本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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定年を過ぎました~
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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昨日は特養に入所している老母の参政権を執行すべく投票所へ送迎。
県議選の時は当方の体調も悪いこともありうっかり失念。
このためその六十有余年にわたる参政権の連続行使が中断。
然し、今回は何とか投票時間終了の30分前に滑り込み。

さて老母は足腰の衰えが目立ち駐車場から片道約100mほどの道程を手を引いて向かったものの車からの乗り降りを含めて10分近くの所要時間が。
勿論いまだ選挙の意味を理解し、どうにか文字を書くことも可能。
けれども馴染のない地域での選挙権の行使にかなりの戸惑いのあったことも事実。

先月も施設内で転倒し軽い怪我。
何れにせよ最早車椅子以外の外出は難しい模様。
無事施設へと送り届け、帰りがけに「気をつけてね」との言葉をかけられ何時もながら複雑な心境に。

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何時ものこととて朝から体がやや重たいという感触。
然し毎度そのようなことを理由にしていては物事は先へと進まぬ道理にて。
前日からの訪城準備だけは用意万端怠りないこともあり午前9時半には自宅を出発。
往路は思いのほか車の流れがスムーズのため現地の児玉郡美里町まで僅か90分にて到着。
車内から眺める風景には明らかに初夏への季節の移ろいを感じさせるものが。



猪俣氏館 午前11時00分から午後1時15分まで

手始めに猪俣小兵六範綱の霊を弔うと伝わる「猪俣の百八燈」の民俗行事が執り行われる丘陵へ赴くことに。
高地から猪俣氏館と猪俣城相互の位置関係を確認しようと目論んだもののこの時点では肝心の猪俣城の所在地があやふやという情けなさ。


猪俣の百八燈
猪俣の百八燈
2007/04/22 撮影(以下同様)


続いて高台院およびその近くに所在する猪俣氏関係の古い墓所へ。
高台院の丘陵の影に隠れていることもあり即座にはその所在地が分からず。
またことのついでながら、かつてはゴルフ場が建設されるまで高台院の裏手から猪俣城へと登るルートが所在していたことも確認。


猪俣氏の墓所
猪俣氏の墓所


次に猪俣氏縁の正円寺と二柱神社へ赴き参拝。
ここでやっと館跡の内堀ともされている「正円寺川」の上流方向に所在する稜線が探していた「猪俣城」であることを確認。
なお、猪俣城は甘粕城や場所により木部氏館の近くからさえ望むことができることも判明。
したがって上州への往還を監視する役割を担っていたであろうことも再確認。


猪俣の集落から見上げた猪俣城
正円寺川からの猪俣城
(※左上の比高物体は大型の鳥類)


このあと、「愛馬の碑」(戦前の昭和期のもの)、「館跡の碑」(大正期のもの)、「馬方石」(年代不詳の力石)、外堀の役目を果たしたとされる「猪俣川」、内堀(正円寺川)などを徒歩にて散策しあらためて遺構の面影を辿ることの難しさをしみじみと味わうことに。

帰りがけに切通し状の地形の近くに「塚」を確認。
またその南側の民家の宅地際に高さ2m前後、長さ30mほどの土塁も確認。
近世以降の風除けのためのものかと推察。
けれども「塚」の所在地点と直線上につながっているようにも思える不思議な位置関係なのでありました。


甘粕城 午後1時30分から午後2時00分まで

「埼玉の中世城館跡」によるとJR八高線の松久駅を中心とした辺りがマーキングされていますが、「美里町史」では天神川に東側の辺りに所在する「堀の内」と呼ばれる地域を比定地としているようであります。
また、この地点から見て南側方向に「猪俣城」の山陵がはっきりと見て取ることを確認。


甘粕城方面から眺めた猪俣城
甘粕城方面から眺めた猪俣城


現地では道路の形状と河川改修などのため町史に記された水田のなかの三日月型の堀跡らしき地形を探すのに幾分手間取ることに。
ほどなく用水路脇に残された低地を確認し堀跡の痕跡であると念じて次なる目的地へと移動。


堀跡か
堀跡か?


なお東側に所在する比高差30mほどの独立丘陵の存在がとても気にかかるのであります。
然し4月の半ばを過ぎたこの時点では最早地表を観察するには相応しくなく、加えて竹林でもあればそれこそ筍泥棒と間違われても困るのであります。


なかなか良い感じの丘陵
なかなか良い感じの丘陵



木部氏館 午後2時15分から午後2時45分まで

美里町の遺された城館跡のなかでは僅かに遺構の存在を期待できる個所。
昭和61年に刊行された「美里町史」によれば、明確な土塁と堀跡の存在が記されているのであります。
然しすでに20年前の刊行物で、編纂作業の年数を考慮すれば四半世紀以前の情報に過ぎないことも明白。

JR八高線の小さな松久駅の駅前を右手に見て西側へと車を走らせると水田地帯の中に目的の住宅地が出現。


東側からの遠景
東側からの遠景


すると道路の左側になにやら文化財の説明版が所在。
残念ながら城館跡に関するものではなく地元に縁のある和算学者の顕彰碑なのでありました。

さて肝心の遺構については「美里町史」の記述どおりに東側の堀跡と西側の土塁の一部を確認。
館跡の規模は丁度一町四方余りの方形館の大きさで、近世の有力農民階層の屋敷跡のような印象も。


東側の堀跡
東側の堀跡


けれども南側と西側の堀跡は埋め立てにより、かつての存在を確認することは叶わず。
なお夕方からの所要のため、この時点で本日の城館探訪を終了。


部分的に残る西側の土塁跡
西側の土塁跡


帰路は往路と全く同じルートであるにも予想通り幾分渋滞を伴い所要時間は凡そ120分。
後半には体調の不良が現れるとともに遺構の存在は元々期待できないような平地の城館跡3ヶ所のみという体たらく。
かくして再びどうにかこうにか楽しい訪城の日々が復活いたしました。

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ここのところ気温の差が大きく変動したことに加えて咽喉を酷使したこともあり、元々抵抗力のない咽喉の具合がいまひとつ芳しくない状態に突入せり。
このため明日以降の天候とともに久しぶりの訪城も極めて微妙な情勢かと。
左肩の具合が回復したと思ったらこの体たらくにて我ながら忸怩たる思いが。

然し一応準備だけはしておかなければ...ということで持参資料の準備、持ち物の点検、デジカメの充電、車の燃料の補給などは怠りなく完了。
ある程度年齢を重ねてくると「体調が万全」などということは滅多にないものであることを今更のように思い知る昨今にて。
何れにせよすべては明日の状況次第なのであります。

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どうにかPCのトラブルも漸く下火に。
塩漬けと化しつつある不良在庫を横目に、そろそろ半月以上遠ざかっていた訪城を再開すべく目的地の資料フォルダの山を物色することに。
すると次から次へとあるわあるわ、いつの間にこんなにというほどの数量で横に積み上げると何と比高差約20cm(不気味な独笑)
たぶん150個所以上はありそうな感じが。

まず越生方面は今年の秋以降に順延。
県東部地区は格別の理由がないものの連休明けくらいからに。
熊谷、行田、羽生方面の空白地帯もいずれまた..
ということで今月の予定としては如何にも遺構の無さそうな県北部の美里町方面に決定。

しかし、肝心の月曜日は雨模様にて。
傘をさして水田地帯を彷徨するのも足元が覚束無い事情もあり如何かと。
さて弱ったことに。
天候の安定と早期回復を祈るのみなのでありました。

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本日は高齢者団体の史跡めぐりのため吉見町方面へ。
ルートは伝大串次郎重親の宝篋印塔⇒吉見百穴⇒武州松山城⇒吉見観音
往復のバスの車内、現地での説明と殆ど喋りっ放しのため咽喉が限界に。

前日までの悪天候が予想以上にものの見事に回復してくれたことが正にうれしい誤算。
参加者は平均年齢75歳の高齢者の集団。
この方々を仮に傘をさした状態で武州松山城を無事に案内するこということになればまさに至難の業にて。
当初の予定通り大手口からアプローチしたこともあり、本郭の登り道も含めて事故などもなく無事に往復。

さて以前から疑問に思っていた本郭の「コンクリートの土台跡」については、昭和30年代の年代に不審火により焼失した神社跡であるとの情報を入手できたことも本日の収穫のひとつなのでありました。

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