本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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早朝の寒さに凍えた伊勢崎市境(旧境町)の「境城」の次は、同じ地域の北東方向に所在する「三ツ木城」へと移動した。
一度「日光例幣使街道」てもある国道354線に出てからこれを右折。
栄町の交差点から北へ向かい東武伊勢崎線の踏切を越え境三ツ木へと入った。
太田市内南部は土地勘も出てきたが、この辺りは全く詳しくないのだが、マップルとカーナビの地図を頼りにすればほぼ間違いなく移動できる。
相変わらずナビは本来のナビゲーションは使用しないというかあまり信用していない。
ナビあくまでも現在位置の確認と移動すべき目的地へのだいたいの方角とルートを参照するだけである。
一見不便なようでもこの方法の方が現地の地理が頭に入る。
むろん帰路のルート参照には軌跡表示設定をしているので結構役立つのである。
凸三ツ木城(群馬県伊勢崎市三ツ木町)
8時10分から8時30分
境城からの移動距離は道程にして僅か3km足らずであったが、右折車の信号待ちや朝方の交通混雑が始まり移動には20分近くを要しすることとなった。
「日本城郭大系」などの記述によれば、真福寺境内が三ツ木城本丸(100m四方)と記されており、現在の約4倍ほどの広さを有していたらしい。
同境内地を除きその周囲は宅地化が進行しており、さらに北側には国道354線が東西方向に走っており城跡らしい景観はほとんど失われている。
境内地は下記画像のように殆ど平坦であるが、唯一北西部の角に三ツ木神社が所在し盛土された土塁状の基壇が現存している。
また「マッピングぐんま」によると古墳時代の遺跡でもあり、「日本城郭大系」の記述にも「北と西に高土居が残る」との記述がある。
かつての古墳を櫓台や土塁として使用したのちに近世になり稲荷社が祀られたものなのであろうか。
「日本城郭大系」などによれば、同寺は天正年間に由良氏家臣である三ツ木城主根岸氏により建立されたとされている。
真福寺および三ツ木神社が所在する境内地
真福寺の縁起の記された観音霊場めぐり案内板
稲荷社の祀られた三ツ木神社 土塁のようにも、古墳のようにも、神社普請の際の盛土のようにも見える。比高約3m前後、長さ約15m、基底部幅約5mほどの規模であった。
西側から撮影したので寒々しい画像となった土塁状の地形
城跡の南方を通過している「日光例幣使街道」
一度「日光例幣使街道」てもある国道354線に出てからこれを右折。
栄町の交差点から北へ向かい東武伊勢崎線の踏切を越え境三ツ木へと入った。
太田市内南部は土地勘も出てきたが、この辺りは全く詳しくないのだが、マップルとカーナビの地図を頼りにすればほぼ間違いなく移動できる。
相変わらずナビは本来のナビゲーションは使用しないというかあまり信用していない。
ナビあくまでも現在位置の確認と移動すべき目的地へのだいたいの方角とルートを参照するだけである。
一見不便なようでもこの方法の方が現地の地理が頭に入る。
むろん帰路のルート参照には軌跡表示設定をしているので結構役立つのである。
凸三ツ木城(群馬県伊勢崎市三ツ木町)
8時10分から8時30分
境城からの移動距離は道程にして僅か3km足らずであったが、右折車の信号待ちや朝方の交通混雑が始まり移動には20分近くを要しすることとなった。
「日本城郭大系」などの記述によれば、真福寺境内が三ツ木城本丸(100m四方)と記されており、現在の約4倍ほどの広さを有していたらしい。
同境内地を除きその周囲は宅地化が進行しており、さらに北側には国道354線が東西方向に走っており城跡らしい景観はほとんど失われている。
境内地は下記画像のように殆ど平坦であるが、唯一北西部の角に三ツ木神社が所在し盛土された土塁状の基壇が現存している。
また「マッピングぐんま」によると古墳時代の遺跡でもあり、「日本城郭大系」の記述にも「北と西に高土居が残る」との記述がある。
かつての古墳を櫓台や土塁として使用したのちに近世になり稲荷社が祀られたものなのであろうか。
「日本城郭大系」などによれば、同寺は天正年間に由良氏家臣である三ツ木城主根岸氏により建立されたとされている。
真福寺および三ツ木神社が所在する境内地
真福寺の縁起の記された観音霊場めぐり案内板
稲荷社の祀られた三ツ木神社 土塁のようにも、古墳のようにも、神社普請の際の盛土のようにも見える。比高約3m前後、長さ約15m、基底部幅約5mほどの規模であった。
西側から撮影したので寒々しい画像となった土塁状の地形
城跡の南方を通過している「日光例幣使街道」
昨年12月10日以来久しぶりに城跡へでかけた。
この間は滋賀遠征後の画像整理等々に加えて孫のお守、長女の帰省、ETCの不具合などが続いた。
かくして生来の在宅癖と冬季傾眠傾向が復活し1か月以上のブランクとなった。
行先は栃木県南、群馬県赤城山西方面、昨年秋以来となる太田市、茨城県南方面など準備済の地域は数多。
このなかから降雪、路面凍結の懸念を感じる地域、高速使用の地域を候補から除外。
しばらくまともに歩いていないこともあり、足慣らしを兼ねて結局群馬県伊勢崎市(旧境町)、前橋市(赤城山南麓)となった。
凸境城(群馬県伊勢崎市-旧境町)
7時00分から7時50分
昨年秋に数回ほど連続して訪れていた太田市の西側地域でもある。
このため途中の経路は東松山(国道254線)-熊谷(国道407号線)-深谷(深谷バイパス)-太田経由であり殆ど問題が無い。
この方面の下調べと最低限の資料はとりあえず用意済みである。
このままにしておくと用意していた資料の存在さえも忘れてしまう恐れもある昨今である (^^ゞ
しかし3か月ぶりなので、上武大橋北交差点を左折したところでナビと道路地図の違いに気が付いてふと迷うこととなった。
この道は以前は広瀬川左岸の県道297号線であったが、ナビにも表示されているように近年新しく297号線が完成していたことを理解したのはそのあとのこと。
尤も目的地は長光寺とその南にある弁天池である。
ナビの現在位置を確認し、広域表示に切り替え午前7時前には弁天池脇の「境公園」に到着。
弁天池の周辺から反時計回りに周囲を巡り、境神社からは再び元の道を戻ってみたが明確な遺構はほぼ消失していることは間違いが無さそうであった。
なお神社境内の西側にほんの僅かながら土塁の痕跡のように見えなくもない盛土跡が所在しているが、堀跡であったと推定される道路と野間にはブロック塀が設置されていることもあり、後世における神社の普請などに伴うものである可能性も想定され判断に迷う。
「群馬県の中世城館跡」では「崖城」の扱いが為されてはいるが、利根川支流の広瀬川に向かい緩やかな斜面が確認されるだけである。
現在の「弁天池」と「境公園」の辺りが最も低地であるすると、往時においても最大でも3mほどの比高差があったかどうかであるように思われた。

城域南東付近の弁天池

弁天池の北に隣接した「境公園」の築山 数十年物の樹木が生えてはいましたが、古墳や近世の塚でもなく、より新しい近年のもののようでした。
この地は南に傾斜した地形であり、天台宗長光寺の東側 境内墓地と道路を企画しているブロック塀は階段状に少しずつ低くなっていることからも把握できる。
城域の東側に相当する天台宗長光寺山門前
城域の北西角に所在する境神社の縁起を記した説明版
境内西側の道路沿いの部分は明らかに道路部分との比高差があるようなのだが、後世の神社造立などにともない発生したものである可能性もあり委細不明である。
「群馬県の中世城館跡」などに掲載されている山崎一氏が作成したと思われる縄張図によれば、郭内には東に長光寺、西に境高等学校、その北西角に境神社の境内が記され、かつてその周囲には南から西にかけて城沼跡が所在し、北辺、東辺には堀跡とこれに並行する土塁も存在していたようだ。
帰宅後に念のため1947年に撮影された航空写真を確認してみた。
城沼跡は明確に確認できるものの堀跡と土塁の存在については樹木などの陰になり判然とはしていない。ただし、現在のように墓地は拡張されてはおらず、長光寺の南部に墓地の区画は殆ど見当たらない。
墓石などの様子を拝見する限りでは遅くとも1970年代の初め頃には原型を留め難くなっていたのかも知れない。
このあとは近隣に所在している三ツ木城へと移動した。
この間は滋賀遠征後の画像整理等々に加えて孫のお守、長女の帰省、ETCの不具合などが続いた。
かくして生来の在宅癖と冬季傾眠傾向が復活し1か月以上のブランクとなった。
行先は栃木県南、群馬県赤城山西方面、昨年秋以来となる太田市、茨城県南方面など準備済の地域は数多。
このなかから降雪、路面凍結の懸念を感じる地域、高速使用の地域を候補から除外。
しばらくまともに歩いていないこともあり、足慣らしを兼ねて結局群馬県伊勢崎市(旧境町)、前橋市(赤城山南麓)となった。
凸境城(群馬県伊勢崎市-旧境町)
7時00分から7時50分
昨年秋に数回ほど連続して訪れていた太田市の西側地域でもある。
このため途中の経路は東松山(国道254線)-熊谷(国道407号線)-深谷(深谷バイパス)-太田経由であり殆ど問題が無い。
この方面の下調べと最低限の資料はとりあえず用意済みである。
このままにしておくと用意していた資料の存在さえも忘れてしまう恐れもある昨今である (^^ゞ
しかし3か月ぶりなので、上武大橋北交差点を左折したところでナビと道路地図の違いに気が付いてふと迷うこととなった。
この道は以前は広瀬川左岸の県道297号線であったが、ナビにも表示されているように近年新しく297号線が完成していたことを理解したのはそのあとのこと。
尤も目的地は長光寺とその南にある弁天池である。
ナビの現在位置を確認し、広域表示に切り替え午前7時前には弁天池脇の「境公園」に到着。
弁天池の周辺から反時計回りに周囲を巡り、境神社からは再び元の道を戻ってみたが明確な遺構はほぼ消失していることは間違いが無さそうであった。
なお神社境内の西側にほんの僅かながら土塁の痕跡のように見えなくもない盛土跡が所在しているが、堀跡であったと推定される道路と野間にはブロック塀が設置されていることもあり、後世における神社の普請などに伴うものである可能性も想定され判断に迷う。
「群馬県の中世城館跡」では「崖城」の扱いが為されてはいるが、利根川支流の広瀬川に向かい緩やかな斜面が確認されるだけである。
現在の「弁天池」と「境公園」の辺りが最も低地であるすると、往時においても最大でも3mほどの比高差があったかどうかであるように思われた。
城域南東付近の弁天池
弁天池の北に隣接した「境公園」の築山 数十年物の樹木が生えてはいましたが、古墳や近世の塚でもなく、より新しい近年のもののようでした。
この地は南に傾斜した地形であり、天台宗長光寺の東側 境内墓地と道路を企画しているブロック塀は階段状に少しずつ低くなっていることからも把握できる。
城域の東側に相当する天台宗長光寺山門前
城域の北西角に所在する境神社の縁起を記した説明版
境内西側の道路沿いの部分は明らかに道路部分との比高差があるようなのだが、後世の神社造立などにともない発生したものである可能性もあり委細不明である。
「群馬県の中世城館跡」などに掲載されている山崎一氏が作成したと思われる縄張図によれば、郭内には東に長光寺、西に境高等学校、その北西角に境神社の境内が記され、かつてその周囲には南から西にかけて城沼跡が所在し、北辺、東辺には堀跡とこれに並行する土塁も存在していたようだ。
帰宅後に念のため1947年に撮影された航空写真を確認してみた。
城沼跡は明確に確認できるものの堀跡と土塁の存在については樹木などの陰になり判然とはしていない。ただし、現在のように墓地は拡張されてはおらず、長光寺の南部に墓地の区画は殆ど見当たらない。
墓石などの様子を拝見する限りでは遅くとも1970年代の初め頃には原型を留め難くなっていたのかも知れない。
このあとは近隣に所在している三ツ木城へと移動した。
毎年正月疲れの出るころにやってくる誕生日である。
「門松や 冥途の旅の 一里塚」の句に相応しい時候でもある。
年代的にも子どもの時分には取り立てて特別な日ではなかったような記憶がある。
所帯を持つようになってからは何度かショートケーキで祝ってもらったが、子どもが成人した以降にはそうしたこともなくなった。
また、和菓子は食べるのだが、そもそもケーキを食べるというのが苦手になってきたこともある。
遠方に住んでいる娘からは祝いのメールが来た。
メールはここ10年くらいは続いているような気がする。
尤もメールが来るのは誕生日と父の日くらいではあるのだが。
夕食は冷蔵庫内正月用食材整理格安米国産冷凍保存牛肉のすき焼きになった。
卓上カセットコンロで加熱していると忽ち肉団子のような塩梅となった。
このため「くるま麩」と「焼き豆腐」が引き立つ仕儀となった。
「門松や 冥途の旅の 一里塚」の句に相応しい時候でもある。
年代的にも子どもの時分には取り立てて特別な日ではなかったような記憶がある。
所帯を持つようになってからは何度かショートケーキで祝ってもらったが、子どもが成人した以降にはそうしたこともなくなった。
また、和菓子は食べるのだが、そもそもケーキを食べるというのが苦手になってきたこともある。
遠方に住んでいる娘からは祝いのメールが来た。
メールはここ10年くらいは続いているような気がする。
尤もメールが来るのは誕生日と父の日くらいではあるのだが。
夕食は冷蔵庫内正月用食材整理格安米国産冷凍保存牛肉のすき焼きになった。
卓上カセットコンロで加熱していると忽ち肉団子のような塩梅となった。
このため「くるま麩」と「焼き豆腐」が引き立つ仕儀となった。