本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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車は芳賀公民館に駐車させていただき、勝沢城からそのまま徒歩にて金丸川を渡り次の目的地である東側の兎貝戸の砦を目指した。
といっても、道程にして僅か600mほどに過ぎない。
ところが高花台郵便局から芳賀中学校方面に向かう道は比高差は10mほどの緩やかな上り坂であったため意外に時間を要することとなった。
この程度の緩やかな坂道に10分以上も要する自分に呆れた。
赤城山の南麓であることから少しでも北寄りに道をとると必ず上り坂となるのだが、地図やナビ上からは殆ど読み取ることのできない情報でもある。
凸兎貝戸の砦(群馬県前橋市小坂子町兎貝戸)
13時25分から13時40分
「群馬県の中世城館跡」の記載内容を読む限りでは、当該実地調査が行われた1980年代中頃くらいまでは、それなりに良好な状態の土塁を含む空堀などの遺構が現存していたらしい。
しかし現在は一面の畑(主郭)で、その東側(東の郭)には休耕地のような平地が確認できるに過ぎなくなっていた。
下記画像のような城跡の説明版が設置されていなければ、おそらくは所在地さえ把握できずにそのままスルーしてしまいそうな光景でもあった。
「日本城郭大系」や現地の説明版によれば東西100m、南北60mの東西に分かれた複郭であったという。
南北にはそれぞれ民家が所在しその間の畑の一部が砦跡であったらしい。
なお東側には大神川の小流がが南流し谷津田地形を見ることができ、その比高差は5m前後はありそうであった。
主郭の南辺中央付近に設置されている現地解説版で、倒れている木材は古い文化財標柱である。
画像の一段高い個所が西側の主郭部分であったのだろうか(南東方向から撮影)
現地解説版の拡大画像
北側から撮影したもので、画像の右側の少し高い部分が主郭で、左側の低い部分が副郭(東郭)に相当するものと思われるのだが、南辺部の一部を除けば堀跡らしい形跡はほぼ失われているように感じた。
国土地理院航空写真を編集加工
戦後間もない時期に撮影された画像には明確に当該砦跡の形跡が浮かび上がっている。
なお、この日の天候は朝方は冬晴れの快晴であったが次第に薄雲が広がり始め午後からはほぼ高曇りの曇天となった。
といっても、道程にして僅か600mほどに過ぎない。
ところが高花台郵便局から芳賀中学校方面に向かう道は比高差は10mほどの緩やかな上り坂であったため意外に時間を要することとなった。
この程度の緩やかな坂道に10分以上も要する自分に呆れた。
赤城山の南麓であることから少しでも北寄りに道をとると必ず上り坂となるのだが、地図やナビ上からは殆ど読み取ることのできない情報でもある。
凸兎貝戸の砦(群馬県前橋市小坂子町兎貝戸)
13時25分から13時40分
「群馬県の中世城館跡」の記載内容を読む限りでは、当該実地調査が行われた1980年代中頃くらいまでは、それなりに良好な状態の土塁を含む空堀などの遺構が現存していたらしい。
しかし現在は一面の畑(主郭)で、その東側(東の郭)には休耕地のような平地が確認できるに過ぎなくなっていた。
下記画像のような城跡の説明版が設置されていなければ、おそらくは所在地さえ把握できずにそのままスルーしてしまいそうな光景でもあった。
「日本城郭大系」や現地の説明版によれば東西100m、南北60mの東西に分かれた複郭であったという。
南北にはそれぞれ民家が所在しその間の畑の一部が砦跡であったらしい。
なお東側には大神川の小流がが南流し谷津田地形を見ることができ、その比高差は5m前後はありそうであった。
主郭の南辺中央付近に設置されている現地解説版で、倒れている木材は古い文化財標柱である。
画像の一段高い個所が西側の主郭部分であったのだろうか(南東方向から撮影)
現地解説版の拡大画像
北側から撮影したもので、画像の右側の少し高い部分が主郭で、左側の低い部分が副郭(東郭)に相当するものと思われるのだが、南辺部の一部を除けば堀跡らしい形跡はほぼ失われているように感じた。
国土地理院航空写真を編集加工
戦後間もない時期に撮影された画像には明確に当該砦跡の形跡が浮かび上がっている。
なお、この日の天候は朝方は冬晴れの快晴であったが次第に薄雲が広がり始め午後からはほぼ高曇りの曇天となった。
赤城山の山麓に近い緩斜面地帯でもあることを考慮して、極力路駐を避けて確実な駐車場所を確保するために先ずは芳賀公民館へと向かうこととした。
図書館も併設されていたので蔵書について複写の可否を訪ねたところコピー機が設置されていないので複写サービスに対応していないとのことであった。
もっとも小型の地域館であることから、ざっと一瞥したところでは「前橋市史」と芳賀地域の郷土史のようなものだけであったので、予定通り夕刻には県立前橋図書館へと赴くこととした。
凸勝沢城(群馬県前橋市勝沢町)
12時30分から13時10分
城跡自体はその西側を藤沢川が、東側を金丸川がそれぞれ南流する台地の南端部に所在している。
「日本城郭大系」によれば、北条氏(きたじょうし)の支配下に置かれていた嶺城の支城と推定されているが、その現状は宅地周辺の整備、集落内の道路整備などにより城跡としての旧情はかなり失われいると形容した方が相応しい印象であった。
また所在地に関しては概ね合致していると思うのだが、実際に現地を訪れ見ると集落内の現在の道路状況と山崎一氏の作成された縄張図の通路の様子がなかなか一致をみないので困った。
同氏が作成された時期からは相応の年月を経ていることを考慮に入れれば、これは別に珍しいことでは無くよくある事例のひとつでもあるのだろうとは思う。
たぶんこの付近が比較的標高も高く本丸とされている辺りではないだろうかと思う。
同集落のやや南寄りに台地を東西に横断するような具合に見えた比高約3mばかりの段差が所在していたが城跡との関連については今のところよく分からない。
城跡西外れに所在する石碑。 右側が秋葉神社で、左側は庚申信仰の青面金剛の文字が刻まれた
石碑であり、ともに前橋市の指定文化財となっている。
たぶんこの辺りが城跡の北西角付近ではないかと推定してみた。道路の左側は新しい高花台の住宅地である。
図書館も併設されていたので蔵書について複写の可否を訪ねたところコピー機が設置されていないので複写サービスに対応していないとのことであった。
もっとも小型の地域館であることから、ざっと一瞥したところでは「前橋市史」と芳賀地域の郷土史のようなものだけであったので、予定通り夕刻には県立前橋図書館へと赴くこととした。
凸勝沢城(群馬県前橋市勝沢町)
12時30分から13時10分
城跡自体はその西側を藤沢川が、東側を金丸川がそれぞれ南流する台地の南端部に所在している。
「日本城郭大系」によれば、北条氏(きたじょうし)の支配下に置かれていた嶺城の支城と推定されているが、その現状は宅地周辺の整備、集落内の道路整備などにより城跡としての旧情はかなり失われいると形容した方が相応しい印象であった。
また所在地に関しては概ね合致していると思うのだが、実際に現地を訪れ見ると集落内の現在の道路状況と山崎一氏の作成された縄張図の通路の様子がなかなか一致をみないので困った。
同氏が作成された時期からは相応の年月を経ていることを考慮に入れれば、これは別に珍しいことでは無くよくある事例のひとつでもあるのだろうとは思う。
たぶんこの付近が比較的標高も高く本丸とされている辺りではないだろうかと思う。
同集落のやや南寄りに台地を東西に横断するような具合に見えた比高約3mばかりの段差が所在していたが城跡との関連については今のところよく分からない。
城跡西外れに所在する石碑。 右側が秋葉神社で、左側は庚申信仰の青面金剛の文字が刻まれた
石碑であり、ともに前橋市の指定文化財となっている。
たぶんこの辺りが城跡の北西角付近ではないかと推定してみた。道路の左側は新しい高花台の住宅地である。
それなりの遺構が残存していた西今井館跡から、次は後に剣聖として崇められることとなった上泉伊勢守に関わるという上泉城へと向かった。
ルートとしては概ねそのまま上武道路に入り北西へと向かえばよいことになるのだが、途中国道50号線と立体交差する今井町のJCをついうっかりと誤ってしまい前橋市内へと向かってしまった (^^ゞ
このため止むを得ず今井町西の丁字路を左折してUターンにより再び上武道路に戻ろうと考えた。
しかしよくよく考えてみると、そのまま小田島町の交差点まで進み途中農道を経由して県道76号線の江木町交差点を左折すれば上泉町方面へと向かえることに気付いた。
高規格で建設されたバイパスは時速60km(実際には時により時速80kmで走行している車両が多い)での走行が可能なのだが、JCの分岐での判断を誤ると些か面倒なことにもなるのである。
ところが到着の直前に城の外堀代わりでもある藤沢川を渡って2本目の道を左折すべきところ、1本目の川沿いの側道を曲がってしまった (^^ゞ
とはいうものの、結果的には目指すべき城跡(郷蔵と上泉自治会館が所在)は既にナビに表示されていたので全く問題なく現地に到着することができた。
凸上泉城(群馬県前橋市上泉町)
10時45分から12時00分
云わずとも知れた剣聖上泉伊勢守信綱が生まれたとされている城館跡である。
上泉自治会館に駐車場があるので暫しの間こちらを利用させていただいた。
自治会館の北側に隣接した現在は文化財指定を受けている近世の郷蔵が所在する高台が上泉城の主郭である。その北側の民家との間の道や自治会館敷地の一部でもある西側の舗装された空閑地が堀跡であることは明白であった。
縄張図などにも記されている主郭北西部の張出しも健在であった。
剣聖の銅像、記念碑など建立され賑々しく出迎えていただいたが、その一方で城跡に関するものはやや年季の入った感のある説明版のみであった。
ここからは徒歩で反時計回りに東通、北通を進み城域の北限と思われる一度県道76号線に出てから再び南下して玉泉寺入口手前からまた北上し境内北側の土塁状地形を確認した。
目ぼしい城跡遺構は以上の主郭周辺部とこの土塁状地形の2か所といっても良さそうだ。
無論桃ノ木川沿いの台地崖線地形も眺めておくと良いだろう。
このあとは信綱の菩提寺である西林寺にも立寄り自治会館の駐車場へと戻った。
本丸とされている高台で、画像の建物は近世の郷蔵である。
自治会館駐車場脇に設置されている上泉信綱の銅像
いくぶん経年劣化が目立ち始めているために、説明版のひび割れが恰も通路のようにも見えてしまうのであった (^^ゞ
本丸北西部の折のついた張出部分
玉泉寺北側の土塁跡らしい地形
西方からの遠景で水田面からの比高差は約8mほどの崖線を形成している。
城跡の南部を流れている桃ノ木川で、北側と東側にはその支流である藤沢川が流れる台地先端部に築かれており、これらの河川を外堀としていたことなどが窺われる。
ルートとしては概ねそのまま上武道路に入り北西へと向かえばよいことになるのだが、途中国道50号線と立体交差する今井町のJCをついうっかりと誤ってしまい前橋市内へと向かってしまった (^^ゞ
このため止むを得ず今井町西の丁字路を左折してUターンにより再び上武道路に戻ろうと考えた。
しかしよくよく考えてみると、そのまま小田島町の交差点まで進み途中農道を経由して県道76号線の江木町交差点を左折すれば上泉町方面へと向かえることに気付いた。
高規格で建設されたバイパスは時速60km(実際には時により時速80kmで走行している車両が多い)での走行が可能なのだが、JCの分岐での判断を誤ると些か面倒なことにもなるのである。
ところが到着の直前に城の外堀代わりでもある藤沢川を渡って2本目の道を左折すべきところ、1本目の川沿いの側道を曲がってしまった (^^ゞ
とはいうものの、結果的には目指すべき城跡(郷蔵と上泉自治会館が所在)は既にナビに表示されていたので全く問題なく現地に到着することができた。
凸上泉城(群馬県前橋市上泉町)
10時45分から12時00分
云わずとも知れた剣聖上泉伊勢守信綱が生まれたとされている城館跡である。
上泉自治会館に駐車場があるので暫しの間こちらを利用させていただいた。
自治会館の北側に隣接した現在は文化財指定を受けている近世の郷蔵が所在する高台が上泉城の主郭である。その北側の民家との間の道や自治会館敷地の一部でもある西側の舗装された空閑地が堀跡であることは明白であった。
縄張図などにも記されている主郭北西部の張出しも健在であった。
剣聖の銅像、記念碑など建立され賑々しく出迎えていただいたが、その一方で城跡に関するものはやや年季の入った感のある説明版のみであった。
ここからは徒歩で反時計回りに東通、北通を進み城域の北限と思われる一度県道76号線に出てから再び南下して玉泉寺入口手前からまた北上し境内北側の土塁状地形を確認した。
目ぼしい城跡遺構は以上の主郭周辺部とこの土塁状地形の2か所といっても良さそうだ。
無論桃ノ木川沿いの台地崖線地形も眺めておくと良いだろう。
このあとは信綱の菩提寺である西林寺にも立寄り自治会館の駐車場へと戻った。
本丸とされている高台で、画像の建物は近世の郷蔵である。
自治会館駐車場脇に設置されている上泉信綱の銅像
いくぶん経年劣化が目立ち始めているために、説明版のひび割れが恰も通路のようにも見えてしまうのであった (^^ゞ
本丸北西部の折のついた張出部分
玉泉寺北側の土塁跡らしい地形
西方からの遠景で水田面からの比高差は約8mほどの崖線を形成している。
城跡の南部を流れている桃ノ木川で、北側と東側にはその支流である藤沢川が流れる台地先端部に築かれており、これらの河川を外堀としていたことなどが窺われる。
凸西今井館(群馬県伊勢崎市-旧境町)
9時10分から9時40分
市の史跡指定であり「マッピングぐんま」では「西今井中世居館跡」、現地解説版では「上今井中世館跡」と呼称され、「長楽寺文書」からは道忍屋敷ともいうこともありややこしい。
旧境町方面は幾分地理不案内であることから、その移動にやや時間を要したが、上矢島城からも肉眼で視認でき、東へ約500m少々の至近距離であることから先ず間違いようは無かった。
江戸時代に作成された「今井屋敷絵図」によれば、水路に囲まれた屋敷とその周辺の様子が描かれている。
「新田町誌第4巻」などの記述によれば、新田一族今井氏の館跡と推定されているようである。
その後は桐生から茂木氏が移り住み、境城主である小柴氏(あるいは小此木氏)と縁戚関係にあったらしい。
同書などによると、館周囲の堀跡については圃場整備などにより大きく改変を受けている旨が記されている。
しかし屋敷南側はもちろんであるが、北側屋敷林の境界付近にも堀跡状の地形が残されている。
いくぶん埋まってはいるが屋敷南辺の東側の堀跡は明瞭である。
屋敷北側の屋敷林との境界付近にも、現在のところでは長さ80mばかりの堀跡状の大きな溝が確認できる。
茂木氏の墓石も散見されたが、現在も使用されている墓石でもあり傍らの庚申塔を撮影した。
元禄11年、上州新田領今井村と刻まれ、青面金剛の出で立ちがとてもパワフルでりりしかった。
久しぶりなので比較的丁寧に歩き回ったことも影響して些か時間が押し気味なってしまったが、この後はようやく伊勢崎市を抜けて上武道路を北西に向かい一路前橋市内を目指した。
9時10分から9時40分
市の史跡指定であり「マッピングぐんま」では「西今井中世居館跡」、現地解説版では「上今井中世館跡」と呼称され、「長楽寺文書」からは道忍屋敷ともいうこともありややこしい。
旧境町方面は幾分地理不案内であることから、その移動にやや時間を要したが、上矢島城からも肉眼で視認でき、東へ約500m少々の至近距離であることから先ず間違いようは無かった。
江戸時代に作成された「今井屋敷絵図」によれば、水路に囲まれた屋敷とその周辺の様子が描かれている。
「新田町誌第4巻」などの記述によれば、新田一族今井氏の館跡と推定されているようである。
その後は桐生から茂木氏が移り住み、境城主である小柴氏(あるいは小此木氏)と縁戚関係にあったらしい。
同書などによると、館周囲の堀跡については圃場整備などにより大きく改変を受けている旨が記されている。
しかし屋敷南側はもちろんであるが、北側屋敷林の境界付近にも堀跡状の地形が残されている。
いくぶん埋まってはいるが屋敷南辺の東側の堀跡は明瞭である。
屋敷北側の屋敷林との境界付近にも、現在のところでは長さ80mばかりの堀跡状の大きな溝が確認できる。
茂木氏の墓石も散見されたが、現在も使用されている墓石でもあり傍らの庚申塔を撮影した。
元禄11年、上州新田領今井村と刻まれ、青面金剛の出で立ちがとてもパワフルでりりしかった。
久しぶりなので比較的丁寧に歩き回ったことも影響して些か時間が押し気味なってしまったが、この後はようやく伊勢崎市を抜けて上武道路を北西に向かい一路前橋市内を目指した。
三ツ木城から北西移動すべく国道354線西今井の交差点を横断し境矢島の集落を目指した。
移動距離は道程で約2kmだが、朝方の交通渋滞の影響の少ない地域でもあり約10分ほどで到着した。
当初の心積もりとしては日の出までの時間調整がてらに、三ツ木城にのみ立ち寄り他の旧境町についてはパスをする予定であった。
しかし毎度のことながらついつい欲が出てしまい、集中力のある貴重な午前中の時間が過ぎて行った。
凸上矢島城(群馬県伊勢崎市-旧境町)
8時40分から9時10分
上矢島(村)の村名は幕末の頃に矢島村から改称されたとのことなので、往時における地名は矢島である。
このため東隣りに接した太田市内の矢島村と些か紛らわしいものもある。
「群馬県の中世城館跡」に掲載されている情報によれば、矢島氏と南氏に関連する城館跡とされているものの、手持ちの資料の限りではその詳細がよく分からない。
なお東側には約600mには西今井館(指定史跡/別名を道忍屋敷)も所在している。
南氏が鬼門除けに建立したとされる勝手大明神から矢島氏館跡とされている徳蔵寺まで集落内を時計回りにぐるっと一周してみたが、城館跡に繋がりそうな遺構は目に入ることはなかった。
帰宅後に国土地理院の古い航空写真画像との照合を試みたものの、集落内の屋敷林などの陰になっている部分も多く遺構に関連しそうな地形を把握することは難しかった。
集落南東のはずれに所在する勝手大明神の社
集落を南北に走る道路沿いのバス停。
背景の建物は上矢島コミュニティセンターでこの辺りが集落の中心部で城域の西側に相当するようだ。
徳蔵寺山門(南側参道より撮影)
移動距離は道程で約2kmだが、朝方の交通渋滞の影響の少ない地域でもあり約10分ほどで到着した。
当初の心積もりとしては日の出までの時間調整がてらに、三ツ木城にのみ立ち寄り他の旧境町についてはパスをする予定であった。
しかし毎度のことながらついつい欲が出てしまい、集中力のある貴重な午前中の時間が過ぎて行った。
凸上矢島城(群馬県伊勢崎市-旧境町)
8時40分から9時10分
上矢島(村)の村名は幕末の頃に矢島村から改称されたとのことなので、往時における地名は矢島である。
このため東隣りに接した太田市内の矢島村と些か紛らわしいものもある。
「群馬県の中世城館跡」に掲載されている情報によれば、矢島氏と南氏に関連する城館跡とされているものの、手持ちの資料の限りではその詳細がよく分からない。
なお東側には約600mには西今井館(指定史跡/別名を道忍屋敷)も所在している。
南氏が鬼門除けに建立したとされる勝手大明神から矢島氏館跡とされている徳蔵寺まで集落内を時計回りにぐるっと一周してみたが、城館跡に繋がりそうな遺構は目に入ることはなかった。
帰宅後に国土地理院の古い航空写真画像との照合を試みたものの、集落内の屋敷林などの陰になっている部分も多く遺構に関連しそうな地形を把握することは難しかった。
集落南東のはずれに所在する勝手大明神の社
集落を南北に走る道路沿いのバス停。
背景の建物は上矢島コミュニティセンターでこの辺りが集落の中心部で城域の西側に相当するようだ。
徳蔵寺山門(南側参道より撮影)