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みちのくの4日目になった。
計画では帰宅の予定日である。
来訪以前には2日程度の滞在延長も考慮していたが、どうにも気管支炎が改善しないため当初の予定通り素直に帰宅するのが大人の常識というものである。
そうはいっても帰宅に伴う高速走行は元々夜間を予定しているので、午後3時過ぎくらいまでは滞在することが可能なはずである。
「ホテル内で待機中」
開館時間は午前9時なので、8時20分頃まで宿泊しているホテルの室内で待機することとした。
ベッドに横になるとそのまま二度寝しそうになることから、椅子に座り所在なくボーッとして朝ドラを見ていた。
◎八戸中央図書館
午前9時00分から10時30分
さて本日の予定だが、図書館は今のところ1日目の二戸市だけしか立ち寄っていない。
南部町にはいわゆる公民館図書室のようなものしか無いらしく、著作権法に照らせば法的に資料複写ができないという制約がある。
一方八戸市の中央図書館はそれなりに自治体史関係も充実しているので、まずはこちらの方にて閲覧・複写を行うこととした。
現在の南部町は旧南部町、福地村、名川村が合併しているので3か所分の閲覧・複写を行った。
なお八戸市史関係は刊行年次も新しくボリュームが大きいことからこの際なので購入することとした。
「紅葉」
朝方の交通渋滞を考慮して早めに向かったところ早く来すぎてしまい、止む無く同じ敷地内の公園を散策していた。
「図書館・公民館の庭園」
折から鍵の手状の築山の紅葉がなかなか良い具合であった。
「佳景」
全体として資料が豊富であり、あれやこれやとついつい目移りしてしまった。
このため30分程度で退出する積りが、1時間半も費やしてしまった (^^ゞ
凸古館(青森県南部町、再訪)
11時00分から11時30分
「福地村史」に記載されている古館の領域を確認すべく再訪した。
たしかに虎口とも想定できるルートだが・・・耕作のための農道にも見えるのだが
この部分は確かに館の一部として考えても良さそうな地形ではあるが、厳島神社が所在する郭までの距離がいくぶん大きすぎるようにも感じる。
この画像左側部分を郭跡と見るのは、後世の開墾などにより地表の改変があるとしても如何なものだろうか。
馬渕川の船着場の拠点として、向側の平坦地までを含めるのはどうなのだろうか。
執筆者も地籍図を基にいろいろと試行錯誤を重ねて熟慮したものであると思われるが、やはりこの地域の領主層の館跡としては過分な規模であるように思われた。
凸森ノ越館(同上)
11時25分から11時50分
館跡の東側は道路であり、堀跡の名残のようなものは見受けられない。
集落北側には堀跡の形跡は感じられない。
「民家裏側の段丘」
「稲荷神社」脇の崖下へと続く里道
「稲荷神社」
「崖下へと降りる里道」
「北側の崖線部」
年月の経過がに起因しているものなのかも知れないが、やはり「青森県の中世城館」に掲載されている略図のイメージとはかなり乖離しているという印象があった。
凸三戸城(青森県三戸町)
12時30分から15時00分
「中腹の城址碑」
永禄年間頃、南部晴政の代に聖寿寺館よりこの地に転じたと考えられているらしい。
その後南部氏の盛岡城への転出後においても、古城として維持され江戸時代の貞享年間頃に廃されたとも考えられている戦国期から近世の初めにかけて使用されていた城郭である。
「解説版」
「本丸跡石碑」
「発掘調査中」
故馬場のぼる氏ゆかりの地
「江戸時代初期の三戸城」
現在の状況に合わせた遺構、史跡などの説明があると嬉しいのだがパンフレットもこれと同様のものであり見当たらなかった。
「模擬櫓の資料館」
「淡路丸」付近
「鍛冶屋御門」の石垣
秀吉の奥羽仕置き以降、延べ3度にわたり積み直されているらしい。
「糠部神社境内」
「鹿園」
おりしも雄鹿が角を突き合わせている最中で、時折発するその乾いた衝突音が人気のまばらな城山公園内に響き渡っていた。
「綱御門」
平成元年にふるさと創生事業により建てられたバブル期の観光施設に近い櫓門ではあるが、こうしてある程度年月が経過してくるとそれなりに風景になじんでくるらしい。
石垣の処理が何とも言い難い粗雑さを醸し出していたように思えた。
この城跡は「県立城山公園」として整備され、春には1600本の桜が咲き誇るそうである。
「三戸城遠景」
三戸高校の付近から撮影したものである。
このあと町内の三戸図書館に立寄り三戸町誌を閲覧の上複写申請をした。
こじんまりとした小さな図書館であるが、金はかけずに手間をかけた資料展示の工夫にひとしきり感心。
これで二戸、八戸、南部、三戸関係の基礎的な資料はいちおう揃うこととなった。
しかしあまりに往復に要する時間がかかることから、次の遠征があるのかは自分でも分からないでいる。
日没前の午後4時頃に図書館を退出。
もと来た国道4号線へと戻りそのまま南下し、最初の日に訪れた二戸市を通過したあたりから次第に空模様が怪しくなり始めた。
一戸町に入ったあたりからは完全な降雨となり日没前にもかかわらずライトを照射し走行した。
岩手町の辺りでは日没となり国道4号線は完全に真っ暗闇に包まれた。
国道340、395号線に比べればアップダウンとカーブが少ないものの、道路照明はほぼ皆無に近く、雨も本降りとなってきた。
やはりこの辺りの走行に不慣れなものにとっては気疲れの伴う運転となった。
それでもどうにか予定通り滝沢ICから東北道に乗り、本降りの闇の中をひたすら南下。
雨は紫波SA付近でようやく小止みになり、同SAにて「かつ丼」で夕食。
途中安達太良にて給油し、その後は安定走行を続ける大型車をマークしつつ時速80kmから90kmで休憩なしの夜間走行。
このような事態を想定し前日の睡眠時間は約9時間を確保していた。
その後深夜午前1時前に無事自宅到着。
かくして帰路も夕食、給油などを含めると約9時間を要した。
みちのく遠征3日目にしてようやく南部氏宗家の拠点方面へと向かうこととなった。
今までに訪れたことのない見知らぬ地域ではあるが、2日間ではあるが二戸市、八戸市を探訪したこともあり、ある程度の方向感覚を含む地域の地理的特性を把握し始めてきたように感ずる。
いくら気管支炎発症中とはいえ、みちのく滞在2日間で僅かに探訪7城館ではあまりに情けない。
幸いにして馬渕川沿いには大小の館跡が点在していることから、これを三戸街道に沿い遡上していけば、ある程度の数はこなせるかも知れない。
凸法師岡館(青森県南部町、旧福地村)
午前8時05分から9時10分
「月山神社」
館跡付近には駐車場所が無いので、短時間ならばこの神社の参道手前やこれに隣接した農村公園の辺りに駐車させていただくのが良さそうに思える。
「古戦場標柱」
月山神社隣の農村公園北の一角で県道134号線沿いに所在している。
天正19年3月(1591)浅水城の南盛義兄弟が九戸方の櫛引城攻略の途上に当館を攻略すべく包囲したが、櫛引氏の後詰により月山神社周辺で討死を遂げたともいわれている。
これについては現地の標柱、および「南部諸城の研究」からの引用に過ぎないものであり、全く史料読込ができていないことから、今のところその典拠となる史料の存在、史実としての正否については把握できていない。
ただし一般論で言えばその合戦の規模は両勢力を合わせ多くとも数百人程度の規模であろうと推定される。
なおこの際に一時的にデジカメのレンズフード(約5千円)が行方不明であると思い込んだ。
そうした些細なことなどでいささか焦り気味となり神社での参詣を失念してしまった (^^ゞ
ただし、画像右側の案内標識の指し示している方角には「解説版」が所在する場所とは逆方向を示しているように思われ些か問題がある。
「鈴なりの柿」
「南西方向からの遠景」
この方向からウェブ地図では農道が堀跡付近まで続いているように記載されているが、館跡南東部付近で行き止まりとなり、かつ堀跡などの地表上の凹凸は確認できなかった。
「案内標識」
八戸市から国道104号線経由で高岩の信号を左折(手前が新道で、400m先が旧道だが馬渕川を渡過する橋の手前で2つの道は合流する)し馬渕川を渡るとこの案内標識が設置された分岐に出る。ここを標識の指示に従い左折すれば下記の「解説版」が設置されている個所に到達する。
「北西部付近」
この場所での路駐は幅員も狭く急カーブもあり、迷惑かつ危険であることから厳禁である。
「解説版」
九戸政実の乱に際して九戸方に与した当城は三戸南部方である八戸氏、中野氏の攻撃を受け落城したともいわれている。
この城を支配していた櫛引氏一族小笠原兵部(櫛引清長の弟清政とも)は、その当時は主力を率い九戸城に籠城しており、城側の守兵(おそらく数十名前後か)はその防御線の長大さに比して極めて手薄であったことが窺える。
「主郭北西部」
画像右端が主郭部に相当するのだが、果樹園として使用されているので「立入禁止」の木札が掲示されていた。
このためその内部の仔細は不明であるが、電子国土などの地形図を参照すると南東に向けて次第に標高が高くなっていることが記されている。
「内側の堀跡」
残存遺構としての三重堀が期待されたのだが、残念ながら現地を見た限りでは三重が確認できる個所は北西部から南東にのびる道路に入って約100mの地点付近の一部分のみであるように思われた。
また全体として藪に覆われ、耕作地化に伴う埋立てなどの影響もあり、見栄えのする堀跡地形はこの小祠が所在する上記画像付近に限られていた。
なおこの旧福地村は「福地ホワイト」(ニンニクのブランド)の原産地として全国的にも有名であるという事実に気が付いたのは帰宅後に見たテレビの通販CMによるものであった (^^ゞ
凸苫米地館(青森県南部町、旧福地村)
午前9時40分から10時10分
「馬渕川の早瀬」
馬渕川の流路が当時のままということは考えられないので、この早瀬が以前からのものであるのかは不明であるが、九戸政実の乱当時にこの馬渕川を浅瀬を探索しつつ渡過してくるというのは相当に骨の折れる城攻めであったような気がする。
また仮にこの早瀬を渡るとすればかなりの確率で溺れることは必定であろう。
「主郭より馬渕川を望む」
現在は「ふれあい公園」の一角に所在する展望台のような按配となっていた。
「主郭南側」
「虎口位置は不明」
事前の想定通りきっちりと公園化が図られており、虎口などの形跡は微塵も感じ取ることはできなかった。
「主郭北側」
比高差10m未満の独立丘陵であるため、地形図には表記されてはいないのだが、周囲の見通しは極めで良好であり、とくに馬渕川と三戸街道方面の見通しに優れた地形であった。
「現地説明版」
同様の解説版が公園の管理等外壁にも設置されていたが、そちらの方はかなりの経年劣化が見られた。
この比較的新しい解説版は材質の特性なのか、設置後既に20年以上風雪に曝されているにも関わらず良好であった。
「三戸館持支配帳」によると「苫米地館300石苫米地因幡」と記され、また「九戸戦史」によれば南部氏に与したこの館は、天正19年3月13日(1591)三戸城攻略の橋頭保とすべく九戸方の櫛引清長、一戸図書ら兵500の攻撃を受けたが、寡兵を以て高橋駿河とともに守り切ったとされているが、あくまでもその史実としての正否は不明である。
「主郭北側」(北東隅から)
南側、北側ともに比高差は5mから6mではあるが、馬渕川の旧流路ないしは分流である北東側の水濠などにより、往時においてはそれなりに要害性のある地形であったことが偲ばれる。
「水濠跡とも」
馬渕川の旧流路ともあるいはその分流とも考えられる水濠跡である。
北側から撮影。
「観光案内版」(役場前)
このあと南部町役場に立寄り休憩と情報収集。
庁舎内の自販機にて「梅よろし」ホットを3本購入して今日明日の喉の渇きに備えた。
また合併後既に10年を経過しているものの、所管課相互における文化財情報を含む観光資源の情報共有促進が依然として課題であるようにも感じられた。
凸福田館(青森県南部町、旧福地村)
10時45分から11時00分
「館跡」(南東隅)
「青森県の中世城館」の記述によれば館跡は東西に分かれていたとされており、この瑞泉寺境内が西の郭の南側に相当するはずである。
「曹洞宗瑞泉寺」
寺院参詣者用の駐車場はこちらの場所ではなく、寺院角の十字路を北へと向かうと路地の西側に入口がある。ただし、このことを知ったのはこの探訪を終えて次の目的地へと向かう直前であった (^^ゞ
「解説版」
この解説版に記述によれば、東西170m、南北230mでかつては二重または三順の堀がめぐらされていたとのことであるが、現在は北側と西側の一部に残存しているだけらしい。
代々福田氏の居館とされ、天正年間には福田掃部が南部利直より1千石を給され、元和4年(1618)には福田治部が南部利直から500石を給されているという。
その後三戸南部氏の盛岡への移転により福田氏もこの地を去り、寛文5年(1665)八戸藩成立に伴いその支配下に置かれたという。
こうしたことから「居館」としての歴史は、遅くとも福田氏の転居によりほぼ消滅したものと考えられる。
「たぶん堀跡」
西側の堀跡の一部ではないかと思われる地形が境内墓地裏で見かけられた。
本来であれば北辺部の堀跡も踏査し確認せねばならないのだが、この時には適当な駐車場所が見つからず断念した。
「里道」
境内墓地のすぐ北側にも窪んだ地形が所在しているが、これは境内墓地と山林部分を区画する里道のようなものではないかと思う。
「堀跡だったかもしれない墓地」
前掲の画像に繋がる位置にあることから堀跡であった可能性が想定された。
凸古館(青森県南部町、旧福地村)
11時10分から11時30分
※「福地村史」(2005年刊行)では福田古館と呼称し、その領域を大きく拡大した説が掲載されているが、現地解説版では従来の「青森県の中世城館」に記されている内容に従っている。
前者は地籍図に基づく踏査が中心であるものと推定されるが、傾聴に値するものと思われる反面において、余りに城館としての範囲を拡大する向きがあり、当時における当該支配層の資力、軍事力などから想定すると徒に過大となるようにも思われるので今後における精査の必要を感じる。
「厳島神社境内」
「厳島神社社殿」
近年の造立だが、閑静な境内地に比してその著しく豪壮な佇まいに圧倒される。
「現地説明版」
こちらの解説版の記述では従来の単郭説をとっている。
また、この解説版では福田館の古館説を示唆している。
しかし、上記「福地村史」では同時代存在説も提示し、福田館の隠居所としての機能を想定しているが、この説によれば殊更に過大な城館規模であるように思われる。
「二重堀の内堀」
多少埋没気味ではあるが、往時を髣髴とさせるほぼ完全な二重濠が残存していることに瞠目してしまう。
「二重堀の外堀」
「郭南東部」
降りてみるまでもなく、現在でも這い上がるのには至難の業となるだけの傾斜がある。
「郭の西側」
県道134号線沿いは県道の拡幅工事などにより一部その景観が変貌している可能性も想定されるが、神社境内入口付近を除き数メートルの比高差を有しているが、主郭部としては些か防備の弱さを感じる。
現在二重濠は県道手前で消失しているが、本来はこの切岸部分の下を巻くようにして巡っていたのだろうか。
「郭南西隅」
画像手前部分からの谷川の水が画像左側の水路へと勢いよく流れている。
近年の水路部分の開削もあり、郭南西隅の部分は10mを超える見上げるような比高差になっていた。
凸森ノ越館(青森県南部町、旧名川村)
11時50分から12時00分
馬渕川右岸の崖線上に所在する館であり、その北西部は30m前後の断崖を形成している。
剣吉館北一族である北十左衛門直連(500石)の首塚ならびにそのかつての居所でもある森ノ越館の標柱である。
また新堀作兵衛(300石)の館とも伝わる。
県道134号線の走行中、たまたま目に解説版の姿が入ってしまったので停車してみたまでである。
本来は立ち寄る予定が無く、この時には資料は持ち合わせてはいなかったことからそのままスルーしてしまうことも考えた。
しかし青森県自体を今後において再訪できるかどうか全く不透明であることから立ち寄ってしまった。
「森ノ越館」
「青森県の中世城館」によれば、北側に長さ100mの堀跡が残ると記されているのだが、残念ながらそれらしい地形を確認することはできなかった。
あまり時間が無かったせいもあり、些か城館としての縄張が想定しづらい印象があった。
「標柱と説明版」
そろそろ標柱としての耐久性が限界に近づいているようであった。
「説明版」
画像中央部の黒い模様は穴である。
「首塚の石碑」
大阪の陣をめぐる外様大名の置かれた苦衷が偲ばれる悲話である。
同 上
凸上名久井館(青森県南部町、旧名川村)
12時20分から12時45分
約300mほど離れた中央公民館駐車場に車を停めさせていただき徒歩にて探訪した。
「東郭」
三戸南部氏の重臣である東氏、東彦左衛門3000石の居館であったとも伝わるが別に下名久井
館も存在していることもあり、むしろ詳細は不明な部分が多いものと考えられる。
なお「日本城郭大系」では元々は工藤氏の居城(※むしろ屋敷と解すべき)であったとしている。
なお画像中央部のボケは保護フィルターの汚れである。
「丘陵先端部」
目測で比高差10m前後を有する丘陵先端部を利用した館である。
「水路」
往時には自然の堀としての役割を担ったかも知れない丘陵南西側の水流である。
「西郭」
東西の郭の周囲には画像左側のように一段低い細長い地形が確認できる。
これを帯郭ないしは堀跡と見るか、その後の開墾に伴う地形と見るのか悩ましい。
「東郭の果樹園のリンゴ」
そろそろ収穫の時期は過ぎたらしいのだが、秋の日差しをたっぷりと浴びたその色鮮やかなリンゴの色彩が目に焼き付いている。
南部町内ではたまに道路が渋滞していることがあったが、その先頭には必ず収穫済みのリンゴを満載した軽トラが安全走行しているのであった。
リンゴ園の収穫の最盛期にはリンゴ泥棒と誤認されぬようくれぐれも自制と配慮が求められると思われた。
「標柱」
2014年12月22日に設置された比較的新しい標柱が、東郭の西辺道路沿いに設置されている。それ以前に設置されていた木製標柱とほぼ同様の位置であった。
仮にこの標柱の存在がなければ、この場所が上名久井館であることは気づかれにくいものと思われた。
標柱1本とはいえ、設置にはそれなりの費用も掛かることから誠に有難い配慮である。
「西郭」の上部
西郭の大半は宅地で一部が畑地だが無論土塁などの表面的な遺構を観察することはできない。
「東郭」の上部
東郭はこちらの標柱が設置されている近くの民家宅地のほかにはリンゴの果樹園が広がっている。
「搦め手」方面とも
沼館氏の著書である「南部諸城の研究」によれば、画像奥の辺りが城館の搦め手であったと推定しているが、その面影は微塵も感じ取ることができなかった。
「侍屋敷と西郭」
画像左側が侍屋敷で、右側が西郭に相当するらしい。
「侍屋敷」方面
直属の家臣団に関連する屋敷群が置かれていたことによるものだろうか。
丘陵西側の防御は丘陵と地続きであるため他の三方に比べると明らかに手薄である。
帰路は大手方面とされる北側から戻ったが道路がクランクしている以外には往時を想起させるような地形上の特徴を見出すことはできなかった。
凸平良ケ崎城(青森県南部町)
13時35分から13時45分
字名は南館で道路北側の北館を含む南に突出した丘陵先端部が館跡ということになるものと考えられている。
現在は北東に移転した南部中学校の校地であったために台地地形以外には遺構は存在していないという。
「推定堀跡」
かつては画像左側の北館方面との間を隔した東西方向の堀跡が存在していたと考えられる市道である。
「日本城郭大系」と「青森県の中世城館」に掲載されている情報を総合するとこの辺りに幅5mの堀跡が残存していたということになるようである (^^ゞ
なおこの直後に聖寿寺館おいて入手したパンフレットの案内図にもやはり堀跡として記載されていたことからたぶん間違いは無さそうである。
「旧南部中学校入口」
この車両進入防止の柵の前にも駐車できなくはなかったのかも知れないのだが、情報の収集などもあることからあくまでも良識を重んじて南部分庁舎(旧南部町役場)の駐車場に停めさせていただいた。
「枯草に覆われた校庭」
不審者ではないことから、まさか街中で鉈を携行するわけにもいかず、せめて解説版の周辺だけでも草刈りができなかったことが心残りではあった。
「説明板」
数本の枯草を引き抜き、抜けない枯草を両足と左手で押さえつけて撮影した説明板である。
三戸五城とはこの平良ヶ崎城(※「館」とも)を含む「聖(※「正」とも)寿寺館」「大向館」「馬場館」「三戸城」をいうとのことである。
諸説があり、建久3年(1192)この地における初代である南部三郎光行の築城と伝わるが、無論最終的には戦国期の改修を経ているものと考えられる。
「聖寿寺館」がその居館としての役割を担ったのに対して政庁としての機能を有したとも伝わるようである。
五戸方面と八戸方面に通じる街道の分岐点にもあたる枢要の地でもあった。
「北館」方面
この山の北方が五戸方面へとつながっている。
「名峰名久井山」
南部のシンボルのような特徴のある山容で標高615mを測る。
その向こうが三戸町になり、さらに岩手県二戸市へと続いている。
凸佐藤館(青森県南部町)
13時45分から13時55分
平良ヶ崎の西側に隣接していることもありついでに立ち寄った。
この際なので、そのまま歩きながらぐるっと周囲を回ってみた。
「佐藤館」遠景
東の平良ヶ崎城から五戸へと向かう県道233号線を挟み隣接している。
平良ヶ崎城側より撮影している。
佐藤兵衛の居館と伝わるようなのだが、どのような一族なのであろうか今のところ皆目不明である。
「佐藤館」近景
東側の県道233号線沿いから撮影した。
東西100m、南北150mの範囲とされているが、平良ヶ崎城の四分の一ほどの規模に過ぎない。
「青森県の中世城館」によれば、かつては西側に幅10m、深さ5mの堀跡が南北方向に続いていた旨が記されている。
現在はおおむね果樹園(一部宅地)となり東側の段丘部を除き地表の形跡はほぼ失われている印象があった。
「堀跡付近」
この辺りの道路沿いにかつては堀跡が存在していたらしい。
「果樹園のリンゴ」
収穫されるのか、しないのか、その行く末が気がかりなほどに赤みを帯びたリンゴであった。
「旧南部町役場」
少し歩くことにはなるのだが、こちらに駐車させていただくのが一番間違いがなさそうに感じた。
「名峰名久井山」
凸聖寿寺館(青森県南部町)
14時25分から15時15分
南部氏宗家ともいわれる三戸南部氏の故地で国指定史跡でもある。
今年の4月1日にオープンした「史跡聖寿寺館跡案内所」も所在し、配布用のパンフレット類が常備され発掘の成果を説明する展示パネルも設置された職員常駐のミニ資料館となっており休憩も可能である。
「史跡案内板」
嗜好性の関係上から、あまりこういった立派な史跡案内板とは縁が無く、正直なところ露いくぶん気恥ずかしい。
「史跡標柱」
撮影には些か不向きに感じられた設置場所とその向き。
正面から撮影しようとすると堀跡に足を踏み外す恐れあり。
斜め方向から撮影しようとすると肝心の文字が見えなくなるという按配なのであった (^^ゞ
「大型倉庫の復元柱穴」
「人慣れしているネコさん」
ついつい本来の目的を離れ20分ほど遊んでしまった。
「黒の方は警戒中」
「発掘調査中」(以下撮影了承済)
「西辺付近」
辺縁部に土塁状の盛り上がりがあるような無いような.. (^^ゞ
「名久井山」
「南辺付近の発掘」
この辺りに虎口跡といわれる場所があったような気がするのだが..
「堀跡だろうか」
「東側の辺縁部」
今月14日開催予定の発掘調査説明会を前にした報道向け発表が行われていたが、結果的にその参加者に混じり館内を見学することができた。
現役時代の仕事との関わりもあり、公有地化の問題も含め、あらためて文化財として見せ方の工夫と文化財保護とのバランスの難しさを痛感した次第である。
日没までの時刻には今少し余裕があったのだが、半ば病人のような容態でもあり、翌日の帰還行動をより安全で確実なものとするため少し早めに撤収することとした。
この日はほどよく城館跡が分散された馬渕川沿いの探訪であり、このようにして何とか9か所を回り終えることができた。
遅まきながらようやくこの辺りの地理に慣れ始めたところなのだが、早くも明日の夕刻以降には復路600kmを高速走行して帰宅するという予定なので、今晩の睡眠時間は念には念を入れ十二分に確保する必要がある。
明日は道すがらいくつかは立ち寄ることも可能なのだが、朝方の図書館での資料収集予定もあり1か所も廻れない可能性もある。
気管支炎の具合も一進一退であり、何れにせよすべては明日の成り行き次第なのである。
気管支炎発症と一昨日からの長時間夜間高速走行の影響だろうか、昨晩から左目に鈍痛があり、このため翌日の資料読みが全くできなかった。
とはいうものの青森県遠征の記念すべき第一日目でもあることから、性格上そのままホテルで安静に養生をしているという訳にもいかない。
昨晩はなるべく目を酷使せずに移動する方法はあるのか、といろいろと考えつつ就寝している。
元来八戸市内での最低限の目標は「根城」と「八戸城」の探訪である。
タクシーや路線バスを利用する方法もあるが、それでは「高齢者の観光旅行」と大差なくなる。
幸いにして昨日2万歩弱の歩行ということもあり足回りは至って快調で、この夏からの足回りの「ダメコン」も安定稼働している。
訪問個所は著しく限られることになるが、自分の足で歩き回ることで初めて分かる地域事情などもあるので最低限の荷物と共にこの際全て徒歩にて巡ることを決意した。
午前9時10分から9時30分
予定どおり午前8時過ぎに駅前のホテルを出発。
まずは駅北側の跨線橋を越えて駅の西側へと下り立った。
「東北新幹線跨線橋」
ところが現在駅西口は整備事業の真っ最中で工事中、通行止めなどが頻出し、あくまでも経過的なものであろうが著しく道路事情が複雑化していた。
このため目的地へ向かう道筋が掴めず、取敢えずは八戸西高校を目安にしてだいたいの方角を定めて試行錯誤しつつ向かうこととなった。
また馬渕川支流浅水川の蛇行があることからその渡河地点を見出すのにある程度の時間を要してしまった。
「馬渕川支流浅水川」
こうして直線距離にすれば1kmほどの目的地へと辿り着くのに、結果的には1時間以上を要してしまうこととなってしまったのである。
「大仏館遠景」
南北に八戸自動車道が貫通し、これに加え北西から南東にかけて浅川放水路の流路が築造されその景観は大きく変貌している。
「大仏館北東部」
景観の変貌した丘陵を遠望しその姿を撮影するにとどめても良いのだが、次の目標に向かうとしても、橋の架かっている個所まで進まねば方向転換できない。
こうして結果的には丘陵の麓までアプローチすることとなった。
たぶん鳥除けの「洋凧」
この日も午前中は風が強く、秒速数メートルの西風が吹き突けていた。
被っていた帽子を飛ばされぬように深めに被り直す。
鳥除けと思われる釣竿の先に据えられた洋凧が折からの強風に勢いよく舞い上がっていた。
「大仏館南西部」
「大仏館北東部」
遠めに見ても、近くで見てもかなりの藪である。
「大仏館南西部」
南西側の藪は更にその濃度を増しているように見受けられた。
「お決まりの藪」
麓まで近寄ればその比高差は目測10m前後。
民家への入口を兼ねたようにも思えるお誂えの通路が目に入ったので、いちおう北東部の尾根筋を確認してみたが、やはり予想通りお決まりの藪であった。
しかも民家のすぐ裏手なので余り藪をウロツクわけにもいきそうにない。
「農道」
丘陵中腹に刻まれた農道で帯郭の名残であるのかはなどは全く不明(笑)
元来たこの農道をそのまま退却することとなった。
城館名の読みについては、「おさらぎたて」ではなく「だいぶつたて」であり、この名称はおそらくは南西部の字名に由来するものと考えられる。
なお事前の基本資料は「岩手県の中世城館跡」のみである。
これによれば城館跡といわれている場所は、県立八戸西高等学校の西約300mから南西にかけての比高10mから20mほどの独立丘陵であることなどが把握できる。
また、八戸南部氏(八戸氏)と櫛引氏との間においてその領有に関する係争地となっていたともいわれているようである。
丘陵周辺には、字大仏以外に柳館、館ノ後、館ノ前などの城館関連地名と思われる字名が存在している。
しかし現在当地には南北に八戸自動車道が貫通し、これに加え北西から南東にかけて浅川放水路の流路が築造され丘陵としてのその景観自体も大きく変貌している。
このため30年以上前に行われた中世城館調査においても、「確実に館跡と思われる遺構はない」と記されている。
予め予見されたことではあるのだが、こうした事情により所要時間の大半は主に残存する丘陵地形をボーっと眺めるという探訪に終始することとなってしまったのである。
凸小館(青森県八戸市 ※別名を高館とも)
午前11時30分から12時00分
大仏館から小館までの直線距離は5km弱なのだが、道程にすると直進道路が無いことから7kmほどになる。
「大仏館沿いの農道」
この辺りからは次の目的地である小館方面は全く視界に入らない。
「浅水川」
ふたたび浅水側を渡りただひたすらに北東方向に進んでいく。
「小館遠景」
五戸町へと向かう国道454線を横断し、さらに県道20号線の陸橋下を潜りぬけると突然視野が開けて漸く前方に小館らしい地形が現れた。
しかしこの時点で未だ直線距離にして4kmは離れている。
「小館遠景」
ただひたすらに北東方向に進めどもなかなか彼我の距離は縮まらず。
時々雲に日差しが遮られるものの、空の広さがとても心地よい水田地帯なのである。
こころなしか気管支炎の方も小康状態になってきたような気もする。
この辺りで残り直線にして約3kmくらい。
「小館遠景」
だいぶ近づいてきたようにも思えるのだが未だ2km以上はありそうだ。
「小館遠景」
西側の「南部山公園」のスポーツ施設も見えてきたので、残り1kmほどになったようだ。
「白色火山灰」
そのまま真直ぐ行くと東北新幹線の高架橋のネットフェンスに遮られるので一度北西方向に進路を変えて舗装のある旧道へと道を変えた。
この辺りの地形にも「白色火山灰」らしい崖地が散見される。
「はやぶさ」
目の前をあっというまに通過していった。
昨年の7月に北上駅近くのホテルで通過する始発と思われる超特急の風圧で目覚めたことを思い出す。
「南部山公園」
幾つかのスポーツ施設なども併設されているらしい。
小館とは「青い森鉄道」や国道45号線を挟んでその西側に隣接している。
かつては馬渕川が大きく蛇行しこの南部山公園や小館の所在する丘陵の南側を流れていたともいわれているらしい。
そうしたこともあるのか、公園の南側付近にはこうした池沼や低湿地が現在でも見受けられる。
「小館」
大仏館から歩きはじめて約2時間近くが経過し、ようやく指呼の間となってきたらしい。
この小館(別名を高館とも)は比高差にして50m弱なのではあるが、4km以上離れていてもよく目立つ山容であるのでまず間違えようがない。
北側から回り込むか、南側から回り込むか少し迷ったが、確実に道の在りそうな南側から迂回することにした。
ちなみに南側からの直登は藪と急斜面のため困難を極めると思われた。
10年前ならば直登する気力が残っていたが、やはり月日の移ろいは正直で容赦がない。
「南側の山道」
「高館集会所」
「共同墓地への道」
「取り付く島の無い藪」
当該丘陵は地形図を参照すると恰も三角形を逆様にしたような形状をしており、またその周辺には高館、館合堤下、高館根前などの城館関連の字名も遺されている。
現在館跡は山林であり東側の一部に共同墓地が所在している。
この近くの集会所付近に短い時間ならば駐車可能なスペースもあるようだ。
この東側の共同墓地へと向かう道があることから途中まで尾根筋を辿ることができるものの、墓地裏からは藪が叢生し足を踏み入れることが躊躇われる状況であった。
なお南側麓近くに帯郭にも見える横堀状の地形が散見されるのだが、そのルートを辿る限りではこれは共同墓地へと向かう旧道であると思われる。
「岩手県の中世城館跡」では館の起源等は不明であると記載している。
凸根城(青森県八戸市)
13時20分から14時50分
正午を遥かに経過しているが、徒歩であるとはいえ未だに僅か藪城が2か所という惨憺たる成果 (^^ゞ
ふと、昨年4月の一関市探訪を思い出した。
あの時は突然の降雪と暴風があったので、今回は少なくとも天候だけは恵まれているのだろう。
そそれでもろそろ真っ当な遺構を目にしないと流石にモチベーションを維持できそうもなくなることから、予定通りに有名な国指定史跡の「根城」へと向かった。
「工事中」のタコさん
このサル、ウサギ、カエル、キリン、ゾウなどはしばしば目にすることがあるが、さすがに「タコ」は初めてである。
この時点での彼我の距離は直線で約4kmであるが道のりでは約6kmであった。
「歩道は何処」
歩道が無いのでここを歩くしかないがこのシチュエーションが約4kmほど続いた。
自分の足のみで移動していることから市内の中央卸売市場、総合卸センター、はちのへゆーゆーらんどなどの日帰り温浴施設などの新開地の盛況を目の当たりにしそうした地域事情を肌で感じながら目的地へと向かう。
これは地方都市の現況を把握するうえで車移動では分かりにくい収穫のひとつでもある。
「馬渕川」
撮影時に曇っていたことから朝方のような按配となった根城大橋から眺めた馬渕川の景観である。画像の右側の部分に根城が所在する河岸段丘がある。
延長700mほどの大きな橋ではあるが、大型車通過の度に体重80Kg超(これでも最盛期より15Kg以上ダイエット)の管理人の体が上下に激しくバウンドし撮影画像がブレるには参った。
記憶では秩父の諏訪城の遠景を撮影した和同大橋以来の体験である。
「案内標識」
この時点で既に連続して18kmほどを歩き続けていた。
少し疲れてきた足が元気になる「案内標識」なのであった。
「西の沢」
こうして真っ当な遺構群を目にすると、目の前にボチボチ古稀が近づいているような年寄でさえも、それなりに新たな力が湧いてくるのであった。
「西の沢の遺構群」
「西の沢の遺構群」
「西の沢の遺構群」
史跡公園西側の外れに所在しているこの西の沢の遺構群を体感するだけでも充分に楽しめる。
地山を削り残した遺構で、樹木の伐採以外には余り手のくわえられてはいないという感触がある。
「西の沢の遺構群」
「西の沢の遺構群」
撮影には順光よりも寧ろ逆光の方が土塁や切岸の質感が滲みだす感じがある場合も少なくない。
「西の沢の遺構群」
「西の沢の遺構群」
「西の沢の遺構群」
同上
「城址碑」
完璧な逆光で文字が見えない (^^ゞ
「本丸東堀跡と復元木橋」
「本丸復元建物」
この日は生憎と月曜日なので当然休館であると思っていたが、第一月曜日は開館しているとのことであった。
入館料は250円であった。
また八戸市立博物館も開館していたが、このあと八戸城にも立ち寄らねばならず止むを得ずスルーすることとなった。
また、国道104号線南側の岡前館、沢里館方面は時間の都合上から立ち寄ることはできなかった。
同上
「本丸西側の空堀」
「本丸の紅葉」
たまたま公孫樹(銀杏)の紅葉が見ごろであった。
「本丸から中館を望む」
「本丸東側」
「中館西側の切岸」
「東側から見た本丸」
「本丸東側の堀跡」
「本丸」
「北西部から見上げた中館」
「中館西側の堀跡」
「館から本丸」
「中館東側の堀跡」
同上
「みちのくの秋」
「東善寺館東側堀跡」
同上
「東禅寺館北東部」
「南部師行銅像」
初代の城主とも伝わるが鎌倉期には北条氏被官である工藤氏が支配していたことから、それらの拠点を吸収しつつその後次第に拡大していったものであろう。
南部氏一族の有力な家系ではあったが、それにしても過分なほどに広大な郭群であった。
凸八戸城(青森県八戸市)
15時30分から16時00分
寛文4年(1664)南部直房が2万石で藩主となったことに始まる近世城郭(当初は陣屋格)であるが、元々は南北朝期の城館である中館が所在していたものと考えられている。
またこれに先立ち寛永4年(1627)に盛岡藩主南部利直は一族である根城南部氏を遠野へと領地替えを行い八戸地域の直轄支配を行いこの際に八戸城の基盤を築いたともいわれているらしい。
この歩道橋から城址へ
歩道橋上
夕景
到着したのは未だ午後3時半すぎであったが、西の空に雲がかかり次第に暮れなずんできた。
城址碑
初代城主南部直房銅像
築山
黄昏の城址公園
市街地 南方を望む
夕焼けと紅葉
本丸跡の石柱
築山
城址碑
「みやぎ公園」と読むらしい
城址碑
八戸城説明版
八戸城二の丸角御門
「同石碑と説明版」
同説明版
この日はもう少し時間があれば新井田川周辺の城館跡も探訪する予定であったが、思いのほか日の傾きが早くやはり徒歩では以上の4か所程度が限度のようであった。
午後4時を回ると早くも黄昏時を迎えて、さすがにこれ以上の城館探訪は困難である。
宿泊しているホテル近くは決して飲食場所が多くは無く閉店時間も早いところが多い。
八戸市役所近くのチェーン店らしい蕎麦屋で大盛とろろ蕎麦+天ぷらで夕食を摂る。
図書館での資料収集も考えたが、経験上あれはあれでそこそこ目や肩が疲れることからこの日は回避した。
帰路、最寄駅が本八戸となる八戸城から八戸駅までの道程は約7km弱である。
本八戸駅から八戸駅行の路線バスはあることはあるのだが、この時間帯になると1時間に1本と本数は少ない。
既に日は沈み街灯のまばらなどちらかといえば暗闇に近い国道340号、104号、454号などを経由。
途中暗闇の中で国道沿いに設置されていた根城の一角を構成する「岡前館」と刻まれた標柱の存在を確認。
ようやく八戸駅前のホテルに辿り着いたのは18時半を少し回っていた。
この日の歩行数は久しぶりに4万7千歩を大きく超えていたが、近年課題であった足回りの痛みについては概ね問題なく推移させることに成功した7。
また目の方は安静を保持したことにより問題の痛みの自覚症状は消えていた。
これならば明日は車での移動に問題は無さそうに感じた。
しかし気管支炎の方はこの夜も一進一退で、寝不足感が否めないまま翌朝を迎えることとなった。
思えば昨年春の岩手遠征の国道4号線北上作戦は天候と気力の欠乏などにより金ケ崎町で終わってしまった。
同年夏の遠征でも行先が秋田県横手市のため北上市止まりに。
このため夏頃から少しずつ準備を重ね満を持しての遠征となるべきところ、生憎10月の終わり頃から風邪気味状態になるという間の悪さ。
しばらくは市販薬で様子を見ていたものの、先月25日の深夜には気管支炎状態となり呼吸が圧迫。
翌日かかりつけの内科クリニックを受診するも回復には至らず。
処方薬はそれなりの効果もあるがセットで副作用の睡魔も襲来する。
かくして止まることのない「咳と鼻水」症状の最中、龍角散と保湿マスクでお茶を濁すという最悪コンディションでの遠征開始となってしまったのであった。
そうしたなかで唯一幸いなことには、近年の歩行に伴う「足の痛み」に関して、いわゆる「ダメコン」(自己の足回りの健康状態に関し、幾度も試行錯誤を重ねることにより、いかにして痛みを生じさせないか、あるいは痛みを抑止軽減できるかが明確となった)が有効となってきていることである。
このため、一定の足回りのサポートを講ずれば1日当たり4万歩程度(約30km)は動き回れることが可能となっている。
むろん前々日までの予定キャンセルも視野に入れつつあれこれと逡巡。
若い時分はいざ知らず、もう年齢的に考えれば来年とか再来年というものでもなくなってきている。
平均寿命は別としても、古稀の年代へと近づいていることは否めず、医学的な「健康寿命」の方は一般的には残り3年から長くとも5年程度であるようだ。
何しろ譬えて言うならば「昨日できたことが今日できない」「昨日までは覚えていたが今日は忘れた」という昨今なのである。
なお、このブログは帰宅後の11月9日に記述しているが、それ以上悪化することがないものの未だ回復傾向には至ってはいないが無論後悔などはしてはいない・・・などと強がりを言っている。
凸大清水館(岩手県二戸市、旧浄法寺町)
午前10時05分から11時15分
前日である11月4日午後10時半過ぎに自宅を出発、国道16号、県道3号経由にて約1時間後に予定通り久喜白岡ICから東北道に入った。
理論上では時速100kmでノンストップであれば岩手県の安代ICの到着は約6時間後となる。
そうはいっても事前の計画では夜間走行のリスクを考慮した時速80km走行、途中給油2回を含む5か所程度のの休憩を予定していた。
しかし咳き込みが酷く1時間以上の走行は困難と判断し、結局は走行距離約50km毎に休憩を挟むような次第となってしまった。
加えて度重なる咳き込みにより前日の睡眠が不十分であることは明白で、午前5時前後には途中福島市内の吾妻PAにて90分ほど仮眠し明け方を迎え、午前6時30分から再び走行を開始した。
東北道は朝方に仙台市を通過する辺りから次第に雨模様となり、途中では雨雲の中を走行するような状況となった。
その後小止みになり虹が出たかと思えばまた降りだすなどを繰り返し、岩手県八幡平市の安代JCを通過した時点では、この際は城館探訪を諦め図書館での資料収集に変更しようとも考え始めていた。
しかし、安代ICを出て県道6号線を北東に進んでいくと心なしか雨雲が薄くなり始め、次第に小雨も弱まり、幸いなことに二戸市に入ってからは僅かに薄日が差し込み始めてきた。
ゼンリンのウェブ地図情報を参考にして旧大嶺小中学校敷地跡に駐車させていただき、まずは天候の状況を再確認した。
このようにして自宅を出てから既に11時間以上を経過、漸く1か所目の目的地へと向かうこととなった。
上空を睨むと雨雲が切れ始めかなりの確率で天候の回復が見込まれたことから、多少足元には問題があるものの予定通り徒歩で城跡へ赴くことに決定した。
最近では城館跡を訪れる際には極力駐車場所が確実(公共施設またはこれに準ずる施設の有無)であることを優先している。
車で近くまでアプローチすることはほぼ困難であったので正しい選択でもあった。
城跡は低丘陵とはいっても、その比高差は約40mほどはあるので、ここ数日間の寝不足と気管支炎発症中の身には結構堪える。
県道6号線からは目印となる出光のガソリンスタンド脇の市道にはいり、これを西に進みそのまま安比川に架かる橋を渡る。
八幡平を源流とする安比川は降雨の直後でもあり水量は多くかつその流れも速い。
安比川はやがて、一戸町との境付近で馬渕川に合流し八戸市方面へと向かい太平洋に注いでいる。
「安比川」、画像奥のやや左手が「大清水館」のはず
丁字路となり突き当りの道を進行方向右(北)に折れる。
そのまま150mほどすすむと、下谷地集落北外れの1軒の民家手前で細い農道が分れているので、城跡へはこれを左に折れて丘陵の登りに入る。
なおそのまま直進していくと安比川に崖が迫るので最終的には行き止まりらしい。
農道は小さな谷川を渡ると、間もなく北から西へと大きく曲がり、次第に谷底道のような按配の道となるがこれを登りあがれば台地上へと到達する。
生憎この日は降雨の直後であったためよく滑り足元は泥だらけとなった。
少しくどい説明だが、ここまでは先ほどの分岐からは道なりで僅か約350mほどの距離に過ぎない。
この間の所要時間は健康で若い方ならば僅か5分前後であるが、ボチボチ年寄なので途中息切れが生じ8分ほどを要してしまった。
途中で農道には草木が繁茂し先に進めなくなるのだが、進行方向左手のある幼木の植林の端を進めばまず問題なく進むことが可能である。
「谷底道状の農道」、この先の上の方がかなりの泥濘
台地上には下谷地集落の南側から大きく迂回して台地西側の農道方面からアプローチするという方法もあるが、元来が農作業を目的とした狭い道でもあることから部外者が矢鱈に車で通行することは遠慮すべきであろう。
最初に目に入るのが下記の耕作地であるが、「郭」に昇格しても良い良いな切岸と削平(開墾)が為されている。
実際に城館跡の空堀と接した地形でもあることからその判別は難しいようにも思えるのであった。
「耕作地」だが、城館跡との関連性が窺える地形であった
念のため南側の台地続きの画像も撮影してきたが画像の左右両端が下がった尾根筋であることが分かるのだが、残念ながら堀切地形は開墾などにより埋め戻されたのだろうか確認はきない。
「南側の台地続き」
台地西側も意外に深い谷津地形が形成されており、その比高差は10m以上はありそうなのではあるのたが、このように何分にも傾斜の少ない緩斜面であることから、尾根続きの南側と同様に防御性を欠く地形であるように思われる。
「北側の地形と農道」
館跡へはこの農道を北へとすすむのだが、約60mほどすすむと西側の谷へと降りる道を分岐している。
またこの画像左側の谷地形は城館跡の北側に沿って東へと流れる安比川支流の袖野川に繋がっている。従って城館跡は東を安比川の断崖に北側を袖野川の谷川に囲まれた要害地形であるということが判明する。
むろん地形上の弱点である西側と台地続きの南側の防備が重要であることは否めない。
このため城館の普請も南西方向を意識した防御性が感じられる構造となっているように思われた。
さて上記の農道をそのまま道なりに進むとやがて正面に見える林の中へと誘われるが、農道は行き止まりとなり前方には藪が広がり視界も遮られる。
この辺りが既に外郭部分とその堀跡(たぶん埋まっている)なのだが、藪に紛れて如何とも観察がし辛い。
「農道の行止り」
ここで、少し目先を変えて15mほど農道をそのまま引き返し東側に緩やかに下っている谷津地形へと進んでみることにした。
この谷津地形自体が実は外郭部分の横堀を兼ねているらしく、意識して観察をすれば堀跡のようにも見えなくもないのだが、この時点では遺構全体の把握については未だ確信が持てないでいた。
「谷筋へと向かう踏み跡」、よく見れば堀跡でもあるようだ
谷へと向かう余り踏み跡も明確ではない上記画像の道を100mも進まないうちに、進行方向左側に「藪の少ない斜面」が目に入ってきた。
先ほどの行止り時様対に比べると遥かに観察しやすい環境であり、何のためらいもなく笹の生えた緩斜面を20mも進まないうちに人工的な地表の起伏を目にしすることができた。
「藪の少ない斜面」
緩斜面に施された普請ではあるがこれは郭の整備に伴う低い切岸地形に相違ないと判断された。
「外郭の上下を分かつ段差」
外郭の東端部の北辺付近では、その西側の藪に覆われた部分とは異なり、東側に突出したいくぶん細長い地形となっていることが明確に分かり、主郭と目される北側の郭との間にはやや幅の広い平坦な横堀状の地形が広がっていた。
「外郭の東端部の北辺付近」
「外郭の北側切岸とその上部の段差」
この辺りの切岸の高さは3m以上はあるが、自然地形の関係上西側ではさらに高くなっている。
この時点での体調は絶不調でもあり、雨に濡れたシダや笹類の生い茂った藪を隈なく踏査するような時間もなく外郭部は東側の一部の観察に止まってしまった。
「主郭の切岸」
だいぶ堀跡が埋まっているらしく、現状での主郭部切岸の高さは約2mほどを測るに過ぎない。
「主郭切岸の東端部」
主郭部はほかの2か所の郭と比較すれば、全体として比較的綺麗に削平されていることが明確なのであるが、これが後世の開墾、耕作と全く無関係のものであるかどうかは分からない。
「主郭東端部」
堀跡ないし幅の広い帯郭地形が東側に回り込んでいるように見えた。
「主郭と北東郭の間の空堀」
堀幅は6mから8mはありそうなのですが、その深さは1.5mから2mほどと大分埋まってしまっている様子が窺えました。
遺構全体は東側の安比川に近い部分は比較的観察しやすいのだが西側にはシダ植物を始め笹や樹木が叢生して行動とその視界を阻み遺構全体の把握までには至りませんでした。
「堀切ないし空堀」
画像右側が主郭で左側が北東の小郭に相当する。
「安比川」
北東の小郭は安比川の西崖そのものであり、主郭部分などとは大きく異なり面積もかなり狭く大勢の人数が動くことのできる環境ではなかった。
特にその東側は比高差40m弱とはいえ、そのまま安比川へと垂直に落ち込んでいるため必要以上の接近は憚れる危険性を感じた。
事実凹凸の激しい地形で足元の枯葉は滑りやすく、枯れ枝にも足を取られ転びそうになった。
このように郭としての削平状態は極めて不十分な印象を感じたが、この狭さでは利用価値も少ないことからこのように自然地形に近いものになったのであろうとも思う。
大清水館は浄法寺城の南西約4kmの鹿角街道沿いに所在しており、そうした立地条件から恐らくは戦国期には浄法寺氏の支城のひとつとしてその一族または有力家臣による支配が為されていたものと推定されるが詳細は不明である。
東北遠征の最初がこの余り有名とは思えない大清水館であったという理由は正直なところ余りない。
強いて言えば、単に浄法寺城の南西に位置することから通りがかりでもあり、多少なりとも遺構の存在が明らかで、東北道からのアプローチに便利であったなどに過ぎないものであった。
むろん案内板、説明版、標柱などは皆無であり些か残念でもあるが、この地域の城館跡の立地条件とその形態を概観するには恰好の踏査活動であったことだけは確かであった。
なお、この後に訪れる予定の小泉館、大森館については、事前に所在地と遺構に関する明確な情報源を得ることができず日没までの残り時間を考慮して割愛した。
探訪時点で参考とした基礎資料は「岩手県中世城館跡1986」「日本城郭大系」の2点のみであるが、今回の遠征中に市町村史などの複写を行いこれを補填した。
凸浄法寺城(岩手県二戸市、旧浄法寺町)
12時00分から13時20分
日曜日ではあるが、確実な駐車場所を確保すべく先ず旧浄法寺町旧役場(現二戸市役所支所)を訪れたところ支所前の駐車が可能であるように思われた。
また1階の窓ガラスに大きく「瀬戸内寂聴記念館」の文字が見えたこともあり、情報集めがてらに入館(無料)することとなった。
瀬戸内氏が1980年代の後半頃に天台宗の得度を受け、東北の方の寺の住職となったことは当時の新聞記事などの記憶に新しかったのだが、それにしてもまさかそれがこの旧浄法寺町であるとは全く知らなかった。
この日は日曜日ということもあり旧町役場の2階部分の一角に開設されている展示スペースでは熱心なボランティアの方がこの日の運営を任されていた。
浄法寺城に関連する歴史的な配布物などの情報を得ることはできなかったが、こうした地道な文化的活動に敬意を表しつつ30分ほど見学をさせていただいた。
支所の一角に開設されている記念館
記念館見学の後浄法寺城の一部を構成する大館へと向かったが、鹿角街道を歩いている途中の神社の石段で日向ぼっこ中のネコさんと遭遇。
「日向ぼっこ中」
カメラを向けると怪訝な表情を浮かべて遠くに移動するかと思ったが、結局はそのまま座り直して時々こちらの様子を観察していた。
去り際に何気なくふと後を振り向くと何と石段の真下まで降りてきてくれていた。
見送ってくれるようなそうではないような微妙な態度なのだが、少なくともあからさまに警戒をしているといった素振りはみせてはいなかった。
浄法寺氏の本拠である浄法寺城は、現在では八幡館、大館、西舘、新城館、北館の5か所の館から構成されていると考えられているが、「岩手の中世城館1986」当時では北館の存在は明確には認識されておらず、さらに刊行の古い「日本城郭大系」では西館が独立したパーツとして考えられてはいなかったようだ。
大館には先ほどのネコさんがいた神社の石段を登るか北側の新城館との間の道から登るか概ね2つのルートがあるようだが、この時は神社の石段から南西に50mほどすすんだ緩やかな坂道から斜めに斜面を上り神社境内へと向かってみた。
「鹿角街道の古道」、画像右側が大館で左側が八幡館
大館自体は大きく分けて西側の一段高い郭部分と東側の神社の所在する南北に細長い規模の大きな副郭部分とに分かれている。
5か所の館の中では最も小規模なものなのだが、それでも副郭部を含めると東西約180m、南北約120mほどの広さを有している。
八幡館との間を通過するという「旧鹿角街道」を扼する役割もあったものと思われるが、それぞれの館同士を繋ぐ動線が仮に木橋によるものとすると恐らくは延長40mから50mの規模となり余り現実的ではなくなりそうにも思える。
「大館の小祠」
旧浄法寺町の市街地方面が一望にできる
「大館」は比高差約5mほどの切岸で東西に分かれている
「大館」から八幡館を望む
「大館の中心部」
概ね畑となっていたが、この中心部の方もさらに低い切岸により東西に分かれていた。
少なくとも5か所のなかば独立した館から構成される浄法寺城は東側に所在する八幡館を中心とする浄法寺氏一族を軸に屋敷などの建物群が所在していたことになるのだろうか。
南側の「西館」との間に所在する小郭
この小郭は画像のように東西に分かれ南北それぞれに堀が廻るため、大館と西館の間には二重の堀が介在していることになるようである。
この「大館の南辺の堀跡」は西側からの通路を兼ねている
「大館西側入口付近」で画像左側は新城館
次に北西の新城館へと向かったが、こちらの方も郭内は一面の畑であり、南西部には1軒の民家も所在しており、表面観察の限りでは城館跡としての痕跡は希薄であった。
「新城館」
浄法寺城に関する説明版は新城館と大館、西館が接する市道脇に所在していた。
環境省当時のものは同庁が設置された1971年1月8日以降、環境省となった2001年1月6日前のものということになるのだが、経年劣化の程度から80年代の終わり頃から90年代の初め頃に設置されたものと思われる。
その後新たに設置された説明版も汚れが目立ち文字がよく見えず。
少し拭けば汚れが取れるかと思い試してみましたものの、なかなかに頑固な汚れのために殆ど落ちず (^^ゞ
「環境庁当時の説明版」
「その後設置された説明版」
北西端に所在する北館は如何にも自然地形の雰囲気が漂い、そろそろ残り時間も気になり始め近くの市道を通過しながら観察するにとどまった。
「北館」
画像中央の里道を真直ぐに進めば、恐らくは北館の中へとすすめるらしい。
「白色火山灰」
二戸方面にはこうした白色火山灰の切り立った急崖が多く城館跡でもよく見かけることができるが、地層としてはかなり脆弱で脆い性質があり、コンクリートなどにより崩落防止を目的とした法面工事が施工されている事例も少なくない。
「北館方面の遠景」
西館の方は直ぐに行けるので立ち寄ってみたが郭面は畑地となっており、あくまでも地表面の印象からは城館跡としての印象は薄いように感じられた。
「虎口か農道か」
「西館の郭」
最後に最も城館跡らしい遺構が遺されていそうな「八幡館」を訪れてみた。
「八幡館方面」
北館方面から南側の市道を大きく迂回している際に撮影できた遠景で画像左側が西館で右側が八幡館に相当するはず。
全体としてあまり特徴があるという地形ではないため、全景は遠すぎても近すぎてもよく分からなくなる。
「北西部の神明神社鳥居前」
最後に気が付いたのだが、この辺りに1台くらいなら駐車できそうにも思えたりした。
「神明社境内」で
土塁状の地形も一応は遺されていた。
手前の建造物は神事用の相撲場だろうか。
「同社殿」
「白色火山灰の崖」
社殿後ろ側にも土塁状の地形が確認できる。
何処までが開墾に伴う地形で、どれが城館跡としての地形で、果たして元来の地山部分は・・・(^^ゞ
現支所となった旧役場前に設置されている巨大な石碑
以上がかなり駆け足で回った浄法寺城の全容なのだが、5か所の館のうち中心部となるとされる八幡館には余りその求心性を感じ取ることがてきなかった。
浄法寺氏の支配が元々が求心性を必要としない類の権力構造であったのかは不明である。
探訪時点で参考とした基礎資料は「岩手県中世城館跡1986」「日本城郭大系」と最新刊である「東北の名城を歩く北東北編」の3点だけであるが、今回の遠征中に市町村史などの複写を行いこれを補填している。
凸九戸城(岩手県二戸市)
14時10分から14時50分
九戸政実の乱で有名な国指定史跡の九戸城である。
西を馬渕川、北を支流の白鳥川、東を猫渕川に囲まれた要害の地ではあるが、どうしても台地続きとなる南側からの攻撃には明らかな弱点を有している。
昨年4月以来念願の九戸城なのだが、画像撮影に適した時刻が迫っていることもあり足早の探訪となってしまった。
周知のように蒲生氏などによる近世城郭としての改修が加わり、中世城郭と近世城郭が混在している城跡である。
この混沌とした状態をその特徴として把握してみるものの、石垣を用いた直線性の強い防御構造と自然地形を生かした曲線を描く中世の防御構造とが上手く絡み合っているのであろうかと暫し黙考した。
しかし造形部分だけに限ればどうしても何処か居心地の悪さを感じてしまう。
なお九戸氏時代の城は現在の本丸、二の丸、若狭館、石沢館とされているが、この郭部分の面積の合計は実測図などから試算してみたところ約10万平方メートル前後である。
この面積に籠城可能な人員は建蔽率2割の硬式に当て嵌めれば約1万人前後となり、通説となっている約5千の兵力による籠城は物理的には収容可能と考えられる広さとなっている。
現在も一部で発掘調査が行われていた。
また駐車場は北西の三の丸に完備されている。
二の丸大手の城址碑
本丸南東門跡
本丸南東門跡
二の丸北西部
本丸外部に設置されている標柱
本丸南西虎口
本丸南西の土塁と堀
本丸南西の土塁と堀
本丸北西部
本丸北隅
本丸
本丸の門跡付近
本丸空堀
二の丸から石沢館
二の丸と石沢館の間の北側堀跡
二の丸と石沢館の間の堀跡
石沢館
二の丸と若狭館の間の堀跡
若狭館南西部
二の丸大手脇の水濠
二の丸南西部の切岸
このあとはせっかくなので一戸町方面へ移動しようとも考えたものの、咳の状態は相変わらずであり、加えて昨日から90分の仮眠以外には睡眠を摂れていないことを考慮し、二戸市の図書館に移動し休憩を兼ねて資料収集を開始した。
複写申請後の待機時間(5冊、計約500枚の図書館職員による複写作業)の間に暫く沈思黙考
(あまり記憶が無いことからたぶん居眠り)は予想通り約80分を要した。
陸奥の秋の日暮れは早く、午後4時過ぎには黄昏となり、複写物を受領した段階では漆黒の闇が訪れていた。
この時期は市街地内の晴天時でも夕刻の行動時刻は遅くとも午後4時前までであろう。
さてこの日予約している宿泊先は隣県の青森県八戸市内の八戸駅前。
通称九戸街道と呼ばれている国道395線、340線を利用したのだが、間にはそれなりの峠が約4か所、ガードレール余りなし、その反面急カーブ多数、道路照明殆どなし、反射板なども殆どなしの約50kmの夜間走行は大変貴重な経験となった。
登り切った坂の先にとてつもない急カーブがあったり、夜間には初めて訪れる人間が運転などを行ってはならぬ国道なのであった。
さりとてもうひとつのルートでもある国道4号線奥州街道、104号線経由がベターかといえばさに非ず。
7日と8日の日中に走行した限りでも、比較的急カーブが少ないだけで慣れない地での夜間走行には不向きに感じられた。