分

以下は生品行政センターに駐車させていただき全て徒歩にて回遊

■北西部の遺跡
上野井館の西にほぼ隣接し、現状は畑の区画として遺されているように見受けられる

   たぶんこの辺りか

■上野井館
遺構群の北東隅に所在
緩やかに東側の水田地帯に向けてに傾斜が見られる
概ね宅地化されておりおよそ2軒分の旧家の敷地部分に相当しているようだ
むしろその南側隣接地の屋敷林に目が向いてしまう

  たぶん上野井館の辺りか


■南端の遺跡
生品小学校東側の旧情は水田地帯で現在は宅地造成され面影なし
北側には太田市立児童館が所在


南側の市道に出ると東側には川島屋敷の屋敷林が目に入る


川島屋敷(群馬県太田市、旧新田町)
12時20分から12時30分

200mほど西側の市道から遠景を拝見しつつ徐々にアプローチ
収穫前の稲田越しの風景がとても美しい
アオサギらしい大型の野鳥が微動だにしないでフェンスの上で休憩中
はじめは「つくりもの」かと思うくらいに動かず
川島屋敷の方角を眺めているうちに飛び立っていったらしい

    西側からの遠景

北側の堀は屋敷林に隠れてやや渇水気味のようにも見受けられた
そうなると西側の水濠を撮影させていただくのみ
しかし太陽光の位置が思わしくなく北から撮影するとハレーション気味に
西側からでは水面が写らず、南から撮影すると取敢えずは下記のように

     西側の水濠

小金井馬場北館 小金井馬場南館(群馬県太田市、旧新田町)
12時45分から13時10分

その名称のとおり南北に隣接する城館跡
字名は北側が「馬場」で南側が「堀之内」
南側は殆ど宅地化が進行している
北側は集落内の通路方向から拝見する限りでは宅地と畑しか見えず
しかし東雲寺の所在する北側市道から見る限りでは、屋敷林に加えて堀跡のように見えなくもない地形が連続しているという印象を抱く
そこから西側へ道をとり南下していくと水路に並行した土塁状に見えなくもない地形を確認
用水路を整備した際の掘り上げられた残土のようなものなのだろうか
北西隅部分の盛土地形を含め用水路に沿った余りに直線的な配置でもあるためその性格については判断できず 

用水路とこれに並行する盛土
 
朝晩の気温は涼しくはなってきたが、未だ日中の日差しは残暑の気配も
今回は11か所しか訪れてはいないが、これに関連史跡を含めると17か所は回ることかできているのでまずまずなのかとも
このあと予定通り新田図書館へ立ち寄る
郷土資料関係の書籍をざっと閲覧
必要個所を複写申請して16時40分頃に帰宅(所要時間約2時間)
複写枚数が多いので後日再訪し受領する予定

さて問題の足回りの状態
やや多めに歩き意図的負荷をかけてみた
約2万3千歩だか痛みは無視できる程度
少なくとも激痛と苦痛で足を引きずるという事態には至らず
いつもに比べると最低限の対処(専用靴下、両踵ガーゼ保護、両足第五指保護)だったが、今回は何とか上手くいったようだ


深谷バイパスを走っているとカーナビに時折浮かび上がる懐かしい地名の数々

内ヶ島、皿沼、伊勢方、増田、宮ヶ戸、東方、別府、西別府、東別府、玉井、奈良
これらは全てかつて訪れた中世城館跡の所在地そのもの
あの時にはカーナビは高嶺の花
あれから早くも12年が経過していたことをまじまじと感じていた

この間確実にこうした幹線道路バイパスに期待される社会的役割、期待を含めてその利権の構図は大きく変化したようだ
バイパスの完成により旧市街の経済活動は限りなく縮小した
始めは好況に沸いたバイパス沿いに展開するショッピングセンターも背景人口の減少により不採算、縮小撤退も顕著に
今どき国道のバイパスを充実して地域の社会経済を進展させるなどとのたまう人物は誰にも相手にされないだろう
しかし30年前にはイケイケどんどんの世界観が蔓延
今や片側3車線走行を意図した用地買収済の道路敷地には背丈ほどの雑草が蔓延り、30年ほど前に設置された黒ずんだ橋脚は一台の車が通行することもなく悲しいくらいに経年劣化が目立っていたことが現在のその在り様を示しているように思える

人に終活(幕引き、終焉)のプログラムがあるとするのならば、近代社会が生み出した文明そのものにも終活があってもよいのかも知れない
少なくとも今の日本はそうした時代に首の辺りまで浸かっている、そんな気がする

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