本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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所用のため息子と共に池袋のジュンク堂へ。
訪れたのは、かれこれ2年ぶりかと記憶。
息子に必要な書籍を10冊ほど購入。
ついでに日本史のコーナーへ向かったのが運の尽きにて。
買った、買った、買った...1か月分の小遣いがあっという間に消失。
「北武蔵・西上州の秘史」(アマゾンでは品切れ)に始まり、
「新編房総戦国史」(崙書房出版)
「関東戦国史」(崙書房出版)
「定本・北条氏康」(高志書院)
「城破りの考古学」(吉川弘文館)
「関東古戦録」(あかぎ出版 上下)
「戦国城と合戦」(実業之日本社)
「国府台合戦を点検する」(崙書房出版)
「戦国大名城郭事典」(東京堂出版)
「城歩きハンドブック」(新人物往来社)
「精選日本の名城」(新人物往来社)
「図説江戸三百藩城と陣屋総覧 東国編」(学研)
「図説城造りのすべて」(学研)
「戦国の堅城Ⅱ」(学研)
と、以上衝動買い。
アマゾンのマーケットプレイスに出品されていそうなものもあったものの、ここであったら百年目とばかりに...
とうとう読書待機状態の本が100冊は超えたような(汗)
訪れたのは、かれこれ2年ぶりかと記憶。
息子に必要な書籍を10冊ほど購入。
ついでに日本史のコーナーへ向かったのが運の尽きにて。
買った、買った、買った...1か月分の小遣いがあっという間に消失。
「北武蔵・西上州の秘史」(アマゾンでは品切れ)に始まり、
「新編房総戦国史」(崙書房出版)
「関東戦国史」(崙書房出版)
「定本・北条氏康」(高志書院)
「城破りの考古学」(吉川弘文館)
「関東古戦録」(あかぎ出版 上下)
「戦国城と合戦」(実業之日本社)
「国府台合戦を点検する」(崙書房出版)
「戦国大名城郭事典」(東京堂出版)
「城歩きハンドブック」(新人物往来社)
「精選日本の名城」(新人物往来社)
「図説江戸三百藩城と陣屋総覧 東国編」(学研)
「図説城造りのすべて」(学研)
「戦国の堅城Ⅱ」(学研)
と、以上衝動買い。
アマゾンのマーケットプレイスに出品されていそうなものもあったものの、ここであったら百年目とばかりに...
とうとう読書待機状態の本が100冊は超えたような(汗)
前回「円良田城」を訪れたのは2005年の4月末。
当時は堀切と竪堀の違いも分からぬような未熟者にて。
山野草の画像を撮影するという目的もあり、主郭の小口は見逃す、石積みの場所は間違える..と、散々な結果に。
あれから、早くも2年近くの年月が経過。
余り進歩は無いものの、以前に比べるとほんの少しだけ落ち着いて遺構を眺めるようになったような気がします。
城跡も同じ個所を2回訪れると、見逃していた要素や勘違いなどが次々に現れてよい経験になるのかもしれません。
前回の時は時々厚い雲に覆われ突風が吹きつける生憎の不安定な天候。
このため、尾根筋の北側の「井戸跡」は薄暗く写真もピンボケ。
さて、好天に恵まれた今回は...
![「円良田城」の井戸跡](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/ac5753c9702574db964179e226359c97/1167051749?w=200&h=132)
「円良田城」の井戸跡
2006/12/23 撮影
当時は堀切と竪堀の違いも分からぬような未熟者にて。
山野草の画像を撮影するという目的もあり、主郭の小口は見逃す、石積みの場所は間違える..と、散々な結果に。
あれから、早くも2年近くの年月が経過。
余り進歩は無いものの、以前に比べるとほんの少しだけ落ち着いて遺構を眺めるようになったような気がします。
城跡も同じ個所を2回訪れると、見逃していた要素や勘違いなどが次々に現れてよい経験になるのかもしれません。
前回の時は時々厚い雲に覆われ突風が吹きつける生憎の不安定な天候。
このため、尾根筋の北側の「井戸跡」は薄暗く写真もピンボケ。
さて、好天に恵まれた今回は...
「円良田城」の井戸跡
2006/12/23 撮影
珍しくも午前5時おきにて、美里、長瀞方面の山城へ。
目的地は「円良田城」「猪俣城」(共に美里町)の2ヶ所で、時間があれば「仲山城」(長瀞町)も。
さて、今回は稀有なことに単独行には非而。
「城郭図鑑」の管理人さん御同行の由にて御座候。
でなければ、とても5時起きはできないという至極怠惰な日常生活故に(汗)
早朝の国道254線から140号線は快調そのものにて通過致候。
往路の所要時間には、当初ある程度の余裕を考慮して2時間半という設定。
しかし、実際には現地の登山口まで僅かに1時間35分にて到着せり。
かくして、この時点で約1時間近くという予想外の時間節減に成功。
凸円良田城(美里町)午前7時40分~9時30分 再訪
西側の大槻峠より東方の「円良田城」(「虎ヶ岡城」)へ。
峠からはいきなり比高差50mほどの落ち葉でやや滑りやすい斜面を直登。
このために当方の心肺機能が一向に順応せず、出だしから「先陣」が覚束ないという恥ずべく由々しき事態を露呈(汗)
直線距離で1km前後のため、所要時間20分ほどにて最初の堀切付近に到着。
相変わらずこの西方の遺構としての範囲が摑み辛き由にて。
本郭西側の堀切は相変わらず健在にて。
本郭東側からの地形的には大分分かりにくくなってしまった小口も改めて確認。
南東方向の3段ほどの腰郭群を確認後北東方向の腰郭、石積み、堀切、井戸跡など一連の遺構を確認。
などと書くと如何にも簡単に遺構の確認を終えているように聞こえるやも知れず。
実のところ前回1度で確認できた井戸跡は、此度は何と3回目にしてやっと遭遇した由にて...(恥)
前回の訪城は2年近くの前のこととはいえ、早くも「先陣」のメッキが音を立てて崩壊(汗)
![円良田城主郭西側の大堀切](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/ac5753c9702574db964179e226359c97/1166883711?w=200&h=132)
円良田城
2006/2/12/23 撮影
凸猪俣城(美里町)午前9時45分~11時50分 再訪
約2年前の訪城時には迷いつつ、然も山野草などを愛でつつの訪城にて候。
このため、地図の確認など著しくおろそかになりこの時点では方位磁石も100円ショップ製というお粗末さ。
現在地と方角などを誤認し訳が分からなくなったことに加えて、2の郭南東側の落ち葉の斜面にて、右膝の半月板を損傷し2週間松葉杖状態に。
以後約半年間は左膝も痛めるなど、暫くの間はまともに歩行することができなくなった曰つきの城跡にて候。
今回は捻挫や切り傷等に対応できる軽度の救急用品一式携行。
地図読みもほぼ万全...のはず。
しかし、南東からのアプローチにて2の郭の位置を勘違い(汗)
それ以外はほぼ間違いなく各種の郭、竪堀、堀切を確認。
前回ピンボケとなった直径6m、深さ1mほどの推定「狼煙跡の大穴」もしっかと画像に収め2の郭西側のやや分かり辛い小口、北西、北東、南西方向伸びる尾根筋の堀切、竪堀などの遺構もすべて確認に成功。
さて、昼食には些か早めの時間。
景色と日当たりのよい城跡南端の尾根筋にて昼食。
このとき珍しいことに独行の熟年ハイカーに遭遇。
山城の山中にて人に出会ったのは事実上初めての経験。
ハイキングコースでもなく、かつ事実上は行き止まりの道ゆえにことによると同好の士の可能性もありそうな気配が...
![南東からの猪俣城の遠景](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/ac5753c9702574db964179e226359c97/1166883490?w=200&h=132)
猪俣城
2006/12/23 撮影
■応安年間の板碑見学(長瀞町)12時05分~12時10分
日本最大といわれる全長5メートルを超える板碑の存在感には相変わらず圧倒されるものが。
多分6回目ぐらいの訪問かと。
「仲山城」の南北朝期の「城主?」との関連が推定されるこの石造物は必見の存在かと推察。
凸仲山城(長瀞町)12時20分~12時50分 再訪
1年ほど前に西側の西光寺方面の裏道から山頂に向かって強行突破を試みたものの、叢生する篠竹の藪と茨の群生に進路を阻まれ、終いには目前に岩場が出現するなど散々な目に遭遇した曰つきの山城にて。
軽といえども一応四駆なので、北側の林道の峠部分まで車でそのまま進出。(但し車高の低い車、3ナンバーは無理にて)
明らかに1年前とは異なり、北側の平坦な尾根筋からの道程は実に楽な登り道。
但し心肺機能の低下は別問題にて候(汗)
「北西の堀切「東屋の所在する主郭」「南側の堀切」「南側の小郭」と一通り回っても所要時間は僅か数分にて完了。
南北方向の尾根筋を利用した山城の往復所要時間は上り10分、下り6分ほどで20分もあれば、2箇所の堀切と3ヶ所ほどの小さな郭跡の残る山城の確認は完了してしまうほどの規模にて。
小屋がけを想定すると最大でも30人と収容しきれないような主郭を含む
コンパクトな城域と南方の秩父往還しか見通すことのできない立地条件。
ことによると戦国時代には武田氏などに対する物見台として使用されたとの印象もありそうな。
![西側からの仲山城遠景](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/ac5753c9702574db964179e226359c97/1166883443?w=200&h=132)
仲山城
2006/12/23 撮影
凸天神山城(長瀞町)13時05分~14時05分 再々訪
天神山城の東側の尾根筋の斜面に築造された出城。
深い空堀とこれに囲まれた多数の方形の郭群。
本郭直下のこの急峻な尾根筋や谷筋について、ここまでの普請を行う必然性が存在したのかという素朴な疑問が再び。
何度見てもしつこいほどの構堀・空堀、竪堀に加えて小口、堀切、腰郭...やはり半日見ていても飽きない光景の由にて。
それにしても、最上部の腰郭から2の郭への「道」の険しいこと。
出郭へ下るルートの目印としてのマーキングテープが未だ現存していて少しだけ嬉由有之候。
なお本日4ヶ所目の山城ゆえに、誠に遺憾ながら完璧な「殿軍(しんがり)」と成り果て候。
![天神山城の東側出郭の堀切](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/ac5753c9702574db964179e226359c97/1166883660?w=200&h=132)
天神山城
2006/12/23 撮影
このあと太陽の角度は未だ高いものの秩父盆地の日没の早さに加え、当方の気力・体力が枯渇し近隣の山城に向かう時間も無之由にて撤退開始の仕儀に。
「城郭図鑑」管理人殿、最後まで至らぬ「先陣」の役目の段、伏して平にご容赦を。
目的地は「円良田城」「猪俣城」(共に美里町)の2ヶ所で、時間があれば「仲山城」(長瀞町)も。
さて、今回は稀有なことに単独行には非而。
「城郭図鑑」の管理人さん御同行の由にて御座候。
でなければ、とても5時起きはできないという至極怠惰な日常生活故に(汗)
早朝の国道254線から140号線は快調そのものにて通過致候。
往路の所要時間には、当初ある程度の余裕を考慮して2時間半という設定。
しかし、実際には現地の登山口まで僅かに1時間35分にて到着せり。
かくして、この時点で約1時間近くという予想外の時間節減に成功。
凸円良田城(美里町)午前7時40分~9時30分 再訪
西側の大槻峠より東方の「円良田城」(「虎ヶ岡城」)へ。
峠からはいきなり比高差50mほどの落ち葉でやや滑りやすい斜面を直登。
このために当方の心肺機能が一向に順応せず、出だしから「先陣」が覚束ないという恥ずべく由々しき事態を露呈(汗)
直線距離で1km前後のため、所要時間20分ほどにて最初の堀切付近に到着。
相変わらずこの西方の遺構としての範囲が摑み辛き由にて。
本郭西側の堀切は相変わらず健在にて。
本郭東側からの地形的には大分分かりにくくなってしまった小口も改めて確認。
南東方向の3段ほどの腰郭群を確認後北東方向の腰郭、石積み、堀切、井戸跡など一連の遺構を確認。
などと書くと如何にも簡単に遺構の確認を終えているように聞こえるやも知れず。
実のところ前回1度で確認できた井戸跡は、此度は何と3回目にしてやっと遭遇した由にて...(恥)
前回の訪城は2年近くの前のこととはいえ、早くも「先陣」のメッキが音を立てて崩壊(汗)
円良田城
2006/2/12/23 撮影
凸猪俣城(美里町)午前9時45分~11時50分 再訪
約2年前の訪城時には迷いつつ、然も山野草などを愛でつつの訪城にて候。
このため、地図の確認など著しくおろそかになりこの時点では方位磁石も100円ショップ製というお粗末さ。
現在地と方角などを誤認し訳が分からなくなったことに加えて、2の郭南東側の落ち葉の斜面にて、右膝の半月板を損傷し2週間松葉杖状態に。
以後約半年間は左膝も痛めるなど、暫くの間はまともに歩行することができなくなった曰つきの城跡にて候。
今回は捻挫や切り傷等に対応できる軽度の救急用品一式携行。
地図読みもほぼ万全...のはず。
しかし、南東からのアプローチにて2の郭の位置を勘違い(汗)
それ以外はほぼ間違いなく各種の郭、竪堀、堀切を確認。
前回ピンボケとなった直径6m、深さ1mほどの推定「狼煙跡の大穴」もしっかと画像に収め2の郭西側のやや分かり辛い小口、北西、北東、南西方向伸びる尾根筋の堀切、竪堀などの遺構もすべて確認に成功。
さて、昼食には些か早めの時間。
景色と日当たりのよい城跡南端の尾根筋にて昼食。
このとき珍しいことに独行の熟年ハイカーに遭遇。
山城の山中にて人に出会ったのは事実上初めての経験。
ハイキングコースでもなく、かつ事実上は行き止まりの道ゆえにことによると同好の士の可能性もありそうな気配が...
猪俣城
2006/12/23 撮影
■応安年間の板碑見学(長瀞町)12時05分~12時10分
日本最大といわれる全長5メートルを超える板碑の存在感には相変わらず圧倒されるものが。
多分6回目ぐらいの訪問かと。
「仲山城」の南北朝期の「城主?」との関連が推定されるこの石造物は必見の存在かと推察。
凸仲山城(長瀞町)12時20分~12時50分 再訪
1年ほど前に西側の西光寺方面の裏道から山頂に向かって強行突破を試みたものの、叢生する篠竹の藪と茨の群生に進路を阻まれ、終いには目前に岩場が出現するなど散々な目に遭遇した曰つきの山城にて。
軽といえども一応四駆なので、北側の林道の峠部分まで車でそのまま進出。(但し車高の低い車、3ナンバーは無理にて)
明らかに1年前とは異なり、北側の平坦な尾根筋からの道程は実に楽な登り道。
但し心肺機能の低下は別問題にて候(汗)
「北西の堀切「東屋の所在する主郭」「南側の堀切」「南側の小郭」と一通り回っても所要時間は僅か数分にて完了。
南北方向の尾根筋を利用した山城の往復所要時間は上り10分、下り6分ほどで20分もあれば、2箇所の堀切と3ヶ所ほどの小さな郭跡の残る山城の確認は完了してしまうほどの規模にて。
小屋がけを想定すると最大でも30人と収容しきれないような主郭を含む
コンパクトな城域と南方の秩父往還しか見通すことのできない立地条件。
ことによると戦国時代には武田氏などに対する物見台として使用されたとの印象もありそうな。
仲山城
2006/12/23 撮影
凸天神山城(長瀞町)13時05分~14時05分 再々訪
天神山城の東側の尾根筋の斜面に築造された出城。
深い空堀とこれに囲まれた多数の方形の郭群。
本郭直下のこの急峻な尾根筋や谷筋について、ここまでの普請を行う必然性が存在したのかという素朴な疑問が再び。
何度見てもしつこいほどの構堀・空堀、竪堀に加えて小口、堀切、腰郭...やはり半日見ていても飽きない光景の由にて。
それにしても、最上部の腰郭から2の郭への「道」の険しいこと。
出郭へ下るルートの目印としてのマーキングテープが未だ現存していて少しだけ嬉由有之候。
なお本日4ヶ所目の山城ゆえに、誠に遺憾ながら完璧な「殿軍(しんがり)」と成り果て候。
天神山城
2006/12/23 撮影
このあと太陽の角度は未だ高いものの秩父盆地の日没の早さに加え、当方の気力・体力が枯渇し近隣の山城に向かう時間も無之由にて撤退開始の仕儀に。
「城郭図鑑」管理人殿、最後まで至らぬ「先陣」の役目の段、伏して平にご容赦を。