本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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トップページのレイアウトを一部変更してみたものの、まだ慣れていないのか自分でもまごついています。

現在のところ「フレーム」はあえて使用していないので(実は、よく分からないのが真相にて)、他のページは従来のままなのであります。
全体としてのレイアウトや形式の不統一、打ち間違いによる誤記、明らかな誤り..などとさまざまな課題が山積みの中で、とうとう「城館遺構紛い」にも手を染めてしまいました。

このため、「中世城館」+「城館遺構紛い」+「ねこ」+「植物」と、ますます内容が混乱していくことは確実かと..(汗)
 

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トップページのメニュー配列などをマイナーチェンジしました。
ここ1年ほどレイアウト自体に大きな変更がなく、たいぶ見飽きてきたことも一因ですが、近々メニュー追加の予定のあることから変更したものです。
メニューの追加といってもそれほど大層なものではなく、「城館遺構紛い」のジャンルを新たに設置しようというだけのことであります。

最近、滑川町を中心に「かなり怪しげな城館遺構紛い」の画像が増えてしまいました。
今後新たに編集するもののうち、城館に関する伝承などの全くないものについては暫定的にこちらに纏めておこうなどと考えております。

下の画像は孟宗竹の林と杉林の境に所在する高さ1mほどの塚のようなものですが、まず「滑川町史」を調べた限りでは少なくとも古墳ではないようです。
第一自然地形か、人工のものか全く区別がつきません。
第二に何のためのものかも分かりませんので、遺構かどうかも分かりません。
強いていえば物見台くらいにはなるのかも知れませんが、さほど眺望の利くような場所でもありません。

このような全く「遺構」とも呼べないようなものから、もしかすると「遺構の可能性があるかもしれない」と憶測を呼ぶようなものまでをコンテンツとしていく予定であります。
そのうちこのジャンルがメインとなる恐れがあるやも知れず...(笑)

不詳の「遺構」?
不詳の「遺構」?
2006/12/01
比企郡滑川町羽尾地区の山中にて

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吉見町の御所地区の北端に所在する式内社横見神社の南側と東側には深さ2メートル、幅約2間ほどの水堀が廻っています。
然しこの遺構の歴史的経緯がきわめて不明。

地元教育委員会の担当者の見解によれば、「神社の祭祀に伴うもの」「神社と同居する稲荷塚古墳、横見神社古墳などの周濠」などとの考え方もあるとのことですが、その役割を含めていまひとつ決め手を欠くようです。
また個人的には神域を水害から守るための排水路とも考えられますが、それでは南側と東側を取り巻いているという形態の意味が説明できません。

それはさておき神社の周辺は城館としての佇まいも感じさせる雰囲気が濃厚。
但し難点は神社部分の領域が狭いために現存する濠跡遺構を以ってして、そのまま中世城館の中心部に関わるものとは考えにくい側面もあります。

横見神社南側の堀跡 画像クリックで拡大します
横見神社南側の堀跡
2006/12/12
比企郡吉見町御所地区にて小雨模様の中を撮影

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源範頼館跡と伝わる真言宗息障院東側の用水路脇にてネコのカップルに遭遇。
カップルに遭遇したのは日高市の旗塚以来にて候。

2匹のネコと当方の間には幅2mほどの用水路で隔絶された安全距離。
仲良く寄り添ってのんびりと日向ぼっこ..ではなく、小雨模様なので人間に例えれば相合傘かと(笑)

「あの人、じっとこっち見てるわ...なんか、い~やな感じ」(♀)
「ご案じ召さるるな、当方との間には大きな川が御座候」(♂)

「でも、写真撮ろうとしているし..」(♀)
「かかる折には、無視するのが一番にて候」(♂)

「でも、でも..やっぱり気になる~」(♀)
「拙者が居ります故、ご心配ご無用にて候」(♂)

「そんなこと言ったって~」(♀)
「然らば、拙者の鋭い眼力を以って追い払って進ぜよう」(♂)

などと会話していたかどうかについては定かではありませんが、迷惑そうな表情であったことは間違いなさそうに御座候。

源範頼館跡のネコ2匹
源範頼館跡のネコ2匹
2006/12/12
比企郡吉見町にて撮影

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本日は運転免許証の更新にて候。
訳有之由、鴻巣迄出張候。

源範頼館(吉見町)午後1時40分~2時20分

治承・寿永の乱の中では勝者側の人物である源範頼の館跡と伝わっています。
しかし義経、頼朝などと比較すると、明らかに目立たない歴史的人物かと。

伝承の真偽はさておき、館跡と伝わる新義真言宗息障院の周囲に驚くほどに明確な堀跡が現存しています。
ただし東側の部分は用水路の改修のため、現在は殆ど原型を止めていません。
南側も延長にして30mほどの堀跡が遺されていますが、やや整備されすぎたという印象があります。
北側の県道271号線沿いの堀跡は用水路も兼ねている為に、明らかに後世の改修が加えられているように見受けられます。

これに対して西側の部分については、ことによると畑の根切りの役目もあるかも知れませんが、比較的手が加えられていない様子が窺えます。
館の規模はおよそ東西120m、南北100mの矩形を呈していまが、「吉見町史」の記述によれば、後世の寺院としての構堀である可能性を示唆していました。


源範頼館北側の堀跡 画像クリックで拡大します
源範頼館
2006/12/12
比企郡吉見町にて撮影



御所陣屋(吉見町)午後2時25分~2時45分

延喜式に記される横見神社の辺りが該当地の模様。
また源範頼の館跡との伝承も。
「新編武蔵風土記稿」の記述によれば代官中川八郎左衛門の居館もこの付近に所在したとのこと。

横見神社の境内には古墳の跡と見られる土壇が存在し、南側と東側には深さ2m、幅約3間ほどの水堀跡も。
北側には用水路が現存しているものの神社側が1メートルほど高く、西側でも水田との比高差が1メートル以上を測るようです。

正確な所在地の問題、歴史的経緯に関する問題、そして現存する遺構の取り扱い...と随分贅沢な悩みですが、いずれにしてもこれらの遺構と城館跡との歴史的関係がいまひとつ不明にて。
このあと、雨脚がいくぶん強くなり始めてしまい撤収開始。

■追記(2006/12/13)
翌日吉見町の教育委員会に確認したところでは、御所陣屋とこの横見神社との関係は不明で、また現存する堀跡の歴史的背景も不詳とのこと。
御所陣屋の所在地についてはこの横見神社が「御所」の北端に当たるのでこれより南側の地域に所在したと推定されるとの見解でした。
また、安楽寺の北西方向に「御所堀」といわれる伝承地名が存在し、範頼の館の候補地のひとつとされています。


御所陣屋付近の横神社見 画像クリックで拡大します
御所陣屋付近の横見神社
2006/12/12
比企郡吉見町にて撮影


自宅の玄関前とはいえ、駐車違反には相違無由にて御座候。
38年間で初めての違反にて候。

しかし、そのお蔭で帰りがけに小雨模様の中を吉見町へ寄り道。
その結果久しぶりにまともな遺構に出会うことができて、思いのほか充実致した午後に相成りました♪♪

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