この日、すなわち2021年11月11日の最初の目的地は前橋市指定文化財でもある「稲里の石造馬頭観世音立像」の見学でした。
本来であれば粕川駅の到着予定時刻は午前8時15分なのでしたが、ボケ気味の年寄りならではの不手際により既に時刻は午前9時近くとなっておりました。
この時点で早くも1時間近く遅れ気味でしたが、元来の頑固で一途な行動様式というものは加齢に伴い益々その傾向を強めている模様であります。
このため本来の目的である中世城館巡りを優先すべきところを、当初の手順通り石仏、石造物巡りを始めてしまうのであります。
冷静に考えればこの季節の日没時間と限られた体力と勘案して、石仏、石造物めぐりを後日の懸案とすべきところなのかも知れませんが。
■「粕川と赤城山の遠景」
赤城山を水源とした粕川の流路の左側(西側)が稲里地区で、画像右側(東側)が中村城が所在している月田地区方面となるようです。
さてこの場所でも、またまた二つほどの問題が発生しました。
一つ目は「馬頭観音」の所在地について、「粕川筑の文化財を訪ねて」というウェブ上のパンフレットの文言から、てっきり「旧村社稲荷神社境内」と誤解してしまい、あちこちと彷徨してしまったことです。
二つ目は境内の参拝見学中に石段の段差で見事に尻餅をついたことでありました。
幸いにして尻餅をついた個所は、偶然にも柔らかいお落ち葉の積もった土の上でしたので別段これということもなく助かりました。
■「稲里の稲荷神社社殿」
■「如意輪観音座像」
稲荷神社の境内地の片隅に東側を向いた格好で鎮座されておりました。
右側面には18世紀末江戸時代中期の「安永」の文字が彫りこまれておりました。
右ひざを立て、右手を頬にあてがっていることから如意輪観音ではないかと思われます。
女性の戒名が彫りこまれていたことから供養塔であるのかも知れません。
一つ目の問題については偶々ご親切な地元の方にお聞きしたところ、何と有難いことにご丁寧にも現地までご案内をいただくこととなりました。
大変助かりました。
本当にありがとうございました。
■「稲里の馬頭観世音立像」(前橋市重要文化財)
ご案内いただいたご年配の方のお話では、大変残念なことに近年に自動車事故により上部が破損するという被害を受けてしまったということでした。
モルタルによる接合補修跡はその時のものであると伺いました。
■「馬頭観世音部分拡大」
■「現地解説版」
詳しくはこちらの解説をご覧ください。
なお文化財所在地の住所地自体は把握していましたが、実際に所在していたのは神舎境内地の80mほど南側の県道102号線のすぐ東側の市道沿いなのでありました。
従って神社境内からはごく至近距離なのではありましたが・・・
現在のように老眼でなければ地図情報の地番から探すことも困難ではなかったのですが、何分にも細かい文字が次第次第に見えなくなっています。
たとえば細かい文字の場合ですと、最早「目」「月」「日」の識別ができません。
■「笠かぶり地蔵尊」
恥ずかしながら自分も初めて見聞する石像仏で、上記の現地解説版に説明が併記されておりました。
「馬頭観世音」の所在を探索中に「子育薬師」と呼ばれている石仏群も見学させていただきました。
■「寒念仏供養塔」
右側の供養塔は台座の下に「中村」との村名が刻まれていましたので、元々は中村に所在していたものでしょうか。
中央やや左側の立像は江戸時代初期の念仏供養塔で、画像左側の石造物は「笠塔婆」のように思われます。
なお、同所に所在している薬師堂には現在でも子供の成長を祈願するという慣習が伝わっている様子もうかがえました。
馬頭観世音の安置された墓地の一画には、慎ましやかに鎮座されていた野仏が一体おいでになりました。。
頭部の風化がすすんでいるようで詳しくは分かりませんが、その素朴な御姿を拝見する限りではたぶん「十一面観音立像」のようにも思われました。
■「十一面観音立像」?
◎参考資料
「石仏と石塔」(山川出版社)
「仏像の世界」(山川出版社)
「石仏・石の神を旅する」(JTBパブリッシング)
「日本石仏辞典第2販」(雄山閣)
「阿弥陀・薬師・観音・不動」(大法輪閣)
※この稿はブログ用画像の編集作業などの事情により
2021年11月13日に作成しています。
さて今回は何れは訪れるであろう運転免許返納塔の先々の事情も考慮すべく、電車、気動車乗りつぎの旅を計画してみました。
Yahooの路線情報を参照し、往路の予定では東武東上線の上福岡から-小川町乗換で八高線-高崎乗換で両毛線-前橋下車しで中央前橋まで徒歩-上毛電気鉄道にて粕川というルートを選択しました。
これが今のところ比較的安価ICカード利用の2034円、乗換回数の少ない所要時間3時間11分(乗車時間は2時間23分)というルートです。
またここ8年近く八高線にも乗車していないこともあり、年齢的に気動車独特のエンジン音と振動に何処か懐かしさを感じていたこともあります。
さて始発の午前5時04分発の各駅停車下り小川町行に乗車。
登の方向の池袋行きとは異なり明らかに乗客は至ってまばら。
電車の座席は全くの選び放題でした。
ここまでは予定通り順調に1時間足らずで小川町駅に到着。
ところが八高線への乗りつぎでちょとした失敗を。
元々の乗り継ぎ時間は約4分ほど。
東上線のホームから無人駅であるJR八高線への乗りつぎ方法は、跨線橋の階段を登り跨線橋上に設置されている「IC器にカードを一度だけタッチ」して進むべきところを通路の左右に設置されている「IC器に2度タッチ」してしまいました。
本来は1度のタッチで乗り継ぎが成立するところを2度タッチしてしまうとエラーとなり、結局のところ再度跨線橋をおりて東上線の駅窓口へ赴いて手続き処理をするということになります。
その際に既に乗りつぎ処理が為されているので本来は跨線橋上のIC機器への処理は不要なのですが、なんと再度タッチしてしまうという二重の失態をしでかしました。
本来のシステムとして2度のタッチは不要なのですが、自動音声ガイドがそれぞれタッチするように呼び掛けることもあったのかついついやってしまいました。
なおこの時の2台のIC機器の意味合いについては、あくまでも手前の方を東上線からの出口、奥の方を八高線への入口として誤解したことによるものです (;^ω^)
かくして再度駅務室へと赴くこととなり、そのうちに5時54分発八高線高崎行きは出発。
結果的に約40分後の列車を待つという事態に。
これもひとえに高齢者がよくしでかしそうな失態の一つなのでしょうか。
尤もよくよく考えてみると、今から20年以上も前にこの跨線橋で同じような局面に遭遇していたことを思い出しました。
その時はまだ40歳代半ばくらいでしたので、前後の状況を勘案して特に問題なく乗りつぎしていたものと記憶しております。
4年くらい前までは先ず余りこうしたことは無かったように記憶しておりますが、正に年を取っているということの傍証のようなものなのかもしれません。
また高齢者の自覚としては個人差もあるのかも知れませんが、乗りつぎ所要時間はなるべくならば15分程度の余裕を考慮した方がよいのかも知れませんなどと感慨にふけるのでありました。
なおその後は無事に次の八高線に乗りつぎ、次第に高校生の通学客で込み始めるなかを気動車は鉢形城の大手口付近を通過しやがて高崎駅へと到着。
次に通勤、通学客で混雑する両毛線へと乗りつぎ前橋駅へと到着。
ここから上毛電鉄中央前橋駅までは徒歩約800m。
最初は足早の中年男性と抜きつ抜かれつの状態で速足。
しかし最後の方で歩道橋に阻まれ急速に速度低下発生。
それでも意地でどうにかこれを歩ききり、過たず自動券売機にて切符を購入し約40分遅れで時刻は午前9時前に粕川駅へと到着したのでありました。
下記画像の背景は赤城山方面です。
※この稿はブログ用画像の編集作業などの事情により2021年11月13日に作成しています。
1日当たりの歩数は最初の日が17000歩、その次が13000歩、今回が17000歩と、それほど大した距離ではありません。
それでも今回はほぼ筋肉痛を感じなかったように、多少ですがどうにかある程度平坦な地形であれば歩くことができるようになってきたことを実感しています。
コロナ禍や個人的な体調不良も相俟って、1日で5000歩以上を歩いたのは何と約1年ぶりのことでありました。
この間の加齢に伴う足回りの老化現象は確実に進行していた模様です。
先ほども駅前のスーパーに「伊右衛門2リットル」を16本ほど買い出しに出かけました。
いつもよりも明らかに階段を下りる速度が上がっているように感じました。
やはり定期的な運動が大切なようです。
これからは寒い季節を迎えますが、どうにか風邪などを拗らせることなく少なくとも毎週1日くらいは城跡巡り、古墳巡り、古碑探訪などアウトドアの活動に勤しみ、少しでも老化の進行を遅らせることができればと考えております。
決して100歳まで長生きをしようとは考えておりませんが、寝たきりの長患いという最悪の状態に陥らないように心掛けることが、我々高齢者世代に課されている健康管理の要諦であり人生の締めくくりであると思います。
茨城県は約1年半ぶりで、たぶん記憶では石岡市は初めてのはず。
当管理人は朧気ながらも筑波山には60年ほど前に訪れたものと記憶。
しかしその当時は東麓となる石岡市方面へと立ち寄ったかについては皆目不明。
尤もふとこのブログを起稿している最中に、その後の1988年頃に仕事で道路地図を頼りに国道6号線経由で水戸市内まで赴いていることを思い出した。
従って恐らくは石岡市域を通過はしているだろうとも思うのだが。
というくらいなのでこの地域については全くの予備知識ゼロ、土地勘ゼロの管理人なのであった。
凸片野城/茨城県石岡市
午前8時40分から9時50分
関東の戦国史では著名人の範疇に含まれると思われるあの太田資正の居城でもある。
因みに同氏の墓地が城内の浄瑠璃光寺墓地に現存。
また太田氏後裔の方による供養等も継承されている様子が窺えた。
因みに墓所の傍の真新しい解説版は、この10日間ほど前の資正の命日に設置されたもののようであった。
■太田氏墓所
なお設置されている五輪塔がそのまま当時の物であるのかは不明である。
あくまでも素人の印象に過ぎないのだが、その経年風化の様子からは幾分か比較的新しさを感ずるようにも思えたのだが果たしてどうなのであろうか。
まだ現在のところ同寺は些か山門などの付属建物の経年劣化が目立ち、恐らくは無住状態となっているのではないかとも思われた。
■浄瑠璃光寺山門
城域には菩提寺でもある同寺院のほか、その北に七代天神社の社域が隣接し、他に畑や果樹園などの耕作地も多く見られ山麓には民家も数多く存在しているという環境にある。
あくまでも民有地であることから部分的な区画形質の変更、或いは幾分藪化しているような箇所も見受けられる。
■主郭付近の様子と背景の筑波山
それでも太田資正公の20年以上にわたる居城として石岡市の指定文化財であることも背景にあるのだろうか、概ね中世城郭としての構造を想起できる遺構状態であるように感じられた。
なおこの日は晴天無風という好天に恵まれ、主郭付近からは日本百名山でもある霊峰筑波山を望むことが叶ったのは幸いであった。
なお駐車場所は太田氏の菩提寺でもある浄瑠璃光寺境内地を暫時借用させて頂いた。
凸高友古塁/茨城県石岡市
午前10時10分から10時35分
県史跡でもある丸山古墳がこの中世城館跡と重なっており、丸山古墳を目指せばそのまま高友古塁へと誘われるので先ずアプローチに迷うようなことは無いようである。
なおルートは途中で些か幅員の狭い急坂を登攀することとなるのだが、当該古墳には数台分位の専用駐車場も完備しているので誠に有難いことである。
■南側堀跡を東から撮影
丸山の前方後円墳を東側に寄せて大きくぐるりと囲い込むような形で空堀と土塁が周回しており、また公道を挟んだ南側の斜面には切岸状の段築状の地形も見受けられる。
空堀の堀幅は数メートル程ではあるものの、北側部分ではその深さは最大で5mを超えるような個所も散見され、かつ切岸の角度も鋭角であり一重とはいうもののその防御意思の強さが感じられる。
古墳の方は一部において後世における幾分破壊などの痕跡が認められるが、中世城館跡遺構の残存状況、整備状況は共に良好であるという印象を抱いた。
■南側虎口(入口)付近の様子
なおこの日は草刈りの整備のための現場確認作業が行われており、おそらく数日後にはより藪の少ない見学しやすい環境整備が為される模様であった。
凸二条山館/茨城県石岡市
11時00分から11時50分
城域の北側から里道を頼りにアプローチ。
「尾根筋」とまでは言えないような比高差30mにも満たない藪潜りである。
直線距離にして約100mほどのごく短い距離とはいえども本格的な藪潜りは久々であった。、高齢者の仲間入りを遂げている管理人としては、あらためて屈んでの移動と足を大きく上げての運動というものが不得手な状態に陥っているという厳然たる現実を痛感する。
携行しているストックも役に立たず、目前の倒木を股くべきか潜るべきかで大いに迷いに迷うのであった。
50年ほど以前には20キロ以上のリュックを背負い3泊4日の縦走を果たし、或いは「南アの北岳」程度には登れていた身なのではあるのだが。
もはや昔日の栄光の影は微塵も無いらしい。
■北側の空堀
城跡の見どころは北面に刻まれた三重土塁とこれにリンクしている東西の横堀のであるように感じた。
堀の深さは現状でも切岸としての高さが6mを超えるような個所も見受けられ、繁茂する木々に視界を遮られつつも城跡遺構の素晴らしさに浸ることができた。
とはいえある程度の藪を伴うので、やはりデジカメ撮影では「ただの藪」になりがちなのであった。
なお主郭部の様子は更に激藪状態でもあり些か観察が困難であった。
■西側の横堀
凸諏訪山館/茨城県石岡市
13時20分から13時40分
全く事前の下調べを行っていたかったのたが、下宿公民館とその付近には館跡の土塁の一部と思しき地形が残存していた。
なお2021年11月4日現在では、「いばらきデジタルまっぷ」には遺跡としての登録は為されていない。
遺跡の名称、歴史的背景などは不明の様である。
■土塁状の地形
凸諏訪山砦/茨城県石岡市
14時00分から14時15分
郭内は些か藪が濃いが、東面の切岸、南面の土塁、西辺の空堀などに見るべきものを感じた。
当該遺構とは無関係ではあるが、銀杏畑?の葉が黄葉の盛りを迎え、折からの西日に照らされその鮮やかさを際立てていたのが印象的であった。
■主郭西辺の空堀跡
■西日を浴びる銀杏
谷田部東PAにて夕食。
そののち圏央道では予想以上の渋滞の渦中に嵌る。
主に断続する対面通行区間によるものと考えられ、これに東北道への分流の影響が加わったものと見られる。
自宅への帰着は午後7時40分頃であった。
もはや目標に対して単独では気力体力が追い付かない年代となったようである。
史進さんのお誘いと的確なナビによって再び常総方面の藪城との対峙が叶った。
心より深謝いたします。