本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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定年を過ぎました~
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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本日はお彼岸のため、午前中から恒例の家内の実家を始めとする親類まわり。
腰越城を直接見渡すことができる墓地では、別家の読経による法要の真っ最中。
また、お彼岸の中日ということもあり、それほど広くはない墓地の駐車場も満車状態。
このため、墓石から漂う辺りに充満した線香の煙の濃度は半端なものではなく、見事にアレルギー性の気管支喘息を発症。
しかし、この後まだ三軒の親類を訪問して焼香。
これがさらに災いして次第に「過呼吸」症状も併発。

然しいずれも万一の用意の常備薬を携行しているので、比較的軽い症状で踏みとどまる。
帰宅後、今度は緊張性頭痛の鈍痛が5時間ほど継続。(この頭痛は翌日の午前中まで継続)
まさに試練と忍耐の一日なのでありました。
こうなってくると必要に応じて、真剣にゴーグルと簡易型のガスマスクの装着を検討せねばいけない状況に追い込まれつつあります(笑)

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今月17日に訪れた滑川町の「城原城」(じょうはらじょう)は、稜線部分が思いのほか平坦な地形を形成。
概ね独立した丘陵を形成し水田の低地近くは恰も切岸のような斜面を有しているものの、稜線部分から麓の民家の2階建ての屋根瓦が見えるように、周囲との比高差は山田城ほどにはなく要害としての防御性にはやや欠ける印象も。
歴史的経緯も先日17日のブログに記したように委細不明。
空堀、土塁状の地形も僅かにあるようなないような。
なお、写真の左手前の平坦地は腰郭ではなく、たぶん開墾による耕作跡の平坦地かと推測。

城原城の小口状の地形

小口跡のようにも見えなくもない地形ではあるのですが
2006/09/17 撮影

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天候次第で、振替の休みを活用して近々白岡町方面の彷徨を予定。
毎度のことながら、未だ資料集めなどが不十分...などと考えている場合ではなく、彼岸の墓参りにも行かなくては。

4年近く前に亡くなった父親の印象が薄れかけてきていることは確かなようです。
自分のほうが次第にあちら側へ近づきつつあるというにも拘らず、親不孝も甚だしい忌々しき事態。
かといって、彼岸の最中に都立染井霊園に墓参に出かけるのは、極度の線香の煙のアレルギーをもつ自分にとっては大問題なのであります。
4年近く前に実父と義母が続いて亡くなった時には、半年以上もアレルギー性喘息が継続。

簡易型のガスマスクを装着して墓参するよりも、10月上旬に豊島氏関連の平塚城付近の散策と合わせて出かけるべきかなどと思案中であります。


進退窮まった「小高氏館」
2006/09/17 撮影 比企郡滑川町にて

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空堀が存在していたとの伝承のある辺りはどう見ても、高根カントリークラブというゴルフ場のど真ん中に所在している模様。
このためその接近に際しては、いずれにしても公道沿いには立ち入り禁止とあちこちにこれでもかと目立つように表示された見通しの良いグリーンに進入せねば辿り着かないという障害が。
このためあからさまな不法侵入を避けるべく、結局はゴルフ所の林の影から何気なく辺りの様子を窺がい、木立の間から速やかに望遠レンズモードにて「山城沼」付近を撮影。
しかし撮影された画像を確認した限りでは、どう見てもゴルフ場の中によくあるようなごく普通の池にしか見えず。

この程度で諦めてはならじと、北側から500m以上大きく迂回。
南側の沼の脇道から接近しようと試みたものの、道は途中から次第に消失。
加えて下を良く見て歩かないと、そのまま沼へと転落する恐れもあるような細々とした踏み跡が200mほど延々と。
途中には、道幅30cmもなく沼側に向かってオーバーハングして崩落している個所さえあるような心許ない難路...(冷汗)

実は昨日から1年ほど前にあつらえた遠近両用の眼鏡の具合が、とうとう老眼の進行度合いに適合し始めてしまった次第。
このため、この眼鏡を装着しての長い歩行行動は今回全くのが初めて。
遠くはそこそこ良く見えるものの、足元の距離感がつかめないという難点があることから、以前にはほとんど使用を差し控えていたという事情も。
水際の浅瀬が見える場所もあれば、背丈が届くかどうか不明な深さの個所もあり、こうした諸般の状況を総合しその危険性を推し量るならば、自分自身にとっては明らかに危険な場所かと。

さて、漸く何とか山城沼の堤の間近まで接近したものの、予期した通りやはり最終的にはゴルフ場の見通しの良い個所を通行しなくてはならず、不法侵入を試みることなく潅漑用の沼地に映る極めて曖昧なゴルフ場内の「伝承推定地」付近の丘陵を撮影したのち、すごすごと退却した次第なのでありました。

伝「山城沼砦」付近
伝「山城沼砦」付近
2006/09/17 撮影

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明日から仕事が再開。
3連休は年末年始以来かと。
月曜日はともかく昨日今日とのんびりしすぎて、心身ともにリラックス。

閑話休題。

川島町の「中山陣屋」(近世の秋元氏のもの)は現在の中山小学校に所在したとされています。
正門の立派な石碑とは別に、右手の校庭沿いの路地を少し進んでいくと、校庭の端の道路沿いに戦没者の忠魂碑と並んで下記の画像のような標柱がひっそりと立てられていました。
標柱もここまで風雨に晒されて劣化すると「文化財」の仲間入りができそうです。
多分文字数から推定させていただくと、恐らくは「秋元陣屋跡」と記されているのではないかと拝察いたします。

さて、深谷上杉氏の重臣に過ぎなかった秋元氏は主家の滅亡にも拘らず、家康の関東入府後に徳川氏に仕えて、その後は川越藩主、老中などの重職を担い、館林6万3千石の藩主として幕末まで存続します。
もうひとつの「功名ヶ辻」という感もあります。


文化財的な標柱
中山陣屋(秋元氏陣屋)
2006/09/04 撮影

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