さてこの日は2019年の春先に続くのですが、そうはいっても1年半ぶりとなる群馬県の上武道路沿線地域の中世城館跡を巡ってみることとしました。
いつも通り国道254号線から熊谷市を経由して国道17号線へ入り上武道路を西北へ。
ここで相変わらずながら利根川の手前辺りで朝方の交通渋滞に遭遇。
暫くこのルートについては間が空いておりましたので、漸くこの時点になってから深谷バイパス、世良田、旧境町経由という渋滞回避ルートがあったことを思い出すという始末でありました。
そんなこんなで現地到着は午前7時15分頃となりましたが、片道の所要時間は概ねこんなところである様にも思われました。
■今井神社古墳/群馬県前橋市今井町
午前7時15分から7時50分
本来は目的地近くのコンビニに車を止めてコンビニおにぎりで朝食という予定なのでしたが、近づくにつれてどうも何か風景が違うような気がしました。
なんとその国道50号全沿いのコンビニそのものが廃業しており・・・
つまり車を止める場所もなければ、朝飯抜きという事態に・・・
前方後円墳で画像の奥が今井神社の社殿が所在している後円部で、画像手前側が前方部となっています。
後円部北側の神社石段前に設置されている概要を記した説明版
尤も駐車場所だけは事前にいくつかの候補を絞り込んでいたので、速やかに巡回の順序を変更して今井神社古墳の方から廻ることとしました。
駐車場所は神社参道前の路駐も暫時ならば可能ですが、境内の西側から車でも入ることのできる入口がありましたのでこちらを利用させていただきました。
なお、次に回る予定の2か所については住宅地や集落内であるという事情を考慮して、こちらの場所を起点にさせていただき徒歩での移動をすることといたしました。
凸今井道上遺跡/群馬県前橋市今井町
午前7時50分から8時30分
「マッピングぐんま」の文化財所在情報によりますと、国道50号線と上武道路(国道17号バイパス)とが立体交差している今井町交差点の南西側になります。
発掘調査自体も上武道路建設時などに実施され、その際に中世城館跡の存在が確認された模様です。
この詳細については、「今井道上遺跡」「前橋遺跡地図」など関係する発掘調査報告書等を調べる必要があるのですが、現時点では当該報告書を目にしてはおりません。
従いまして今回のほかの遺跡につきましても、後日機会があれば前橋市立図書館などにおいて閲覧を行う積もりでおります。
さてその現況といえば、ほぼ宅地化された住宅地内であることから、全くといってよいほど城館跡としての形跡を見出すことはできませんでした。
それでも住宅の一画に「東街道」と記された荒砥史談会などの皆様が設置された史跡標柱が所在しておりました。
あくまでも近世以降の「街道」であるのかも知れませんが、何かしらの歴史的経緯の存在を示す掲示物が設置され明示されているというのは実にありがたいことであると感じ入るのでありました。
菊の花に鎮座する昆虫
ツユムシにも似ているのですが、やや触角が短いように思われました。
凸今井城/群馬県前橋市今井町
午前8時55分から9時30分
前項の個所から徒歩で西へと進み国道50号線を横断して北上すること約20分ほど、道程にして約1キロメートルを移動。
これが10年くらい前であるならば早歩きで10分ほどで到着していたのですが、歩幅も狭くなり今や高齢者の朝の散歩に近いような歩行速度と相成りました。
城館跡は遊具の置かれた小公園のような個所がその南端部に相当し、その一角には有難いことに地元郷土史会の方々の設置された城跡の存在を示す標柱が設置されておりました。
なお城域の一帯には民家が散在していることからデジカメの撮影も、より強くプライバシーの尊重に心掛ける必要性を感じ取りました。
有難い小公園の城跡標柱、背景の山並みは赤城山方面です
城跡東を赤城山方面から南流する荒砥川/城跡の南東角付近からの眺め
なおかつては寄居山と呼称されていた土塁の痕跡は消失しております。
いちおう城館跡と推定されている荒砥川の西岸を北上し、北端部となる辺りで反時計回りに城域部分をぐるっと一周。
すると主郭跡と思える北西部に弧状にカーブする深さ約1メートル強、幅数メートルほどを測る堀跡が現存していることを確認。
主郭部西側の堀跡と推定されている辺り
尤もその郭内部分は現在もさらに宅地化が進行中であるようですので、果たして将来的にいつ頃までこうした景観が維持されているのかどうかについては微妙な状況であるようにも思われました。
なお今井神社への帰途においては、往路とは異なり荒砥川東岸の地下道を経由した方が安全でより近道であるというとが判明しました。
凸下長磯城/群馬県前橋市下長磯町
午前10時5分から11時10分
集落内に所在する城館跡を訪れる際には車の駐車場所が問題となります。
近くにコンビニなどがあれば買い物をして暫し駐車場をお借りするということも考えられるのですが、こちらの場合には特にそうした施設も無さそうなことから、地元神社や集会所に付随した場所をお借りすることも屡々です。
ということで、こちらについても女屋町に所在する桃川神社の境内/女屋公民館駐車場を暫時お借りがてら謹んで参詣。
そこから徒歩で南に所在する城館跡までは約300メートルほどなので、自分のような年寄りの足でも5分少々かと思われます。
「古的場」という古地名が残されているとされる辺りですが、現状は一面の耕作地である模様でした。
こちらも近年の耕地整理などにより、かつての景観は大きく変貌しているように思われましたので、僅かに古地名として残る「古的場」「宿要害」の辺りを中心に散策させていただき、序に近くの下磯長神社を参拝して探訪終了。
その帰途に桃ノ木川から眺めた榛名山、武尊山方面の景観を観望しました。
桃ノ木川の堤防上から眺めた榛名山方面の山並みです
こちらはさらに遠方でより標高の高い武尊山、仙ノ倉方面の山並みで既に冠雪している様子が窺えました。
凸笂井八日市遺跡/群馬県前橋市笂井町
11時30分から12時00分
「うつぼようかいち/いせき」と読むようです。
「マッピングぐんま」の文化財包蔵地情報に基づき訪れてみました。
こちらはほぼ完全に住宅地化が進行し、なお且つ国道50号線により南北に分断されているという環境なのでありました。
このためどの部分について撮影すべきかについて大いに悩み続けるのでありました。
困ったときの赤城山撮影のひとコマなのであります。
耕地整備などの関係で水路の流れはある程度変更されている可能性も想定されますが、いちおうこの水路のカーブしている辺りが城館跡の東角部分に相当しているものと思われました。
このあとは近年新しくオープンしたベイシアにてトイレを拝借し買い物がてら少々休憩を。
凸茂木山ノ前遺跡/群馬県前橋市茂木町
12時40分から13時10分
「もとぎやまのまえ/いせき」と読むようです。
以上5か所の赤城山麓方面の探訪から、途中上武道路の下を潜って約4キロメートルほど北へと移動しました。
当然のことながらこの辺りまで移動してくると次第に赤城山の山容が目に見えて迫ってくるという印象があります。
とはいえ現地はというと概ね耕地整理された地域で、城館跡として推定されている包蔵地の大半は公園で、ほかに民家が数件ほど散在しているという状況でした。
また、当地は一応はこの地域に多い赤城山方面から流れ下る利根川支流の河川に挟まれた環境ではあるものの、ほかの事例のようないわゆる丘陵地形ではありません。
無論ある程度の標高を有してはいますが、寧ろ東西の丘陵地形に挟まれているような印象がありました。
遺跡包蔵地内に生育しているカラスウリの実
このような現況ですので、事前の想定通り当然地表に現れた城館遺構は皆無となっておりました。
なお、うしたなかで南東角に所在する墓地内には最近の墓石とは別に、多くの移設された墓石が所在しておりました。
それほど古いものではありませんが、よくよく拝見しますと明和年間など近世を中心としたものが多いように見受けられました。
近年の耕地整理時に合わせて移設されまとめられたものではないかと思われます。
共同墓地の一画に祀られている双体道祖神と推定される石造物と庚申塔
この後当初はそのまま今城、勝山城方面へと移動していくという予定でありましたが、総じて残存遺構が少ないという状態については重々承知していたものの、現下に於ける気力と体力の減衰状況と、復路に於ける交通渋滞などの要素を勘案して早々に撤退を決断いたしました。
この点については、早朝ののコンビニ閉店という思いがけない事態があったことと合わせて、これに伴い結果的に朝昼食抜きという状況に陥ったことが少なからず影響しているものと自己分析しております。
今回も徒歩での移動には視界に入る山並みを手当たり次第に撮影していることが多く、赤城山を始めに榛名山方面、浅間山、武尊山、荒船山などを片っ端からカメラに収めておりました。
というのも明らかに観光地ではない住宅街や集落内を通行するという関係上もあり、またミニズームとはいえ18-300mmの大型のデジイチを携行するという異形であることも考慮し、悪戯に不審者と誤認されないように、時折視界の開けたポイントに遭遇すると徐にその風景を撮影するように心掛けているのであります。
今回は自宅から片道2時間少々、移動距離にして片道約80キロメートルと少し。
帰宅した時刻は午後3時20分でした。
これくらいの距離ですと、やはり多少は疲労感も少ないようです。
この日はたぶん珍しく体調が良かったのだろうか、めっきりと衰えた気力を振り絞り午前3時過ぎに自宅を出立。
今回は片道5000円近いことから、やはり高速代30%深夜早朝割引といのは大変大きいものを感じる。
とはいうものの、当初は自分の歳を考えて午前5時頃発を予定していた。
しかし午前2時半に目覚めたということもあり、そのままの勢いで動くこととなったのである。
前日からの睡眠時間も6時間前後を確保していたこともあるのか、懸念された「自分の運転による車酔い」といった症状は余り感じられなかった。
さてこの日の天候は早朝から日没まで降水確率ゼロ%の快晴予報であった。
ところが日が昇り始める時刻となっても、一向に明るくなるという気配が感じられない。
おまけに群馬県から長野県へと山越えした佐久辺りからは次第に濃霧が発生。
さらに更埴JCを過ぎ姨捨SAの辺りに近づくと、とうとうフォグランプが必要なほどの濃霧となってしまったのである。
このため沿道の速度制限も50キロメートルを示していたが、多くの車はなりふりかまわず高速で疾走していたが、当方は時速70キロメートルほどで控えめに安全走行に協力。
早朝の時間帯ということもあり習熟した運転者が多いのかはなどについては不明だが、アップダウンとカーブの多い長野地方自動車道を時速100キロメートル以上で走行するドライバーが目立っていたように思うのではあるが・・・
凸高山城/長野県塩尻市
午前8時10分から8時40分
到着予定時刻そのものについては当初の目論見通りの結果となりました。
しかしこの後は移動時間も含めて次第に押し気味のタイムスケジュールとなっていきました。
というのも、現地到着は午前7時30分前なのでしたが、場所が塩尻インターの近くであり且つ国道20号線の交差点にも近いことから、地元の方々通勤ルートのマイカー通勤ラッシュの渦中に遭遇してしまうことになりました。
このためウロウロと車を止める場所を探しているというような交通事情ではなく、まず道程にして500メートルほど離れた車の走行に支障の無さそうなポイントを探し当てるまでにすでに20分ほどの時間を要することになりました。
加えて当初に想定していた徒歩でのアプローチ計画が、崖地地形とネットフェンスに遮られて事実上の行止まりとなり近道が不可能となっておりました。
このようにして現地に徒歩で到着するまでに何と30分以上を要することとなってしまったのであります。
国道20号線陸橋付近から穂高岳方面を望む
同じく塩尻インター付近からの展望
電波塔が視界を妨げていますが、たぶん白馬岳方面かと思われます
ここは「アルプス展望しののめの道/広域農道」とも呼ばれている北アルプスを展望するには絶好の立地でありました。
このためそうした光景の撮影に占める割合が増大して、本来の城跡巡りに要する時間が削減されるという逆転現象が発生しております。
さて肝心の城跡の様子ですが、この地域の中世城館に造詣の深い宮坂武男、三島正之氏の両者ともに、当該「発掘調査報告書」の成果を引用する形で、両氏ともに中世城館との関連性についてはかなり慎重な姿勢を示されています。
なお今回は時間などの関係で北西方向の「段曲輪地形」を中心に拝見して参りました。
表面地形の印象としては確かに少なくとも3段ほどからなる腰曲輪状の地形が連続していることが確認できます。
しかしそれが「塩尻市誌」の記述のように「桑畑跡」と判断するべきなのか、城館跡との関連付るのかについては正直なところ判断に迷いました。
アルプス展望しののめの道より高山城全景
主郭とも言えなくもない削平地
主郭から北西方向に向かう段曲輪群
凸小坂田山物見/長野県塩尻市
午前9時5分から10時00分
事前の情報ではかなり公園化されているということから、尾根筋へのルートは盤石であるいう大きな勘違いをしておりました。
宮坂氏によると「物見」と想定されている箇所までは、のんびりと遊歩道に誘われるものとイメージを想定していたのですがさにあらず。
小坂田山の稜線
現実にはその後のマレットゴルフ場への改装なども加わり、時の経過とともにかつての遊歩道自体は一部の丸太の階段の痕跡を残し概ね消失しておりました。
このためマレットゴルフに勤しまれている高齢者の皆様の視線を気にしつつ、尾根筋へのルート探しを行うといったような羽目に陥ったのでありました。
斜面地形を生かした見事なまでのマレットゴルフ場
見ようによっては新造の帯曲輪地形にも見えなくもありませんが(笑)
そもそもこの場所については所要時間は概ね30分前後ほどを見込んでおりましたが、往復にして約400メートルほどの腰高ほどのクマザサの藪漕ぎを余儀なくされてしまい、結果的に1時間近くの時間を消費することとなってしまいました~
画像中ほどの奥へと続く幾分クマザサが凹んでいる部分がかつての展望台方面へと向かう遊歩道であったものと推測されます。
一部に丸太製の階段が遺存しておりますが、これがクマザサに遮られるとほとんど足元が見えません。
まだ上り坂の場合はあまり問題がないのですが、下り坂になると些か滑りやすく転びやすいという羽目に陥るのであります。
肝心の遺構については自然地形の緩やかな小ピークが確認できるだけで、かつては展望台として整備されたと思われる個所も木々の叢生により視界が遮られて森林浴の小一時間を過ごすといった塩梅になりました。
凸首塚・胴塚ほか/長野県塩尻市
10時20分から11時00分
「塩尻峠の合戦」により亡くなったとされる人びとを慰霊した塚で、首塚などの石碑が建立されています。
耕作地の一角に所在しておりますので、農地には入り込まないよう見学にはくれぐれも失礼のないように心掛けたいものです。
同時代の信頼できる史料には見当たらないとされていることもあり、どちらかといえば伝承性の強い性格のものという印象もありますが、兎にも角にも地元の方々に大切にされている歴史的遺産であることが覗えました。
首塚の石碑等
天分年間に起きた「塩尻峠合戦」の場所については、現在の塩尻峠のほかに勝弦峠周辺という説があるようですが、合戦の規模やその経過などについては支配者としての武田氏側からのものが多く、同時代の史料に乏しく不明な部分が多いとされているようです。
首塚の所在地は丘陵緩斜面の耕作地なので、この辺りからも西方の穂高岳などの北アルプスの山並みが映えます。
今回も時間と体力・気力があれば、塩尻峠付近の実地踏査を視野に入れてウロウロと歩き回ろうとも考えておりましたが、今月初めの「クマの出没多数」という事態も加わり、こういったことも20年前ならばいざ知らずこの年代となっては断念せざるを得ませんでした。
近くの八幡神社の独立丘陵地形が気にかかり参拝してまいりました。
むろん城館跡などの伝承は無さそうですが、布陣に際して地形上の有利性を感じさせるものがありました。
八幡神社境内の切岸上地形ですが、具体的な時代背景や経緯は分かりません(;^ω^)
暫時車を止めさせていただいた公民館近くの農道沿いに成っていた柿の実。
折しも秋の日差しにキラキラと照り輝いておりました。
凸桟敷城/長野県塩尻市
11時20分から11時50分
首塚方面から車で移動いたしますと、公道とはいえ集落内の狭隘な道路幅員のため幾度となく迂回することとなりました。
それでもナビに表示されている現在位置と桟敷公民館という目標物を頼りにして些か迷いつつも
現地到着しました。
こちらでも桟敷公民館の駐車場を暫時お借り致しました。
「塩尻市誌」の記述によりますと、その歴史的背景については不明としているものの田川地域を支配地とする在地勢力の城館跡という誠に無難な表現となっておりました。
付近の土塁状の地形なのですが、「塩尻市誌」などによりますと城域外となるようなのでありますが、余りに見事な土塁上地形を呈しているので想定される城域を拡大したいという妄想に捉われました (笑)
桟敷城の所在を示す案内板で、この辺りが城域の南限と推定され堀跡の名残と推定されている窪地地形が残存しておりました。
「塩尻市誌」などの記述によりますと、画像右側の比高差2メートルほどの微高地地形が城跡の名残を示していると考えられている模様です。
この辺りは標高が700メートルとやや高いことも影響し、朝晩の冷え込みが厳しいことから路傍のコスモスもそろそろ盛りを過ぎ始めておりました。
凸南熊井城/長野県塩尻市
12時05分から13時25分
こちらは今月9日の再訪でもあることから遺構の特徴や規模などについては学習済みです。
またこの日の天候は降水確率ゼロ%の快晴で、しかも全3日間の降水もほぼゼロであり足元の地面には何の問題もありませんでした。
前回は見学の終盤頃から次第に雨模様に変わり、降雨に弱いデジイチ保護という面からも南西部の遺構の様子を拝見するには至りませんでした。
尤も未だ10月下旬とはいうものの、やはり秋の日差しは短くなりデジカメ撮影に相応しい光線の加減は残り3時間ばかりとなってしまいました。
とはいえ往復約500キロメートルの道程ということもあり、今後において再々訪という可能性が皆無に近いことからできるだけ念入りに拝見をさせていただくことといたしました。
西麓の松林寺側から眺めた城跡の丘陵地帯
城跡北東角付近からの様子で、この辺りから眺めると遺構の状態が最も良さそうに見えてしまうアングルです。
しかし肝心の主郭部については概ね耕作地化されております。
再訪ということもあり、主郭北側の横堀地形で現存する城跡遺構の特徴を把握しやすいアングルでの撮影を心掛けてみました。
主郭南側の空堀部分です。
堀幅は上面で約8メートル弱、切岸ともなる主郭側の深さは約2.5メートルから3メートルほどを測りますが、往時にはたぶんその倍ほどの深さを有していたのではないかと想定されます。
薬師堂の裏側の様子です。
現状の遺構の配置やその状況からは、寧ろこの辺りにこの堀底道経由の虎口ルートが存在していたようにも感じましたが果たしてどうなのでありましょうか。
前回の時にはこの辺りから雨が次第に降り始め、自分の現下の足回りでは転倒の可能性も案じられたことから、この付近の探索を行うことができませんでした。
今回は天候も申し分なく、足元の方も多少は復活傾向にあったことから、法面保護に留意しつつも、空堀は堀底まで下り、土塁は必ず登ってみるという以前の姿勢に立ち戻ることができました。
凸北熊井城/長野県塩尻市
13時45分から15時20分
この日のメインの城跡です。
前回はこの辺りから次第に本降りの降雨に変わっていったこともあり、主郭部を反時計回りにぐるっと一周したのみに止まりました。
このため今回はできるだけ念入りに踏査してみることを心掛けました。
しかし次第に時間が経過するに従い往路の運転と午前中の踏査による疲労感などが蔓延し始め、改めて「加齢」という現実を実感するに至りました。
城跡が所在する丘陵
高ボッチ高原から西方へと連なる丘陵を生かした縄張りで、各郭群は南北方向に刻まれた空堀(堀切とも)により区画されています。
東側の郭付近の農道脇に咲いていたコスモスの花
幾度かの降霜の後に気温が氷点下を下回る頃に枯れ死するものと思われます。
東曲輪付近の南側空堀
左側の農道整備との関連なのか、南側の空堀の規模はこの辺りが最も大きいように感じました。
主郭北西部の通称狼煙台付近から眺めた北アルプスの山並み
画像の説明はあくまでも推定なのでありますが、たぶん著名な槍ヶ岳については常念岳後方に聳えているはずなのですが、この辺りの標高が760メートル前後とそれほど高くはないためにその陰に隠れてしまうものと思われます。
一応は虎口付近とされていますが・・・
この主郭部の虎口付近については一定の地形の改変が加わっているようにも思われ、本来の虎口の形態を見出すことが難しいような気がしました。
大手門とされている辺り
大手口の辺りについても後世の農道の整備などにより、一部の土塁などが消失しているように思えます。
通称「中ノ城」とも呼ばれている郭南の土塁と空堀(横堀)で、この辺りの土塁と空堀などの遺構状態は良好でした。
北熊井城の西端部で天然の谷川が流れ下り城域を区画していました。
このあと古い五輪塔を探すべくさらに西へと進もうと思ったのですが、太陽光発電所のネットフェンスに遮られるとともに、加えて雲霞の大群を目前にして気力と体力が底をつき始めて断念をいたしました。
城下(根古屋)とも考えられている「町村」方面
「古堂」とも呼ばれている辺りまで足を延ばすべく気力を振り絞ったのですが、喉が渇いて脱水気味となり敢無くこれにて撤退と相成りました。
帰路は現地を午後4時前に出発。
暫く松本市内の国道19号線を北上し当初の予定通りに同地域の道路事情を頭に刻み込む。
次に安曇野インターから長野道へ入り、姨捨SAにて土産購入。
その後更埴ジャンクションから上信越道を経由して湯ノ丸SAにて満タン給油。
かくして自宅到着は午後8時半前となった。
片道250キロメートルの日帰りは些か厳しくなりつつあることから、恐らくはこれが最後なのかとも思う。
先週の反省を生かすべく、この日は午前6時に自宅を出発。
辺り一面真っ暗な高速道路を走行するのに比べれば、白々と夜が明け始め朝日が差し込み始める時間帯。
睡眠時間も十分、いちおう体調管理もまずまずのばずではありますが。
途中で横川PAにて小休止したものの、ほぼ予定通り無事車酔いにも見舞われることなく午前8時頃に佐久PA/ETCに到着。
なお途中妙義山が間近に眺められる辺りから、天気予報通り辺り視界が一面の朝霧に遮られるというような事態ではありましたが、恐らくは日が高くなればある程度は晴れてくるであろうという希望的観測に浸っておりました。
凸平尾富士砦/長野県佐久市
午前8時30分から11時30分
ハイキングコースとはいっても比高差280メートルとそこそこの測ることから、現下における自分の体力が試されるという山城でした。
ハイキングにしては早朝の行動であることから、竜神池から南西の尾根筋を登攀するというルートには人影は皆無。
この時期のクマ出没は決して侮れないものがありますので、最低限の措置としてクマ鈴2個+ラジオにて人の存在と接近をアピール。
その後2人ほどの女性ハイカーに追い抜かれました。
悔しいと感じるよりも、最早そういう年代の高齢者となったことを納得。
主郭部土塁の形跡
林道の建設やハイキングコースの整備などにより、遺構の残存状況は芳しくはありませんが、佐久平を俯瞰し浅間山、八ヶ岳などの山並みを遠望するには絶好のポイントでした。
そういう山城探訪もいいものだなあ、などと思ってみたもののこの程度のハイキングでへたばってしまうという典型的な高齢者世代なのでありました。
その結果は火を見るよりも明らかな重篤な体力欠乏であることを思い知らされました。
浅間山方面の絶景
凸白山砦/長野県佐久市
11時30分から12時45分
平尾富士砦から一度佐久スキーガーデンパラダというスキー場の中に下り、西側のリフトの発着地の背後に見える比高差にして僅か20メートルほどの小山を目指します。
この入口は些か分かりにくいのですが、よく見ると茂った藪の間から東屋風の古い建物が垣間見えます。
そのために設置されたと思われる東屋への階段を登ればそのまま尾根筋へと繋がっています。
以降の様子に関しては下記画像のように少なくとも3か所ほどの明確な堀切遺構のほかに複数の削平地も確認できます。
白山砦の堀切
ただし尾根筋は見通しもなく、仮にクマと遭遇した場合には絶体絶命という状態に陥る可能性も想定されます。
また、平尾城の脇を通る林道へと下る道筋については、この林道の建設に伴い事実上は消失しているため、少なくとも比高差4メートル以上の急崖を垂直下降しなければなりません。
人工的な崖上からより安全なルートで林道へと下山するべく、木の枝などにしがみつけそうなポイントを探すこと約10分ばかり彷徨する羽目に・・・
このように崖線部を歩き回ってみたものの、結局そのように上手くいきそうなポイントを発見するには至らず仕舞いでありました。
こうなると最後の手段を発動。
まず比高差にして約2メートルほどを手前の木の枝にしがみつき、その下に生えている細い木の根元を目指してその木が折れないことを祈りつつ下降。
次にその個所から生えている蔓状の植物の束を頼りにして90キログラム超の全体重を預けて下りるという方法を取りました(苦笑)
そういった事柄を別にすれば、ほぼ無名に近いような城跡ではありますが寧ろ平尾富士砦よりも遺構としての残存状況は良好となっておりました。
尤も帰宅後にじっくりと電子国土の地形図を確認してみたところでは、慎重に藪漕ぎをしつつ東側スキー場側の林道のフェンス辺りを目指せばより安全に下山できる可能性のあるということに気が付きました。
凸平尾城/長野県佐久市
12時50分から13時15分
さて当初の予定時刻よりも約1時間遅れとなった、漸くこの日の本命ともいうべき城跡です。
ひとつ前の白山砦からの下降で気力と体力をほぼ喪失している中で、加えて昨日から違和感を感じていた腰痛が深刻化、これに加え咽頭部の痛み(車のフロントガラスの曇り止めの暖気によるものか)を感じ始めました。
またさらに運の悪いことに「怪しげな物音」(たぶん大型哺乳類)をしきりに耳にするようになりました。
平尾城の堀切
このため大堀切に設置されているトラロープを眺めたところで苦渋の撤退を決意しました。
前の2か所についてはあくまでも平尾城のついでに立ち寄るという意味合いでありましたが、本命を目前にして断念するというのは何ともやりきれないものを感じました。
というような事情なので、今まで以上に今後は可能な限りさらに一層比高差の少ない個所を選んでいくということになるものと思われます。
先週の勢いが残っている内にというような次第で、今回は長野県御代田町(みよた/まち)を訪問。
気力だけを頼りにして、すでに午前3時前には関越道を一路北西に。
と、ここまではまずまずというべき順調な出足のはずが、暫く高速走行している内に少しずつ奇妙な浮遊感と違和感/不安感を感じ始めた。
この現下の状況を記憶をたどりつつ冷静に分析し、少なくとも狭心症などの症状ではなく、やがて「車酔いの症状」であることを確認するに至った。
今までにも自分の運転であるにもかかわらず車酔いしたことはあるものの、とりわけ今回の状態はかなり深刻な状態であることを認識。
このため手あたり次第7か所のPA、SAに立ち寄り小休止。
なおシフトを「D」ではなく「S」に切り替えたほうが、多少は車の乗り心地自体は改善されるように感じた。
このような次第で、結局のところ本来であれば1時間半ほどで到着すべきところを目的地である佐久インターに着いたのは3時間半後という始末に。
思いおこせば2017年晩秋の岩手北部、青森東部の遠征時。
あの折は車酔いではなく、風邪をこじらせた気管支喘息症状のためにSA、PAを各駅停車し、片道8時間を要しヘロヘロ状態で現地到着。
傾眠作用のある風邪薬は服用不可のため、「龍角散」と「龍角散のど飴」で凌ぐという荒業。
3年前となるあの時のような気力・体力は最早望めず。
凸頭槌城(ずづちじょう)/長野県御代田町
午前6時40分から7時40分
現地到着までには時間を要してしまったものの、時刻は未だ午前7時前であったこともあり、地元の大星神社で早朝参拝を行い時間調整。
車は面替(おもがえ)の集落には駐車可能なスペースが見当たらないことから、できるだけご迷惑とならないように集落外れの大星神社前の広場のような個所に駐車させていただきました。
なお歩き回るにつれて次第に車酔いの症状は薄れていきましたが、帰路の問題にどのように対処すべきかを考えながらの訪城となってしまいました。
北側の崖線部分
標高は約800メートルと高い方ですが、舌状台地ともいえそうな南北を谷川に挟まれた地形となっています。
湯川の流れにより分断されているように感じるものの、湯川の源流が隣接の軽井沢町の山岳地帯に所在していることを勘案すれば、広く見れば碓氷峠や浅間山の山麓とも言えなくもない立地であると思われます。
マレットゴルフ場の堀跡
堀幅は8メートルから10メートルほどで、郭内側(画像の右側)の方が浅い状況となっています。
概ね確実な遺構が所在しているのはこの辺りだけのようにも思われ、城跡の一帯はマレットゴルフ場、別荘のような宅地、元々からの宅地、作業小屋などが所在していることもあり、余りジロジロと拝見するのはいかがかと感じる次第なのでありました。
特に北側崖線部に平行する土塁の痕跡については宅地裏手となっていることもあり確認できておりません。
なお城域の一帯がこの地域に散見される別荘地のような景観を醸し出しておりましたが、特に通行自体の制限が為されているようには見受けられない公道ないしはこれに準じた感じの林道が概ね南北方向に通っています。
また林道とはいえ生活道路という印象もありましたので、車での侵入は控えて徒歩で拝見させていただきました。
凸梨沢城館/長野県御代田町
午前8時30分から9時00分
こちらも梨沢の集落外れに所在するかつての地域集会所跡の空き地のようなところに駐車させていただき、こちらを起点させていただき基本的に徒歩で歩き回ることとしました。
境内地を含む集落が城館跡
城址であること示す貴重な標柱ではありますが、郭を隔てている堀跡の名残を示すような地形を除きますと、集落内の宅地化などにより明確な遺構は失われている模様でした。
北側崖線部
湯川沿いの地形に多く散見される急傾斜の断崖地形ですが、その地質と構造のため崩落のリスクもあるようです。
比高差は15メートルほどしかありませんが、ほぼ垂直に近い崖線部の地形は這い上がることさえ不可能です。
沿道花壇のダリア
クサキョウチクトウ
凸向城(むかいじろ)/長野県御代田町
午前9時20分から10時00分
下記画像中央やや左の露岩付近が主郭部分の断崖に相当するものと考えられます。
なお主郭部分を中心として概ね耕作地化されておりますので、あくまでも農道沿いから拝見するのみとなります。
なお、途中の林道は沢筋にかかる橋梁が陥没のため当分の間通行不能となっておりましたが、北側のルートを通行すれば車で行けなくもないように思われました。
とはいえ幅員の狭い農林業のための作業道であることもあり、先ほどの所から徒歩にて赴きました。
西側対岸から
北東角から眺めた主郭と堀跡
この角度から拝見するのが主郭と堀跡の形状と規模が分かりやすく最も城跡らしく見えるように感じます。
なお主郭部については耕作中でもあり、関係者以外の立ち入りを規制すべく木戸が設けられていたことから外側から拝見をさせていただくに止まりました。
凸宮平城(みやだいらじょう)/長野県御代田町
午前10時30分から12時30分
初めに宮平遺跡の標柱や説明版が所在する東側からアプローチいたしました。
しかし害獣除けのフェンス工事により、現在では事実上城跡へと近づくことができないということが分かりました。
事前に反対の西側の方から登ることが可能なことは知ってはおりましたが、可能ならば斜面を登り藪漕ぎをすることは避けたいという年代なので、つい楽をしようと思ったのが判断を誤るという結果につながることとなりました。
なお偶々地元の地主さんの方が農作業中でしたのでご挨拶申し上げましたところ、この近辺でもクマの目撃事例が発生しているという貴重な情報をいただきました。
このためこの時点で恐らくクマが最も出没しそうに思われていた権沢方面へ足を延ばすことはあっさりと断念しました。
何れにしてもこのようにして結果的には時間を浪費すること約30分。
いや、「時間よりも寧ろ体力・気力を浪費」するといった方が正しいのかも知れませんが・・・
ここから徒歩移動で約15分ほどを要して西側の県道156号線方面へと移動。
さてこの西側からのルートについてはある程度は事前に把握してはおりましたが、県道から耕作などのための脇道に入ったとたんにものの見事に転倒する羽目に。
近年は倒れるということは分かってはいても、体幹機能の劣化なのか体のバランスを取り踏みとどまるということが中々難しくなってきたようです。
県道からの比高差は僅かに50メートルほどですが、確実な踏み跡は古い墓石の辺りで途絶えてしまいます。
意を決して灌木の枝やクモの巣を避けながら徐々に斜面を登ってゆくと、やがて堀底道のような地形が現れますので、これに沿って息を切らしながら登れば主郭部へ到達します。
無論予想通りではありましたが、主郭部と推定されている削平地一帯は灌木などの藪となりほぼ見通しは利かないという状況でした。
なお町役場の防災無線による正午の時報を耳にしたのは帰路の藪漕ぎの真っ最中でありましたが、これが夕刻でしたら諸般の事情に鑑み撤退していたのかも知れません。
西側からの遠景
県道156号線の豊昇(ほうしょう)トンネル東側の辺りから撮影しています。
ムラサキツユクサ
堀切と土塁
堀幅は約8メートルほどで、深さは郭内側で最大3メートル、反対側では1メートルから1.5メートルほどをはありそうに感じました。
途中で通過を余儀なくされる郭内の方については、は低木が叢生して半ば藪化しております。所々に先人の皆様方が通行したのではないかと思われる形跡も見受けられますので、どうにか突破することは可能でした。
この藪自体については恐らく初冬の季節となる12月以降でしたら、現状よりも多少は藪が薄くなるのかも知れません。
このほかに「害獣対策のくくり罠」が仕掛けられているとの注意書きも散見されましたので、闇雲に歩き回るのは避けた方がよさそうに思いました。
加えて堀切状となっている堀跡の両端部については、いきなりストンとした急崖に面していることから極めて危険性さえも感じました。
県道脇に落ちていた秋の味覚
県道156号線を梨沢集落まで戻る道のりは上り坂でもあり、比高差は僅かに50メートルほどでしたが息切のため足取りは重たく、途中の新しい交流センターの駐車場まで車を移動しておけば良かったと後から気づいたもののすでに後の祭りでありました。
なおこの折の心拍数は141、血中酸素濃度95%でした。(※自己責任として計測器具常時携行のため)
■広戸神社/長野県御代田町
13時00分から13時20分
先ずは地元の神様に参拝ということで、城跡とは反対方向の広戸神社へ。
北側の社殿裏には屡々神社境内でよく見かける土塁状の地形が存在。
念のため背後の地形を確認してみると畑との境界にやや規模の大きい溝状地形を確認。
一般には水利に関する施設か、土地の境界を示す溝か、耕作地の水捌けのためのものかなどとも考えられますが、念のため記録しておこうと思います。
境内裏手の溝状地形
凸広戸城/長野県御代田町
13時30分から14時00分
下記の崖線部分の画像からはある程度の遺構が残存していることが期待されます。
しかし耕地化や宅地化などの影響もあるのか、残存遺構は限定的で強いて言えば画像の3番目の個所が最も城館跡らしいという印象がありました。
よく画像で見かける崖線
郭というか耕作地
郭と空堀
伝・城主の墓石
あくまでも後世のものとされているように新しさを感じる墓石です。
こちらの城跡でも地主さんと思しき方が、少し離れた地点で農作業の最中でしたのでご挨拶をさせていただきました。
なお駐車については神社近くの広戸地区交流センターに止めさせていただきました。
この日の天気予報ではもう少し日差しのあるべきところ、日差しが出始めたのは午正午近くになってからという具合。
尤もやや薄曇りがちの方が画像撮影にはベターではある場合が多いだが、薮中となると話は変わってくるのである。
遠近両用の眼鏡では元々8時、10時、14時、16時方向が見ずらいという傾向がある。
これに藪の中のようにやや薄暗い状況が加味されると、自分の足元と顔の近く辺りが見えづらくなってくる。
このため滑る、転ぶ、顔に枝が当たるという連続した悲惨な事態に立ち至るのである。
このように今更ながら、年齢的に改めて長躯の遠征が厳しくなっているという事実を痛感した日でもあった。
この後は御代田町の図書館に立ち寄り、あらかじめ目星をつけておいた関係資料などを閲覧/複写する予定であったのたが、午前7時前からの探訪と往路での体調不良などの事情に鑑み明るい内に撤収することとした。
なお自宅への帰着は至って順調であり日没のはるか前の午後4時20分であった。
史進殿のお誘いにより、信州塩尻へ遠征。
午前6時に史進殿とおちあい中央道を一路塩尻へ。
この日の天候は台風14号の間接的な影響により生憎の雨模様。
事前の予報では上手くすれば降られずに済みそうな按配のようにも思われましたが、往路は濃霧を伴う弱い雨が降り続いておりました。
以前に出かけたのは3月なので、約半年ぶりとなる城館探訪です。
凸南熊井城(長野県塩尻市片丘南熊井)
午前9時から9時40分
北熊井城の出城とも云われているのですが詳細は不明。
松林寺東側に接する比高差10メートルほどの丘陵を利用した縄張りです。
残存する遺構の現状から見る限りでは単郭であるようにも見えるのですが、遺構の周辺部については後年の開墾などにより改変されているという可能性も否定できないようにも感じました。
西麓の松林寺側から
東側の堀跡
虎口?と横堀
南と東側の堀跡付近
なおこの時点では雨の方は何とか小康状態を保っておりましたが、次第に小雨模様へと変わってゆく気配を見せておりました。
凸北熊井城(長野県塩尻市片丘北熊井)
午前9時50分から10時20分
城域は東西約400メートル、南北約120メートルと比較的大きく、小笠原氏あるいはその支配に帰属していた有力国衆の拠点であったのかも知れません。
雨の方はといえば無情にも小雨模様から次第に本降りへと転じ始めたために、早々に撤退を余儀なくされることとなりました。
このため自分の場合には些か足元の方の問題もあることから、主に主郭を中心とした部分のみの見学に留まることとなりました。
大手門と推定されている辺り
かくてこの日は2か所のみの訪城となってしまいましたが、折角なのでこの後は塩尻市立図書館、平出博物館へと赴き資料収集。
特に塩尻市立図書館は自治体史を中心とした郷土史関係の資料群が充実していることから、この方面を訪れる際の目的にもなるような気がしました。
因みにこの図書館建設に当たった館長さんは図書館界ではその名を知られた方であるようです。
何れにしても、この方面を訪れる機会があるようならば、必ずや再訪すると心に誓うのでありました。
近年は年々歳を加うるに従い単独での外出機会が激減。
かつての様には体調が優れているという日々などは滅多に無くなっているような有様です。
こうしたことから体力の低下を如実に痛感するという好機会でもあります。
このようにして「今年中にあと少なくとも数日くらい」は出かけておかなくてはと深く心に刻み込むこととなりました。
改めてお誘いいただいた史進殿に深謝いたします。