本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
カテゴリー
最新CM
中城の歴史の引用について(返信済)
(07/01)
おつかれさまでした(返信済)
(11/09)
無題(返信済)
(12/17)
お疲れ様でした(返信済)
(10/13)
お疲れ様でした(返信済)
(03/22)
最新TB
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
アクセス解析
フリーエリア
昨日に続いての話題。
少子化とともに、高齢者世代の増加は遥かに深刻な問題。
特養に入所中の当方の老母はお蔭様で86歳にて未だ健在。
とはいえ、常に名前と顔が判別できるのは小生一人のみという程度には老化が進行中。
然し大正期、昭和初期の年代の方々と異なり、団塊の世代を中心とした年齢層は案外短命であるような漠然とした予感が。
高度成長期・バブル期の過重な労働、生活環境の違い、ストレスに弱い、さまざまな合成食品の摂取...親を看取る一方で、子どもには見取られる可能性は希薄などの諸条件を考慮すればあながち的外れではないような。
さてこの先仮に平均寿命70歳くらいで世代交代していけば、介護保険・老人健康保険・公的年金制度などの抱える大半の課題に明るい見通しが。
仮に65歳から厚生年金を受給し5年後に亡くなり、その後配偶者が5年間ほど遺族年金を支給されたとしても支給累計額の減少により年金財政は大幅に好転。
これが、夫婦共働きならば更に大きな効果が。
加えて、大幅な人口減少に伴い少なくとも我国に関しては地球環境に対する負荷の軽減が果たせるはず。
もしかすると厚生労働省あたりでは隠密裏にこんな想定を真剣に論議しているのかも知れず。
然しいずれにせよあと10年近く存命していないと年金受給の対象にならないというのは、心身ともに急速な衰えを感じるわが身にとっては些か辛いものを感じる昨今なのでありました。
少子化とともに、高齢者世代の増加は遥かに深刻な問題。
特養に入所中の当方の老母はお蔭様で86歳にて未だ健在。
とはいえ、常に名前と顔が判別できるのは小生一人のみという程度には老化が進行中。
然し大正期、昭和初期の年代の方々と異なり、団塊の世代を中心とした年齢層は案外短命であるような漠然とした予感が。
高度成長期・バブル期の過重な労働、生活環境の違い、ストレスに弱い、さまざまな合成食品の摂取...親を看取る一方で、子どもには見取られる可能性は希薄などの諸条件を考慮すればあながち的外れではないような。
さてこの先仮に平均寿命70歳くらいで世代交代していけば、介護保険・老人健康保険・公的年金制度などの抱える大半の課題に明るい見通しが。
仮に65歳から厚生年金を受給し5年後に亡くなり、その後配偶者が5年間ほど遺族年金を支給されたとしても支給累計額の減少により年金財政は大幅に好転。
これが、夫婦共働きならば更に大きな効果が。
加えて、大幅な人口減少に伴い少なくとも我国に関しては地球環境に対する負荷の軽減が果たせるはず。
もしかすると厚生労働省あたりでは隠密裏にこんな想定を真剣に論議しているのかも知れず。
然しいずれにせよあと10年近く存命していないと年金受給の対象にならないというのは、心身ともに急速な衰えを感じるわが身にとっては些か辛いものを感じる昨今なのでありました。
この4月から漸く二男も某セキュリティ関連企業に就職が決定し社会人に。
このため、就職祝いを兼ねて「紳士服の青山」にてスーツを2着ほかを購入。
特別セールの関係もあり、〆て10万弱の出費で収まることに。
最近は少子化社会の危機が叫ばれ医療費、教育費、養育費など多岐に渡るさまざまな子育て支援対策が浮上。
思えば当家の場合は児童手当が支給されたのは3人目からで然も小学校入学前まで。
子どもは4人いるので、食費から教育費・医療費の負担額を含む一切の経費は軽く1億円を超えているのではないかと。
ちなみに今年度の授業料だけでも年間450万円ほどと可処分所得の大半を占める金額なのでありました。
子育てに莫大な経費が必要なことは常識の範疇。
子どもを安心して生み育てることのできる社会的背景の崩壊に目を向けないことには少子化に歯止めがかかるはずもなく。
地球的なスケールで考えれば、限られた資源という現実を前提にすれば人口の増加はやがて人類の滅亡へと繋がることは必定。
そういう意味で少子化は人類の滅亡を先延ばしする程度の効果はあるやも知れず。
このため、就職祝いを兼ねて「紳士服の青山」にてスーツを2着ほかを購入。
特別セールの関係もあり、〆て10万弱の出費で収まることに。
最近は少子化社会の危機が叫ばれ医療費、教育費、養育費など多岐に渡るさまざまな子育て支援対策が浮上。
思えば当家の場合は児童手当が支給されたのは3人目からで然も小学校入学前まで。
子どもは4人いるので、食費から教育費・医療費の負担額を含む一切の経費は軽く1億円を超えているのではないかと。
ちなみに今年度の授業料だけでも年間450万円ほどと可処分所得の大半を占める金額なのでありました。
子育てに莫大な経費が必要なことは常識の範疇。
子どもを安心して生み育てることのできる社会的背景の崩壊に目を向けないことには少子化に歯止めがかかるはずもなく。
地球的なスケールで考えれば、限られた資源という現実を前提にすれば人口の増加はやがて人類の滅亡へと繋がることは必定。
そういう意味で少子化は人類の滅亡を先延ばしする程度の効果はあるやも知れず。
本日は愛車の車検のため振替休み。
このため購入12年目の家内の車(元自分の車)にて出動。
しかし車が確保できたのが午前10時前のため、すでにこの時点で探訪計画に大きな齟齬が発生。
とはいえ、毎度のことなので課題は先送りすることに。
凸日向遺跡(比企郡小川町大字中爪字台522付近)
午前11時05分から11時30分
台地の東部の北端に所在し、現在は嵐山小川バイパスの開通に伴う国道254バイパスとの連絡道路がすぐ北側を通過。
このため元来の地形が掴みにくくなっているものの、以前は比高差約5mほどの台地が所在していたと思われます。
宅地開発に伴う発掘調査により、縄文・弥生・古墳時代の遺物とともに中世末期から近世初期と推定されるL型の溝に区画された掘立柱跡、井戸跡、志野焼の焼物類が確認されているとのこと。
またこの地域には「屋敷跡」としての伝承が残されるとのことからも、村落の有力者階層の居館・屋敷の存在を想定できるのではと考えられます。
![日向遺跡](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/ac5753c9702574db964179e226359c97/1173276880?w=200&h=135)
「日向遺跡」
向こう側の稜線は「越畑城」
2007/03/07 撮影
凸龍谷薬師(比企郡小川町小川)正午から午後0時30分
仙元山の北麓に所在する眼病平癒にご利益があるとして信仰の篤かった堂宇ですが、現在は訪れる人も余り居ない侘しさそこはかとなく漂っておりました。
もはや堂宇・祠に参詣するときの習慣となっていることもあり、世界平和と家内安全を祈願したものの全く見当違いもいい所でありました。
もっとも、老眼のために低下する一方の視力なので全く縁がないという訳でもなく。
さて、何故この地を訪れたかといえば、別に時節柄仙元山の麓のカタクリの花を見に来たというわけではありませぬ。
「龍谷」との名称が気になり訪れたまでのことにて(笑)
名称の「読み」は「タテヤ」または「タツヤ」と読むようで、正式には「龍谷山薬師如来」あるいは「龍谷山薬師堂」と呼ぶようであります。
近くの里道では小川にかかる小橋の「かわいらしい石積みもどき」、堂宇の南側の山中ではシイタケ栽培のために普請されたと思われる新しそうな「平場」を発見(爆笑)
![龍谷薬師](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/ac5753c9702574db964179e226359c97/1173276881?w=200&h=132)
「龍谷薬師」
右側斜面の帯郭状の地形は墓地の予定地かと
2007/03/07 撮影
凸吉野砦比定地②(比企郡小川町)午後0時30分から午後1時30分
木呂子の集会所が所在し、「下政所」との地名が比定地の北麓に残ります。
東側の杉木立の標高164m(比高差約30mほど)の小山の東側斜面には古い五輪塔を祀る塚とともに切岸状の地形が3ヶ所以上確認されます。
更によく観察すると雛壇状となって南側の水田まで続いている部分もあり、規模の大きなものでは比高差3m、延長100mに及ぶものも存在。
となればもしかするとということで、欣喜雀躍状態が期待されたのであります。
何気なく切岸部分を下りようとした時には、ものの見事に3mほど滑り落ちることに(汗)
然し残念ながら国土地理院の地形図を参照すると桑畑の記号が記されていることから、どんなに古くとも幕末以降おそらくは近代に開墾されたの桑畑に伴うものと推定され儚い期待は露と消え..(笑)
![吉野砦②](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/ac5753c9702574db964179e226359c97/1173276884?w=200&h=132)
「吉野砦」②
桑畑の跡と思われる切岸状の地形
2007/03/07 撮影
一方尾根続きの西側の標高177m(比高差43mほど)の小山の方はもとより人為的な地形の存在は確認されず。
山頂へと向かう尾根筋には荊のような有棘植物が進路を妨げていたため、作業用の安全手袋を装着してひたすら前進。
鞍部から3分と経過しないうちにやや広い山頂部分に到着。
南東方向に延々と尾根筋がアップダウンを繰り返して「官の倉山」の稜線へ延々と続いています。
とはいえ次第に地理的な条件から考えて城館跡とは無縁になりそうなので、北側を流れる木呂子川を目指して一挙に杉の植林された斜面を降下。
凸吉野砦比定地①(比企郡小川町)午後1時45分から午後2時20分
比定地の南西側の麓には「政所」の地名が残されています。
標高191m(比高差約61mほど)国道254線が大きく北側の市道川沿いの谷へカーブする交通の要衝となる分岐点に所在。
直接登攀するには道もなく斜面の角度がきつい状態。
このため予定通り北側の尾根筋の比高差22mの辺りから手当たり次第木の枝や根にしがみついて斜面を直登。
然しあとでよく地形図を確認すると比高差22m、直線距離で40mというどうやら最も急傾斜の部分を這い上がってしまった模様にて。
稜線に近づくほど勾配が緩くなっているので、登り始めた部分の傾斜は間違いなく45度前後かと(汗)
南北に細長い形状の尾根筋の道自体は明確でマーキングもされ、南側の山頂まで僅か250mほどの距離で間違いようもないルート。
なお肝心の山頂部分には事前の情報どおり高圧線の支柱が所在するのみで、遺構につながるような人為的に改変されたような地形も見られず。
現状の見通しも常緑樹の生育のため、南西方向にやや開けている程度でありました。
![吉野砦①](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/ac5753c9702574db964179e226359c97/1173276882?w=200&h=132)
吉野砦①
2007/03/07 撮影
この地点から今度は踵を返してそのまま稜線を北進し標高201m(比高さ60mほど)の独立峰を目指すことに。
東西の斜面は平均斜度40度前後という急勾配、、南北の稜線の斜面も30度前後の傾斜を有する落ち葉の堆積した滑りやすい地形。
このため予想通り確実に5回ほどは滑りましたです。
然し山頂部分については眺望は期待通りでしたが、楕円形状の直径にして7mほどの規模しかありません。
勿論明確な切岸など人為的な地形の改変などの跡は皆無にて。
物見砦としても東西方向にしか視界が開けていないことから、城館跡との関連性は極めて少ないものと考えられたのでありました。
![標高200mの山頂](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/ac5753c9702574db964179e226359c97/1173276883?w=200&h=132)
標高200mの山頂
2007/03/07 撮影
凸吉野砦比定地③(比企郡小川町)午後2時20分から午後3時30分
上記の個所からそのまま稜線を北上。
東側に張り出した尾根筋が2ヶ所ほど気になったものの見通しなどの悪さと時間の関係でパスし、かつて物見山と呼ばれた標高190m(比高差約40mほど)に到着。
稜線の東側には情報どおり石切り場が所在したような痕跡が現在も確認されます。
![吉野砦③](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/ac5753c9702574db964179e226359c97/1173276920?w=200&h=132)
吉野砦③
石切場跡のような人工地形
2007/03/07 撮影
![吉野砦③](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/ac5753c9702574db964179e226359c97/1173276921?w=200&h=132)
同上 北半分が消滅した稜線
2007/03/07 撮影
北側部分は土砂の採掘などの関係でほぼ稜線が消失し、現在は大規模な廃棄物の処理施設が北麓のあたり一面に広がっています。
物見山の山頂部分も消失しているようですが、お蔭で寄居方面が一望できる立地条件となっておりました。
![寄居方面](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/ac5753c9702574db964179e226359c97/1173276922?w=200&h=132)
寄居方面
2007/03/07 撮影
このあと、近くの木部方面にも立ち寄る予定でしたが西側に山が所在していることから雲量と日没の関係で後日に順延。
帰りがけに「鬼うどん」に立ち寄りましたが「売り切れ御免」の掲示が入り口に...
またしても昼食抜きの探訪となり、かくて本日の成果は元桑畑の斜面の滑落のみかと(苦笑)
![物見山南麓のため池](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/ac5753c9702574db964179e226359c97/1173276923?w=200&h=132)
物見山南麓のため池
2007/03/07 撮影
このため購入12年目の家内の車(元自分の車)にて出動。
しかし車が確保できたのが午前10時前のため、すでにこの時点で探訪計画に大きな齟齬が発生。
とはいえ、毎度のことなので課題は先送りすることに。
凸日向遺跡(比企郡小川町大字中爪字台522付近)
午前11時05分から11時30分
台地の東部の北端に所在し、現在は嵐山小川バイパスの開通に伴う国道254バイパスとの連絡道路がすぐ北側を通過。
このため元来の地形が掴みにくくなっているものの、以前は比高差約5mほどの台地が所在していたと思われます。
宅地開発に伴う発掘調査により、縄文・弥生・古墳時代の遺物とともに中世末期から近世初期と推定されるL型の溝に区画された掘立柱跡、井戸跡、志野焼の焼物類が確認されているとのこと。
またこの地域には「屋敷跡」としての伝承が残されるとのことからも、村落の有力者階層の居館・屋敷の存在を想定できるのではと考えられます。
「日向遺跡」
向こう側の稜線は「越畑城」
2007/03/07 撮影
凸龍谷薬師(比企郡小川町小川)正午から午後0時30分
仙元山の北麓に所在する眼病平癒にご利益があるとして信仰の篤かった堂宇ですが、現在は訪れる人も余り居ない侘しさそこはかとなく漂っておりました。
もはや堂宇・祠に参詣するときの習慣となっていることもあり、世界平和と家内安全を祈願したものの全く見当違いもいい所でありました。
もっとも、老眼のために低下する一方の視力なので全く縁がないという訳でもなく。
さて、何故この地を訪れたかといえば、別に時節柄仙元山の麓のカタクリの花を見に来たというわけではありませぬ。
「龍谷」との名称が気になり訪れたまでのことにて(笑)
名称の「読み」は「タテヤ」または「タツヤ」と読むようで、正式には「龍谷山薬師如来」あるいは「龍谷山薬師堂」と呼ぶようであります。
近くの里道では小川にかかる小橋の「かわいらしい石積みもどき」、堂宇の南側の山中ではシイタケ栽培のために普請されたと思われる新しそうな「平場」を発見(爆笑)
「龍谷薬師」
右側斜面の帯郭状の地形は墓地の予定地かと
2007/03/07 撮影
凸吉野砦比定地②(比企郡小川町)午後0時30分から午後1時30分
木呂子の集会所が所在し、「下政所」との地名が比定地の北麓に残ります。
東側の杉木立の標高164m(比高差約30mほど)の小山の東側斜面には古い五輪塔を祀る塚とともに切岸状の地形が3ヶ所以上確認されます。
更によく観察すると雛壇状となって南側の水田まで続いている部分もあり、規模の大きなものでは比高差3m、延長100mに及ぶものも存在。
となればもしかするとということで、欣喜雀躍状態が期待されたのであります。
何気なく切岸部分を下りようとした時には、ものの見事に3mほど滑り落ちることに(汗)
然し残念ながら国土地理院の地形図を参照すると桑畑の記号が記されていることから、どんなに古くとも幕末以降おそらくは近代に開墾されたの桑畑に伴うものと推定され儚い期待は露と消え..(笑)
「吉野砦」②
桑畑の跡と思われる切岸状の地形
2007/03/07 撮影
一方尾根続きの西側の標高177m(比高差43mほど)の小山の方はもとより人為的な地形の存在は確認されず。
山頂へと向かう尾根筋には荊のような有棘植物が進路を妨げていたため、作業用の安全手袋を装着してひたすら前進。
鞍部から3分と経過しないうちにやや広い山頂部分に到着。
南東方向に延々と尾根筋がアップダウンを繰り返して「官の倉山」の稜線へ延々と続いています。
とはいえ次第に地理的な条件から考えて城館跡とは無縁になりそうなので、北側を流れる木呂子川を目指して一挙に杉の植林された斜面を降下。
凸吉野砦比定地①(比企郡小川町)午後1時45分から午後2時20分
比定地の南西側の麓には「政所」の地名が残されています。
標高191m(比高差約61mほど)国道254線が大きく北側の市道川沿いの谷へカーブする交通の要衝となる分岐点に所在。
直接登攀するには道もなく斜面の角度がきつい状態。
このため予定通り北側の尾根筋の比高差22mの辺りから手当たり次第木の枝や根にしがみついて斜面を直登。
然しあとでよく地形図を確認すると比高差22m、直線距離で40mというどうやら最も急傾斜の部分を這い上がってしまった模様にて。
稜線に近づくほど勾配が緩くなっているので、登り始めた部分の傾斜は間違いなく45度前後かと(汗)
南北に細長い形状の尾根筋の道自体は明確でマーキングもされ、南側の山頂まで僅か250mほどの距離で間違いようもないルート。
なお肝心の山頂部分には事前の情報どおり高圧線の支柱が所在するのみで、遺構につながるような人為的に改変されたような地形も見られず。
現状の見通しも常緑樹の生育のため、南西方向にやや開けている程度でありました。
吉野砦①
2007/03/07 撮影
この地点から今度は踵を返してそのまま稜線を北進し標高201m(比高さ60mほど)の独立峰を目指すことに。
東西の斜面は平均斜度40度前後という急勾配、、南北の稜線の斜面も30度前後の傾斜を有する落ち葉の堆積した滑りやすい地形。
このため予想通り確実に5回ほどは滑りましたです。
然し山頂部分については眺望は期待通りでしたが、楕円形状の直径にして7mほどの規模しかありません。
勿論明確な切岸など人為的な地形の改変などの跡は皆無にて。
物見砦としても東西方向にしか視界が開けていないことから、城館跡との関連性は極めて少ないものと考えられたのでありました。
標高200mの山頂
2007/03/07 撮影
凸吉野砦比定地③(比企郡小川町)午後2時20分から午後3時30分
上記の個所からそのまま稜線を北上。
東側に張り出した尾根筋が2ヶ所ほど気になったものの見通しなどの悪さと時間の関係でパスし、かつて物見山と呼ばれた標高190m(比高差約40mほど)に到着。
稜線の東側には情報どおり石切り場が所在したような痕跡が現在も確認されます。
吉野砦③
石切場跡のような人工地形
2007/03/07 撮影
同上 北半分が消滅した稜線
2007/03/07 撮影
北側部分は土砂の採掘などの関係でほぼ稜線が消失し、現在は大規模な廃棄物の処理施設が北麓のあたり一面に広がっています。
物見山の山頂部分も消失しているようですが、お蔭で寄居方面が一望できる立地条件となっておりました。
寄居方面
2007/03/07 撮影
このあと、近くの木部方面にも立ち寄る予定でしたが西側に山が所在していることから雲量と日没の関係で後日に順延。
帰りがけに「鬼うどん」に立ち寄りましたが「売り切れ御免」の掲示が入り口に...
またしても昼食抜きの探訪となり、かくて本日の成果は元桑畑の斜面の滑落のみかと(苦笑)
物見山南麓のため池
2007/03/07 撮影