本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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源範頼館跡と伝わる真言宗息障院東側の用水路脇にてネコのカップルに遭遇。
カップルに遭遇したのは日高市の旗塚以来にて候。

2匹のネコと当方の間には幅2mほどの用水路で隔絶された安全距離。
仲良く寄り添ってのんびりと日向ぼっこ..ではなく、小雨模様なので人間に例えれば相合傘かと(笑)

「あの人、じっとこっち見てるわ...なんか、い~やな感じ」(♀)
「ご案じ召さるるな、当方との間には大きな川が御座候」(♂)

「でも、写真撮ろうとしているし..」(♀)
「かかる折には、無視するのが一番にて候」(♂)

「でも、でも..やっぱり気になる~」(♀)
「拙者が居ります故、ご心配ご無用にて候」(♂)

「そんなこと言ったって~」(♀)
「然らば、拙者の鋭い眼力を以って追い払って進ぜよう」(♂)

などと会話していたかどうかについては定かではありませんが、迷惑そうな表情であったことは間違いなさそうに御座候。

源範頼館跡のネコ2匹
源範頼館跡のネコ2匹
2006/12/12
比企郡吉見町にて撮影

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本日は運転免許証の更新にて候。
訳有之由、鴻巣迄出張候。

源範頼館(吉見町)午後1時40分~2時20分

治承・寿永の乱の中では勝者側の人物である源範頼の館跡と伝わっています。
しかし義経、頼朝などと比較すると、明らかに目立たない歴史的人物かと。

伝承の真偽はさておき、館跡と伝わる新義真言宗息障院の周囲に驚くほどに明確な堀跡が現存しています。
ただし東側の部分は用水路の改修のため、現在は殆ど原型を止めていません。
南側も延長にして30mほどの堀跡が遺されていますが、やや整備されすぎたという印象があります。
北側の県道271号線沿いの堀跡は用水路も兼ねている為に、明らかに後世の改修が加えられているように見受けられます。

これに対して西側の部分については、ことによると畑の根切りの役目もあるかも知れませんが、比較的手が加えられていない様子が窺えます。
館の規模はおよそ東西120m、南北100mの矩形を呈していまが、「吉見町史」の記述によれば、後世の寺院としての構堀である可能性を示唆していました。


源範頼館北側の堀跡 画像クリックで拡大します
源範頼館
2006/12/12
比企郡吉見町にて撮影



御所陣屋(吉見町)午後2時25分~2時45分

延喜式に記される横見神社の辺りが該当地の模様。
また源範頼の館跡との伝承も。
「新編武蔵風土記稿」の記述によれば代官中川八郎左衛門の居館もこの付近に所在したとのこと。

横見神社の境内には古墳の跡と見られる土壇が存在し、南側と東側には深さ2m、幅約3間ほどの水堀跡も。
北側には用水路が現存しているものの神社側が1メートルほど高く、西側でも水田との比高差が1メートル以上を測るようです。

正確な所在地の問題、歴史的経緯に関する問題、そして現存する遺構の取り扱い...と随分贅沢な悩みですが、いずれにしてもこれらの遺構と城館跡との歴史的関係がいまひとつ不明にて。
このあと、雨脚がいくぶん強くなり始めてしまい撤収開始。

■追記(2006/12/13)
翌日吉見町の教育委員会に確認したところでは、御所陣屋とこの横見神社との関係は不明で、また現存する堀跡の歴史的背景も不詳とのこと。
御所陣屋の所在地についてはこの横見神社が「御所」の北端に当たるのでこれより南側の地域に所在したと推定されるとの見解でした。
また、安楽寺の北西方向に「御所堀」といわれる伝承地名が存在し、範頼の館の候補地のひとつとされています。


御所陣屋付近の横神社見 画像クリックで拡大します
御所陣屋付近の横見神社
2006/12/12
比企郡吉見町にて撮影


自宅の玄関前とはいえ、駐車違反には相違無由にて御座候。
38年間で初めての違反にて候。

しかし、そのお蔭で帰りがけに小雨模様の中を吉見町へ寄り道。
その結果久しぶりにまともな遺構に出会うことができて、思いのほか充実致した午後に相成りました♪♪

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本日の目的地も滑川から一部嵐山町を含む無名の丘陵地帯にて。
何故にこれほど拘泥するのかなどについて、ここで改めて確認を。

①滑川地域には中世以前にその起源を有するとされる大小200ヶ所にも及ぶ沼池が丘陵地帯の谷津に築造されている。
②沼池は御地形としての性格を有すると同時に水の供給源(農業用水、生活用水)として重要。
③この地域には「杉山城」「越畑城」「中郷遺跡」「三門館」「泉福寺館」「水房館」「城原城」「山田城」「谷津城」「谷ツ城」「羽尾城」「羽尾館」などの遺構が現存し、その何れも沼池や谷津を配した丘陵上に所在。
④とりわけ「谷津城」「谷ツ城」「中郷遺跡」などは近年その所在が確認された遺構であること。
⑤このため独立した丘陵であることなど一定の地形条件を満たしているものの中には、ゴルフ場の建設、霊園の建設、関越自動車道の建設、武蔵森林公園の建設などと云う大規模な地形の改変という状況を考慮しても、未だ未確認の遺構が潜在している可能性を否定できないこと。
⑥あくまでも「憶測」「思い込み」の域にとどまるものの、今までの彷徨の中で中世城館との関係を全面的に否定できない事例に実際に遭遇していること。
⑦比高差が少なく人家も近いので、万一の事故などのリスクの可能性が小さいこと。

というような次第で、本日も滑川、嵐山方面に出勤...いや出動を。

廣野下郷(比企郡嵐山町)午前11時40分~午後0時15分

比高差は20m足らずと、それほど特徴のない独立した丘陵地帯。
しかし、「越畑城」と同様に丘陵が関越自動車道により南北に分断。
このため従来の地形の把握が難しいところ。

丘陵の山頂部分には地元の民家の方の墓地が4か所ほど点在。
北側は例によって篠竹の密生地のため、地表の形状確認が困難。
そうした中、明らかに人為的な地形としか表現のしようのない「竪堀」「平場」「切岸」らしき地形が。

高さ1mから2mほどの「切岸」は恐らく畑の開墾に伴うものやも知れず。
15m×20mほどの「平場」はかつての墓地跡、神社跡などかも。
しかし「竪堀」状の地形だけは、墓参のための道にしてはどうにも説明の付かない異様な地形を呈しておりました。

帰りがけに篠竹の密生地のため進入できなかった部分を関越自動車道の側道彷徨からアプローチ。
ここで、1mほどの深さの「堀跡」を確認。
しかし、どう見ても湧水取り入れための溝。
雑草が繁殖する季節に訪れると、間違いなく転落することは必定にて(汗)


「竪堀」状の地形。画像クリックで拡大します。
「竪堀」状の地形
2006/12/11
比企郡嵐山町廣野下郷にて撮影


廣野中郷遺跡(比企郡嵐山町)午後0時45分~午後1時30分

「中郷遺跡」として「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)にも収録されている「遺構」。
しかし、関越自動車道の建設に伴う発掘調査等により「堀跡」が確認されている由にて、こちらも現在は丘陵地帯が南北に分断。

八宮神社の佇まいなどに遺構との関連性を思い浮かべるというのが現状。
念のため、神社の北側の竹林に突入。
膝を竹の切り株にぶつけながら関越自動車道のフェンス際まで100mほど北進。
自然としての地形の凹凸は確認できるものの人工的な要素は感じられず。

更に歩道橋をわたり北側の丘陵地帯にも進出。
中世の板碑の破片を祀っている地元の民家の方の墓地などが所在するのみで、歴史的背景を備えた人工的な地形の改変には遭遇せず。
所により篠竹の藪の密生状態が半端ではなく、1m先が見通せない個所も所在。
さて、八宮神社の北東、北西に一応は幅約2間、深さ80cmほどの溝跡が所在...然しどう見ても雨水の排水
施設という感触がありありと。

由緒正しい「排水溝」。画像クリックで拡大します。
由緒正しい「排水溝」
2006/12/11
比企郡嵐山町廣野中郷にて撮影


神戸沼(比企郡滑川町)午後2時~午後2時30分

地図上では3ヶ所ほど気になる地形が。
然し、おおむらさきゴルフ場方向からのアプローチについては、倒木と篠竹の密生など余りにも道の状態が悪く即座に断念。

神戸沼の北東側から回りこむことに。
いい加減に見当をつけて道を辿ると正に沼池の堰堤の畔に到着。
手始めに南側の堰堤からの比高差15mほどの小丘陵を目指すことに。
当然登り口などは皆無。100mほど沼池の周囲の小道をトボトボと。

今まで見た中では最も水深がありそうで、小道から沼底が全く見えず。
堰堤の高さから推定すると小道際でも深さ3mくらいはありそう。
バランスを崩して落ちたりでもすれば、この時期の水温からして30秒ほどで心肺停止は間違いなさそう。

そろそろ戻るか、無理やり這い上がるかと思案。
すると小道の左側の斜面に何やら人為的な造作物が。
よく見ると3段ほどの石積み。
「猪垣」や「土留」にしては全く意味のない個所にて。

これも何かの縁ということで、この個所の脇から斜面を直登開始。
いくらも進まないうちに高さ1.5mほどの「切岸」状地形が。
更に進むと今度は高さ2mを超える「切岸」状地形が出現。
木の枝に掴まりこれを乗り越えると山頂の平地。
山頂部分には特段の人工的な地形の改変は確認できず。
北側はこの地域特産の篠竹の藪のため侵入不可の由。

この3段構の地形の意味するものは..と「遺構病」は深まっていくのでありました。


「切岸」状の地形。画像クリックで拡大します
「切岸」状の地形
2006/12/11
比企郡滑川村伊古にて撮影


酒井氏陣屋(比企郡滑川町)午後2時40分~午後3時10分

「新編埼玉県史」「滑川町史」などによれば、近世初頭まで旗本酒井氏の陣屋跡と推定されている由。
酒井氏の知行地でもあり、陣屋跡と推定される曹洞宗成安寺は酒井氏の開基とされる。
酒井氏歴代の墓所も裏山の墓地の一角に所在。
本日の中では歴史的な経緯が最も明確な部類。

遺構そのものはあるような無いような。
墓地・駐車場・ゲートボール場などの造成などによりかなり地形が改変されている様子が窺がえます。
それでも丘陵を背後にした境内、段差のある観音堂の地形、堀跡の名残とも思われる水路など全体としての佇まいは歴史的雰囲気が濃厚なのでありました。


「堀跡」らしき溝。画像クリックで拡大します。
かつての「堀跡」らしき溝
2006/12/11
比企郡滑川町福田曹洞宗成安寺にて撮影


さて、本日は遠く日光連山の雪化粧さえも視野に納めることのできる好天にて。
しかしこの時期は太陽の傾きが早く、デジカメ撮影も光線の加減で午後3時過ぎくらいまでが限度。
肉眼でも逆光の場合には地形の把握が相当困難な状況。
おまけに夕方には西側に雲が広がりはじめたため、日没には未だ時間があるものの午後4時過ぎの帰途時には日没同様に。

今回の最大の収穫は「神戸沼」の「切岸」「石積み」などの「遺構紛い」ながらも正に思いもよらぬ遭遇。
これでまた「遺構の病」が...

なお、本日は珍しく軽食等を携行。
「やわらかロースカツサンド」(398円)「みたらし団子3本」(99円)を途中の嵐山町のヤオコーにて購入。
勿論カロリーメイトなどの非常食と飲料水1ℓは常に携行。
ここ最近は時間の節約とダイエットのため昼飯抜きのパターン。
このため確実に一時的には2kgぐらい体重減少。
しかし今更慌てても無意味なので、休憩をとりながらのんびりと彷徨することに方針を変更した一日なのでありました。

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左足の踵の外側にアカギレ発生。
体重をかけるだけでも鋭い痛みが。
一時は何かで抑えておかないと歩行不能状態。
踵の保護というのは案外難しく包帯は巻き辛く、足首用のサポーターも役立たず。
あとは肘用のサポーターが役立つかどうか試してみることに。

さて、その原因は角質化した踵外周部を軽石で擦ったことによるもの。
皮膚の潤いの急速な低下という加齢に伴う昨今の状況を完全に失念していた次第にて(苦笑)
30歳台の後半ぐらいからアカギレの酷かった母親からの遺伝なのかも知れず。

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何時も「遺構紛い」に遭遇すると思ったら大間違いにて候。

周囲が切り立った独立丘陵状の地形。
嵐山町放光寺西側に所在する比高差40m近い魅力的な地形にて御座候。
市野川の河川敷から見上げる「恰好の地形」にはなかなか瞠目致す所存にて候。

もしやと僅かばかりの期待を胸に秘めつつ..運動不足の由にて早くも息切れが。
さてその結果は、どう頑張っても「平場」とは言い張れない、とても見事で平坦な自然地形の山頂部の確認のみにて終了致居候(笑)
滑川丘陵地域の遺構に相応しそうな未確認地形はあと20ヵ所ほど。
こうなったら、とことんこの目で検証すべく彷徨することに。

無理やりの「平場」にて
無理やりの「平場」にて
2006/12/01 嵐山町太郎丸地区にて

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