本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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いつものように午前4時半自宅発。
午前8時半に羽田城の麓付近に到着。
ここまでタイムスケジュールは当初の予定通りに進行していた。
しかし、山間の地域でのこの時刻の光線の加減は未だ弱いため、デジカメ画像が荒れ気味となった。
この時期ではデジカメでの撮影は、早くとも午前9時以降の方が良さそうだ。



羽田城(群馬県東吾妻町)
午前8時30分から午前10時10分

やはり主郭の北西角部分の堀切と横堀が交差する辺りの景観は相変わらず見事である。

   主郭北側の堀切


主郭部北側の堀切の傾斜も急であり、ストック無ではやや厳しいものがある。
その反面南側の横堀では半年前に比して更に笹が伸び始めており、些か踏査がし辛くはなっていた。
むろん私有地であることを考えれば、立入等の制限が為されていないだけでも有難いというべきなのであろう。

前回は、東側の横堀は主郭部から俯瞰したのみに留まっていたが、今回は途中まで直接踏査したが、南東部の竹藪は更に見通しが効きにくくなっているように感じられた。
再訪なので、探訪のタイム・スケジュールは幾分前倒しに。

なお帰路は予定通りに地元の農園に立寄り林檎を購入し、吾妻川に架かる万年橋の南側から岩櫃山の絶景を鑑賞した。

      岩櫃山 
たぶん夕日の方が陰影が上手く表現できるのかも知れない・・・


岩下城(群馬県東吾妻町)
午前11時10分から12時30分

東郭群の三重堀切は健在だが、藪はいくぶん成長しているようにも思えた。
半年前は概ね尾根筋をそのまま進んでいくことが可能だったのだが、東側斜面への迂回行動を余儀なくされた。
東西の郭群を隔てている大堀切も健在なのだが、真横から撮影すると当該規模が大きすぎて画面に収まりきれない。

     大堀切

また、西郭への斜行ルートも相変わらず崩れやすい。
それでも半ば無名に近いことから、この半年間に100人は訪れてはいないらしくどうにか歩くことはできる程度の荒れ方であった。

西郭の腰郭ではニホンカモシカの幼体に出会った。
こちらが少し近づくと、少し移動する。
なかなか彼我の距離は縮まることなく、北側の谷筋へとその姿を消した。
なお帰路は、自分の車の屋根が見えたので、東郭群の腰郭から直接小走り気味に駆け下りてみた。
また同じようなことを考えた方もおいでらしく、僅かながら踏み跡も残されていた。
下方に林道が所在し、かつ深い谷筋はなく比高差も約50mほどであるので、イノシシ罠などに留意すれば、問題が無いようだ。
むろんあくまでも自己責任には違いないのだが。
今回は自分の足回りの養生は万全の対策を講じてきたつもりなので、多少の負荷については特に問題なさそうな感触を得たのであった。

なお、この城に関してはほぼ道は無いのだが、いちおう踏み跡はあるので国土地理院などの地形図と当該縄張図くらいは必携するべきであろう。
むろんクマ除け対策もそれなりに。

ここでもタイムスケジュールが繰り上がり、昼食時間に余裕を持たせることが可能となった。
八ツ場ダムの東方に所在する「道の駅吾妻峡」にて、暫時昼食。

 
稲荷城(群馬県東吾妻町)
13時50分から14時50分

あくまでも気のせいなのかもしれないが、4月頃よりも幾分主郭部付近の雑草類が目立ったように思われた。
他方、西側に隣接した方形の郭群の方は下草となる笹などが刈り取られており、とても歩きやすく感じられた。
地権者の皆様方に感謝。

ここも再訪なのだが、明らかに主郭部の普請のレベルと西側郭群との差異は歴然としていた。
築城主体の相違若しくは、普請された年代の相違であるのであろうか。

   主郭土塁上から虎口

この時期の日の傾きは予想以上のスピードのようで、午後3時を過ぎるとデジカメ撮影には不向きとなり、やはり早めの撤収が正解であった。

 
本日訪れたのは全て東吾妻町で、今年の4月に続く再訪であり、余り著名であるとは言い難いが、その何れもが一定の遺構が現存し、かつ城址標柱や解説版などの類は未設置である。

なおこの日は「みかづきぼり」さんにご同行願った。
一人の場合には、近年は余り再訪はしていないというか再訪する機会がない。
再訪して初めて分かる部分もあり、むろん見落としや勘違いなども正すことができる。
以上、いちおう山城3か所ではあるが、実際の累計比高差は150m未満なので、最近衰えの目立つ足回りでも未だ何とか対処できているようだ。

早朝からの遠征にもかかわらず、ナビ&長時間にわたりお付き合いいただいた「みかづきぼり」さんに深謝申し上げます。

拍手[3回]

今月11日の新潟遠征では、尾根道の些細なアップダウンの繰り返しで近年の体力低下を露呈してしまった。
両足の太腿が痙攣するというのは、全く初めての経験であり、ご同行いただいた皆様方には、ただただ足手まといとなり誠に申し訳ない失態でありました。
 
そうしたこともあり、現在における体力・気力の状態を検証すべく、今年の春先に行きそびれた山城へと向かうこととした。
とはいえ、それほど遠方に出向くのは厳しいので、ある程度はその様子が分かる地域となった。

この日は自宅を午前4時30分に出発。
いつも通り国道254線から407号線へと入り、熊谷からは今年だけでも数回は往復している上武道路経由で渋川へと向かい、17号線を北上して353号線長野街道を中之条町へとひた走った。
途中2度ほどトイレ休憩などを挟んだが、概ね午前8時前には最初の目的地の麓へと到達した。


横尾八幡城(群馬県中之条町)
午前8時00分から8時50分

◎城跡へのアプローチ
中之条町から国道145号線を北西に進んだ。
横尾交差点で左折して県道231号線を北東に約500mほど進んだところに城跡への登り口が所在している。
一般にはこの栃瀬集落南西の林道から向かう方も多いようである。
しかし、ここからは城跡までそのまま車で行けるかどうか、駐車スペースの存在を含めて微妙であった。

そこで少々遠回りなのではあるが、確実に駐車できそうなさらに400m先にある城跡北東の林道入り口へと向かってみることにした。
結果的にこの林道入口には軽ならば2台ほどは停められそうなスペースもある。
また、城跡の解説版も設置されていることもあるので寧ろ分かり易いようにも思えた。
こうして、まずは起点は確保することができた。

   城跡北東部の登り口

次にこの地点に戻ることも選択肢に入れつつ、試に直接城跡近くまで車でアプローチしてみた。
林道は100mほど走ると途中で二差路となるが、無論ここは城跡の方向である左へと進んでゆく。
林道は舗装済みでなのではあるのだが、落ち葉が降り積もっていることからタイヤが滑り易いので注意が必要だろう。
小さな谷筋を渡ると再び二差路の分岐に出る。
ここを左に進んで城跡の西側へと到着した。
起点からは僅か約400mほどの距離に過ぎないのであった。

事前情報通りとくに見学者用の駐車スペースは無いが、短時間ならば林道脇に寄せるなどをすれば駐車は可能な様子であった。
むろん林道自体の道幅が狭いこともあり、3ナンバーでは迷惑の度合いも大きく、あくまでも「軽ならば可であるのかも知れない」というところであるのだろう。
栃瀬集落南西の林道も反対側から登ってくるので同じ場所に出る。
道路の傾斜や路面状況を勘案すると、やはり北東側からアプローチする方が問題が少なそうに思われた。

   北東方からの遠景

◎見学と感想
やはり事前の情報通り、主郭付近はすでに落葉の季節ではあったのだがヤブが酷かった。
主郭部の東屋と標柱付近については、ある程度下草を刈り取っているという形跡は感じられたのだが、全般的に通しが良くないのが残念であった。
主郭東側はノイバラの類が群生中で、東側虎口を視認したところでそれ以上の前身は断念することとなった。
主郭部の土塁も一応現存しているが、土塁上とその周辺にもヤブが多く視界が遮られていた。
腰郭と思われる部分には地元の墓地が散在しており、見学にはあくまでも失礼の無いように心掛けねばならない。
有名な真田氏による築城説もあり、町指定史跡でもあるのだが、諸般の事情により史跡としての整備は十分では無いように感じた。
「草刈りボランティア」の募集でもあれば喜んで参加したいとさえ思った。
ここで早朝に購入しておいた朝食代わりのサンドウィッチを給水を摂りつつ腹におさめた。

さて、中世の沼田街道はこの城跡の北部を通っていたという説があるらしい。
もしそうであるとするならば、主郭部が土塁や腰郭などによりぐるりと囲繞されてはいるが、それほど防御性が高いという印象は感じられなかった。
北側の土塁を含む切岸の高さは最も高い部分でも3m強を測るのみであったが、東側になるに従い高さを減じていた。
さらに南側に至っては土塁の高さ1m前後を測るに過ぎなかった。

もちろん経年劣化や土地利用などにより、そうした遺構の規模が減じられていることを考慮に入れても、天正17年の戦いで尻高氏を含む真田勢が、数に優ると考えられる後北条氏の軍勢を援軍とともに撃退したとは俄かには信じがたいものを感じたというのが正直な感想である。
そうした歴史的経緯のある城跡であるとすると、その遺構の現状からは縄張の規模の小ささと防御の脆弱性については疑問の余地があるように思えたのであった。

なお枡形が所在するという部分は、識者により見解が分かれているようである。
地元の研究者である飯森氏が指していると推定される個所はアズマザサなどが繁殖し地表観察はほぼ困難であった。(「ぐんまの城30選」)
宮坂氏の指している枡形は土塁により曲折した通路を形成してはいるが、後世の地形改変の影響も少なくないのか、残存している土塁自体の規模が些か貧弱であるようにも思われて、その防御性にさえも疑問を感じてしまったのであった。

     主郭部

この城に関しては「在番衆」に関する古文書(八幡山番帳)が伝わっていおり、吾妻地衆による各組30名ほどの在番が2組交互で在城していたとされている。
危急存亡の臨戦態勢下においても、そう多人数が籠ることのできる規模ではなく、短期間であったとしても100名ほどが上限であるように感じた。
あくまでも沼田へ通じる街道監視のための役割に限定された城塞であったのかも知れない。

 北側から眺めた榛名山方面


並木城(群馬県高山村)
午前9時25分から10時00分

国道145号線に戻り東方の尻高元宿集落に向かった。
泉龍寺の高野槇への案内標柱が設置されている個所に「尻高城」に関する解説版も併設されていた。
並木城は山上の狭義の尻高城の里城というように解されているらしい。
もしも足回りに余り自信が無ければ、この解説版と並木城の標柱などを撮影して次の目的地へと移動するという選択肢も無くは無いとも思う。

現地の案内板などでは並木城と表記されているが、別名を戸室城ともいい、諸書によると白井長尾氏から分かれたといわれている尻高氏の本拠地であるとされている。

並木城の案内板は北の泉龍寺へと向かう緩やかな上り坂の道路右端に設置されている。
並木城跡の標柱と解説版は、そこから少し離れた直線で南東約100mの地点に所在しており、その所在の探索に少々手間取ってしまったのだが、少しうろうろと歩き回るか、おいでになる地元の方にお聞きすれば多分分かるとは思った。

   城跡標柱と解説版

因みにこの里城が所在している元宿の集落からは直接尻高城の主郭までは直線にして約1.2km、比高差にして約250m前後はあるらしいので、できるだけ麓近くまでアプローチができることを祈った。
なお当該地点からは尻高城の尾根筋は概ね視野に捉えることができていると思われた。

   尻高城方面の遠景


 城跡中心付近の土塁状の地形
 
 
           城跡を北側から

 
尻高城(群馬県高山村)
午前10時20分から午後12時30分
昼食午前11時40分から11時50分
(コンビニで購入したオニギリ1個と水分補給)

どうにか城跡山麓の南側まで車でアプローチできたことから、お蔭で主郭部までの比高差は約170m程度まで圧縮ができた。
しかし、尻高城自体はそのルートにある程度の急斜面が含まれている山城である。
先日の日曜日に発症した太腿の痙攣のような状態だけは何としても避けねばならない。

もし仮に上りで発症した場合には、即刻退散することも事前に選択肢として脳裏に刻んでいた。
この程度の山城でアウトならば、年齢的にももう今後は山城探訪とは縁遠くなるのであろうことも念頭に置いていた。
むろん事前の対策として、所要か所に複数のテーピング、両膝保護にもサポーター装着、歩きはじめの前に筋肉の違和感の有無をチェックした。
いわば背水の陣であった。

さてルートは途中2か所で急斜面が所在していたが、やや新しめのロープが設置されていたことからそれほど難は無く登ることができた。

   有難い岩場のロープ

一方心肺機能の方は時間をかけてゆっくりと登って行ったことから余り問題は無かった。
けれども多少の急斜面があるとはいえ、わずか比高差約170mを1時間20分も要していることから、比高差300mを約1時間前後で登っていた50年前の昔をいたく懐かしく感じていた。
若い元気な方ならばたぶん40分前後で登ることができるのかも知れない。

一方下山の方は滑らないように注意は必要だが、概ね40分ほどを要すだけにとどまった。
これもお若い元気な方ならば多分所要時間は30分少々なのだろう。
下りの基本はは両膝のバネを利かして降りるのだが、最早自分の膝にはバネは喪失しているらしく、携行しているストックを頼りに枯葉で滑落しないように用心深く歩く以外にはなかった。

10年以上前に秩父地方の山城に出かけた際には、お遍路にも利用されている穏やかな下山路を大股で走って降りてきたことをふと思い出した。
あの時分は登りは苦手だったが、未だ下りの方は割と早かったようだ。
今は、ゆっくりと、転ばぬように、滑らぬように、怪我をせず、何をおいてもとにかく無事に帰るということが最優先となってきている。

さて、遺構の方は明確な堀切が2か所のほか削平された郭が稜線部と中腹に数か所ばかり存在しているが、虎口、土塁の形跡は確認できなかった。

    主郭近くの石祠

かりに定説通りに築城された時期が15世紀の初め頃とすれば、この山城についてはその後の大掛かりな改修などは行われず、実際には戦時などにも余り活用されることなく、むしろ消極的に存続していたということも考えられるのではないのだろうかとも思った。

    中腹の堀切地形

それでも、稜線部は滞在には適さないと思われる一方で、南斜面の中腹部には小屋掛けできそうな削平地も存在している。
かりに戦いの場があったとすれば、それはそうした中腹部と里城をめぐる争奪であったような気さえしてきた。
尤も、急斜面のルートは確かに余人を近づけないものを感じるので、いざという時の籠城にはそれなりに効力を発揮するのかも知れないとも思うのだか。

 主郭と東の郭を隔てる堀切

尻高氏の領地は「尻高」「大塚」「平」「赤坂」「市城」の範囲であるともいわれている。
これらの集落の生産高は近世初期の寛文検地では約4500石を越えているのだが、有名な沼田城主真田氏の改易事件の後には約2300石ほどに減じられている。(「角川地名大辞典」より)
一般的に石高1000石に付30人程度の軍役が可能であるとすれば、単純計算では凡そ60人強程度の軍役負担となる。
白井長尾氏の一族とはいえ、あくまでもその庶流である尻高氏一族の勢力を糾合したとしても、その支配地の範囲から招集する限りでは、おそらくは100名前後の将兵を掻き集めるのが限度ではなかったのだろうか。

   西方の浅間山方面


役原城(群馬県高山村)
13時00分から13時20分

役原地区住民センターに車を停めさせていただき、時計回りに集落内の道路を歩いてみた。
城址標柱と解説版は、先ほどのセンターから北に約120mほどの道路沿い右側(東側)に所在していた。
群馬県内でもほぼ無名に近いような城館跡であるようだが、所在地に関して迷うことも無く、かつ不審者と思われる可能性も減るので、こうした配慮は大変ありがたいものである。

西側の道路を歩いている限りでは分かりにくいのだが、北側から東側へと回り込んでいくと台地地形の辺縁部を確認できる。

   北東側から撮影

「現地解説版」などによると尻高氏一族の城館と考えられているが、並木城との関係がよく分からないが、尻高重儀の隠居城である旨が記されていた。

  現地解説版と城跡の標柱

山城である尻高城からは東に直線で2kmほど離れており、その間には名久田川支流である赤狩川が流れ深い谷筋が形成され両地域を隔てているが、高地に所在してはいるものの半ば平城に近く、それほど防御性が高いという地形ではない。
隠居城ということもあり、居住性等に重点を置き、余り要害性に拘泥する必要が無かったのかも知れない。


沼田街道を中之条町から東へと移動したが、結果的に本日巡った4か所の城館は全て尻高氏に関連するものであった。
この時点で未だ時刻は午後2時前であったが、「道の駅中山盆地」に立寄り地場産の物産(林檎と田舎饅頭)を購入し、三国街道経由でショートカットして渋川市へと向かい再び上武道路経由で帰宅した。
帰路に渋川市の図書館に立寄るという選択肢も考えていたが、夕方の道路混雑などを勘案し明るい時間帯で早めの帰宅を選択した。
帰路はある程度の渋滞を予測していたが、途中の上武道路が首都高速以上に早く走行できることもあり、途中トイレ休憩を入れたにもかかわらず今回も4時間足らずで自宅に到着した。
一般道走行で往復約7時間半、走行距離は約300kmほどであった。

追記
このブログはサーバー動作不良のため11月17日に記述しています。

 

拍手[3回]

午前6時半に自宅発で三芳PAから関越道を北上。
今回の目的地は10月8日にも出かけた新潟県南魚沼市。
群馬県に入り次第に雲量が増加。
例年この時期にはよく見えているはずの赤城、榛名の連峰も薄雲がかかりボンヤリと霞んでいた。

昨日の午前中までは、いちおうは晴れの予報。
しかし午後からの予報では概ね曇りに変わっしまっていたのが気がかり。
上越国境に近づくにつれて、やはり少しずつ雲行きは怪しさを増していた。
待ち合わせポイントである関越トンネル手前の谷川岳PAからは、気流の乱れが手に取るように観察できるぼどであった。
高速道路情報でも、「降雨 路面注意」の掲示がされ始め、長いトンネルを抜けるとやはり小雨となっていた。

唯一の救いは、目的地はここから40kmほど先の平地部の低山であること。
石打・塩沢インターまで北上すると、雲に覆われた前方の景色は次第に明るさを帯び、小雨も止み始め路面も次第に乾きはじめていた。


雷土城(新潟県南魚沼市)
午前10時40分から12時20分(山頂での昼食時間含む)

西福寺の駐車場脇の林道を車でそのまま登る。
林道終点には舗装された駐車スペースが存在し、3台から4台位は駐車可能。
むろん、我々のグループ以外に訪問者は見かけず。
このまま今回の尾根筋歩きでは、ハイキングを含む他の訪問者には出会えず。


  湯谷城から雷土城方面

駐車場所からは先ず南東約700mほどの地点に所在している比高差約90mのピークを目指した。
城域の西限には堀切が所在。
尤も、南北方向に峠を経由した里道もあることから分かりにくい。


  たぶん西側の堀切地形

城山と名付けられた雷土城の山頂部までの比高差は更に60m以上。
これに加えて二重堀切と鎖場などがあるので、郭面の兵站部は余り広くは無いもののその防備は万全であるようにも思えた。
尾根筋の形状も総じて痩せ尾根状を呈しており、南北方向の自然地形の有利性が生かされていた。


鎖場の堀切の高さは概ね6mから8mなのだが、登ってみるとなかなか登りがいがある。

湯谷城へ向かう尾根筋も比高差30mほどの下りではあるが、鎖場などもあり中心部となる郭群の防備は厚い。

山頂では少し早目の昼食を摂った。
参加者全員が「南魚沼産コシヒカリ」の握り飯であった。

 
  雷土城(板木城)主郭

疲れていることに加えて、次第に天候が回復し景色も眺めることができるようになり、その美味さが倍加していたように感じた。


  主郭西側の桝形虎口



   雷土城と湯谷城


湯谷城(新潟県南魚沼市)
午後12時20分から14時30分(復路の駐車場までの所要時間含む)

このあたりでは天候もすっかり回復し、遠望は効かないものの雷土城の山頂部より標高はさらに14m高いこともあり見晴らしは良好。
雷土城の鎖場を含むアップダウンなどでそこそこ疲れていた。
この湯谷城山頂から派生する比高差50m以上の2か所の尾根筋については、この場所からただただ俯瞰するのみであった。
小休止の後は駐車場所までの尾根道をそのまま戻った。
ただ単に往路をそのまま戻るだけではあるが、再びアップダウンの繰り返しとなった。


湯谷城主郭の山頂から北尾根


「鎖場」の方は兎に角しがみ付けばどうにか上り下りできるのだが、復路の尾根筋でのアップダウンは堪えた。
とくに標高322m、比高差僅か40mほどに過ぎない斜面辺りで、まず右足の太腿が痙攣し始めていた。
痙攣する部分を右手で抑えつつ痙攣が収まるのを待った。
少し歩きはじめたものの、やはり違和感があり、軸足を左足へと切り替えた。
しかし今度は左足の太腿が痙攣を開始した。
こうなるとそう簡単には前へと進むことは難しくなった。
国土地理院の地図上での距離は約1kmに過ぎないのだが、少し痙攣が収まるまで待機した。
かくして、最初の駐車場まで辿り着くのに遅れること、先頭からは10分以上となっていたのであった。


    湯谷城方面


◎管領塚(新潟県南魚沼市)
午後15時05分から15時15分

国道291号線沿いに所在する関東管領上杉顕定戦没の地とされる史跡公園に立寄る。
多宝塔形式と思われる石塔などが祀られていた。


    管領塚史跡公園

道路反対側の店にて「大判焼」をテイクアウトした。
むろん即刻食した。
なお付属のトイレは閉鎖中であった。
また、この辺りで漸く太腿の痙攣が治まりはじめていた (^^ゞ


今月7日、8日と続いて孫の面倒を見ていたことも影響していたのか、このところ太腿付近の筋肉には違和感を感じてはいた。
けれども、脹脛についてはいざ知らず、歩行中にこれほどの筋肉痛(太腿の痙攣)に見舞われるとは全く思いもよらず。
予め携行していた「ゼノール」(医薬品第3類)の効果はほぼ見られず。

還暦を過ぎたころから心肺機能の低下は自覚していたが、太腿の筋肉痛は予想外であった。
年齢的にも余り無理は効かなくなってきたのかも知れない、とあらためて自省するにいたった。
今回の走行距離は往復にして約380kmの行程であった。

貴重な時間を浪費し、大変ご迷惑をお掛けしました。
同行いただいた御一同に衷心より深謝申し上げます <(_ _)>

拍手[4回]

城館探訪の季節が到来している。
先月は天候が芳しくなく、結局のところ新潟県南魚沼、湯沢と群馬県高崎市の2日のみ。
今月に入り孫の具合がいまひとつでもあったことから未だに出陣には及ばす。

思えば、昨年の11月は風邪を拗らせながら、2泊3日で岩手、青森遠征の後、再び2泊3日で恒例となった福島県郡山市遠征。
それ以外にも日帰りで、群馬県北部へ合わせて2日間。
累計で8日間も出かけていた。

そのあと12月に入り、2泊3日でこれも恒例化しつつある滋賀県甲賀市遠征。
と、そこまでは順調だったのだが、そのあとはエネルギーが切れたらしく翌年3月下旬まで冬籠りとなった。

しかし、今年は未だに単独での遠征計画は皆無である。
昨年同月並みの気力は無いようだ。
尤も計画を立てたとしても、孫の具合次第ということもある。
とくに新幹線移動は格安のビジネスプランを利用しているので、事実上キャンセルが効かない。
事実、今月に入り既に2日間は孫のお守であった。

明日はミニオフで再び新潟方面遠征である。
天気予報が小刻みに変わっているが、概ね降雨に見舞われることだけは無いかも知れない。
尤もトンネルを抜けると・・・ということもあるのだが。

この年齢になってくると、去年はできたのだが今年はできないということが増える。
運転免許返納もあと数年以内と考えるようになってきている。
それでも今月中にあと1日くらいは出かけるという算段だけはしている。
たぶん高崎市、中之条町方面になるだろうとも思う。

と、ひととおり回顧したうえで、こうした自己の状況をメモしておかないとコロッと忘れてしまう。
どうも、そういう年代に差し掛かってきた、そんな気がする。

拍手[3回]

今回は意を決して、午前3時前起床。
出かける準備は前日までに完了していたので、速やかに身支度を整えカレーパン1個の朝食代わりを以て午前4時自宅を出発した。

目的地は以前から関係資料だけは用意済みの群馬県高崎市内である。
片道の所要時間は休憩含みで3時間前後と推定した。
しかし、月末であるためか夜明け前であるにもかかわらず一般道の通行量は多い。
とくに17号バイパスはとても午前5時過ぎとは思えない混雑状況であった。
それでも、上武道路を分岐すると車の通行量は3割程度までに減少して、深谷バイパスでは大きく混雑が緩和した。
やはり大型車の大半は物流路線の幹線でもある上武道路に流れていくらしい。

途中トイレ休憩のため道の駅岡部に立寄る。
群馬県南方面のルートでは道の駅はこの個所だけなので誠に有難い。
しかし下りはバイパス沿いに入口があり至って利用しやすいのだが、上りの場合には手前から迂回することもあり些か入りづらく、然も出にくいように思われるのである。

北新波の砦(群馬県高崎市北新波古城)
午前6時40分から7時55分

史跡公園化された群馬県指定史跡でもあり、復元土塁などが見学できる。
新波氏の居館とも伝わるが詳細は不明であるらしい。
かつては南東に接している満勝寺境内も郭跡であり、2か所の郭が隣接する長野氏関連の城館特有の構造であったともいうが、現在では境内地の方にはその面影は残されてはいない。

西側の公道沿いには専用駐車場があり収容台数も10台位は確保されている。
また、西側には公衆トイレも設置されており、この近辺の平地の城館跡を巡るには恰好の立地条件であった。


 西辺土塁上から南虎口方面

到着が予想よりも早く午前7時前であったことから、未だ日差しも十分とは程遠いことから、デジカメの自動露出補正機能が効き過ぎ粗めの画像となったようだ。
とはいえ、この日は元々ここから時計回りに徒歩で巡るという予定であるので、再度帰りがけに立寄ることも可能であることから周辺部の水路を含む早瀬川、長野小学校、満勝寺境内などを巡り次の目的地へと向かった。


石神の砦(群馬県高崎市楽間町石神)
午前8時10分から8時20分

戦国期におけるこの地域の防御ラインともいわれている早瀬川の南岸沿いの小道に沿って進んでいった。
幅員1mにも満たないような小道であるのだが、通学時間帯でもあるらしく高校生と思われる生徒が自転車で疾走していた。
既に途中の幅員の広い個所でも何台かはすれ違っていたので、前方の物音などに細心の注意を払いつつ前進。

すると川の蛇行に沿った木陰に自転車の影が見え隠れした。
速やかにより安全と思われる退避場所を探し、疾走する自転車を無事にやり過ごした。
元々余り見通しのきかない川沿いの小道ではあったが、時速15Kmほどの自転車と正面衝突は可能な限り避けたい。
当該高校生と思われる男子生徒も、危なかったことを感じていたのか「すみませんでした」とひと言声掛けされた。


 ここはまだ見通し良好だが

今の時代、下手をすれば刑事罰のみならず1億円近い賠償金等の判決もあるので、お互いの不幸を増幅させる虞もあると思われる。
加害者側とならないことは固より、あらためて年配者の側においても細心の注意を払い行動する必要性を感じた次第である。

さて、肝心の城館跡の方といえば、予想通りではあるがだいぷ以前から宅地と耕作地となっていたようでその地表の特徴からは痕跡を辿ることは困難であった。
しいていえば下記の墓地の存在している個所に見られる高さ2mには満たない低い崖線部くらいなのであろうか。
北新波の砦からは徒歩で500m足らずの距離である。


  推定地北部の低崖線部

もっとも、今回はほぼこうした消滅した以降の残滓を確認する事例が殆どであるので、忽ち落胆してしまうということにはならない。
ただし、このあとこのスタイルが延々と続いていくとなると、それはそれなりに辛いものもある。
逆に僅かな城館遺構の残滓に触れ合えるかどうかという不確かさは楽しみでもある。


◎楽間の石造物群(群馬県高崎市楽間町石神)
午前8時25分から8時30分

楽間第一公民館の敷地に文化財説明版を発見。
この地域を認識するためには、こうした近世以降の歴史・文化・民俗などについてもある程度知っておく必要もあり、立ち寄ってみたものである。
近世における民間信仰である「十王信仰石仏群」のほか、庚申塔、五輪塔残欠などが多数纏められて保管されていた。
傍らの「薬師堂」にも家族などの無病息災を祈願し参拝させていただいた。


公民館裏の「十王信仰石仏群」


井野屋敷(群馬県高崎市楽間町石田)
午前8時35分から8時55分

この場所には井野氏の城館跡よりも、井野一族の墓所が存在し高崎市の史跡指定を受けている。
このため部外者であっても、咎められることなく他所様の墓石等を拝見することができる。
あわせて3体の五輪塔が所在しており、その保存状態はきわめて良好であるように感じた。
16世紀半ばの武田氏などの侵攻の際にも、大きく損なわれるようなことを避けられたのであろうか。
肝心の正長、永享などの元号が刻まれていると思われる個所には、燦々とした朝日が当たり始め、影を作り太陽光の加減を試みたものの、五輪塔の地輪部分に刻まれているという15世紀前半の文字は判読できず仕舞いではあった。
城館跡とされている範囲については、概ね北から南にかけて緩い傾斜のかかる地形ではあるが、特に目立つような地形の痕跡は確認できず。
また、かつての城館跡である主郭部分には同氏の後裔の方と思しきお宅が現住されているようであった。


手前から3体までが史跡指定


行力中屋敷(群馬県高崎市行力町中屋敷)
午前9時20分から9時30分

今回の回遊ルートでは井野屋敷が最も西側にあたるので、ここからは東方向に移動した。
そうはいっても目と鼻の先といっても良い距離で、道程に換算したとしても精々800mほどの距離なのであった。
この辺りは高い建物や大きな森林を伴う低丘陵なども存在しないことから、西に浅間山、北に榛名山、東に赤城山がパノラマのように広がる風光明媚な環境であり、吹く風はやや冷たさを感じるものの、あたかも時間がゆったりと経過していくような錯覚に陥っていた。
もっとも、時折、北陸新幹線が高架橋を疾走することもあり、その都度極めて現実的で即物的な世界へと引き戻されていくという奇妙な感覚を味わっていた。

さてこの城館跡も目ぼしい遺構は皆無に近く、僅かに山崎一氏が推定した南側虎口と思われる付近の歪みのある道路形状位のものであった。
無論この地域も北から南に向かい緩い緩斜面が形成されているのだが、元々が榛名山の南東麓の端であるので至極当然なのではあるのだが。

なおこの近辺の集落には管理人と同姓のお宅が多く存在している。
このため或る共同墓地ではそのすべてが同姓であった。
元々群県南部と埼玉県北部に多い姓であるらしい。


  城館跡北西部の道祖神
 
 
行力下屋敷(群馬県高崎市行力町下屋敷)
午前9時35分から9時45分

中屋敷から下屋敷へと移動した。
といっても直ぐ隣の集落であるので、正に目と鼻の先である。
さて、ここでいきなり土塁のようにも見える地形に対面した。
元々は真竹が生育していたようなのだが、近年これを伐採したために、地形が分かり易くなったようだ。
尤も、宅地部分の北西側ということもあるので近世以降の防風林を兼ねた屋敷林であるという可能性は考えられる。
隣接する公道部分の拡張などにより道路沿いの部分はコンクリートに覆われているものの、高さ2m、長さ15mほどの土塁状の地形であった。
下記画像からも分かるように、画像左側には集落内の細い路地となっており、屋敷林としてはその位置に疑問が残るような感じもする。
またこの城館跡自体も、山崎一氏の記した書籍には含まれていない、「マッピングぐんま」には掲載されており、「高崎市史」にもその記載がある。
その後の高崎市教員委員会の調査などにより確認されたもののようである。


 宅地北西側のものを北側から


長町屋敷(群馬県高崎市浜川町長町)
午前9時55分から10時00分

県道28号線東側で群馬バスのバス停「行力入口」の東側にある水田地帯であり、城館跡としての面影は微塵も見ることができない。
山崎一氏の「群馬県古城塁址の研究」などには掲載されているものの、圃場整備事業などにより早い時期にその姿を消した単郭の城館跡とされ、武田氏の侵攻により集落が焼き払われたとの伝承も残るという。


  画像右手の水田付近


矢島の砦(群馬県高崎市浜川町矢島)
午前10時10分から10時25分

圃場整備以前には明確な郭遺構を含む城館跡が存在していたという。
1960年代初めの国土地理院航空写真などからも、その存在が明瞭に確認できる。
しかし、現状は北部が水田として整備され、南部も宅地化されて、その面影はほとんど感じられない。
そのなかで、かつての城域に隣接していた古い共同墓地付近に、水田との比高差を感じる斜面が残されており、かつての景観のほんの一部を髣髴とさせているように思えたのである。


   城跡東側の共同墓地

北爪の砦(群馬県高崎市浜川町北城)
午前10時30分から11時30分

いよいよこの日の最後の目的地である城館である。
すでに30年以上前に刊行されて「群馬県の中世城館跡」においてさえも、「消滅に瀕している」との記載もあり、城域自体が宅地化などにより大きく変貌している。
また、県道28号線が南北方向に縦断し城域は東西に分割されている。

手持ちの事前資料の下調べでは北西方向の虎口付近と、南東方向の虎口付近にほんの僅かな期待感を以って臨んだ。
北西の虎口付近はかつての農道であり、略図などにも記されているとおりの農道が現存しているのだが、かつての虎口を彷彿とさせるような地形の残滓は確認できなかった。
しかし、農道の行止りとなった個所には南北方向に伸びた細長い水田が現存しており、諸関係資料と照らし合わせた限りでは、西側の外堀跡の位置とほぼ一致しているということが分かった。


    推定西側外堀跡

また、南東部の外堀と内堀を繋ぐ堀跡も民家宅地脇に溝状の地形として現存しているということも確認できた。
ただしそれ以外の部分では、東側の外堀跡の名残とも言えなくもない細い水路の存在以外には、これといった地形的な特徴を見出すことは叶わなかった。


この時点で時刻は未だ午前中。
しかし、午前3時起床の影響なのか既に運転を含む行動時間は8時間近くとなり、確実に城館めぐりとしてのモチベーション低下を認識するに至った。
そもそも行先自体が、最初の北新波の砦の復元土塁を除けば、他は水田若しくはこれに囲まれた集落という按配である。
また元来の目的が、城館遺構よりも6か月近くサボっていた「足慣らし」でもあった。
このまま無理をすれば、日没まであと3時間くらいは動けなくはなくはない。
今後のこともあるので、世間の常識に当て嵌めるならばそう無理はできない年代でもある。

加えてこの日も駐車場所の確保に問題がありそうに思われ、敢えて車での移動は避けることとしていた。
徒歩であることから、北新波の砦から時計回りに一筆書きの要領で巡ってみた。

そうすると性格上からは結果的に体を休ませるという流れにはならず、ただひたすらに廻り続けるという行動となった。
こうしてほぼ気力は払底し、2016年、2017年の夏のように、激痛で歩くことができないというほどではないにしても、多少は足の痛みを感じてもいた。
こうしたことから、素直に車に戻り昼食用に遺しておいたパン1個で昼食代わり。
小休止の後、そのまま帰途へとつくことになった。

復路は真昼間であるにも拘らず、渋滞も少なく約3時間(途中でのトイレ休憩等含む)で自宅到着。
道の駅岡部では長野産の林檎と特売の最中を購入した。

本日の走行距離は往復で約190kmと幾分短めではであったこともあり、午後3時過ぎには自宅へと到着した。

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