本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 11
12 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新CM
(07/01)
(11/09)
無題(返信済)
(12/17)
(10/13)
(03/22)
最新記事
最新TB
プロフィール
HN:
武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
性別:
男性
職業:
定年を過ぎました~
趣味:
「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
バーコード
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
アクセス解析
フリーエリア
[39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49]
今回も前橋方面である。
しかも明らかに遺構の少ない地域である。
元々前橋方面は個人的には空白地帯であった。
昨年頃から資料だけは纏めてはいた。
この下調べは嵌りだすと止まらないので要注意でもある。
未訪問の資料件数は概ね1000か所前後はあるものと思われる。
いずれにせよ忘れないうちに出かけておかないとタダの資源ごみと化するのである。


◎女堀(群馬県前橋市)
午前7時20分から8時30分

今年の1月に訪れた平安時代末期とされる女堀遺構の西域を8か所のブロックに分けて踏査してみた。
画像は前橋市二之宮町の女堀沼付近の様子である。


この辺りでは流路掘削の関係上からその堀上土があたかも小山のような景観を呈して東西方向に続いている。


二宮赤城神社(群馬県前橋市二之宮町)
午前8時45分から9時50分

赤城神社の境内に遺されている土塁と堀の遺構であり、無量寿寺、宮下西館と合わせて「二之宮環濠遺構群」ともいわれている。
単に赤城神社ともいわれてはいるが、県内には同名の神社が数多く存在している。
また「にのみや」については「二之宮」(地名、町名)「二宮」(前橋市文化財の呼称)があり、いささか分かりにくいものを感じる。
このため前橋市文化財の呼称等に従うものとした。

なお人為的に堀と土塁に囲繞された一定規模の区画ではあるが、その地域勢力の求心性、防御性などの点でいわゆる城館跡とは異質な部分を感じなくもない。
如何にしてこのような規模の神域を確保し維持できたのか、そうした宗教的、政治的、経済的、軍事的な背景などについて興味は尽きないものがある。
現在の参道の設置されている南側を除き概ね三方に堀と土塁が残り、内郭部も北と西側に確認できる。

   北東角付近の土塁       東方からの遠景

「環濠遺構」には、群馬県内では大田市、伊勢崎市、前橋市、高崎市、玉村町方面などにしばしば散見され、その形態から大別すると概ね「単独の屋敷周りの方形をした水堀」「これらの複数から成る集合体」に分けることができるようにも思われる。
それらの成り立ち、時代背景、地侍層などとの関わりなど、これらの研究には取り敢えず「前橋市史」などに記されたものがあるのでこれを手がかりにもう少し調べてみようと思う。


無量寿寺(群馬県前橋市二之宮町)
午前10時00分から10時25分

赤城神社の東南東約300mほどの地点に所在し、「群馬県の中世城館跡」などによれば、かつては同寺の境内地に方形の環濠跡が遺されていたとされている。

    筑波山古墳

むろん境内地、墓苑の整備、周囲の宅地化などの影響により、その現状からは南東部に所在している筑波山古墳を除き、地表観察からそれらの遺構を確認することはできなかった。


宮下西館(群馬県前橋市二之宮町)
午前10時30分から10時50分

赤城神社から見て南東約200m付近に所在している環濠屋敷跡である。
西側に小流を伴う比高差5メートルに満たない小さな崖地を有する一画であり、現在は3軒ほどの民家と耕作地が所在している。

   西側外郭部附近か

このあと、朝食ぬきであったことから暫時休憩を兼ね、国道50号線沿いの「そば花」にて昼食を摂った。


赤石城(群馬県前橋市飯土井町)
11時50分から12時10分

昼食後そのまま帰宅するというのも如何かと思い、1か所だけ出向いてみた。
赤城山の中腹を水源とした神沢川とその支流に東西を挟まれた細長い丘陵先端部に所在している。
周辺の大室城からは南へ4kmほどの地点でもある。
上武道路が貫通しているこのあたりの地域になると赤城山の南麓とはいうもののその傾斜は益々緩やかなものとなり、現在における周囲の水田面との比高差も目立たないほどに少なくなっている。
戦国期の大永年間頃に赤石左衛門尉が城主であったとされ、のちに伊勢崎へと転じたと伝わるらしいのだがその詳細は不明である。

城跡とされる一帯は工場、店舗、倉庫、住宅などの敷地の用に供されている。
「前橋市史」の記述によれば、その当時は比高差5メートルから7メートルを測ったという旨が記されているが、現在では3メートルから1メートルあるかないかというように削平を受けているようであり、往時の面影は微塵もないように感じた。

 城跡の名残である崖線部

その名称の割に遺構は皆無に近いことは把握していたが、本当に何も見当たらないという形容に相応しいような気がした。
唯一城跡であったことを示すものは、有難いことに「荒砥史談会」の方々が設置された「城跡標柱」のみであった。

     城跡の標柱


かくてこの日は僅かに城館類似遺構1か所と標柱のみが所在する城跡1か所となった。
復路の上武道路は何時もよりいくぶん渋滞気味のようであつた。

このため約2時間半ほどを要して、午後2時半過ぎ頃に自宅へと帰着した。
薬で抑えている花粉症と低気圧接近に伴う頭痛の関係もありこのあたりが限度であるようにも感じていた。
むろん少し頑張ればあと2か所くらいは廻れなくもない。
しかし今回はインターバルが4日間である。
今後のダメージへと繋がらないようにかなり早めに撤収した。

今月はあと1度くらい平地を廻わるか、ほんの少しだけ登ることとするのか暫く考えてみよう。
今年は暖かくなるのが異常に早く、もたもたしているうちに山城の季節が終わってしまいそうな気もする。
当然健康寿命の方も、ピコピコとカラータイマーが作動し始めているように感じる。

拍手[4回]

「ベストセラーは出版じゃないとおもっているんです。ロングセラーこそが本当の出版。」

「東京新聞」2019年3月16日付
「あの人に迫る」(藤原良雄/藤原書店社長)より引用
--------
出版不況といわれ続けて早や10年以上が過ぎている。
自分自身も1990年代の出版ブームを仕事を介して体験している。
旧知の大阪屋、大洋社、栗田書店、鈴木書店、大手、中小の取次店が次々と倒産などにより消えていった。
町の本屋も最盛期の3割くらいまでに減少した。
近年は大手の書店であった芳林堂も消滅した。
仕事上の取引のあった地元の書店もここ10年ほどの間に3軒ほど閉店した。
出版と流通をめぐる複雑な問題があることは事実である。
今や大手出版社は「アマゾン」の動向に気を遣わずにはその経営が成り立たないようである。

「売れる本より読みたくなる本を。
一時のブームに左右されない長く読み継がれる本を大事にしたい。」
まさに至言である。

尤もこの出版社とは仕事絡みで少しだけ因縁があったのだが、それももう30年以上も前の話である。

拍手[1回]

今回の城跡めぐりも前橋市内となった。
今年の1月初めに前橋市内を訪れて以来である。
思えばこの間は延べにして20日間以上の孫の子守りや自分の花粉症、低気圧接近に伴う頭痛、股関節を中心とした足回りの劣化などの諸要素が重なり合い、2か月以上も城跡めぐりから遠ざかっていた。

それでもようやくそうした事情が落ち着きを見せ始めている。
この機を逃せば気力・体力の低下は落ちる一方なのであることは実感している。
とはいうもののいきなり山城方面というのはリスクがあることから、先ずは花粉症と足回りの様子を探るべく平地に所在する城館跡を目指すこととした。

午前5時に自宅を出たのだが、本来は1度のトイレ休憩を含めて午前7時過ぎには到着するはずのところ、途中で上武亀泉交差点で左折すべきところをうつかり曲がり損ねた。
このためその先の上毛電鉄の陸橋を超えた先のジャンクションから大きくぐるっと迂回することとなり現地到着は午前7時15分過ぎとなってしまった。



亀泉城(かめいずみじょう、群馬県前橋市亀泉町本郷)
午前7時20分から8時40分

上記の事情があったことから現在位置と方位の確認などに少々手間取りさらに5分ほどを要した。
本来は東側からアプローチするところを反対方向の西側からアプローチすることとなり、全く前日のイメージトレーニングが生かされていないようで、即座には体と脳が正常に動作しない。
やはり2か月以上のブランクというのは、加齢という問題も加わりいろいろな感覚も鈍化してくるようだ。

天台宗如意寺の駐車場をお借りしてどうにか現在地と方角の把握に努めていると、ようやく亀泉公民館付近が主郭跡であるらしいことに気がついた。
赤城山麓の丘陵地帯に所在する城館跡であり、東西には天然の濠となる小流が存在し北から南へと流れ下っている。
東側の河川は寺沢川で、その上流域には荻窪城、横沢城などの大胡氏に関係すると思われる中世城館群なども多く存在している。

城跡東の寺沢川(右上は赤城山)

むろん明確な遺構は乏しいのだが、それでも城跡の所在する台地の南東方向に比高差5メートルから8メートルほどを測る崖線部が遺されていることからも、確かに城館跡の存在感が漂っているようにも感じる。
1970年代前半頃までには、この小丘陵上にある程度の遺構も散在していたらしいのだが、その後は次第に宅地化と耕作地化が進行してほぼ消滅したらしい。
現在ではかつての城跡としての名残はこの崖線部の地形のみといっても良いように感じた。

  亀泉城の南東崖線部

なお「亀泉」の地名はあくまでも明治初期に「勢多郡の小泉村と中亀村」が合併したことによるものであり、この城館跡は本来は「旧小泉村」に属しているということになる。
「角川日本地名大辞典」によれば、永正元年(1504)と推定されている「穴沢次郎右衛門宛上杉顕定感状」に「上州大胡・小泉要害相攻之時」(歴代古案)と記されており、この亀泉城が「小泉要害」であった旨を記し、大胡城と並ぶ要害の地であったとも述べている。
従って関東管領上杉顕定の上野領内における平定活動等の一環というようにも思えなくもないのだが、現在のところでは山内・扇谷上杉氏の内訌である長享の乱終了直後のこの時期における上野国内における政治情勢と顕定自身の具体的な動向を把握しきれていないので何とも言えない。
またこれに加えて「小泉」の地名は「小泉城」の所在する大泉町のほか伊勢崎市、佐波郡旧東村など、少なくとも上野国内に合わせて4か所は存在してることから、上記の記述をそのまま鵜呑みにするのは些か性急であるようにも思われるのである。

城跡の所在していた周辺の地形全体を確認すべく、城跡北西の前橋市指定重要文化財で南北朝期の作と推定されている「石造薬師三尊像」を参拝した。
次に北東の赤城神社を参拝し、城跡の一部に含まれると思われる南西の如意寺を参拝した。
それからさらに城跡の最南端と思われる丘陵先端部の地形などを確認し終了した。

なおその歴史的背景については「日本城郭大系」によると柳沢氏の居城と記されているが、残念ながら今のところその詳細は把握できてはいない。

   石造薬師三尊の堂宇


    石造薬師三尊像


  城跡北東方向の赤城神社


天台宗如意寺が所在する丘陵


    丘陵最南端部


滋野屋敷(しげのやしき、群馬県前橋市端気町)
午前9時30分から10時00分

駐車可能なスペースが見当たらないことが予想されたので、県道76号線の上泉城近くのコンビニで買い物して、そこから約800mほど歩いて向かうこととした。
こうして実際に歩いてみると地形の繋がりが理解しやすく、上泉城が所在する台地とは浅い谷筋を挟んだ西隣の台地であったということが判明した。
上泉城もその南側は旧利根川の流路でもあった桃ノ木川により防御されているが、この16世紀頃とされている滋野屋敷においても桃ノ木川と合わせてその支流である時沢とも呼ばれている西側の小流を含め隔絶される地形なのであった。

  屋敷東側の無名の谷筋

「日本城郭大系」と「前橋市史」には掲載が無く、城館関係の基礎資料は「マッピングぐんま」と「群馬県の中世城館跡」のみである。
東西約200m、南北約120mから150mの範囲の丘陵地帯に納まる方100m四方の規模を有すると考えられている城館跡である。

なお「群馬県の中世城館跡」によれば、滋野氏の屋敷である旨が記載され土塁と堀が残存していることが記されている。
現状では城館跡の北東部付近に一部土塁と堀跡のような形跡が存在しているようにも思われるのだが、周囲を崖と耕作地に囲まれた民家の敷地内であることから詳しくは確認することができなかった。

なお、所在地である端気(ハケ)町の地名は「崖」(ガケ)から転じたもので、経験上からは地形上の要害性を有した中世城館跡に関連している場合も少なくない。
この場合も赤城山南麓に所在する低丘陵の南端部に位置しており、その水田からの比高差は最大で10mほどを測る。


北東角付近の様子を西側から撮影

なおこの時点では、北寄りの冷風がその強さを増し吹き抜け始めて、持参している関連資料のページをめくることさえ困難となってきていた。
このため、ついうっかりして善勝寺、下曲輪地域等の中世の板碑及び前方後円墳である大塚の確認作業等を失念してしまった。
明らかな手抜かりでもあり、本来は再訪し確認をすべき事案であるのかも知れないが、己の年齢などを考慮するとおそらくはその機会はほぼ訪れることのないように思えるのであった。

帰りがけに物凄く人懐こい日向ぼっこの最中のネコさんに遭遇してしまった。
ものは試しと「おいでおいで」の合図をしてみたところ、「ニャオ~」と鳴いて向うから近寄り足元にまつわりつき口元を近づけてマーキングを始めた。
折角なので喉の辺りをそっとなでると、予想通り下記の画像のように狂喜乱舞することとなったのである。
城跡でネコさんに出会うことは珍しくないのだが、これほど歓待されたのは10年ぶりのような気もした。

そうはいってもこのあとの予定もあることから、何時までも遊んでもらうわけにもかず、ほど良いところを見計らいサヨナラをしてきたのだが、50メートル以上離れても律儀にずっとこちらを眺め続けていてくれた。楽しげな名残惜しいひと時なのであった。
なお辺縁部を反時計回りで回遊中、城館跡の西側崖線下道路沿いに若干の駐車スペースが存在していることが帰りがけに判明した。


小神明の寄居(こじんめいのよりい、群馬県前橋市小神明字寄居)
午前10時30分から11時00分

上沖町の旧村社である神明宮乃至大国主神社を参拝し、境内北側の出入り口を経由して徒歩にて北西約100mに位置する小神明の寄居へと向かった。
この神社境内は比高差は数メートルに過ぎないのだが、極めて南方の眺望に優れていることが分かった。この寄居は同神社境内と市道を挟み隣接しており、何らかの関わりがあることが考えられるのかも知れない。

旧村社神明社が所在する丘陵先端

「城郭大系」によれば、「附近地侍の寄居であり、小神明遠堀より前の時期に築かれた塁」としているが、今のところそれらについての詳細については把握できてはいない。
同地には南西部には上之山霊安堂を含む霊園が所在し、近年では「ぽっくり地蔵尊」という石仏の小堂宇も所在しており、他に北西と北東部に1軒ずつ民家が所在している以外は畑地の耕作地として利用されている。
電子国土に記されている等高線や「群馬県の中世城館跡」の略測図などを勘案する限りでは、本来は花期の画像の南東に当たる手前部分がもう少し低地を形成していたもののように読み取れた。
恐らくは、耕作地としてある程度の盛り土が行われ、市道の坂道の傾斜を緩やかにするような地形の変更が行われているようにも思われたのである。

  南東角付近からの全景

明確な遺構はすでに消滅して久しいが、「群馬県の中世城館跡」などによると、この一帯には寄居の地名が伝わると共に1980年頃までは土塁と堀が一部存在していたことが推察される。
また寄居跡とされている西側の隣接地に些か悩ましい地形が遺されているのだがその詳細は不明である。


  怪しくも悩ましげな地形

ここまでは思いのほか足回りはどうにか持ちこたえているが、このあとは果たして何か所廻れるのかという疑問に加え、「遠堀」に関しては駐車スペースの確保は集落内のためまず難しいように感じ始めていた。
このためにこのあとは一度上記の神社まで戻り、急激な気温の上昇などの天候の変化もあり脱水症防止のため水分補給を行い、あらためてその後の作戦を立てなおすこととした。


小神明遠堀(こじんめいとおぼり、群馬県前橋市小神明町、勝沢町)
午前11時10分から12時15分(ただし途中で東側の小神明の砦へと立ち寄った)

当該所在地について「マッピングぐんま」では「小坂子町、こさかしまち」と記しているのだが、各種地図情報などから確認した限りではあくまでも上記の表記が正しいものと考えられる。
かつては赤城山の中腹に水源を擁した小河川であり、「マッピングぐんま」によればその別名を「時沢遠堀」とも。また「角川地名大辞典」によれば西堰川とも呼ばれているらしい。

   流路を辿る途中にて

「日本城郭大系」「前橋市史」などの記述によると、総延長は約1.5kmほどを有する天然の小河川に人工的な加工を施した遠堀であり、大胡城西方に所在している勝沢城、嶺城防御ラインであろうと推定しているのであるが、築造年代自体も明確ではないらしくあくまでも推測の域を出るものではなさそうにも思える。

   上沖町交差点付近

現在はコンクリート製の護岸工事が各所に施され、特に上流域では大型のU字溝が敷設されており、過去におけるそうした形跡を辿ることは困難となっていた。
なお今回については主に南側の「上沖町交差点付近」から「小神明霊園」付近までの延長約1kmほどを辿ってみたに過ぎないものであり、上武道路北側を含む個所については目視してはいないので、嶺城方面へと足を延ばした際にあらためて踏査してみようと思う。

   小神明霊園付近


小神明の砦(こじんめいのとりで、群馬県前橋市小神明町)
午前11時45分から12時05分

「小神明遠堀」の東方約200mの地点に所在していおり、「前橋市史」などによれば、方100mの単郭の砦とし、「城郭大系」では嶺城の支砦としている。また「群馬県の中世城館跡」によれば、関連する人物として関口政次の名を挙げている。

 西曲輪附近、秋葉山の石碑

かつては南面の堀跡と東側の大手虎口等が認められたとも記されているが、現在では東西の南北方向の二筋の小流を除いて往時を偲ばせる形跡は殆ど確認することができない。
また同地には「四ツ門」あるいは「中」などの古地名が残りかつての屋敷ないし館の存在を窺える。なお「前橋市史」では「四ツ門」の地名から四方に虎口が開かれた構造を想像するとの記述があるが、これについては「四脚門」を意味する可能性も想定されるので何とも言えないように思える。

    西側の堀跡付近


    東側の堀跡付近

なお「小神明」の地名については、「芳賀村誌」によると、かつて当地が細井御厨に含まれる領地であり、「古神明」といわれて、のちに「小神明」に表記が変わったという。
さらに「角川地名大辞典」によれば、天正20年(1592)2月27日の平岩親吉知行書立(甲府市金桜神社文書)には「一 63俵1斗4升 小神明之内」と記されており、当地との関連が窺える。

   赤城山方面の眺望


鳥取城(とっとりじょう、群馬県前橋市鳥取町)

 あくまでもかの有名な鳥取県に所在する鳥取城とは無関係の城館跡であるが、鳥取の地名が冠されたのは15世紀末頃に既に「鳥取」という地名が既に存在していたことによるものらしい。また「鳥取」の地名自体については「芳賀村誌」によると鳥取大明神(おそらく現在の大鳥神社か)

  藤沢川堰堤からの赤城山

城館跡の西側には藤沢川が流れており、その堰堤上を北に向って歩いていると右手(東側)の民家裏に人工的な地面の高まりが目に入った。
現在の堰堤が整備される以前の古い堤防か、民家の屋敷神などを祀るための築山か、あるいは城館跡の残滓であるのかについては不明である。

  人工的な地面の高まり

さらに北へと歩みを進めていくと右手方向に折れてゆく小道があった。どうやらこの小道が城館跡の北限に相当するものと思われたことから、そのまま上武鳥取へと向かう公道を横断して、城館跡の東側へと向かうこととした。
なお、下記画像の右手付近の民家宅地境には、ほんの僅かではあるが土塁と堀跡のように見えなくもない地形が残存していが、むろん後世における屋敷の風除けのための土塁である可能性も考えられる。

   城館跡北限の小道

当城跡の中心部付近には大鳥神社が所在し、神社の解説板に僅かにこの城館跡に関する記述を見ることができる。なお現在では当該砦跡の中心部には金型製造の工場が所在している。
  
    大鳥神社社殿           解説板

さて、この時点で時刻は未だ午後1時半過ぎであった。
午前中は吹きまくっていた北寄りの風も弱まり、少し暑いくらいの春先の陽気となっていた。
しかし今回は冒頭に記したように2か月以上のブランクが存在している。
一向に改善されてはいないと感じる変形性股関症の可能性などの問題もあることも事実である。
今回は殆ど遺構が現存していない文字通りの城館跡ではあるが、すでに当初の目標であった以上の6個所を廻り終えていたこともあり、別途内反小指の痛みを感じ始めたところで撤収を即断した。
なお今回の探訪先はほぼその全てが赤城山の南麓に位置する城館跡であり、赤城山の中腹辺りに水源を有する小河川による浸食谷によりその東西方向が防御されることとなるという共通性を有していた。


今回は全て車で近くまでアプローチして最短距離を歩くことも考えたのだが、自体に足の動きも軽くなってきたこともあり、足の感触を確認すべく結局約2万歩ほどの行程となった。
その結果、平地であるとはいうものの当初の懸念とは裏腹に、歩幅とスピードについては問題があるもののどうにか歩行できることだけは確認された。

尤もそのことが比高差を有する山城方面への適応力となるのかどうかについては、自分の体ではあるが今のところは何とも分からないというのが現状である。
今後に再び山城方面へ向かうとしても、あと少なくとも2度くらいは平地を歩き足回りの引き続きその様子を観察しておくべきであろうと感じた。

帰路は上武鳥取町の交差点から再び上武道路を経由したが、花粉症の症状は継続する明確な目のかゆみとして現れていた。
また帰宅後に鼻腔の周りを検証してみると明らかに花粉の塊と思われる物質が付着していたので洗面所にてきれいさっぱりと洗い落とした。
たぶん少なくともこうした症状はあと1か月くらいは続く感じがするが、今年の花粉症の症状はとりわけ目に来るという傾向があるらしい。

拍手[1回]

今日は結婚40年であった。
3月でもあり当日はかなり風の強い日で、やたらに砂埃が舞い上がっていたという記憶がある。

始めの頃は別として、子どもが生まれてからはその子育てが生活の中心となり年々この日は忘れがちとなっていったらしい。
その後子どもたちが成人しても、子育て疲れかどうかは分からないのだが、毎年いつの間にか過ぎ去り、どうやら夫婦ともに余り意識してはいなかったように思える。

そして8年前の東日本震災。
ようやく近年になり、家庭的な慶事と社会的な慰霊の日が重なっており、結婚記念日と震災の日が同じであったことにあらためて気がつくような始末なのであった。

還暦時頃はともかく、とうとう古希近い年齢となり記憶力の減退とともに足腰の老化等が進行してきたようだ。
ますます先行きは不透明であり、50周年を迎えるかどうかは全く分からない。
当面は初孫のランドセル姿を見ることが目標のようだ。


拍手[1回]

先月26日から28日まで芽依ちゃんのお守となった。
かくして2月は延べにして12日間のお守であった。

最近は「子どもの歌」の動画がお気に入りのようである。
「線路は続くよどこまでも」もお気に入りの一曲らしい。

今日からは保育園の登園復活予定・・・のはずであるのだが、幼児でもあるので先のことは分からない。

拍手[1回]